―創作作品―

VAMPIRE CAPRICCIO


2005年6月16日  PM11:21  ロシア北東部上空

「タイガー !! タイガー、応答しろっ !! 」

周囲のあらゆる方向に体のあらゆる部位をぶつけながら、西条は連呼した。脳が頭蓋の中で暴れまわり、三半規管が悲鳴を上げる。

「霊波モニター・被弾・視界 45 %不能。退魔主砲・及び・メイン冷却炉・同じく修復不能・です」

「なんだとっ !! 」

人工式神の無個性で機械的な被害報告に、西条は同じく個性の無い、しかし感情たっぷりの反応を示した。

メイン動力部分がやられた !!

「くそ……あと少し……あと少しなんだっ !! …」

汗が止まらない。息が白くなる気温だというのに、西条は既に全身汗だくだった。

「タイガー !!! 応答しろっ !!」

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月4日 PM8:55  東京

「……何度も言うがね、美神総司令……これはもう、決定事項なのだよ。」

「私も、何度も言わせていただきます、官房長官。その、決定事項である、と言う事に納得できないと申し上げております。」

 美智恵は、目の前の偏屈な中年男の顔をまっすぐに見つめ、凛とした口調で言い放った。できればみたくも無い顔なのだが、相手に逃げ場を与えぬための戦術である。状況に応じて戦術を練るだけの冷静さを、まだ美智恵は失っていなかった…限界ぎりぎりではあったが。

 彼女の娘の令子だったら、相手の出方に合わせて戦術を練るなどというのは美智恵より 1 時間以上早く断念して、ヒールでこの中年男の鼻面を蹴っ飛ばしているだろう。その差というのはキャリアもあるが、ひとえに背負っている物の大きさの違いでもある。

 しかし残念な事に、今夜の面会での彼女の交渉術は、ついに最後まで敵を追い詰める事はなかった。

「話は終わりのようだな、美神君…もう遅い。君も帰って休みたまえ…だいぶ、疲れている様じゃないか」

誰のせいで疲れていると思っている―そう吐き捨てそうになる言葉を辛うじて飲み込んで、美智恵は最後の応戦を試みた。

「官房長官、今はただでさえ危険が迫っている時期なのです…人類全体に。そんな中で、これ以上無用な妖怪との争いを作って混乱を招くような事は……」

「帰りたまえ !! 思えば何時、君との面会の予定を組んだと言うのかね ! アポイントメントもなしに人のオフィスにあがり込んで押し問答とは、越権行為もはなはだしいのではないかね ? 」

「では、後日改めてこの件について面会していただきたく存じます。私の方で調整致しますので、ご都合のよろしい日時を・…」

「私の予定は君の退任までいっぱいだ !!! 」

思わず怒声を張り上げた官房長官は、自分で自分の怒声に驚いたようである。わざとらしくハンカチで額をぬぐうと、席に座りなおした。美智恵がさらに詰め寄ろうとしたとき。

「官房長官、○○建設の方がおみえですが……」

美智恵の後方から秘書の声が届いた途端、官房長官の顔にはみるみる生気が蘇った。悪党仲間の企業重役を、これ幸いの救いの神と踏んだようである。

「おおそうだ、忘れとった。急いで通してくれたまえ、それから君、車の準備を頼むよ…やあ、どうも、お忙しい中…」

美智恵などすっかりいないものとして、先約の企業重役たちと懇談しながら部屋を出ていった。大方、これから高級料亭に繰り出して、河豚でもつつくのだろう。

 部屋に取り残された美智恵は、ついには官房長官の座っていたオーク製のデスクを蹴り上げようかと思ったが、ふっとため息をつき、秘書の気の毒そうな視線を尻目にゆっくりと部屋を出た。今度こそ完全に部屋に一人となった秘書は、肺を空にするほどの大きなため息を吐く。もし、あの気の強そうな女性が会談の手配を自分に振ってきたらとはらはらしていたのだが、それは杞憂に終わった。幸い彼女はあきらめ、自分は今日も平和に、障らぬ神に祟り無しのモットーを貫き通せるようである。

……もっとも…美智恵の一挙一動に注目していた彼も、彼女が帰り際、壁にかけてあった官房長官お気に入りのゴルフキャップから髪の毛を一本拝借した事にまでは、気付かなかった。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月5日  AM9:30  東京 ICPO本部

「西条輝彦隊員に、本日付で、ロシアでの吸血鬼除霊活動協力部隊の総指揮官を任命します。作戦にあたっては Dr. カオス氏、ならびに香港の民間 GS メンバーから協力頂けるようになっていますので、彼らとの連携を保ち、速やかに任務を遂行してください。」

「了解しました。微力を尽くします。」

極めて形式的な「儀式」が終了すると、美智恵は気が抜けたようにどっとデスクに腰を下ろし、そのまま机に突っ伏して西条に頭を下げる形になった。

「ごめんっ !! 西条君っ !!」

突っ伏したままの姿勢で、西条に手を合わせる。

「そんな、なんで先生が謝るんですか。」

「無意味な仕事だわ…いいえ、むしろ、有害な仕事よ…自ら敵を作って自らの首をしめる…全くあの連中、過去の反省ってものが無いのかしら…」

「そんなもの無いから、あの地位にいれるんでしょうよ。」

西条の発言にはあきらめの色が濃い。納得いかない仕事であるのは彼も同感であるが、これ以上美智恵を無意味な連中との問答に明け暮れさせるのも、それはそれで心苦しいし、人的資源の浪費でもある。彼の上司であり師でもある美神美智恵は、単なる管理職役人ではない。彼女自身が有能な GS であり、現場の人員としても必要な存在なのだ。

「ナニが総司令よ…大仰な名前つけちゃって、これじゃ唐巣先生の足手まといにしか…」

美智恵が愚痴をこぼすのは、よほどの事である。辣腕といっても向き不向きというものがあって、正論をへとも思わずに裏工作のみに暗躍する政治業者たちとのやり取りは、美智恵の精神に莫大な負担をかけるようだった。

「先生、もうよしましょう…きっとピート君と唐巣神父が、うまくやってくれますよ。」

慰めたつもりだったが、これは失言だった。とっさに口を押さえた西条だったが、もう遅い。

「手遅れになっちゃったのよね…せっかく先手を打てるチャンスだったのに…」

「そんな…あの、先生…」

「いいのよ、ありがとう西条君。」

力なく笑って、美智恵は答えた。パシンと両手で自分の頬をたたく。

「くれぐれも、気を付けてね。今回の仕事で無理はだめよ。駒を使い果たしたら、引き際を、忘れずにね。」

さすがに切り替えは早い。いつもの表情に戻った美智恵を見て、西条にも余裕が戻ってきた。

「必ず、吉報を。」

「明日、朝一で特別便を手配したわ。今日は定時に帰って、明日に備えてね。」

「心外ですね。ぼくは仲間はずれですか。」

「… ? 何の話 ?」

「本日残業すると、何か面白い催し物があるとか。」

「あーっ ! 令子がしゃべったのねっ !! 」

「残念、エミさんです。出社時にばったり会いましてね。ピート君がいないのに彼女が G メンオフィスにくるなんて珍しかったんで、ちょっとカマをかけてみたんですよ。」

さりげなく女性に口を割らせるのは、西条の得意とするところである。

「ん〜まずったなあ…あの子も案外乗せられやすいのね〜」

こういう時の美智恵の口調は、娘によく似てくる。やはり血、というものだろうか。

「で、心霊呪術室貸し切って、エミさんが藁人形フルセットもって出頭してるって事は、久々に先生直伝の呪術講義がある訳ですねっ。いやあ、不肖の弟子として、これは参加しないわけにはいきません。」

「ふふ…西条君、目が笑ってないわよ…」

「あれっ、そうですかぁ ? そいつは危ないなあ…はっはっはっ…」

なにやら不穏な会話が G メンオフィスで交わされていた頃、永田町と霞ヶ関では数名の男たちが背筋に薄寒い悪寒を感じていた。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 美智恵や西条がこうも官僚や政治業者たちに悩まされるようになったのには、間接的な経緯がある。公務員である以上、これまでも仕事に多少の制約は付き物だったが、それでもたいていの最終決定事項は G メン独自の判断でやっていたのである。それが変化し始めたのは、ここ数年の事だ。

  5年前、某国の軍事施設内で極秘裏の兵器実験が行なわれ、その実験中に事故が発生した。このとき世界中の人々が、かつて SF 映画や少年漫画の中だけで描かれていた人類滅亡の危機を現実に味わったのである。様々な憶測と流言が飛び交うなか、最も正確に事実を示した情報は人々を恐怖の地下壕の最下層へと叩き込んだ。

 意図的に呪術効果を吹き込んだ心霊兵器の細菌爆弾が爆発して、世界中に広がった !!

