「横島先生! そっちに行ったでござる!」
 狭い路地を疾走する黒い影が横島に迫っていた。シロの叫びが夜の闇を切り裂いて響く。
 横島は獲物に狙いを定める肉食獣のような瞳で影の動きを見極める。
(後五秒!)
 接触までの時間を先読みして、やがて来る衝撃に備え体勢を整える。
(四……三……二……一)
「今だッ!」
 叫ぶと同時に右手に霊波刀を出現させて目前の空間を切上げる。
 鋭い剣鋩は地を擦りアスファルトに亀裂を刻み込みながら弧を描く。
 刃は狙い過たず黒い影に食い込み、青白い光芒を発しながらそれを両断する。
 脇にあったポリバケツが巻き起こった風で吹き飛ぶ。
 ――それだけのことが瞬きをする間に起こった。
 影はしぼりだすような断末魔の声とともに消滅し、辺りは静けさを取り戻した。
「やったでござるな!」
 シロが笑顔で駆け寄って来た。
「一丁上がり! さ、ギャラもらって帰るか」
 横島はそう言って服についた埃をはらった。

 都会の陰に潜むモノがいる。
 悪霊、怨霊、妖怪、魔物。
 それを知る者の数だけ呼び名を持つ、そんな存在。
 それらは時に人に仇をなし、人の住む街を破壊する。
 人はそれに勝つことは出来ないのか?

 もちろん答えは否だ。
 なぜなら彼らがいる。
 血迷ったモノたちを極楽へと旅立たせる彼らが。
 現代に蘇った悪魔祓い師。
 人は彼らを「Ghost Sweeper」と呼んだ――。


< Ghost Sweepers ! / Good Combination >
PRESENTED BY AJ-MAX.



 除霊を終えた帰り道、横島とシロは夜の通りを腕を組んで歩いていた。
 春先の冷たい夜風は横島の頬をなぶり、容赦なく彼の体温を奪っていた。
「シロ、寒くないか?」
 傍らの少女を気遣って声をかける。
 シロはTシャツにジーンズといういでたちだ。ジャンパーまでしっかり着込んでいる横島とは違っていかにも寒そうな格好である。
「拙者は平気でござるよ。こうして――」
 そう言うとシロはさらにぴたりと横島に体を寄せる。
「先生にくっついていればあったかいでござる♪」
「おいおい……。まあ、いいか」
 横島はちょっとためらったが、結局シロのしたいようにさせることにした。人目が気にならなくもないが、別に見られていたからといって困るわけでもない。
「さて、これからどうする? このまま直帰してもいいとは言われてるけど、一回事務所に戻るか?」
「んー、今日は誰が出勤でござったっけ?」
「えーと、確か雪之丞とタマモだな。おキヌちゃんと弓ちゃんはこないだから卒業旅行に行ってるし、美神さんは出張中だし」
「ってことは、行ってもご飯は食べられないってことでござるなっ。じゃ、帰ろ♪」
「……現金なやつだね、お前は」
 横島はそう言って大げさにため息をついた。
「あ、そんなこと言うと帰ってからご飯作ってあげないでござるよ」
「いいよ。お前の作るのは肉料理ばっかしなんだから」
「う〜」
 図星をつかれて悔しいのか、シロが可愛く唸り声を上げてデニムの袖を甘噛みする。
「よしよし」
 横島は苦笑いし、空いているほうの手でシロの頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「じゃ、どっかでメシ食って帰ろうか。自慢の手料理は、せめて野菜サラダでも作れるようになってからってことでな」
「も〜、先生の意地悪ー! 最近は料理の腕も上がったんでござるよー!」
 シロが恨めしそうに横島を上目遣いで見上げ、口をとがらせた。
「へえ、そうなのか?」
「もちろんでござる。先生が外食している隙を狙って練習してたんでござるもん」
「ほー。で、何の料理なんだ?」
「チャーハン!」
「……他には?」
「かに玉!」
「中華ばっかりじゃねーか!」
 横島は自信たっぷりにメニューを並べ立てるシロの額を小突いた。
「痛いでござるー。横島先生は中華料理は嫌いでござるか?」
「嫌いじゃねーけど」
「じゃ、今日はまっすぐ家に帰るでござる! 帰ったら拙者がとびきり美味しいチャーハンを作ってあげるでござるよっ」
