III Destiny of evil――私は己が運命に抗う――


――私の名はファウスト。メフィスト、お前の誕生を見守ったものだ……――

――1999 11月4日 23時32分(アマゾンの辺境 現地時間)――

 暗い淵からの帰還。体に感覚が戻っていく。
 横島忠夫は眼を開けた。視界に映るのは夜空……その美しい夜空を見上げながら、記憶の再接続を待つ。
 思い出してくることがある。……神通棍の一撃。
「……思い出した…………思い出したくなかったよーな気もするが。うう……」
 呟いて身を起こし、あたりを見渡す。眠っていたため、眼は自然と闇に慣れている。あたりを見渡すことに支障はなかった。さて、ここはどこだろう?
「美神さーん! おキヌちゃーん!」
 自分の周りには誰もいない。まさか棄てていかれたのではなかろうか? ぞっとする懸念も浮かぶ。
 しかし、横島はその懸念を振り払った。美神ならともかく、あのおキヌが横島をこの場に打っちゃっていってしまうはずがない。それに…………
 傍らに置かれている横島自身の荷物を見やる。
 今回の装備は上級自縛霊クラス。あの美神が一枚数千万円の破魔札をそのまま置いて行ってしまうはずがない。装備はほとんどリュックの中に残されていた。
 自分が気絶している間にはぐれた。と考えるのが適当だろう。
 とりあえずは考えることだ。森の中で仲間とはぐれた。この場合の適切な対処法は……待つことだ。この間呼んだ、『超絶!! サバイバル読本!!――これで貴方も無人島で生き残る――』
にもそのようなことが書かれていた。
 そして、自分がいる場所を知らせることだろう。幸い、発煙筒は荷物の中に入っているはずだ。
 擦って煙が出る。殺虫剤のようだが、その通りにするとしっかりと太い煙が出た。とりあえずはこれで何とでもなるだろう。
「後は……と」
 現在位置の確認。GPSはリュックの中に入っている。起動してほどなく、現在位置が判明する。
『西経63度10分 南緯5度13分』
 付近の略図と共に、現在位置のデータが表示される。マナオスの町までは遠い。荷物を持っている横島はともかく、おそらく手ぶらである美神やおキヌが町までたどり着くのは無理だろう。だからこそ、美神たちはこの煙に気づくはずだ。
 後は待つだけだ。彼女らが煙に気づくことを祈りつつ……

――23時50分(現地時間)――

「……まさーん! 横島さーん!!」
 横島は、その声に顔を上げた。聞き違いようもない。おキヌの声だ。しかも、相当あせっているように思われる。時々声の調子が途切れるのは、木の根や草につまずきながら走っているからであろう。横島も叫び返す。
「おキヌちゃーん!! こっちだぁーーっ!!」
 程なく、おキヌはこちらの居場所を声から特定したらしい。足音も聞こえてくる。
「…………横島さん!!」
 樹木の間から、全身擦り傷だらけのおキヌが駆け寄ってくる。そのまま横島に抱きつく。
「お……おキヌちゃん……あ、あの、美神さん……は?」
 狼狽しつつ尋ねる横島。ふと、おキヌが肩を震わせていることに気づく。
「お、おキヌちゃん。美神さんは……美神さんはどうしたんだ!?」
 横島のGSとしての第六感は、異常を伝えていた。おキヌの態度。現れない美神。そして……空気。この場に漂ういやな空気。おキヌが連れてきた空気。それは……
「落ち着いてくれおキヌちゃん。状況を説明してくれ……今は泣いていても何にもならない。美神さんは……どうしたんだ?」
 そして、おキヌは語り始めた。つい先ほどあったことを……