 心霊兵器など、それまでは存在すらほとんど知られていない。そんなものが実在すると言うだけで、パニックを引き起こすには十分な要素をがあった。このとき研究されていた細菌兵器は、信じがたいスピードで拡大して人間の霊基構造に感染し、呪術によってその人間を思うが侭にコントロールできるというものであった。開発責任者の ( 自称) 科学者は、「ただ殺し尽くし、汚染し尽すだけの核兵器や病原細菌兵器より、一人も殺さず、自然界に全く汚染のない呪術細菌兵器のほうがよっぽど安全で革命的である」とうそぶいていた。

 現実にはこの細菌はまだ開発段階であったため、その後の調査で人間の霊基構造に感染する能力はない事がわかり、事態は一旦収束したかに見えた。しかし、開発途上の細菌の副作用は、思いもよらない方向から発生したのである。

 事件から数ヶ月後、実験施設周辺から同心円状に、奇妙な事件が相次いで広がっていった。除霊の必要もないような小妖怪が、突如異常な力を発揮して GS 達をてこずらせるようになった。今までみた事も聞いた事もないような新種の妖怪が続出した。 ICPO の事故調査隊が度重なる事件と実験事故との関連を尽き止めた時、人類は有史以来初めて、 1 年間に 2度の滅亡予告を提示される。

 細菌は人間ではなく、「妖怪の霊基構造」に寄生していたのである。

「先生もやはり、今回の事件が「セト」によるものだと思われますか ? 」

休憩時間、コーヒーを美智恵のデスクに置きながら、西条は確認の意味で質問した。「セト」とは、心霊兵器として開発された例の細菌に対する呼称である。砂漠の実験施設から生み出された暗黒の邪神、という事らしいが、比喩の神様にはできるだけ聞かせたくない呼称だ。

「…ここ数百年現れなかった吸血鬼の新種が、急に一ヶ所から 3 体。過去に出現歴のない場所からの突然の発生。しかもそいつらは吸血鬼が本来持たない能力まで兼ね備えているわ…妖気の質も独特のものらしいし、従来の除霊器具が効かない…これだけ条件がそろっていて、他に理由があると思う ? 」

「思いません。」

鮮やかな西条の即答に、美智恵は苦笑する。

 ロシア北部で発生した一連の吸血鬼事件の犯人は、 3 人の親子の吸血鬼らしい。今までなら特に大きな被害もなく鎮圧される事件だった。吸血鬼が人類の脅威であったのはもう中世以前の話で、今はあらゆる吸血鬼に対応するワクチンが開発されている。吸血鬼は案外弱点も多いので、被害を防ぐのもさほど難しくはない。実は現存する吸血鬼は特に血を吸わなくても生きていけるので、ヨーロッパでは人間と対立することなく静かに暮らす吸血鬼の島まであるのだ。だが今回の新種は、全く別種の吸血鬼だという。

「これは推測の域を出ないけど、恐らく今回の吸血鬼は感染で人血のみをエネルギー源とする体になってしまったのだと思うの。吸血鬼は利口よ。よほどの理由がない限り、むやみに手近な町を襲って騒ぎを起こす事はしないわ。」

「事故から 5 年、とうとうロシアまで感染範囲が拡大しましたね…。それまでは被害がなかったんですから、その吸血鬼達も静かに暮らしていたんでしょう…。先生、ぼくは最近思うんですが…ひょっとするとセトを作った連中は、本当は妖怪を制御しようとしていたのではないでしょうか ? 」

 新しく買ったゴルフボールを丹念に磨きながら、西条は穏やかならぬ発言をした。最近令子に誘われてコースに出るようになり、結構ハマッているようだ。ゴルフよりデートが目的だろうと言われれば、果たして、その通りである。

「さあ、それはどうかしらね…。いずれにしても呪術や霊能を使って戦争をしようなんて輩の考える事なんか解るはずがないし、解りたくもないわ。」

やや論点をずらした返答であったが、西条も同感であった。

 不完全な呪いは術者にはね返るなど、多くの副作用を生む。細菌に感染された妖怪は副作用により、超能力や知能など、様々な面が著しくパワーアップされていた。多くの場合人間に対する敵意が強い事も、感染した妖怪の特徴であった。美智恵に言わせればこの事故は身から出た錆、自業自得の最良見本である。だがそうはいっても、美智恵自身も人類である以上、無干渉を決め込む訳にはいかなかった。美智恵が彼女の上の娘と最も異なる点である。

 しかも、この自業自得にはまだ続きがある。更なる研究で、この細菌が繁殖能力を持っていることが判明した。細菌としては異常に長命なこの「セト」は、 10 年で胞子体を形成し、 1 個体から数万個体に増殖する…

 活動範囲が極めて広い妖怪が感染媒体である。たちまち地球全域の妖怪が感染し、尋常ならざる強化を遂げるであろう。そうなれば人類の活動は1年も待たずに終焉を余儀なくされる。「人を呪わば穴二つ」とはよく言うことわざであるが、このとき人類は自らの手で 70 億の穴を掘る事になったのである。

 かくして世界各国は、約 10 年後(2010 年頃 )に予想される最終局面を前に、 GS による「特殊任務部隊」を編成するにいたる。日本での総指令は美神美智恵、司令補には唐巣和宏がそれぞれ任命され、オカルト G メンを核とした一大除霊組織が結成された。任務は「セト」に感染した妖魔の駆除と、「セト」の解毒剤の開発研究である。民間 GS の協力を受けながら、日本の特殊任務部隊はこれまで多くの成果を上げてきた。ただ、組織が巨大になればなるほど、現場と離れた場所で暗躍する輩が増えてくる。国境を超えて行われる除霊作業に、何かと言うと国が口を挟んでくる。国家同士の意地、駆け引き、縄張り争い、責任の擦り合い…この点、人類には20世紀から 1 ミクロンの進歩もなかった。

 新種の吸血鬼の被害を聞いたとき、唐巣神父は即座に行動に移った。スイスのジュネーブに飛び、バンパイア・ハーフの弟子とともに吸血鬼との「和睦」を提唱したのである。吸血鬼に接触して親類族のバンパイア・ハーフ達に説得してもらい、地中海のブラドー島に彼らを導く。彼らの食料となる血液は、医療用のものを買い取ってこれを供給する。「セト」の解毒法が見つかるまで、人間の血を飲まなければ生きられなくされてしまった「被害者」である彼らに対する責任は人類が負うべきである、と、そう主張したのである。

 「セト」に感染しているなら、退治の仕方も従来のようにはいかない。まともに戦っても、事態が長引けば被害は甚大になる。唐巣神父は、敵にまわった吸血鬼の恐ろしさを熟知していた。幸いな事に、今回の吸血鬼はまだ人間にそれほどの敵意を示していない。被害を防ぐためにも戦うべきではない、との彼の意見は、その人望と功績からも、受諾されるかに見えた。