 シロは横島の胸に顔をもたせかけて言った。しっぽを元気良く左右に揺らしながら。


「るん♪ るん♪」
 シロは鼻歌交じりにビニール袋の中身をキッチンに並べていった。大きなテーブルの上がたちまち肉やら野菜やらで一杯になる。
 ダイニングでそれを眺める横島の胸は、何かあたたかいもので満たされていた。
 二人は横島の自宅にいた――といっても、先月まで住んでいたあの安アパートではない。十三階建ての立派な高層マンションの一室である。もともと霊的不良物件だったのを、除霊の報酬代わりに受け取ったものだ。4LDKの広々とした室内は、まさに今までの家とは天と地の差である。
 そして、先週からシロもここに住むようになっていた。
 四月に六道女学院への入学を控え、少しでも近くから通いたいというのが表向きの理由だったが、本当のところは違うだろう。単に四六時中一緒にいたいだけではないかと横島は思っている。
 独身でスケベな横島と暮らしてなにか間違いがあっては大変と美神やおキヌは大反対したし、横島ももちろん反対した。が、結局シロの熱意にほだされるかっこうでまず横島が折れ、マホガニーの事務机に「粗相してやるでござるっ!」と脅迫されるにいたって美神とおキヌも折れた。もちろん美神には「なんかしたら殺すわよ……!」と釘をさされていたが。
 シロが自分を慕ってくれていることはよくわかっていた。横島自身もそれが嫌ではないし、むしろ心地よく感じてもいる。さっきみたいに腕を組んだりすることだって、多少気恥ずかしくはあるが嬉しいものだ。
 それ以上の関係になりたいと思ったこともあったが、情熱に浮かされるまま突っ走るのが必ずしもいい結果をもたらすとは限らないということを理解できるくらいには、横島は大人になっていた。
「先生、チャーハンに入れる具は豚肉と牛肉のどっちがいいでござるかー?」
 包丁片手に食材と格闘していたシロが振り返って言った。
「結局肉かいっ」
「心配しなくても、ちゃんと野菜も入れるでござるよ。で、どっちがいいでござる?」
「……豚肉かな」
 やや考えてから横島は言った。牛肉もいいが、あんまりチャーハンに入れるようなものではないような気がしたからだ。
「了解でござる。じゃ、横島先生はリビングの方でテレビでも見ながら待っててくだされ。すぐ出来るでござるから」
「あいよ」
 手伝うと言っても固辞されるのはわかっていたので、横島は素直にリビングへ向かった。背後からはリズミカルな包丁の音が聞こえている。
 一緒に暮らしてみて初めてわかったのだが、シロは意外とものの考え方が日本的で古風であった。横島が台所に入るのを嫌がるというのもその一つだ。男子厨房に入るべからずを地で行っているのである。
 他にも横島が入った後でないと風呂には入らないとか、料理に箸をつけるのは横島が食べてからとか、必ずおかずを横島だけ一品多く作るとか、例を上げれば枚挙に暇がないほどだ。もしかしたら人狼の里ではそういう暮らしが普通なのかもしれない。
 横島はリビングに置かれた大きなソファに体を預け、テレビのスイッチをつけた。やっているのはバラエティかニュースくらいだったので、とりあえずバラエティを流しておく。B級グルメ特集とかで、どうやら安くて美味しい店を紹介するという内容のようだ。
 次々と紹介されていくカレー屋やラーメン屋を眺める。どの店も安価でボリュームのあるメニューを売りにしていて、味もなかなかよさげであった。
 その中から今度行ってみようと思った店の名前をメモに取っていると、キッチンの方から香ばしい香りが漂ってきた。
「お、いい香り」
 その匂いに食欲を刺激され、すきっ腹に耐えかねて腰を浮かしかけたとき、
「せんせー、出来たでござるよー」
 フライパンをお玉で叩く音とともに、シロの呼ぶ声が聞こえてきた。
「早いなー、偉いぞ」
 待ってましたとばかりにさっそくダイニングテーブルにつき、シロが皿を並べるのを待つ。
「へへー、そうでござるか?」
 シロは照れたように笑いながらやって来た。手には湯気を立てるチャーハンの乗った皿を二枚持っており、それぞれ横島の前と自分の席に置いた。どちらもかなり大盛である。