――11月5日 0時10分(現地時間)――

「荷物はここで放棄しよう」
「えっ?」
 横島の声に少なからず驚きの表情を見せるおキヌ。
「あの美神さんを簡単に捕獲できるような奴が相手だ。こんな大荷物持ってたら一瞬で殺されちまうよ……」
「そうです……ね……」
 横島はおキヌから全てを聞いた。自分が気絶している間に美神は捕まり、直後高空から投げ出された横島とおキヌは、離れて地面に落ちていたらしい。
 情けない。
 美神やおキヌがそんな目に遭っているときに自分は何をしていた? 惰眠をむさぼっていただけではないか(正確に言えば、気絶させたのは美神なのだが)。
「美神さんを……助けにいく……!」
 予備のナップザックに荷物から必要なものを移しながら、横島は言った。覚悟を決めた声で。
 神通棍。破魔札数枚。最低限の食料、飲料水。山刀…………
 必要なものをナップザックに詰める。そのナップザックを背負い、横島は宣言する。
「行こう。美神さんを助けるんだ」
「はい……!」
 うなずくおキヌ。
 横島もうなずき返し、歩き出す。
 ……しかし、
『……美神さん! 横島さん! 聞こえますか!?』
 第一歩を踏み出し損ねて、思いっきりずっこける横島。それとは逆に冷静なおキヌは、声の主に気づいたようだ。
「今の声……! 小竜姫様!?」
「えっ、小竜姫様?」
 口腔内に広がる土の味を噛み締めながら、あわてて起き上がる横島。声は続く。
『横島さん! おキヌちゃん! こんにちは。私の声は届いていますか?』
「ええっと、届いてますけど……」
『それなら良かった。実はあなたたちにお願いがあるのですが…………美神さんはどうしたんですか?』
「そうだ! 小竜姫様! 実は俺達今美神さんを助けに行くとこなんです! 美神さんが魔族っぽい奴にさらわれちまって……!」
 おキヌに聞いた話をそのまま伝える。さらにおキヌが何もない夜空に向かって叫ぶ。どうやら小竜姫は、妙神山にいながら声だけをこちらに飛ばしているらしい。
「小竜姫様……! 一緒に美神さんを助けに言ってくれませんか!?」
 小竜姫の声は沈黙した。向こうで考え込んでいるらしい。数分の沈黙の後、小竜姫は言ってきた。沈痛な声で……
『……駄目なんです。私は妙神山に括られているので、あなた方のところまで行くことは出来ません……』
「……そうですか」
 落胆するが、そればかりでもいられない。小竜姫がこちらに来ることが出来ないのであれば、自分たちで何とかするほかないのだ。
「有難うございます……では、俺たちはもう行きます……」
『待って下さい』
 小竜姫が言ってくる。
『竜神の武器を届けます。とりあえず今手元にあるものを……。魔族とやりあうのであれば、手札は多いほどいいはずです』
 その言葉の終了と同時に、空間にいきなり数個の物体が現れた。
 ……竜神の篭手とヘアバンド(おそらく小竜姫の物だろう)一組。神剣(これもおそらく小竜姫自身のものだ)一本。そして、精霊石銃二挺……
「……有難うございます! 小竜姫様!」
『私のほうでも何か対策を考えてみます……しかし、余り期待はしないで下さい……私たちは、遠く離れた場所では活動できないんです……』
 小竜姫の言葉は終わった。横島、そしておキヌは、その空間をしばらく見つめていた。
「……行こう! おキヌちゃん!」
「はい! 横島さん!」
 小竜姫が与えてくれたものは武器だけではなかった。この状況において、絶対に必要なもの。
…………それは希望という。

――0時45分(現地時間)――

 夜の森を横島とともに歩く。
 美神を助けるために。
 おキヌは、高揚した精神が再び暗くよどんでいくのを感じていた。
 夜の森を歩くのは危険だ。そして、知識と直感、センスを要する。美神がどこにいるのかも分からない……そのような状況で夜の森を歩く。一応見鬼くんは持ってきているのだが、周り中が霊の気配だらけで、先ほどからアラームが鳴りっぱなしである。
「あの……横島さん……」
「ん、なんだい、おキヌちゃん」
「美神さんがどこにいるかはどうやって調べるんですか?」
「見鬼くんで分かると思うよ」
「でも……さっきから反応しっぱなしですよ……」
「だからだよ」
「えっ?」
「美神さんの霊力は強い。その美神さんを有無を言わせず連れ去っていくような奴の霊気が、見鬼くんで補足しきれるわけない。こいつはぶっ壊れるよ。逆に、こいつがぶっ壊れたら近くに下手人がいるってことだ」
「へぇ……」
 素直に感心する。横島もしっかりと考えて行動しているらしい。決して感情に任せて行動してはいない。横島は冷静だ。
 自分もしっかりしなくては。そう、美神を助けるために…… しかし、それにしても……
 横島の後ろを歩きながら、おキヌは考える。美神が連れ去られたわけを。
 あのとき、光の中で相手の姿は影になって見えなかった。見えたものは美神の驚愕の表情。そしてそのすぐ後、光球は音もなく掻き消えた。その直後、おキヌらを包んでいた光球も不意に消え、おキヌと横島は夜空に投げ出されたのだ。
 美神の体の中には、もうエネルギー結晶はない。つまり、今魔族が美神をさらっても、魔族にとっては何のメリットもないのだ。
 魔族は無駄なことはしない。必ず、連れ去るに足るだけの理由があるから美神を連れ去ったのだ。
 ブッシュ・スーツがいやな汗でぬれているのを感じる。
 おキヌはネクロマンサーの笛を胸元でしっかりと握り締めた。