 ところが…ロシアの GS 部隊が暴走してしまった。最終決定を待たずに第1回目の吸血鬼への襲撃が行なわれ、ロシア GS 特殊任務部隊は吸血鬼3体のうち1体に致命傷を与えたと発表した。これにより、吸血鬼は人間を完全に敵と認識したようである。それまでやや遠慮がちに動いていた吸血鬼の活動は活発になり、瞬く間に 5 ヶ所の村落が吸血鬼の魔力に支配された。いくら致命傷を与えても、取り逃がしたのでは何の意味もない。

 ここで、あくまでも和睦を提唱する唐巣神父の意見は見捨てられてしまった。もはや和睦は不可能、一刻も早く吸血鬼を滅するべきだという意見が多数に上り、被害状況から世論もそれに味方した。そして…さらにそこに、日本政府が飛びついた。自ら火に油を注いだ形になったロシアに対して日本が援軍を送り、これを鎮圧して恩を売ろうというのだ。唐巣神父の不在をいい事に官僚達が秘密会合を開き、美智恵はかやの外のまま、西条の海外遠征が決定してしまったのである。

「ねえ、西条君…和睦は…もう、無理かしら。」

お姫様と7人の小人がプリントされた、可愛らしいコーヒーカップ―下の娘からの誕生日プレゼントらしい―に口をつけぬまま、美智恵は呟くようにいった。西条は返答に窮したが、たっぷり 1 分以上も経ってから、こう口にした。

「……………先生……今回だけは、ぼくは連中の手駒になったふりをするつもりです……」

 西条にも美智恵にも、裏から監視の目が光っている。彼らはいわば眼の上のこぶだ。今回勝手な行動を取れば、間違いなく美智恵も西条も閑職に飛ばされ、後はあの官僚どもがやりたい放題だ。今後連中を逆に駆除して、美智恵と唐巣に余計な気苦労を負わせぬためにも、また、自分らが安心して働いていくためにも、今回だけは苦汁を飲まなければならない。西条は既に覚悟はしていた。してはいたが…やはり虚しかった。無意味で、有害で、それでいて負けられない。これほどバカバカしい仕事は、記憶になかった。無意識にもてあそんでいたゴルフボールをポケットにしまってから、西条はこっそりと溜息をついた。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月6日  AM10:24  香港

『…そういうわけだから、あなたにも援軍を頼みたいと思って。』

「タイガーだけで事足りるって話じゃなかったですかね ? 」

『和睦協定の護衛のつもりだったからそう言ったんだけど、全面対決となると…』

はあ〜〜〜〜っ、と、雪之丞は受話器の向こうに聞こえるようにわざと大きなため息をつく。

「交通費くらいでんだろーな ? 」

『領収書切っておけば、後で西条君が渡すわよ。』

「場所は ? 」

『待って、詳しい事は Fax で送るから。』

「…解った、行く…こっちの助手もだいぶ使えるようになってきたし、 2 、3 週留守にしても大丈夫だろ…めんどくせーけど…」

仕事自体が面倒だと言う意味ではない。雪之丞はむしろ仕事好きだ。何が面倒かと言えば、この種の仕事で余計な人間関係に巻き込まれるのが面倒なのである。

『終わったら、一度日本に戻ってくるといいわ…もうずいぶん戻ってないんでしょう ? 』

「香港の方が気が楽だ。」

『そう、それなら別にいいけど…じゃ、よろしく頼むわね。この御礼はいずれ、精神的に…』

これは業界用語で、「特に大した礼はできない」と言う意味である。受話器を置いて、雪之丞はまた深いため息をついた。

「美神のだんなも、疲れてるみてーだな…」

この場合、「美神のだんな」とは美智恵個人を指し、夫の公彦氏のことではない。雪之丞は彼と面識はないのだ。

ふと振り返ると、彼の助手が不安そうな眼でこちらを伺っていた。雪之丞の視線に慌てて手元の書類に目を戻すが、書類が逆さまだ。

「出張するぞ。」

「え、やっぱり…ぁ、その、いつまでですか ? 」

「明日から…そうだな、 2 週間で戻る。」

「ロシアですか ? 」

「そうだ…いきたかねーけど…」

「でも、予想してたんでしょ ? 」

「ああ…予想ってのは、外れて欲しいときに限って、当たるもんだな…」

美智恵には黙っていたが、雪之丞達は既に動いていた。タイガーは先んじてロシアに飛び、偵察を開始しているはずだ。

「 8番ロッカーの鍵、かしてくれ。」

「え…あれ使うんですか !! 」

「あれぐらいは当然だろ。とにかく逃がさない事が先決だからな…結界は強力なほうがいい。」

「解りました、ぼくがとってきます。」

いうなり、もう鍵を手にして、地下室へと駆け下りていく。「若いな」と、自分の年齢を棚に上げて雪之丞は呟いた。タイガーと、結界専門の術師である彼とで香港に事務所を構えてから 4 年。仕事はすべて順調にいっているし、助手も成長してきている。雪之丞は仕事が好きで、仕事に追われる香港での生活が好きだった。だができれば…できればもう、「特務」の政治がらみの仕事は、これっきりにしたいものだ。

柄にもなく軌跡を振り返っている自分に苦笑すると、雪之丞は受話器を取り、メモを見ながら番号を押した。もう一つぐらい武器を用意しておかないと心もとない。

トゥルルルル…トゥルルルル…カチャッ

『…… Hello ……This … is…… Yoko ……hima ……』

布団かぶったまま、寝ぼけ眼で電話に出ているのは一聞瞭然である。

「あ〜、もしもーし !! 横島か ?雪之丞だけど。」

眠気を覚まさせるために、意識して大声で話す。

『は ? あ、あ〜っ !!あのぉ、今月は苦しかったんで、来月必ず払いますから…』

気の短い雪之丞は、既にイライラしてその場駆け足を始めていた。

「ダぁらっ !! いつまで寝とぼけてるっ !! 俺だおれっ !!伊達雪之丞 !! 」

『え ? ぁ、ああ。ハイハイ。久しぶり。なんかよお?』

この辺、とても世界屈指の GS とは思えない。雪之丞も人のことはいえないが。

「……文珠いくらか、用立ててもらいてえんだけど。」

雪之丞の調子は、昼飯代を借りる学生といった雰囲気である。

『…イけど…おまえ、つかえんのか ? 』

「西条のだんながいるから大丈夫だ。」

『アそ。珍しいな、おまえが西条と組むなんて。』

「聞いてねえのか?ロシアの吸血鬼騒動。あれの助っ人頼まれちまって…。」

『はは、ババひいたな。』

「まあ、美神のだんなには借りもあるから、しょーがねーけどよ。」

 苦笑しながらも、雪之丞はわずかな違和感を感じていた。かつては美神令子とのからみで、横島は西条と聞いただけで不愉快そうにしていたものであるが、今はそういうこだわりが影を潜めている。雪之丞が日本を出てから丸 5 年。横島が日本を出てから 3 年。極さりげない事であるが、人の変化を感じるときというのはそういうときだ。

『んで、どのくらいいるんだ ? 』

「エーと、とりあえず 1 ダースかな。」

『霊力サイズの方、 S 、M 、 Lとございますがぁ ? 』

「… L で。仕込みだけやっといてくれれば、発動は西条のだんながやるから。」

『ポテトは ? 』

「いらん !! 」

『んじゃ、税込みで1億 2600 万円になりまぁす。』

「なっ、ちょっ…待てっ !! か、カネとんのかっ !? 」

『たりめーだろ。こっちだって楽ぢゃねーんだ。』

「待て待て。これはもともとお国の仕事だ。だから俺が払うのは筋違いだろ。」

『俺は別に誰が払っても構わんぞ。』

「んじゃ、特務の方に請求してくれ。」

『やだよ、あそこの会計のおばはん、こえーもの。』

 あーだこーだと掛け合ったが、一般市場には売られていないビデオ 2 本と雑誌 3冊の線で、結局横島が折れた。コストの高い GS 稼業は現実には割に合わないことも多い。美神令子や小笠原エミのような守銭奴でさえ、妥協が多い毎日なのだ…妥協の次元は明らかに異なるが。ともかくも商談が成立したあと、不意に、雪之丞が話題を転じた。

