V Into the darkness――そして……闇の中へ――


――これが……答えなんだよ――

――2001年 2月10日 18時34分(中国中央部標準時)啓徳空港跡地 廃倉庫――

 信じるべきではない。
 その瞬間伊達雪之丞の胸中に去来したのは、その確固たる感情だった。
 考えろ。伊達雪之丞。観察するんだ。しっかりと確認し、疑うべき可能性を全て疑い、それを考証する。結論を出すのはその後だ。今は結論を出すべきではない。まだ、早い。俺はまだ何もしていない。だからまだだ……まだ……
 思考は迷走する。
 俺が何を見たか……など、この場では関係ない。疑うべき所は幾らでもある。そうだ。自分はまだ観察すらしていない。入ってきたのは視覚情報。この場において最も頼りにならない情報のみだ。さぁ考えろ。
 ――コレは……何だ……?
「何なんだ……? コレは…… オイ……狂四郎。何の冗談だよ……?」
「……信じたくないみたいだね。でもまぁ、ここまでの反応をされると、こちらとしてもやったかいがあるという事かな…… 伊達雪之丞。これは現実だよ」
 その様な事は耳朶にすら届かない――
「オイ……どうなってんだよ……? 何だコレ? オイ……」
 未だに彼が手に持っているモノ。
「何とか言えよ狂四郎ぉっ!! コレは何なんだよ!?」
 先程から感じてはいた。鉄錆の臭いによく似た……血臭。ソレから滴る液体の、生々しい臭い……
「何度でも言うよ……伊達雪之丞。ソレは……君の助手の、首だよ」
 金明飛の頭部を抱えたまま、
 伊達雪之丞は……再び絶叫した。

――18時40分(中国中央部標準時)――

 鎌田狂四郎は溜息をついた。陶酔した表情で……
(これが……『僕の』苦しみ。やっと、一つを返す事が出来たよ……兄さん)
 狂四郎は、一歩前へ足を進めた。放心した表情で、伊達雪之丞がその場に立っている。文字通り、生気が抜けたような表情で……
「伊達雪之丞。君は僕を恨むだろうね。……それでいいんだ。君に恨まれなければ、僕にとっても話にならないんだよ」
 伊達雪之丞はまだ動かない。狂四郎は、気にせず言葉を続けた。
「君に、より深い絶望を与える為に……わざわざ僕は待っていたんだよ。李白麗を殺したとき、本来なら『ソレ』も一緒に殺せた。だけどね……それじゃあ僕の目的は達成できなかったんだよ。君には絶望を与えたかった。……僕と、一緒の……ね」
 鎌田狂四郎は溜息をついた。陶酔した表情で……
「だから一年間待ったんだ。その間に僕は爪を磨いだ。……ああ、準備を進めていたって事だよ。工事現場の機械への細工も、実は三ヶ月も前にもう終わっていたんだよ。後は、好機を待つだけで良かったんだ……」
 狂四郎は天井を見上げた。ライトが煌々と照る廃倉庫の中には、最早暗闇を探す方が難しい。だが、それでも、闇は、在る。……確実に、ここに、在る。
 狂四郎は再び相手を見やった。伊達雪之丞は変わらずにそのままそこに居る。……何も、変わらない。表情すら、変わらない。
 ……だが、変わった。
「やる気になったみたいだ……ね……?」
 鎌田狂四郎は魔装を纏った。兄とほぼ同じ形状の霊気の鎧は、いつもの如く、確実に自分の身体を鎧う。……そして、確実に、その強度を増してゆく……
「やろう……伊達雪之丞」
 鎌田狂四郎は、腰の愛刀に手をかけながら……そう、呟いた。