――1時30分(現地時間)――

「休憩しよう」
 後ろを息を荒げながらついてくるおキヌに向け、横島は言った。
「え……でも」
 おキヌは憔悴した表情をしながらも、その言葉に疑問をもったようだった。怪訝な顔が、『私には構わないで下さい』と雄弁に語っている。
「このまま、歩いているんだったら進み続けた方がいいけど」
 横島はおキヌに向け言う。
「歩き続けた後で魔族と闘わなくちゃならないんなら話は別だ」
 おキヌは納得の表情でその場に座り込んだ。気丈な態度とは裏腹に、進み続けるには体力の限界だったらしい。横島も彼女に習う。
 夜の森。霊気が充満し、冷気が容赦なく体温を奪う。その中で、横島は背負っていた小さなナップザックから、自動拳銃と精霊石弾の詰まった弾倉(マガジン)。神剣。そして小竜姫のヘアバンドと篭手を取り出した。
 自らが普段つけているバンダナをはずし、竜神の装具を身につける。神剣の鞘も腰の後ろにバンダナで吊った。
 そして、自動拳銃に弾倉を装填。そのうちの一つをおキヌに向けて差し出す。
「一つおキヌちゃんが持ってて。さすがに丸腰じゃ危ないし、美神さんを護っててもらわないといけないしね」
 ハッとするおキヌ。何かを懇願するような眼で言ってくる。
「そんな……じゃあ横島さんは一人で魔族と戦う気なんですか!?」
 苦笑する。
「おキヌちゃんは美神さんを周りの低級霊からガードする役目……そして、俺の役目は美神さんを奪い返すことと……逃げるタイミングを稼ぐこと」
 大丈夫だ。それぐらいなら自分にも出来る。
 おキヌは渡された自動拳銃を持て余している様だった。そして横島自身が告げた言葉をもまた……
 美神を助けなければならない。おキヌを死なせるわけにはいかない。そして、自分も死ぬわけにはいかない。……残されたものの悲しみは、彼には痛いほどによく解かっていた。
 そのためには、最後まで戦ってはいけない。純粋な魔族との戦闘は、どちらかの死という形でしか終わらせることは出来ないだろう。
 逃げる。逃げ切る。これが横島の考える最善の方法だ。……ただし、相手がそう簡単に美神を奪われて逃がしてくれるはずがない。そのことは厳然と横島の胸に聳え立っていた。
(こんなとき唐巣神父やピートなら神に祈るかね……。神か……天にまします我らの父か……)
 横島にとっての父は神などという得体の知れないものではない。横島にとっての父。それは父大樹だけであった。
(親父……男にとっての女の価値……命をかけられるかって事か? 我ながら糞みてぇなことだとは思うが……親父。俺は俺自身のために、あのクソ女は絶対に助けるぜ)
 隣に座るおキヌを見やる。彼女は手の中の自動拳銃を見つめながら、なにやら考え事をしているようだった。
「おキヌちゃん」
 呼びかけと同時におキヌはビクッと肩を震わせ、その後こちらに顔を向けた。
「な、何ですか? 横島さん」
「おキヌちゃんにとって、美神さんはどんな人だい?」
「どうって……」
 おキヌは返答に窮しているらしい。こちらの質問の意図が読めないのであろう。当然のことだが……
 ややあって、おキヌが答えてきた。
「大事な……人です。美神さんも、横島さんも、他のみんなも……」
 我知らず微笑む。
(そうだよ……美神さんは俺たちの側にいなくちゃいけないんだ。今はまだ……)
「あの、横島さん?」
 突然微笑を返されて、おキヌは戸惑っているようだった。
「いやごめん……でも、それでいいんだよおキヌちゃん。だから、俺は美神さんを助ける」
(そのために命をかけようと何だろうと知ったことじゃない。あんたの気持ち、解かった気がするぜ、親父……)
 横島は空を見上げた。亜熱帯の空には星が瞬いていた。