「…ところでおめえ、いつまでアラスカにいるつもりなんだよ。もう引継ぎの話がきてんだろ…」

『ん、まあな……』

「おまえの業績だったら、一声かけりゃいつでも帰れるだろ。日本に帰らねえのかよ ? 」

『いや……あと少し…』

「何でだ ? 」

『……………』

 急に横島の歯切れが悪くなる。実際、アメリカのアラスカ州に派遣されてから、横島は驚異的としか言いようのない実績を上げていた。横島があの極寒で女っ気もないアラスカにひとりで行ったのも不思議だったが、予定任期が過ぎても帰ろうとしないというのはもっと不思議だ。あまり詮索したくはなかったが、横島をライバルとして認めている雪之丞としても、やはり気がかりだった。

「おめえ、体の方、大丈夫なのか…」

『ぁ、ああ、そいつは心配ねえ。まだ仕事するぶんにも影響はないし…』

「しかし環境的にも、日本の方が療養にはいいだろ。」

『…そいつはそうかもしれんが…』

公式発表は「セトは人間の霊基構造には感染しない」と言った。約70 億分の 1 の確率で、例外があった。体内の霊基構造の 8 割が妖怪のものと入れ替わっている人間がいたのだ。

「日本に戻れよ…おまえのためだ。肉体的にも、精神的にもな…。それに…待ってるだろ ? 」

『待ってるって…誰がだ ? 』

「おまえね…ほんとに心当たりねえのか ? 」

『………………いや、ある………』

「解かってるんなら、余計悪いわい。」

つい、咎めるような口調になる。やや間があって、次に話したのは横島の方だった。

『確かに待たせてるけど…俺は毎週ちゃんと連絡いれてるぞ。誰かさんと違ってな。』

「なんだよ、誰かさんて。」

『心当たりないか ? 』

「……ある。」

 心の中で、雪之丞は舌打ちした。横島が言っているのは他ならぬ雪之丞の事だ。どういう経路で情報が伝わったかなんとなく解るが、確かにここしばらく、彼と彼女とは擦れ違いが続いていた。相手がなかなか連絡してこないので ( と、双方が思っているので ) 、連絡を入れる回数が徐々に減り、もうずいぶん長い間声も聞いていない。

『解かった。今の仕事が終わったら、いったん日本に帰るよ。』

急に横島がそう言ったので、雪之丞は受話器を取り落としそうになった。

「ぉ、おい、ほんとか ? 」

『ああ…その代わり、吸血鬼を仕留めたら、お前も帰れ。』

「ぇ、いや、俺は…」

『なにも事務所移転しろとは言ってねえよ。 2.3 日顔かせと言ってるんだ。久しぶりに同窓会もいいだろ。』

「…ああ、そうだな。」

『じゃ、決まりだな。こっちが終わったら連絡するから。』

「解かった。日本でな。」

『ああ、日本で。』

 受話器を置いて、雪之丞はなにか妙な気分にとらわれた。どうも、うまく横島にノせられれたような気がする。別に日本に行くのがイヤなわけではないが、特に日本に親族もいない雪之丞にとって、今は香港のこの事務所が家のようなものだ。日本に行っても泊まる場所も特にないし、なんとなく浮いた感じがするというか…つい、居場所を探してしまう。モグリの頃に渡り歩いた癖なのかもしれない。

 振り返ると、彼の助手がちょうど地下室から戻ってきたところだった。ロッカーから取り出した結界用の護符を雪之丞に手渡す。

「調整しなおしておきました…。タイガー先輩にも連絡いれておきますね。」

「頼む。」

短くいってから、雪之丞は上着を羽織り、玄関へと向かった。

「ちょっと思いついた事があるんで…買い物にいってくる。」

「ぇ、買い物ならぼくが…」

「いや、いい。散歩がてらだ…。それより、出張中、香港は頼んだぞ。」

「は、はい。お任せ下さいっ !! 」

思わず敬礼する彼を見て、雪之丞は満足そうに笑った。どうやら香港の方は心配なさそうだ。

「…それから壬生…」

「はい ? 」

「仕事が終わったら日本によってくるから…戻るのは、 3 週間後になる。」

その時の助手の表情を雪之丞は見たが…別になにも言わず、出かけていった。

( 弓さんと、やっと連絡ついたみたいだな。 )

彼の想像は正確には外れていたのだが、事実として大差はない。まだにこにこ笑いながら、若い赤毛の助手は荷造りのため、階段を駆け上っていった。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月14日  AM1:05  ロシア

『…―ラ……カミーラ……』

 彼女は、薄く目を開けかけ…また、閉じてしまった。明るい。もう朝だろうか。昼間動ける体になっても、彼女はやはり強い日の光より、青く柔らかい月の光の方が好きだった。

( 月の光ならいいな…でも、ちょっと明るすぎるな…今、私どこに… )

『カミーラッ !! 』

 今度こそはっきりと声が聞こえ、彼女ははっとして目を開いた。途端に彼女の五感がいっぺんに機能し始め、カミーラはまどろみから一気に開放された。

『カミーラ…大丈夫かい ? 』

『お兄ちゃん…』

目の前に、心配そうな兄の顔があった。どうやらずっとうなされていたらしい。兄に抱きかかえられているのがわかり、彼女は深い安堵を覚えた。ほっとしてから、カミーラは眠る前の記憶をゆっくりたどって見る。

( 確か私、村から逃げるときに銀弾で撃たれて…人間たちに囲まれて、そのまま… )

どうやら、恐怖で気を失ってしまったらしい。

だが、自分が無事でいるという事は、兄が助けてくれたのに違いなかった。ふとまわりを見渡すと、ここは洞窟のようだ。彼女の眷族である狼達が兄妹の周りを取り囲んでおり、天井にぶら下がる無数の兄の眷族達も、皆一様に心配そうな視線をこちらに向けている。明るいのは、雪のせいだった。北極圏に近いこの巨大な針葉樹林内には、 6 月でも大量の雪が残っている。洞窟に吹き込んで凍った雪が、月明かりを乱反射させているのだ。

( みんなが…助けてくれたんだ…ずっと、護ってくれてたんだ… )

急激に胸が熱くなった。続いて目頭が熱くなり、鼻孔にツーんとした感覚がこみ上げる。

( ぁ、ダメ… )

―女の子だって、簡単に泣いてちゃいけない―そう、兄に言われてきた。カミーラは普段は明るい娘である。ただ案外泣き虫で、幼い頃はよくいじめられて泣いて帰った。そんなとき、彼女の兄であるレイスは、怒った顔はしなかった。困った顔もしなかった。ただ、カミーラをひざの上に乗せて、彼女の話を聞いた。そして、彼女が話し終わると、決まって言った。

『カミーラ、女の子だって、簡単に泣いてちゃいけないよ。』

必ずそう言って、彼女の頭に手を置いた。そしてそのあと、父が仕事を終えて帰ってくる頃には、カミーラはもうすっかりやな事を忘れる事ができた。

( ダメ…簡単に…泣いたら… )

必死にこらえようとしたが、もう最初の涙は彼女の大きな瞳から出発して、頬を伝っていた。こうなるともう抑えられなくて、後続の涙が続々と後を追い、たちまち頬に涙の行列ができる。

それを見ると、眷族達はいっせいにざわつき始めた。

『ぉ、お嬢さん、だいじょぶですかい ? まだ、痛みますかい ? 』

オロオロした様子で飛びながら、1匹の蝙蝠が彼女の顔を覗きこむ。慌ててカミーラは勢いよく首を振った。グシグシと目をこすって、まっかな目で笑顔を作る。

『ううん、もう、ぜんぜん平気。ごめんね、なんか安心したら、急に涙が出てきちゃって…』

カミーラは起き上がってトントンと軽く足踏みをすると、そのまま綺麗に伸身の宙返りをやってのけた。まるで風に舞う花びらのような軽さで、着地するとき、ほとんど音をたてなかった。感嘆と賞賛と安堵を取り混ぜた溜息が、ホーッと一同から漏れる。