 そしてまたキッチンに戻り、今度は大きなかに玉が入った深皿を持ってきてテーブルの真ん中に置いた。ちゃんととろみのついたあんがかけられているあたり、芸が細かいと言えよう。
 最後には海藻サラダを運んできた。これは横島だけにつく一品である。
 どれもこれもうまそうで、料理が上達したというシロの言葉もまんざらウソではなかったようだ。
「うん、偉い。だからなでなでしてやろう」
「やったー♪」
 横島はシロをそばに呼び寄せてしゃがませ、くせっ毛の飛び出した頭をくしゃくしゃとかき回してやった。
 シロの髪はやや硬めだが手触りはよく、撫でている手のほうも結構気持ちがいい。指先には彼女の高めの体温が伝わってくる。
 シロは目を閉じ、心地よさそうに顔を緩めた。安心しきった顔で身を寄せてくる。
 こんな無防備なシロの表情を見ているのが、横島は好きだった。うれしいようなこそばゆいような気分になる。
「――さ、そろそろメシにしようか」
 いつまでもこうしていたくもあったが、目の前に差し出された料理の激しい誘惑には勝てなかった。横島は撫でる手を止め、終わったとばかりに軽くシロの頭をはたいた。
「……え〜、もっとしてほしいでござる〜」
 シロはまだぼんやりした目で横島を見上げ、甘えた。
「せっかくの料理が冷めちまうだろ。後でまたしてやるから。な?」
「やった♪ 約束でござるよ〜!」
「ホント現金なやつだな……。まあいいや、食べようぜ」
「はいっ」
 横島の言葉にしたがって、シロは自分の――横島の差し向かいの――席に座ろうとした。
 と、そのとき。横島が携帯の着信音に設定している「Dancing Ghost Sweeper」が部屋に鳴り響いた――ちなみにこの曲は去年公開された近畿剛一主演の映画、「踊るGS the MOVIE」の主題歌である。
「電話でござるな」
「誰からだよ……?」
 横島はGジャンのポケットに入れっぱなしになっていた電話を取り出して、表示を見てみた。
「タマモからだ。なんだろうな……もしもし、横島だけど」
『あ、良かった。出てくれたわね』
「そりゃ出るさ。どうしたんだ、なんかあったのか?」
『ちょっとね。今ドコにいるの? まだ出先?』
「いや、もう家についてる。これからメシ食うところだ」
『そうなの? それ、ちょっと先延ばしに出来ないかな。仕事頼みたいんだけど……』
 タマモは言いにくそうに言った。
「なんでだよ、お前と雪之丞だけじゃやれないのか?」
『一つブッキングしてたの忘れててさ、私たち今別口の仕事先に向かってるのよ。キャンセルにして明日に回そうかとも思ったんだけど、了解とろうとして美神さんに電話したらダメだって言われちゃって』
「……そりゃ言うだろうな、あの人なら」
『そうなの。だから、手が空いてたら頼めないかな』
「うーん、どうしようかな……」
 考えながら横島はシロの顔色をうかがった。話の内容はシロの耳にも聞こえているはずだからだ。
 横島と目が合うと、シロは肩をすくめ、ため息をついてからうなずいた。
「わかった、やっとくよ。場所は?」
『ありがとっ、助かるわ! えっと、場所はねえ……』


 山の夜は真の闇に支配された空間だ。今夜は雲に隠され星明りもない。
 あらゆる人工物の呪縛から解放され、峠はただ静かに佇んでいた。
 そこに今、一台の車が走っていた。ヘッドライトで闇を切り裂きながら細い峠道を上っていく。
「まったく、タマモのやつー!」
 車――ハチロクのナビシートに座って、シロはいまいましそうに唸った。
「まあいいじゃねえか、この仕事の分のギャラはちゃんと入ってくるんだし」
 ステアリングを握る横島は、前を向いたままそう言ってなだめた。が、それが大して効果を表さないことは、一時間ほどのこのドライブの間にもうわかっていた。
「でも先生――」
「しょうがないさ、わざとじゃないんだからな。今はとにかくはやいとこ現場に行って、やることやっちまうだけだ」
 言い募ろうとしたシロの機先を制して横島は言った。
 タマモが電話で指示したのは、この峠道に現れる悪霊の駆除であった。
 そいつは道を走る車を崖の方に誘導するらしく、もう五人の人間が事故を起こし命を落としているのだと言う。