――18時57分(中国中央部標準時)――

 何も……感じる事はない。
 もう、どうでも良い。
 ただ、やらなければならないことがまた出来た。
「……………………――――――」
 伊達雪之丞は、静かに呟いた。『敵』に向け……いや、『周り』に向けて。最早守るべきものも何もない。……自分は、後は……殺すだけで良い。他に何も、考える必要はない。ただ、ここでやることをすれば良い。
「やろう……伊達雪之丞」
『敵』が、何か言葉を発した。しかし、どうでも良い。今の自分がすべき事は……ハッキリしている。……ハッキリさせられた。
 雪之丞は魔装を纏った。『敵』も同じく身を鎧っている。さらに『敵』は刀を持っていた。細身の曲刀。……日本刀……そんなモノは……どうでもいい!
 声もなく、雪之丞は踏み込んだ。短いストロークで、『敵』の水月(鳩尾)に打撃を突き込むべく、拳を叩きつける。
「ハッ! 甘いよ!」
『敵』は読んでいたようだった。雪之丞の拳は空を切り、『敵』の抜いた刀が眼前に迫る。
「…………!」
 斬り込まれる直前、ダッキングで沈み込む。その沈み込んだ体勢のまま、雪之丞は『敵』の腹に掌を叩き込んだ。『敵』の口から、空気が漏れる音がする。
「!――ならっ!」
 間合いを取る『敵』。雪之丞は追わずに、その場で拳を固めた。
 ――――チン……
 涼やかな鍔鳴りの音を立て、『敵』の刀は鞘へと収まった。その刀に手をかけ、左腰に鞘を保持した体制のまま、『敵』は動きを止めた。
「居合……か」
 無感動に、そう、認識する。居合――抜刀の勢いをそのままに、相手に斬り込む……技。相手の間合いがそのまま剣による結界と化す。侵せば即斬。雪之丞の胴体は、永遠に下半身との別れを告げるだろう。
「……来ないのかい? 伊達雪之丞?」
 挑発。それも、安い挑発だった。ここで雪之丞がわざわざ相手のテリトリーに入る意味はない。……だが、それをしなければいつまで経っても『敵』に効果的なダメージを与えられないというのも、また事実だ。魔装術により、遠距離からの霊波攻撃は効果が薄いだろう。結局は、原始的に殴り倒すしかないのだ。何にせよ。
「いや……行くさ」
 そう。同じだ。ここで自分が危険を渋っても、意味はない。最早何もないのだから、ここでどうなろうと知った事ではない。……雪之丞は、一歩を踏み出した。――『敵』の手元が霞む――
「殺!!」
 気合と共に、銀光が迸る。
 銀の軌跡は円弧を描き、瞬く間に『敵』の手元に回帰した。
 目的を捕らえられず、そのまま鞘へと帰った――
「!――っ!」
「死ね」
 斬撃を避ける為に、跳んだ――そのまま、雪之丞は『敵』の頭に、体重と勢いの乗った蹴り――足刀を叩き込んだ。……鎧で直接のダメージは防げても、伝わった衝撃で脳が破壊されれば、最早決して立ち上がることは出来ない……『敵』は大きくよろめいた。
「止めだ」
 至近距離から――殆ど密着するような距離から……拳を放つ。『通し』……琉球武道に於いて、相手の体内にダメージを与える技に……霊気を込め、『敵』の躰を……内臓を……破壊する、拳。『敵』の生命を奪う……殺人の拳。
 容赦なく、突き込む。……拳に返って来たのは、硬く、冷たい感触だった。
(冷たい……だと?)
 殺気が頭部に押し寄せる。反射的に、雪之丞は頭を庇った。ガード越しに、凄まじい衝撃が伝わってくる。勢いに任せて後退し、雪之丞は再び身構えた。
「……鞘……か」
 先程の自分の攻撃を受け止めた金属の筒を見やり、雪之丞は淡泊に、先程の結果を認識した。自分の攻撃を受け止めたのは、鞘。叩き込まれた衝撃を、鞘の空洞で逃がしたのだろう。
「……ふふ……いいよ、伊達雪之丞。やっぱりキれると君は殺人者だ。兄さんと共に居た頃の君に戻ってきたんじゃないかな……」
 ――反射的に、神経の何処かが激しく拒絶反応を起こすのを猛烈に自覚する。雪之丞は吐き気を覚え、反射的に叫び返していた。
「……な、俺は……違う。俺は……貴様を殺すだけだ……!」
「僕を殺すということをしておいて、自分が殺人者でない……なぁんて甘えは許されないんだよ……伊達雪之丞。僕は殺人者だよ。……君も、僕と同じになるんだ。……いや、違うね。君は本来、『殺人狂』なのかも知れない……僕とは、違う。仕方なく、『殺人狂』になるんだ。望んで『殺人者』になった僕とは違って……ね」
 胃が……痙攣する。吐き気が収まらない。
「違う……! 俺は……俺は……」
 すぐ側に落ちている……助手の頭部が、こちらを向いている。最早何も映す事のない空洞と化した眼球が、恨めしげに雪之丞を見ている――
「う……ぷ……ぐ」
 魔装術が……解ける。雪之丞は膝をつき……その場に、嘔吐した。涙と共に、胃液を吐き続けた…… 『敵』――狂四郎は、何をするでもなく、黙ってそれを見ている。空気に酸味が混じり、雪之丞はその場に倒れこんだ……立つ事が、出来ない……俺は、俺は……
「……違う…………俺は…………守れな……かった…………だから……」
「違わないよ……」
 狂四郎の言葉が、意識に刻み込まれる。
「君は……何も得る事なんて出来ないんだ……」