『ね、ぜんぜん大丈夫。』

笑って見せるカミーラを見て、先ほどの蝙蝠が彼女の兄の肩をたたく。

『いやあさすが、丈夫なとこは父親譲りですなあ、若。』

『丈夫なのは結構だが…スカートで宙返りするんじゃない、はしたない。』

『あら、家族なんだものいいじゃない。』

無邪気なカミーラの言葉に応じて、蝙蝠がもっともらしく頷いて見せる。

『そうそう、若はちっとばかし堅苦しくていけません。うちらみんな、お嬢さんが生まれる前からキュイポーンの家に御使えしてる、いわば家族みたいなもんです。このぐらいはエキトクってもんですよ。』

『役得やくとくだろ』

『ぁ、そうそう、ソレ。役得です。』

二人の会話をくすくす笑いながら聞いていたカミーラは、ぱっと兄に抱きついた。

『お兄ちゃん !! お兄ちゃん、怪我ない ? 大丈夫 ?』

『ああ、ぴんぴんしてるよ。』

『ごめんね、心配かけちゃって…』

兄の頬にキスしながら、カミーラが呟く。

『いいさ』

おほん、と、わざとらしく咳払いして、先ほどの眷族頭の蝙蝠が注意を促す。

『えー、大変喜ばしい次第ではありますが、御二人は腹違いとはいえ兄妹で在らせられますからして…』

『気にするな。兄の役得だ。』

さらりと流してから、レイスは顔を引き締める。

『では、…報告を聞こうか、デスモ。』

『はっ。』

デスモと呼ばれた蝙蝠は、ややもったいぶった口調でここ数日の人間界の動きを報告しだした。この蝙蝠はナリは小さいものの、これでも齢 1000 年を超える古株である。主に情報収集役、伝達役を務め、独自の分身を伝書蝙蝠として使う事もある。古くから人間の近くに潜んでいたため、小さな田舎の村でひっそり暮らしてきたレイスやカミーラよりよほど人間界に長けていた。

『日本からきた新手の刺客の面が割れました。ええと…ニシジョウテルヒコ。妖怪退治は一通りこなす、かなりの切れ者のようです。あと、このまえからこのあたりをかぎまわってる大柄な男…もしやと思っていたんですが…「香港の虎」タイガー寅吉に、間違いありません。』

『すると…刺客は二人か ? 』

『いえ、どうもカオスのじじいも来てる様で。』

『お兄ちゃん、誰、それ ? 』

『俺達より長生きしてる人間だよ。ブラドーとやりあったこともあるとかないとか。』

ブラドー伯爵は吸血鬼の間でもいまだに有名である…いろんな意味で。

『若…大旦那様がいない今、今回の相手はとてもじゃないけどまともにやりあうのは不利です。御気持ちはわかりますが、ここは一つ自嘲して、身を隠されたほうが…』

『身を隠すのはいいが…いつまで隠れていればいい。「食事」をすれば、必ず見つかるぞ。』

『………』

 レイスもカミーラも、人間の血が吸いたい訳ではない。かつてはブラドーやドラキュラ伯爵のように、人間の血を好んで吸い、人類と敵対した輩はいる。しかし、「血を吸う」という能力は結局吸血鬼の特徴的な一特性でしかないのだ。敵を懐柔する、敵を倒す、そういった場面で使われる事はあっても、一般には戦う必要がないなら血を吸う必要もない。加えて、ここ数世紀の人間のおぞましさを聞かされると、そんな生物の血をすするなど生理的嫌悪感からもごめんこうむりたい、と言うのが正直なところだ。

 しかし、何故か今年に入ってから、食べ物が体に受け付けなくなった。奇妙な発作が襲うようになり、麻薬の禁断症状にも似た激痛が襲う。人血を口にするまで、それは続くのだ。人間による呪術細菌兵器に感染した結果だった。彼らにしてみれば生きる為、やむを得ぬ事情である。

『…やはり、南へ逃げよう。』

数分間考えていたが、レイスは一同に決断を告げた。

『中国にいけば、魔界や仙界とつながる霊山や霊湖がたくさんある。ひょっとしたら俺達にかけられた呪いの解き方もわかるかもしれない』

『大旦那様は、逃げるなら地中海に行けと仰せられておりましたが。』

デスモが遠慮がちに異論を呈する。しかし、レイスはそれを却下した。

『父さんはヨーロッパの同種族を頼る事を考えていたようだが、ここまで人間からの攻撃が苛烈だと地中海までたどり着ける可能性は低い。ヨーロッパでは吸血鬼に対する敵対心も強いようだし…その点、中国ならいくつかの安全地帯を中継点にできるはずだ。』

 話を聞きながら、カミーラは今離れている父の事を思った。二人の父は、人間に攻撃された際に怪我をして、自分で人間を引き付けて兄妹を逃がしてくれたのだ。まさかあの父が人間などにやられるはずがないが、それでも心配であった。

 その間も、レイスとデスモは協議を続けている。

『わかりやした。しかし、あのタイガーと言う男、化猫並みの感覚を持ってると聞きます。忍んで逃げるのは容易じゃないですぜ ? 』

『一戦は覚悟してるさ。デスモ、 2 日後の夜、お前はカミーラと一緒にここを出ろ。北珪山まで、妹を案内してくれ。』

『かしこまりました。』

『お兄ちゃんはどうするの ? 』

『お前達が森を出るまで、刺客の連中を引き付けておく。適当にやりあったらまた身を隠して、父さんとおちあって後を追うさ。』

『でも、でも相手の人間って、強いんでしょ ? 一緒に逃げた方が…』

『カミーラ。お前は妖気を隠すのがうまい。かくれんぼで、俺が勝った事は一度もないからな。俺が一緒だと、見つかっちゃうんだよ。』

『でも…』

『心配するな。俺にだって大勢の頼りになる眷族がいる。無理はしないし、 2 手に分かれれば人間たちも捜索のほうに人員を割くだろう。そうすれば、俺も逃げやすくなるはずさ。』

レイスは、カミーラの頭をなでながら優しく微笑んだ。人間が描く吸血鬼伝承には出てこない、暖かい笑みだ。この笑みを見ると、カミーラはうなずく以外できなくなってしまう。

 デスモもレイスの意見に賛成したが、一つ条件をつけた。敵の人間たちに反撃しても、死人は出してはならない、という条件だ。

『若。私とて人間には虫唾が走る思いです。しかし、刺客の連中を殺したとて無意味。次の刺客が出てくるだけです。反って相手の戦意をかきたてたる結果となりましょう。』

『しかし加減をしていれば、こちらの方が危ないのだぞ。それに、もはや人間との和の道など向こうが断ち切ったではないか。』

『若。大旦那様はまだあきらめてはございません。それに、大旦那様と別れてから何度か大きな町を襲いましたが、それで人間たちが震え上がって攻撃を止めましたか ? お嬢様のためにも、なにとぞ自嘲なさいますよう…』

これをいわれると、レイスはさすがに耳が痛い。父が手傷を負わされた事で逆上したレイスは、短期間に 5 つの町を壊滅させた。無論ただ怒りに任せて動いたわけではなく、逃亡中に必要な人血を十分に確保するためでもあったのだが、それにしても流石にやり過ぎたのは確かだ。妹も危険な目に遭わせてしまった。

デスモはさらに続ける。

『それに…今度のニシジョウと言う男。美神一派の手のものとか。』

『……… ! 美神…美神令子か !! 』

『美神って…あの、ノスフェラトゥを殺ったっていう ? 』

カミーラの問いにデスモが頷く。彼女たち兄妹の父は日本文化に深い関心があったため、日本の情報は彼女もデスモから様々なものを聞いていた。デスモの情報には美智恵と令子を混同している部分があるが、美神と名のつくものが災厄の元凶であるという評価は、あらゆる意味で正解である。