――11月5日 15時00分(日本標準時)東京 美神除霊事務所――

 小竜姫は地面に降り立った。
 事務所のドアをノックする。程なく、銀髪に赤のメッシュの入った活動的な格好の少女が出てきた。十中八九、彼女が『シロ』だろう。
「先程電話した小竜姫です」
「お待ちしておりました。どうぞ」
 既に事の次第は電話によって彼女らには伝えてある。小竜姫がここに来たのは別の目的からであった。
 応接間に通される。そこには、明るい茶髪を九本ポニーテールにした少女が待っていた。こちらが『タマモ』か。
「先程話しておきましたが、美神さんたちは現在危機に瀕しています」
 挨拶抜きで切り出す。事情は分かっているので、シロとタマモも真剣に聞いている。
「私は長い時間山から離れて活動することは出来ません。取り合えずマナオスという地名から、あの付近に霊波を飛ばしてコンタクトすることが出来ましたが……」
「私たちを現地まで飛ばすことは出来ないんですか?」
 タマモが言ってくる。
「無理です。無生物ならともかく、あなた方のような霊能力を持った生物を転移させるだけの力は残っていません」
「拙者たちの霊力をプラスしてもでござるか?」
 今度はシロ。以外に頭は聡いようだ。
「あなたたちの霊力では無理です。せめて文珠でもあればと思って来てみたんですが……文珠は事務所内に置いてありますか?」
「いえ……文珠は多分ないと思います……」
「そうですか……」
「小竜姫殿、やはりどうしても拙者たちを先生たちの所へ送ることは出来ないのでござるか?」
「今の私の残存霊力では無理です……なにしろこんな事になるとは思っていなかったので、今朝思いっきり使い切ってしまいました……」
 無論パピリオとの一戦である。ちなみにパピリオは依然として爆睡中。当分目覚めそうにはない。
「あの美神さんが捕まるなんて……」
 未だ信じられないような顔をしているタマモ。確かに、彼女にとっては美神は『最強の女』なのであろう。容易に想像がつく。
「横島先生……クゥーン……」
 シロの方は専ら横島の方を心配しているらしい。彼のことだ、無事でいるとは思うが……やはり気にはなる。
 魔界にコンタクトを取るべきだろうか?
 いや、連絡だけでも数日かかるというのに今の状況は余りに切迫している。意味がない。そもそも、ここに来てしまった時点で連絡を取る手段は既にない。小竜姫の霊力もそろそろ限界に近づいているのだ。
「何とか助けないと……!」
 自らの無力さを噛み締めながら、小竜姫は涙を飲んだ。