 そんなわけで、二人は買ったばかりの横島のハチロクに乗り込んで、夕食を泣く泣く諦めてこの峠までやってきているのだった。
「むー、それはそうでござるけど……」
「そうそう。だからちゃんと霊気を嗅ぎ分けてくれよ。『見鬼くん』は持ってきてないから、お前の感覚だけが頼りなんだ」
 これは真実だった。シロの人狼としての超感覚は、現在市販されているどんな感知機よりも優れているからだ。
「わかったでござる。拙者頑張るでござる♪」
 そしてこの言葉はシロの機嫌を和らげるのにも幾分か役に立ったようだった。
 シロは窓を開け、外気に含まれる霊気を嗅ぎだした。冷たい夜気が入り込んでくるが、そんなことをとやかく言っている場合ではないから我慢するよりほかない。
「どうだ?」
「かなりはっきり臭うでござる。もうすぐでござるな」
「そうか。とりあえずこのまま道なりに進んでいいんだな?」
「はい。道に沿って霊気が残留してるでござるから、このままで大丈夫でござる」
 シロの言葉は、相手が地縛霊になりきっていない浮遊霊であることを示していた。完全な地縛霊なら縛られた場所から移動することはない。
「わかった」
 横島はアクセルを踏み込んだ。ハチロクはそれに素直に応えて速度を上げる。
 そのまま二、三分も走ったところで、シロが警告を発した。
「横島先生、そろそろやつの本体とかち合うでござる。ここからは車を降りて歩いた方がいいでござるよ」
「よし、降りよう」
 横島はハザードを出して路肩にハチロクを止めた。ダッシュボードから懐中電灯を取り出し、ドアを開けて外に出る。
「寒いな」
 思わずそんな呟きを漏らさずにはいられないほど、夜の山は寒かった。街中とは比べ物にならない冷え込みである。
 手がかじかむだろうな、と思いながら横島は懐中電灯のスイッチをつけた。
「さあ、行くか。こんな寒いところにいつまでもいたくねーしな」
「じゃ、追跡を開始するでござる」
 シロはそう言うと、横島の半歩ほど先に立って歩き出した。霊気を追跡するためにはシロが先行するのが一番効率がよい。横島が前に立つと、追跡対象の霊気と横島の霊気が交じり合って感知しにくくなることがあるからだ。
 とは言え、今回はそこまで気を使わなくてもよいかも知れなかった。人狼ならぬ横島の感覚にも、道の先へと続く霊気の残滓を、かすかにではあるが捉えることが出来ていたからだ。霊気の跡を隠すとかいう小細工は出来ない相手らしい。
 先に進むにつれ霊気はますます強くなっていった。五分ほど行ったところで、二人は大きく破れたガードレールを暗闇の中に認めることが出来た。
「ここだな」
「そのようでござるな。でも姿が見えないでござるよ」
 確かに、懐中電灯の光に照らされているのは壊れたガードレールと、その下に広がる黒々とした森の木々だけであった。
「どうするでござる? 霊視ゴーグルは持ってきてないでござるよ」
「心配するな。ちょっとこれ持っててくれるか」
 そう言って横島は心配げな様子のシロに懐中電灯を渡し、あらかじめ作っておいた文珠をポケットから取り出した。両手に握りこんで気を込めると、青白い燐光が両の拳に集まり、手の中へと収斂してゆく。
「……よし、これでいい」
 開いた掌の上の文珠には、それぞれ「照」「身」という文字が浮かび上がっていた。
「これで霊体をあぶり出すから、お前が霊波刀でしとめるんだ。いいな?」
「はいっ」
 シロは右手から白く輝く霊波刀を出して身構えた。すでに彼女はさっきまでの甘えん坊ではない――そこにいたのは荒ぶる人狼族の戦士であった。
「あまり気負わずに、パワーよりもスピードを優先しろ。確実に初太刀を当てることに専念するんだ、いいな」
 入れ込みすぎて周りが見えなくなることを懸念し、横島は念を押した。シロは目だけでうなずく。
「よし、いくぞ!」
 横島は文珠を発動させた。まばゆいばかりの輝きが二つの文珠から放たれ、辺りを昼間のように明るく照らす。
 その光の中に一点の黒いしみが浮かんだ。
 半紙の上にこぼした墨汁のようにそれは瞬く間にひろがり、おぼろげながら中年がらみの男の姿を現した。うつろな眼窩には負の生気が蘇芳色の炎となってゆらめいている。