『もしそのニシジョウとか言う奴を殺っちまったら、今度は美神本人が出てくるかもしれません。こいつは、しゃれになりませんぜ。』

『確かにな…わかった。誓って、死人は出さないよ。』

レイスの言葉に、満足した表情でデスモは頷いた。やや心配性のこの老蝙蝠は、この若き吸血鬼の将来性を深く信じていた。多少生真面目過ぎて融通のきかない面もあるが、確かに大物となる方だと確信しているのだ。親ばかだろうと言われれば、その通りでもある。

『それにしても、父さんの助けは今回ない。激戦になるが、みんな、力をかしてくれ。』

レイスの声に応じて、洞窟内が小刻みにゆれる。人間には聞き取れないが、超音波による蝙蝠達のトキの声だ。士気の高さに満足すると、レイスは言った。

『デスモ、出陣祝いだ。酒を出せ。』

『お、若、話せますな ! 』

酒には目がないデスモが嬉々として一回転すると、空中に大きなワイン樽が浮かぶ。レイスとカミーラの手にグラスが運ばれる。狼達は大きな皿にワインを入れ、その周りをぐるりと取り囲む。蝙蝠達は常に逆さまなので、それぞれが逆さまのまま樽に顔を突っ込んだ。

『吸血鬼の未来に !! 』

『キュイポーン家と若き御兄妹のために !! 』

あちこちで乾杯が交わされ、酒宴が始まった。

『…お兄ちゃん…できるだけ早く、戻ってね。気をつけてよ。』

『お前の花嫁衣裳見るまで、死ぬ気はないよ。』

『年寄り臭い事言わないでよ、まだ 700 にもなってないのに。』

『さよう、そう言う台詞は私の台詞ですぞ、若。』

早くもいい気分で『赤鼻の蝙蝠』になっているデスモが口を挟む。

『キュイポーン家にお使えしてはや 1000 年、このデスモ・ドンティーダも歳をとりましたが、後はお嬢様の美しい幸せそうなウェディング姿を見れさえすれば、この年寄りもう思い残す事は…』

『ナーニ、二人とも。私に早くお嫁に行ってほしい見たいじゃない。まだ早いわよ。』

少し怒った調子でカミーラが返す。頬が赤いのは、ワインが入っているからだ。

『そうは言いますがね、お嬢様。若の将来のためにも、お嬢様には早いとこ素敵なご亭主を見つけて頂いて、若の自立をば…』

『こら、何が言いたい。』

『ぁ、いや、これは失言。』

『私、ウェディングドレス着て教会で式挙げるのはぞっとしないな―。十字架は平気になったけど…。どうせなら前に見た、日本のやつがいいな。着物着て、すっごく綺麗なの。ええと何だっけ、…サザンガク、じゃなくて…』

『三三九度さんさんくどの事でございましょう ? 』

『そうソレ。』

『お前そりゃ、指輪交換より酒が飲みたいって基準じゃないだろうな ? 』

『なによう、お酒が好きになったのはお兄ちゃんの影響でしょ !! 』

言うなり、カミーラは再びレイスの胸に飛び込んだ。レイスは器用にワインを一滴もこぼさず、最愛の妹を抱きとめる。

『本当に……どうか、無事で…』

『ああ…』

カミーラはレイスの胸元から顔を上げ、兄の唇にそっとキスをした。いつもそばにいてくれた兄。いつも話を聞いてくれた兄。大好きな兄…。

( 兄妹じゃなくてもよかったのに… )

兄の胸の中で安心を感じながらふと、そんな事を想わないでもなかった。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月15日  PM1:00  ロシア ICPO本部

 雪之丞は大股で歩く西条をやや早足で追いながら、先ほど西条が語った作戦案を復習していた。それによると雪之丞は地上での伏兵となるらしい。西条が Dr. カオスと考案したと言う「空中部隊」とやらを拝みに、今二人は地下の格納庫に向かっていた。

「吸血鬼は 1 鬼倒したってロシア側は発表してたが、そいつは確かなのか ? 」

「さてね、ぼくも同じ質問を当局にしたが、返答は得られなかったね。」

「死体は確認されてないんだろ ? なら、生きてるって事じゃねえか。」

「何しろ恐ろしく生命力が強いらしい。1鬼は銀の弾丸で蜂の巣にしたのに、それでも結界を突き破って逃げたそうだ。腕の 1 本や2 本切られても生えてくるらしいぞ…ここだ。」

話を途中で打切って、西条は V-5 と書かれたドアの前で立ち止まった。

重々しいドアを開くと、中はまるで飛行機の格納庫のような広さになっていた。否、紛れもない航空機が、そこに格納されていたのである。

「……でかいな。」

率直な感想を雪之丞が述べる。戦闘機ぐらいの大きさかと思っていたが、こいつはその倍はありそうだ。ブーメランのような形の機体で、これと言った凹凸がない。窓らしき物もなく、表面全体に鏡のようなコーティングがなされている。

「こいつが今回の作戦の要だ。今までずっと空中戦での敗北で逃げられてきた。今回は、空中戦でやつらを仕留める。」

「銀の弾丸仕込んだロシアの空軍部隊、全滅したそうじゃねえか。こいつ 1 基でほんとに大丈夫なのか ? 」

「なにもこいつ 1 基とはいっとらんぞ。」

不意に後ろから話し掛けられて雪之丞が振り向くと、 Dr. カオスが得意満面の笑みで立っていた。久しぶりに自分の発明品で暴れられるとあって、血が騒いでいるようだ。

「こいつはいわば指令機でな。こいつからの指令をあそこにある小型機に伝達して、全部隊を統括するんじゃよ。」

カオスが指差した方向には、無数の超小型戦闘機が並んでいた。戦闘機と言っても翼もプロペラもなく、いびつな 8 面体の全方向に機銃がついている。驚くべき数があった。空中に浮いてくるくる回っているところを見ると、確かにそこらの戦闘機やヘリよりはるかに小回りと機動性に優れているようだ。

「吸血鬼の一人に、恐ろしく眷族の統率に長けた奴がいるらしい。数万匹の蝙蝠を自在に操って追撃を阻止し、鮮やかにひいて行方を晦ますそうだ。首魁の吸血鬼本人を殺るためにも、眷族の蝙蝠どもを何とかしなくてはならん―そこで、君の相棒の出番と言うわけだ。」

説明しながら、西条は雪之丞を格納庫の一廓へと導く。そこには指令機と同じコーティングをなされた球形の物体があり、中に人が入れるようになっていた。一昔前のゲームセンターにあった体感ゲームを、雪之丞は想像した。

「どうじゃタイガー、調子は。」

カオスがハッチを開けて中に声をかけると、中に窮屈そうに巨体を押し込んだタイガーがいた。額や体の数ヶ所に吸盤をつけており、そこからコードが伸びて球形のコクピットにつながっている。

「死角が無いっていうのは、気味の悪いもんですノー。目まぐるしくて、目が回りそうじゃ…。」

「はやいとこ慣れてくれよ。部隊の統率は、君の精神感応力にかかっているんだ。」

西条の言葉を聞いて、雪之丞にも作戦の全容が見えたようだった。

「なるほどな…。タイガーの能力なら、人工式神を仕込んだ数万の小型機に、即座に指令を伝達できる。全機同時に、西条の思うがまま制御できるって訳か。」

「 2体の吸血鬼は恐らく分散し、一方が空中で我々の注意を引き付ける算段だろう。上空からなら地上への援護もよりやり易いしな。我々は敢えてそれに乗って空中戦を挑む。そこで互角以上の戦いができるはずだ。連中には君が来ている事はまだ知られていないはずだから、我々が戦っている間に君は地上からもう一鬼を追ってくれ。」