―同刻(アマゾンの辺境 現地時間 2時10分)――

 横島は立ち上がった。休憩は終わりだ。美神を探さなくては……
 隣でおキヌも同じように立ち上がる。ブッシュ・スーツの尻の汚れを落とし、こちらに向き直る。
「見鬼くんはおキヌちゃんが持ってて。おキヌちゃんはほとんど非武装なんだから、何か来たら俺が迎撃しないと……」
「分かりました」
 自らの武装を確認。竜の装具は装備済み。神剣も、試行錯誤しながら一挙動で抜刀できる位置に吊った。自動拳銃は取り合えず後ろ腰に突っ込んである。予備弾倉もポケットに二つずつ、合計四個持っている。残りの弾倉はおキヌに渡した。
 おキヌも、ネクロマンサーの笛。破魔札。精霊石と、かなり重装備ではある。しかし……
 おキヌの性格や技は、戦闘には向いていない。故に、おキヌは今回基本的に索敵役だ。ヒャクメに授けられた『心眼』を、彼女は今再び身に付けていた。
「心眼の具合はどう?」
「多分大丈夫だと思います……ただ……」
「ただ……?」
「私に出来るんでしょうか? 見鬼くんが壊れる程の敵の力を読むなんて……」
「……大丈夫だよ」
 そう。大丈夫だ。彼女の索敵能力は、既にヒャクメに迫っている。都庁の地下での猛特訓は、無駄ではなかったということだ。
 見鬼君が壊れた後、敵の正確な力量を読むのは彼女の仕事だ。その結果を踏まえて、最終的な作戦を決める。
「おキヌちゃんは大丈夫だ。俺も大丈夫。これでいけないはずがないだろう?」
「そうです……ね」
 おキヌは暗い声で応えた。どうやら、美神の安否を心配しているらしい。
「美神さんも大丈夫だ。あのクソ女が多少のことでどうにかなるわけないだろう? あの女は魂がぶっ壊れてまで生き返ったんだぞ?」
 無論気休めに過ぎない。しかし、言っておくべきだ。自分が信じていることを、彼女には伝えておくべきだ。
「……そうですよね。あの美神さんが、こんなことでどうにかなるわけないですよね」
 一応、声を聞く限りでは多少なりとも安心したらしい。こちらも息をつく。
 ――そして、拳に霊力を凝縮させる。
 霊力は徐々に形をなし、掌に横島の切り札『文珠』を実体化させる。出来た文珠は二個であった。
「一応これも持ってて。美神さんを回復させたりに使うかも知れないし……」
「はい」
 差し出した文珠をおキヌが受け取る。横島はその後同じことをもう一回繰り返し、自分用の文珠を作り出す。出来た文珠は一個だけであったが……
「ま、おいおい霊力も溜まるだろ。その度に増やしていきゃいい」
 心配そうな顔で何か言おうとしたおキヌを、その一言で黙らせる。
 先程軽く腹ごしらえをしたため、食料はもうない。空になったナップザックをその場に棄て、横島は夜の森に目を凝らした。弱いとはいえ、月明かりがあるので夜目は効く。だから相手に悟られる危険を考えて、ライトは持ってきていない。夜の森は、黒々と横島の視線を吸い込む。
「横島さん……!」
「……! どうした、おキヌちゃん!」
 横島の脳裏におキヌの声が割り込む。横島は素早くそちらに向き直った。
「見鬼くんが……」
「えっ……?」
 見鬼くんは反応していた。先程よりほんの少し強く……。しかし、横島には分かった……。おキヌにも分かっただろう。
 これは、霊の発する霊波ではない。
 かなり遠いが、別の何か……
 これは……
「おキヌちゃん! いくよ!」
「はいっ!」
 横島とおキヌは歩き出した。先程までよりも大分速いペースで……
 分かったことがある。美神をさらった魔族の力量。
(こんだけ離れてて、見鬼くんに捕捉される力……。間違いない! あれは……)
 上級魔族。それもメドーサ以上のレベルだ。
(俺と美神さん、二人がかりでやっと倒した奴以上かよ……! 俺とおキヌちゃんで……倒せるか?)
 おそらく無理だろう。まともに戦えば、こちらの負けだ。ならば……
「おキヌちゃん!」
「は、ハイ!」
「出来るだけ今のペースを保ちながら聞いてくれ!」
「ハイッ!」
「心眼を使うまでもなく結論が出た! 奴は強い! 俺たちの想像以上だ!」
「……はい」
 おそらくそのことはおキヌにも解かっていたのであろう。悲壮な声で返事をしてくるおキヌ。
「だから、まともには戦わん! 時間を稼いで美神さんを助けてトンズラだ! 退路は俺が何とか作る!」
「はい!」
「何とかするから心配しないでくれ! 細かい打合せは現場に着くまでにみっちりとやって置こう。どうせどんなに急いでもあと三時間以上はかかるだろうし……」
「はい!」
「征くぞっ!!」
 森は暗く歩みは緩い。しかし決意を決めた横島にとって、それは只それだけの物に過ぎなかった。