――19時58分(中国中央部標準時)――

 ハッキリと覚えていたのはどこまでだっただろうか。
 相手のいい様に弄られながら、雪之丞は淡泊に考えた。自分は今何をやっている?……考えるまでもない。敵に弄られているのだ。……口の中には先程から、血の味しかしない。魔装も解けている。身体を動かす事が出来ないということは、既に主要臓器か、もしくは骨に何らかの危害を受けているのだろうか。……いや、今もそれは続いているはずなのだが。最早痛みなど微塵も感じない……
(俺は……何なんだ……?)
 自問する。……自問し続ける。答えが出ない疑問を、何度も胸中に投げ掛け続ける。身体を蹴り回されながら、ひたすらに考え続ける。
 雪之丞は眼を開けた。既に光はなくなっているのは分かっていたが、閉じていた眼には、うっすらと世界の濃淡が見分けられた。先程までこの倉庫を満たしていた刺激臭は、既に鉄錆の臭いに変じている。自分は既に相当量の出血をしているのだろう。
 視界の中に人影はなかった。あのまま殺されていても全くおかしくはない状況で、自分は、半死半生なれど生かされている。……これにはどのような意味があるのか。知りたくもある。……が、知ることが出来ないのならばそれでいい。どちらにしろ、もうすぐこの曖昧な感覚さえも、永遠に自分からは失われる事になるのだろうから――
「眼が覚めたのかい? 伊達雪之丞……」
 声が聞こえる。億劫げに、雪之丞はそちらに眼をやった。暗い視界に、濃淡のみの人影が立っている。雪之丞からは少し離れた位置だ。
 そこから見ると、雪之丞に加えつづけられていた暴力は、もう随分前に終わっていたらしい。雪之丞にとってはさほど意味のあることではないが……ただ、終わらせるのならば早く終わらせて欲しい気もする。
「君は優秀なGSだ。……そして、優秀な戦闘者でもある。どうして反撃しないんだい? 君は兄さんすらも殺したんだろう?」
 ふと、心に引っかかるものを感じる。雪之丞は、それに対し、反論を試みた。
「…………――――……」
 自分の口から出た言葉は、自分の耳にすら届かなかった。当然相手――名前が思い出せない――にも届かなかっただろう。相手は近寄ってきた。
「僕はここで君を殺すつもりなどないんだよ……」
 何だと……? 疑問は言葉にならず、胸中でのみ、反響する。反響しつづける。
「分かるかい……? 伊達雪之丞。本当に僕がしたいことは……まだ、終わっていないんだ……」
 その言葉の意味など分からない。
 だが。
「……何だ。まだ元気あるじゃないか……」
 雪之丞は立ち上がっていた。……喉に詰まっていた血の塊を、地面に吐き捨てる。身体中が血に塗れ、満身創痍という表現がぴったりと当てはまる状態ではあるが。
 納得できない事もある。
「……お前は……その為に明飛を……李白麗を殺したのか……?」
 言葉はただ、空間に放射されて行く。
「お前は……それをする為だけに……俺を苦しめる為だけに……あいつらを……殺したって……殺したって言うのか……!?」
「……そうだね。それが本当のところだと思うよ。僕は君に対して何も感じていなかった訳じゃない。本当は、今すぐにでも縊り殺してあげたいんだけど……ね」
 相手が一歩を踏み出す。
「でも、それは今は出来ないんだ」
 相手の左腰の刀が、銀光を迸らせる。――同時に、雪之丞の両足に凄まじい激痛がはしった。
「!……テメェ……!」
 その場に膝を着く。……足に、力が入らない……立ち上がれない……!
 そして…………
「ねぇ……伊達雪之丞……」