「わかった。しかし、吸血鬼にとどめを刺すには銀の弾丸だけじゃ心もとないだろ。そう思って、用意してきたものがある…」

雪之丞がそこまで言いかけたとき、マリアが格納庫へ入ってきた。手に小包を抱えている。

「ミスター・雪之丞・アラスカより・郵送物が・届きました。」

「お、ちょうどよかった。そっちも待ってたんだ。」

「アラスカ… ? 」

「横島から、文珠の差し入れだよ。そいつをこれに仕込んでぶち込んでやろうと思ってな。」

雪之丞は手に下げていたスーツケースを開くと、なかから木の杭を取り出した。後ろの部分に穴があいており、文珠がはいるようになっている。

「神木の枝から切り出した特別製だ。セトに感染した吸血鬼を仕留めるには、こいつぐらいでないとな。」

「おぬし、こういう飛び道具は使わん性ではなかったか ? 」

「俺はつかわねえよ。お前らにくれてやるだけさ…。俺のほうでは、やりたいようにやらせてもらうぜ。」

カオスに返す雪之丞の声にも、祭り前の子供の色がある。裏のゴタゴタを抜きにすれば、やはり血が騒ぐ仕事なのであろう。その間に西条はマリアから小包を受け取り、中身を確かめてみた。紙箱の中から、ころころと文珠を取り出す。

「ええと、ひのふの… 13 個あるな。あと手紙。ええと…」

手紙を開いて、ちょっと顔をしかめた西条は、一息に読み上げる。

『感謝セール期間中につき、文珠 1 ダースで+ 1個のサービスです。ただいま全商品 2 割引! 文珠と吸引護符にお好きな簡易結界をとりあわせたお得なバリューセットもよろしく !! 』

「………それだけですかい ? 」

「あいつ、生活が荒んでユーモアのセンスまで枯渇してきたんじゃね―のか ? 」

「帰国したら厄珍堂にでも再就職する気かも知れんぞ。」

西条だけは特に感想を述べず、一つ文珠をポケットに入れると、残りの文珠を丁寧に雪之丞の持ってきた杭に収めていった。

「こいつは、ミサイルの代わりに主砲に装填してくれ。発射時に念を込めて吸血鬼に食らわせる。気になるのは逃げたと見られるもう一鬼の吸血鬼だが、生きているとしても流石に重症だろう。マリアもいるし、対応できるはずだ。」

「そっちの方にも、手は打ってあるぜ。」

雪之丞は懐から持ってきた結界護符を取り出して西条に見せた。

「こ、こいつは… !! 」

西条の驚愕はもっともだった。霊能力があるものなら、その結界護符の強力さのほどは一目でわかる。崇高な芸術絵画に魅了されたような顔を浮かべる西条に、雪之丞に代わってタイガーが説明した。

「うちの助手は、結界に関してはかなりのヤリ手でしてノー。これなら連中を森の外に逃がさんし、外からの侵入も阻める。まさに「袋のネズミ」って奴ジャ。」

「こいつは凄い… !! これ、鷹取式か ?」

「残念、似てるけどな。壬生式にいくつか陰陽道の手を加えた、あいつの自己流だよ。」

雪之丞も得意そうだ。本人の前では厳しいが、彼の助手は雪之丞の自慢の一つである。

「これで万全だ。敵に動きがあり次第、吸血鬼狩りに向かうぞ。各自の奮戦に期待する。」

西条の声にも、大きな自信がみなぎっていた。なるほど、さすが先生の推す香港勢だけある。以前よりずっと多面的な戦い方を身につけている雪之丞とタイガーを見て、西条にもそれがわかった。勝てる。必ず勝つ。その後は…すぐに日本に戻って、害虫どもを駆除してやる。

大きな自身と決意を胸に秘め、西条は靴音高く自室へと戻っていった。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月16日  PM9:46  ロシア北東部

 濃い霧の中を、カミーラは走った。彼女の吐く白い息がたちまち霧に混じる。この霧は兄のレイスが作り出したもので、彼女の身を隠すとともに、兄の無事を伝えてくれる。その霧の中を、カミーラは走る。あと少し、あの岩の向こう側が、この森の出口になっているはずだ。

『う、嘘でしょ…』

岩を乗り越えて、カミーラは愕然とした。またしてもだ。この夜いくつもの森の出口に辿り着いたが、そのいずれにも、冷厳な結界壁が立ちふさがっていた。もう 5 ヶ所目だ。彼女の眷族である狼達が、一斉に結界壁に跳びかかる。

バチッ! !

眷族達の奮戦は、正しく報われなかった。結界はびくともせず、狼達を弾きとばす。恐ろしく巨大で、頑丈な結界だった。

( 森を…森全体を結界で覆ったというの? )

そうとしか考えられなかった。人間たちはとっくに自分たちの居場所を察知して、退路を塞いでいたのだ。

『くそっ !! タイガーの奴、想像以上に鼻が効くとみえる ! 』

デスモがいまいましげに呟いた。既に自分たちがいる森の全てを把握されているとまでは、さすがに思わなかったのである。

 タイガーの精神感応能力は応用範囲が広く、広範囲での索敵にも大きな力を発揮する。セトの影響で「見鬼くん」等の除霊器具が無力化された現在、霊視による索敵能力はそれを持つ GS にとって大きなアドバンテージとなった。そしてタイガーの索敵能力は現時点で香港最高であり、それは同時にアジア最高である事を意味していた。

 カミーラは思案をめぐらした。人間たちは、どうあってもこの森で自分たちを仕留めるつもりらしい。それにしても、とカミーラは思った。

( どうしてここまで、命を狙われなくちゃならないの? )

自分らが血を吸わねば生きられなくなったのは、人間のせいだ。確かに町を襲ったが、仕方が無かったのだ。それに、人間が人間を殺す量に比べれば、全く微々たる量ではないか。

( ……隠れなきゃ !!)

この状況下でも、カミーラは自分のなすべき事を知っていた。兄が人間を退けて助けに来てくれるまで、隠れなくてはならない。いたずらに人間と戦って万が一の事があれば、兄や父の苦労は無駄になるのだ。生きなくてはならない。彼女は眷族達を促すといったん来た方向をひき返そうとした。

『お嬢様っ ! 危ないッ !!』

デスモの声に反射的に身を伏せる。半瞬前に彼女の頭部があった位置を、一陣の風が吹きぬけた。その風のもとに向かって、眷族達がいっせいに跳びかかる。

「おぅらあっっっ !! 」

5 匹の狼を一瞬にして弾き飛ばすと、そいつがカミーラと対峙した。全身を不思議な闘衣で覆っており、奇妙に妖気臭い。だが、確かに人間のようだ。

( 人間が…妖気を纏っている… ?)

彼女の脳裏の疑問に対し、デスモが言葉に出して回答を述べた。

『魔装術 !! お嬢様、こやつタイガーの腰ぎんちゃくの「イタチ」ですぜッ !! 』

「ルセエッ ! 誰が腰ぎんちゃくだッ !! それに俺の名は「ダテ」だ「伊達」 !! 」

かつてない不名誉な他己紹介をされて雪之丞は逆上しかかったが、何とか平静さを取り戻し、カミーラに目を戻した。

「ほう…「ロン・チャニイ」とはな…。こいつは案外面白い勝負になりそうだ。」

「ロン・チャニイ」とは、狼を眷族とし、狼に変身するタイプの吸血鬼だ。カミーラの父も兄もロン・チャニイではないが、亡くなった母がそうだった。父と再婚し、カミーラが産まれてからまもなくこの世を去ったため、カミーラは母の記憶を持っていない。自分の眷族が狼である事が、母の娘である唯一の実感であった。

「さて、逃げ場が無いのはもう十分わかったはずだ…上でもぼちぼち始まったようだし、タイマン勝負、うけてもらうぜ。」

『イヤよ !! 』

あまりにきっぱりいわれて、コケる雪之丞。

「そ、そうはいかん。こっちも遊びじゃねえんだ、この勝負、是が非でも…」

雪之丞は最後まで言えなかった。最後まで言う前に、風のようなスピードでカミーラは逃げ出した。

「あーっ !! こらっ、このアマ、人の話は最後まで…」

『イやっ !! こないでっ !!あっち行ってーっ !! 』

えらい嫌われようだ。まあ当然と言えば当然だが。しかし、雪之丞もここで引く訳には行かない。スピードには自信がある。懸命に追いすがった。

「待ちやがれっ !! 」

『イやよっ !! 』

壮絶な鬼ごっこが開始された。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月16日  PM9:55  ロシア北東部上空

『くそっ !! なんという事だっ !! 』

 南西方向から現れた敵影を見て、レイスは、自らの失態に気付いた。まさか、人間の側があれほどの規模の空中戦を想定してくるとは。しかも、森の周囲全体に結界が張り巡らされている。カミーラの逃亡を阻止するため、という事は、地上にも人間たちは刺客を送っているはずだ。敵が地上に陣を張れば制空権をもって上空から人間たちの追撃を阻む。逆に上空の自分に向かってくれば、たっぷり時間を稼いでカミーラを逃がす。そのいずれの作戦も不意になってしまった。これではカミーラを地上に孤立させてしまったも同然だ。

( 裏をかかれた !!)