「今だ! 行け、シロっ!」
「だあぁッ!!」
 裂帛の気合とともに悪霊に飛び掛り、シロは抜き身の霊波刀を横薙ぎに切り払った。
 狙い過たず、切っ先が悪霊の腹部を深々とえぐった。
『ググ……ァアッ!!』
 真っ二つには出来なかったが、悪霊は苦しそうなうめきを漏らしてのたうちまわった。かなり効いているようだ。
「やったか!?」
「バカ、完全に動きを止めるまで油断するな!」
「は、はい!」
「よし、わかったら攻撃! とどめをくれてやれっ」
「はい!」
 シロは一旦間合いを取り、今度は霊波刀を腰だめに構えて突進した。
 悪霊は左右の腕をめちゃくちゃに振り回してシロの特攻を防ごうとしたが、シロは軽快な動きでそれを全て見切ってかわしきった。
 そのまま一気に本体を射程距離におさめ、霊波刀の一撃を半ば千切れかけた腹に叩き込む。
「くらえッ!!」
 白い刃は悪霊を貫き、さらにその力を増した。清浄なきらめきが刀身から放たれ、それに触れた部分から霊が消滅してゆく。
『ガァアァッ……!』
 山も震えようかという雄たけびを最後に残し、霊の姿はかき消すようになくなった。


「……よし、やったな」
 霊波動が感じられなくなったのを確認し、横島は緊張を解いた。文珠の力場も持続時間が過ぎて消え、再び辺りが暗くなる。横島はシロが落としていた懐中電灯を拾い、スイッチを入れた。
「……ふう、一件落着でござるな」
 シロは額の汗を拭った。精神を極度に集中したせいでかなり消耗しているようだ。
「お疲れ様。鮮やかだったぞ」
「え、ホントでござるか!」
「ああ、なかなかのもんだ。まあ、まだちょっと甘いとこも――っておい! 顔をナメに来るなー! やっ、やめっ」
「先生に誉められたでござるー♪ やったやったー!」
 シロは大喜びで横島に飛びつき、勢いを受け止めきれずに後ろに倒れた横島の上に馬乗りになって顔中を舐めまわし始めた。
 小さい舌の少しざらざらした感触が心地よい。
 温かい吐息が顔にかかるたび、ぞくぞくするほどの気持ちよさが背筋を走った。
(イカン! この状況に流されてはイカン! 落ち着け、落ち着くんだ俺っ!!)
「……あほー! 離れろー!! お前には恥じらいっちゅーもんがないのかっ!?」
 横島はそのまま暴走しそうな心を必死に押さえつけて叫んだ。そして無理矢理シロを引っぺがす。
「先生? どうしたんでござるか?」
 シロはきょとんとした顔で横島を見上げて言った。人の気も知らないで呑気なものである――横島は心中血涙を流しつつ我慢したというのに。
「どーしたもこーしたもあるか! 帰るぞっ!」
 照れを隠すためにわざと怒ったように言い、横島は早足で車の方へ歩き出した。
「え、先生っ。ちょっと待ってくだされー」
「待たねー。早く来い」
 シロは背後から小走りに駆けて来て横に並んだ。
「拙者、先生を怒らせてしまったでござるか……?」
「ん……いや、怒ってねーけど」
「ウソ。怒ってるでござるよ」
 シロはすねたように言った。
「ホントだって。……ちょっとどきどきしただけだ」
「どきどき?」
「あっ、いやっ、何でもない! 気にするな!」
 慌てて否定したがもう遅かったようだ。シロはしっかり横島の言葉を聞きとがめていた。
「ふーん、そうでござるかー。拙者といると先生はどきどきするんでござるな♪」
「……嬉しそうに言うんじゃねえ、バカ」
「だって嬉しいんでござるもん」
「ふん。そんなことばっかり言うやつは置いていくからな」
 横島は自分の顔が真っ赤に染まっているのを感じていた。暗いのでシロにはわからないだろうが、何となく並んで歩くのが気恥ずかしくて歩みを速めた。
「じゃ、拙者は置いていかれないようにこうするでござるっ」
 そう言ってシロは横島の腕をとり、両手でぶら下がるようにして横島の顔を覗き込んだ。
 その時不意に雲の切れ間から月が顔を出し、薄いヴェールのような光を地上に落とした。
「拙者も、先生といるとどきどきするでござるよ」
 しろがねの光に包まれて輝くシロのかんばせに浮かんでいたのは、照れたような、いたずらっぽい微笑であった。 

― fin ―