――20時18分(中国中央部標準時)――

「これは始まりでしかないんだよ……そうだろう? ……君にとっても、僕にとってもね…… いや、ちょっと違うかな? 君にとってはこれが本当の始まり。……だけど、僕にとっては、これは本当の始まりじゃなくて、『結果の始まり』なんだからね」
 雪之丞の目の前で、狂四郎は熱を込めて、むしろ、芝居の台詞でも読むように、語り続けた。雪之丞は狂四郎を凄絶な眼で睨んだ。……が、そんな事は相手は全く意に介していないらしい。……いや、そもそもこれは認識していないのか……?
「そんな恐い顔して睨まないでよ。ここでは僕はもう闘うつもりはないよ。今の君と闘うつもりはない。……何故だか分かるかい?」
「何を言って……やがるんだ……」
 分からない。闘うつもりがないだと? ならば何故、貴様は明飛を殺した? 闘うつもりがないのならば、ここで自分の怒りを煽る必要などないだろうに……!
「……まあ、分からないだろうね。君には、今、僕の言っている事は殆ど理解できないはずだよ。……それでいいんだ」
 雪之丞の言葉など全く聞いていない風に、狂四郎は続ける。
「だってそうだろう? 君にここで理解してもらってしまったら、この後僕がやろうとしている全ての事が無意味になってしまうんだからね」
「やろうと……している事……だと?」
 分からない。起こった出来事が、自分の理解の上限を超えている。……何故なんだ。……何故貴様は明飛を殺した!? 俺の為ならば、俺を殺せばいいんじゃないのか!?
「おやおや、もうここで闘り合うつもりはないと言わなかったかい? 殺意をひしひしと感じるよ。……僕にとっては心地よい限りだ。僕のやったことに対して、君が怒りを覚えてくれているんだからね」
「貴様……!」
 雪之丞は怒声……いや、悲鳴を挙げた。
「君は今、苦しみを感じているかい? ……いや、わざわざ訊ねなくても分かりきっていることだね。昔は君も殺したんじゃないのかな? 君は今なお殺人者であり続けることを拒むつもりかい?」
 雪之丞は言葉を止めた。殺人者。自分は殺人者になるのか……?
 …………違う!
(俺は……殺人者じゃない!!)
 その思考を活として、雪之丞は渾身の霊弾を放った。霊弾は狂四郎の足元に収束し、……そして、いとも容易く、魔装術の装甲に跳ね返された……
「いや、君はもう殺人者ではないのだろうね。それは分かっていたよ。でもね、君は今、僕を殺したいと思っているだろう? ふふ……君はもう一度殺人者に戻るしかないんだよ。……おっと。非道いなぁ……こちらは闘るつもりはないと言ったのに……」
(クソッ……くそぉ……!)
 無力。今の自分は……敵に対し、余りにも無力だ……霊力も底を尽き、身体も満足に動かす事が出来ない……
「……あれ? 悔しいかい? 今のも悔しいかい? これは儲け物だ。こんな所で早くも君に第二の苦しみを与える事が出来るとは思わなかったよ」
 楽しそうに、嘲う狂四郎。こちらの苦しみを、嘲って、愉しんでいる。
 雪之丞は唇を噛んだ。……既に何度も噛み破られてボロボロの唇に、また新しい血の筋が出来る。……痛みなど感じない。むしろ、血の感触が、飛びそうになる意識をハッキリさせてくれる。
「さて、君は苦しみを受ける事に対して、どんなことを思うかな?」
 感じるものは何もない。狂四郎が愉しげに語る言葉は、全て開きっぱなしの耳朶から垂れ流しに中に入り込んでくる。妨げる事が出来ない……
「別に不条理な事じゃないよ。……僕も兄さんも苦しんだんだ。今度は君の番でも、別におかしいことじゃないだろう?」
(奴は……あれを望んでいたんだ……俺は……間違ってはいなかった……)
 言葉に触発され脳裏によぎるのは、かつて力を求め、魔の道に身を落とした男の姿。人を捨て、人を滅ぼさんとし、魔として死を望んだ――
「ふふ、納得できないみたいだね。……君が苦しみを強める後悔に苛まれるのは、僕にとっては素晴らしい事だよ」
(俺は……何も出来なかったのか……)
「おやおや。泣いているのかい? 今の君には、僕でも勝てそうにはないな。……でも、今の君では、僕には絶対に勝てはしないよ。……何故だか分かるかい?」
 言われ、右手で頬を撫でる。……血液とは違う、冷たい液体の感触。……これは、涙なのか?
「今の君は殺人者じゃない。……殺人者に戻ることも出来ないだろうね。修羅となって、『殺人鬼』になるだけだ。……それは、たとえ僕を殺しても終わらないよ」
(違う…………俺は……)
「まあ、僕がそんなたいそうな説教を出来る身分であるわけでもないよ。……僕がしたいのは、ただ単純に、兄さんの復讐だけだ」
 雪之丞は、涙を流しながら、胸中で絶叫した。……声には出ない、絶叫をした。――違う。勘九郎の奴は……アイツは……
(アイツは……!)
「復讐だなんてたいそうな言葉を使ってはいるけれど、それほどたいした事がしたいわけでもないよ。……今の傷だらけの君を敢えて逃がそうと思うんだ。……おっと、大丈夫だよ。やるからにはちゃんと意味もある」
「逃がす……だと……?」
 何とか声が出た。勘九郎のこと、明飛のこと、考えるべき事はある。考えなければならない事も……たくさん、ある。……が。
「君にはね、僕と、兄さんの苦しみを味わってもらいたいんだ。……そして、これでそのうちの一つを、君は味わった事になるね」
(苦しみ……)
 ふと、思い当たった。
(明飛を亡くした……苦しみ……だと……!?)
 これは……これが……狂四郎の苦しみなのか!?
「君は鬼になるんだ。……僕を殺す為にね。……そして、鬼となって苦しむんだよ。……罪悪感に苛まれてね……」
(俺は……俺は……っ)
 涙が、頬を伝って地面に落ちる。
「だから、僕は今、君を殺さないよ。……君は僕が去るまでここに居るといいよ。……大丈夫だよ。ふふ、送り迎えくらいはさせるから」
 愉しげに語る狂四郎。……最早、それを見ることすら出来ない。
「……いいよ。僕を殺したいんだね? 殺しに来るがいいさ。……僕はそこに居る」
 倉庫の扉が開いた。数人の気配。……そして、狂四郎の気配がだんだんと遠ざかって行く……
「アメリカに来るんだ。……僕は、アメリカに居るよ」
 雪之丞は倉庫の天井を振り仰いだ。……涙を流しながら、振り仰いだ。昏い天井は、涙を吸収する事も、吹き散らす事もしてくれない。狂四郎の言葉は続く。
「悪いけれど、場所は自分で探してくれ。……君はどうしても、僕を殺すまで苦しみ続けなければならないからね…… 頑張ってくれ」
 無責任な言葉。
 雪之丞の、精神に突き刺さる言葉。
「じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ。これでもそれなりに忙しいんだ」
 そう言うと、狂四郎は倉庫から出て行った。……背後に付き従っていった数人の男を引き連れ、悠々と去ってゆく。
「またね。伊達雪之丞。あなたに訪れる未来が、幸福なものでありますように…………」
 雪之丞に、一言を残して――