――同刻(15時23分 日本標準時)東京 美神除霊事務所――

 タマモにとって、それは愉快な話ではなかった。
 小竜姫には最早ほとんど霊力は残っていないらしい。タマモとシロを現地に飛ばすことも出来ないほどに……
 事態は切迫している。
 自分は、それに対して何も出来ない。どちらにしろ、飛んでいってどうにかなる距離でもない。地球の裏側。理屈では知っていても、現実味のない距離だ。
 シロは明らかに焦れている。傍からみていてもそれがよく分かる。
「こうなったら拙者が……!」
「拙者が……どうするの? いくらあんたの脚でも海は走れないでしょ」
「しかし……!」
「落ち着いてください……二人とも」
 小竜姫が言ってくる。冷静な顔で。自分では気づかなかった。どうやら自分もかなり焦っているらしい。
 ……だが、
「それじゃどうするんですか……! 小竜姫様……!?」
「……それはまだ分かりません。しかし、焦りは何も生み出しませんよ…… まず落ち着いて、それから、よく考えることです。事態の打開策はそれしかありません」
「横島せんせえーっ!!」
 シロが吠える。遠い遠い空の向こうに向かって。
 ふと、思いついたことがあった。
「……小竜姫様、無生物を送る力は残っているんですよね……?」
「ええ、一応は数時間休めば……それで、何を送るつもりなんですか?」
 タマモは言った。
「またコンタクトを取ることは出来ますか……? 美神さんたちと……」
「ええ。正確な場所が分かればですが…… 何を伝える気なんですか?」
 タマモは頷き、言った。
「……必要なことです。……美神さんや横島にとって……」

――5時11分(アマゾンの辺境 現地時間)――

 低級霊たちはまっすぐに横島とおキヌを目指して突っ込んでくる。
 おキヌは息を目一杯吸い込んだ。
「おキヌちゃん! 頼む!」
 横島の声。自分を勇気付けてくれる声……
『ピリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!!』
 セルバの中に笛の音が響く。高く、美しく、儚げに。
 その音には意志が在った。おキヌの意志と霊波は、悪霊たちに訴える切実さを伴っていた。だから、その音色は美しいのだ。
(お願いっ! 私の、私の大切な人を、大切な私を、これ以上傷つけないで!)
 嘆願が音に込められ、音は霊波を帯び、霊波はおキヌの嘆願を悪霊に伝える。
 己の存在する意志を失った悪霊は、自ら次々と成仏していった。
「……近いな。奴の霊波に引き寄せられて、低級霊が集まってきてる」
 横島が言う。
「そうですね……」
 おキヌも同意した。先程から悪寒が止まらない。笛を使いすぎたことによる霊力の低下とは、また別の悪寒。背筋がぞくぞくする。鳥肌が収まらない。
「……おキヌちゃん、奴の霊力は正確に解かる? この距離なら多分もう使えるはずだけど……心眼」
「あ、はい」
 意識を『脳』に集中。心眼は『眼』で使うのではない、『心』で使うのだ。おキヌはヒャクメにそう教わった。
 見えてきたもの……それは…………
「……! 美神さんの霊波!」
「! 美神さんの!? 無事なのか!? おキヌちゃん!!」
「多分……無事だと思います。でも、かなり低下してる……何かされたのかも……」
「クソッ! 急ぐぞおキヌちゃん!」
「はいっ!」
 濃くなってきた密林の中を走る。自殺行為だ。普通の状況なら……しかし、
(美神さんっ……!!)
 前を走る横島に置いていかれないように一生懸命走りながら、おキヌは自らの手足の動きがもどかしかった。
 疾く……!

――5時53分(現地時間)――

「汝の名は?」
「……美神……令子……」
「もう一度問おう。汝の名は?」
「…………美神れい……こ」
「汝の真実の名は?」
「………………みか……み……」
「魔よ、汝の真実の名を告げるが良い」
「………み………………………メフィ…………」
「ならば汝は何だ?」
「ゴー……ス……ト…………スイー……パー…………」
「……それは何だ?」
「悪霊……シバく……」
「それが何なのだ?」
「…………それは……」
「汝の名は?」
「み…………め」
「汝の真実の名は?」
「めふぃ…………す……」
「名は?」
「……め……ふぃ…………す……………………と……………」
「……メフィスト。時計の針は停まったぞ……この指輪をはめるが良い」
「………………………………」
「……良し…………」

――5時55分(現地時間)――

 声が聞こえる。
(美神さん……! 駄目だ! 悪魔の誘いには乗っちゃ駄目だ!)
 声が聞こえる。
(あの野郎! 美神さんをよくも……!)
 声が聞こえる。
(……美神さん!)
 声が…………止まった。
(………………!)
 最早横島に、先程までの冷静さは無かった。美神に手を出した敵…………
 横島は右手に握り締めた文珠に……念を込めた。……美神を助ける為に……

――5時58分(現地時間)――

 全ては整った。
 指輪……『メビウスのリング』はメフィストの指にある。後一言。それだけで、『これ』は終わる。そして、始まる……
 彼は言った。
「……時よ停まれ。お前は美しい…………」
 夜が明ける。森に光が満ちた――

――To be continued――


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