自分の身体と同じ大きさのハンバーグを作る為に、
ネトネトになった挽肉を全身を使って一生懸命こねる美鳥たんを想像!(挨拶)
週刊少年サンデーのみんな大好き新ラブコメマンガ「美鳥の日々」ですが、連載が進むに連れ、メインヒロインの美鳥の他にも、主人公であるセイジ君のクラスメートの綾瀬さん(委員長属性)やら、セイジ君のお姉さん(姉&スーツ属性)やらといった新しい魅惑の女性キャラが登場して来ました。
ですので、そろそろ「美鳥よりも綾瀬の方が良くねぇ?
」とか内心で思い始めている方も出て来ているのではないかと思います。
でも、以前にも申し上げた通り、「美鳥の日々」というマンガは基本的にはあくまで『右腕に宿った美少女』という異常な設定に対して萌え続けることに挑戦する点にこそ最大の価値があるのであり、それ故に美鳥以外の女性キャラに萌えてしまうのは、そのまま「美鳥の日々」という作品に対して敗北したことを意味するのを忘れてはなりません。
萌えマンガが好きで好きでンもう大好きな、選ばれた(頭の作りが)読者であるところの我々には、もはや敗北は許されないのです。「覚悟のススメ」風に言うなれば、我らにとって勝利はもはや当然の有様! 美しくなければ萌えとは言えぬ! と覚悟を決めた上で、「美鳥」との戦いにつかまつって頂きたいと、私などは思うのであります。
今はマガジンの方にも「スクールランブル」という新種の萌えマンガが登場して来ていますし、まだまだ我々の戦いは終わる訳にはまいりません。それが萌え戦士の定め。
萌えて倒れる時は、一歩でも前のめりだ…!
そんな感じで今週も妄想を鍛えていきたい私こと深沢が管理運営を行っている、椎名高志ファンホームページ C-WWW へようこそ(判りません)。
Epic Struggle
それはそれとして(いきなり)、先週のサンデーでもっとも話題になったのは、やはり何と言っても「旋風の橘」の新展開――というか、「新展開」という範疇に含まれるかどうかすらあやしい、唐突な新章突入でキマリでしょう。
これに関しては既に「LOGIC & MATRIX」(遊星さん、毎週おつかれさまです…)をはじめとしていくつかのレビュー系サイトで話題になっていますし、今週のサンデーが発売になった今となってはもう取り上げるタイミングを逸しているとは思うのですが、さすがにこれに関してツッコミを入れないのはサンデー系マンガサイトとしてどうかと思うので一応。
今年に入ってからのサンデーの大きな特徴の一つとして、連載マンガに対してあからさまなまでのテコ入れ策を堂々と行うようになったことが挙げられると思います。
例えば、「うえきの法則」では第二部と銘打つようになってから、いきなり牛丼が大好物な化け物(「うしおととら」のとらに相当)が登場したりとか、短時間でキャラクターの大幅なパワーアップを可能にする、「ドラゴンボール」で言うところの『精神と時の部屋』に相当する概念をいきなり持ち出すようになりました。また、「一番湯のカナタ」における実質的な主役キャラの交代に等しい大幅なキャラクターのモデルチェンジ劇は、まだ記憶に新しいところでしょう。
このようなアグレッシブな(別の言い方をすれば無茶な)手法は、競合他誌ならともかくサンデーらしからぬところがあるのは確かですが、雑誌が要求しているマンガの質が変化してきていることの現れとして注目するべき動きではあります。
……そして、先週のサンデー47号に掲載された「旋風の橘」に対しても、いわゆるテコ入れが行われました。しかしそれは、「うえき」や「カナタ」におけるテコ入れとはまったく概念が違ったものであったのは明白です。
今回の新展開の内容を要約すると「これまで主人公の橘が目指すべき目標であった『天下取り』の代名詞である玉竜旗大会編を、これまで張ってきた伏線を含めてバッサリとカットし、本当の『天下』を取るために必要な『ライバル』となる存在を探すために旅に出る
」ということになるのですが、この話を読んだ人は誰もが「いくら何でもコレはないだろう」と思ったに違いありません。
いやもう、テコ入れするにも程があるというもの。
このマンガの制作状況が判らない我々一般読者ですらこう思うくらいなのですから、当事者である作者や編集者の皆さんは、今頃相当スゴイことになっているのではないかと想像します。というより、どのような事情でこんなにねじ曲がったストーリーを作り出さなければならなくなったのか、今の作者やアシスタントや担当編集者の感情はどんなものなのか、私には恐ろしくて想像すらできません。
「パンゲアの娘クニエ」が事実上の打ち切り終了となったゆうきまさみ氏は、その時の心情を「一敗地にまみれて」と表現しましたが、「旋風の橘」の今の状況はなんと表現したらいいのでしょうか?
連載開始時から様々な問題点が指摘され、何だかんだと言われ続けてきた「旋風の橘」ですが、さすがに先週のエピソードをサンデーに載せた時点で、完全に作品としての命運は尽きたと思われます。後は、普通なら「このへんで適当にテーマらしい事をにおわせて…幕を下ろすしかない…
」(「燃えよペン」/島本和彦)という道筋を辿ることになるでしょう。
いやでも、そういう常識が通用しない恐ろしさがこのマンガにはあるので、まだまだ侮ることはできませんが……
へ (; ´Д゚)ノ
話はちょっと変わりますが、今回の「橘」の新展開のような、主人公が戦う意味を見失ってしまうエピソードを扱ったマンガの中で個人的に印象に残っているのが、昔サンデーで連載されていた格闘マンガの名作「拳児」の一番最後のエピソードです。
主人公の拳児は、幼い頃に自分に八極拳を教えてくれた祖父を追って中国各地を旅し、その旅の果てに生涯のライバルと言えるトニーと生死を賭けた決闘をし、文字通りの「死ぬような体験」をした結果、「拳法をやっても死ぬような思いをするだけなら、拳法をやる意味なんかないじゃないか」と考えるようになってしまいます。……しかし、再び祖父と出会って自然の中で暮らすうちに、自分という存在を許容している世界の大きさ、それに対する己の小ささ、それから拳法が目指す「道」への悟りを得て、人間的に成長する――という、かなり哲学的な意味合いが強いエピソードでした。
「橘」の今度のエピソードも、最終的に目指すところはこれに似ているのかも知れません。
ただ、「拳児」の場合は、「橘」が言うところの『天下』の三つの要素である、師・仲間・ライバルは全て主人公が中国拳法を学んでいく途中で必然的に出会ったものばかりであり、マンガの中でも「人が正しい道を歩んでいれば、成長するために必要なものに必ず出会う。これは偶然ではなく必然である
」と何度も語られています。なので、今回の橘のように、人から「お前にはライバルが必要だ!」と言われて旅に出るという展開は、ちょっと物語としての順番が間違っているのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
というか、「拳児」の定義に当てはめてみると、これまで剣道をやって来ても自分自身を成長させる「ライバル」に出会うことができなかったということは、それは彼が歩むべき道を間違えていたということになってしまいますよ? ヤバー
何にしろ、勝負の連続をストーリーの基調とする格闘モノマンガであるにもかかわらず、最初から物語を牽引するだけの力を持った「ライバル」キャラを用意できなかった時点で、このマンガの運命は決まっていたのかも知れません。
なんか、魅力的なライバルが登場するのがあまりにも遅すぎたために一敗地にまみれる結果となった「歩武の駒」を思い出してしまいましたよトホホ(´д`;)