――20時35分(中国中央部標準時)土瓜湾倉庫街北――

 それほどの数の部下を連れてきていたわけではない。……だが、彼が退却する為に必要な程度の人員は連れてきてはいた。
(兄さん……)
 鎌田狂四郎は、荒れ狂う鼓動を止められず、拾ったタクシーの中で一人荒い呼吸を繰り返していた。タクシーのドライヴァが不振げな眼で、バックミラー越しにこちらを睨んでいるのは分かってはいたが、それで鼓動が収まるわけでもない。……そして、納める必要も、ない。
 タクシーは香港国際空港へと向かっていた。第一の目的を達した今、最早香港にも『瀦双秀』の名にも意味はない。自分は次へ進む。
(これで……いいんだよね。……兄さん)
 狂四郎はウインドウを下ろし、夜空を見上げた。
 夜空はお世辞にも綺麗とは言えない漆黒の闇に染められている。狂四郎は深々と溜息をついた。……これからは、更に忙しくなる。
(伊達雪之丞……僕は君にすべき事をした。……君はどうするんだい? そのまま慙愧に打ち滅ぼされるか。鬼となって僕を追い詰めるか……どちらにしろ愉しいよ。そして、どちらにしろ、僕は待つだけでいい……)
 変わり映えのしない倉庫の林の中、タクシーは走ってゆく。
 闇はその中に黒々ととぐろを巻き、そして……行く手に塞がる漆黒へと、去っていった。

――同刻 啓徳空港跡地 廃倉庫――

 屋内の暗闇の中。……伊達雪之丞はそこに居た。……ただ、身動きすら出来ずにそこに居ただけだった。
「俺は…………何をやっていたんだ……?」
 自分は、何をやっていたのか。
「俺は…………何が出来たんだ……?」
 自分には本来、何が出来たのだろうか……?
『敵』は去った。………………自分はここに居る。……だが、『敵』は去った。
 ――自分に、絶望と後悔だけを残して……
(俺は……何なんだ……? 結局……結局こうなのかよ! 俺は……俺はっ……!! ……結局……弱かったあの頃と……何も、変わっちゃいない……)
 それが自分なのか? それが、自分という者なのか? 『敵』の嘲りに身体を動かす事すら出来ず、『敵』のいいように生かされている。それが……俺なのか……!? 伊達雪之丞なのか……!?
 闇の中には、何もない。ただ、見えるのは血まみれで地べたに転がる自分の姿だけ。……それすらも、仮初めの物でしかない。
 気配が近づいてくるのが分かる。……『敵』の言っていた、『送り迎え』か。
 何かが頭の中を埋め尽くすのを感じる。
 ……そして、伊達雪之丞は――――立ち上がった――――

――To be continued――


※この作品は、ロックンロールさんによる C-WWW への投稿作品です。
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