しかし悔いても始まらない。レイスは魔力の霧を森中に張って、地上を隠した。せめて上空から地上への攻撃を阻止し、カミーラを護らなくてはならない。

「レイス」とは元来「霧」を意味する。彼の本来の能力は、この霧によって人間の目を欺く事であった。全てを濃い霧が覆い尽くし、何も見えなくなったとき、そこは彼のみが物を見れる絶対有利のテリトリーになるはずであった。

しかし、今回の人間たちの異様な空中部隊は、霧の中、恐ろしいほどの統率力と正確さを持って肉薄してきた。今までみてきたトロ臭い飛行機ではない。小さいが、全方向に自由に跳びまわる、 8 面体の箱。その全方向から、銃口が覗いている。

「撃てっ !! 」

西条の号令で、一斉射撃が始まった。西条の命令は、タイガーによって 1 秒のタイムラグも無く、全機体に転送される。無数の銀の弾丸が空を裂き、レイス達を襲った。

『密集しろ !! 奥行きを保て !!敵の旗艦さえ落とせば、他はガラクタだ、一斉応射 !! 』

眷族の蝙蝠達が、西条の乗る指令機めがけていっせいに攻撃する。蝙蝠達の霊波による光線は小型機の陣の一部をなぎ払い、指令機に命中するかに見えた。

『なにっ !! 』

人間たちの旗艦は、信じられないスピードで攻撃を回避した。更なる銀弾の斉射。どうやら蝙蝠並みの機動力を持つのは、あの旗艦も同様らしい。

『 1番隊から 5 番隊、声を出せ !!銀弾の攻撃を無力化するんだ !! 、6 番隊から 11番隊は各個で敵の周囲にまわりこめ !! 出力ではこっちが上だ、あの旗艦を落とせば勝てるぞ !! 』

レイスの命令で、約半数の蝙蝠がいっせいに鳴き始める。人間には聞こえない、超音波による声が、魔力を伴なって互いに増幅される。空に、超振動のバリアーが形成された。ソニックビームが小型機をなぎ払い、振動で銀の弾丸が失速する。その間に、各小隊が人間側の周囲に散開し、中央の指令機めがけて霊波攻撃を浴びせ始めた。

( ・・・ !・・・やるな・・・ )

 西条は目まぐるしい戦況に対応しながら、敵がこの指令機に攻撃を集中させている事に気付いていた。全軍の中枢であるこの機が落とされれば、他の小型機は単なる箱と化す。その事を、敵の首魁の吸血鬼は即座に見ぬいている。しかし、 Dr. カオスの設計したこの機にタイガーの精神感応を応用した事で、西条は全方向の敵の動きを手にとるように知る事ができた。そう簡単にやられる事は無い。それに、西条はまだ切り札を持っていた。

「退魔主砲、用意 !! 」

「イエス・ミスター・西条」

マリアが応答し、指令機の上部に、巨大な砲身がせり上がる。砲座に座るカオスが、蝙蝠の密集する陣形の中央に標準を合わせた。

「撃てっ !! 」

霊波の光を放つ木の杭が、咆哮を上げて発射された。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月16日  PM11:07  ロシア北東部林内

「くそっ !! 」

 雪之丞は跳びかかる狼達をなぎ払いながら、焦りを覚えはじめていた。

( なんだ…こいつらは… ?)

かなり息があがってきた。大したダメージは受けていないが、目の前の吸血鬼は、彼が闘ってきたどの敵とも、違っていた。

 一方、カミーラも息が上がっている。しかし体力では吸血鬼が勝るようで、雪之丞よりは余裕があるようだった。

 カミーラは、追いすがる雪之丞の攻撃をかわし、いなし、避けつづけた。ひらりひらりと身をかわし、まるで木の葉のように軽く攻撃をいなした。一度も雪之丞に直接攻撃をせず、とにかく逃げる事に徹した。眷族の狼達も、なぎ払ってもなぎ払ってもしつこく向かってくる。それでいて決して捨て身の攻撃はせず、雪之丞が本気でむかおうとすると、すばやく身をかわして距離をとった。敵を倒すためには戦っていない。「絶対に生き残る」ための戦い方だ。カミーラの目にも、狼達の目にも、「生」への執念が燃え盛っていた。絶対に逃げ切る。どうあっても生き残る。それまで雪之丞が戦ってきた陰の世界の妖魔達にはなかったその執念が、雪之丞を戸惑わせた。しかし、焦りながらも、彼は内心で血が騒ぎ出すのも自覚していた。これほどまでに彼の攻撃をかわしつづけた相手は、そうはいない。

( これ以上長引くと、かえって魔装の負担がでかいな…ここらで片をつけたいが… )

追うのをやめても、やられる事はない。しかし、逃げられるのはしゃくだった。雪之丞にとっては政治屋どもがどうとかいう事は関係ない。仕事の成否もどうでもよくなっていた。仕事を抜きにした彼の「喧嘩好き」の精神が、久しぶりに顔を覗かせていた。

( ならばっ !!)

雪之丞は一気に間合いを詰めると、カミーラの腕を取った。一本背負いの要領で投げ飛ばす。が、雪之丞が投げるより早く、カミーラは自ら跳んで体をひねり、綺麗に両足で着地した。しかし以前として腕は雪之丞につかまれている。

( これはかわせねえぜ !!)

雪之丞の拳がカミーラの喉もとに落ちかかる。捉えた ! そう思った瞬間。

ガツン !!

「ぐ、は…」

雪之丞とカミーラは双方が両方向に弾き飛ばされた。雪之丞の拳はねらいがずれてカミーラの胸を衝き、雪之丞は強烈な蹴りをみぞおちに叩き込まれて、双方がうずくまる。

( ぐっ…こいつ…これだけの地力を持っていながら… )

魔装にひびが入っている。正面から対決しても、雪之丞は結構苦戦したはずだ。それでも、この吸血鬼は無駄な危険を犯す事をせず、逃げに徹していたのだ。

倒れこんだカミーラのまわりを狼達が取り囲んでいる。雪之丞はゆっくりと歩み寄り、手に霊波をこめた。

「…お前、名前は ? 」

『……カミーラ…』

雪之丞はなんとなく後味の悪い気がしていた。やりあううちについ血が騒いでしまったが、戦いを望まない相手を追いまわした挙句に倒しても、気持ちがいいものではない。まして吸血鬼とはいえ、相手は女性だ。

『……殺すの…』

涙目でそう言われると、プロの雪之丞でも一瞬たじろいでしまう。加えて今回の仕事のいきさつを思い出すと、どうも殺す必要もない気がしてきた。

このときの雪之丞の思案は、時間にすれば 1 秒にも満たない。殺気も警戒も解いていなかった、否、解いていないつもりだった。

刹那。

キュン !!

物凄い風切り音が響くと、目の前から吸血鬼の少女が消えていた。とっさに振り向くが、誰もいない。周囲に新たな気配を感じて、雪之丞は再度臨戦体制を整えた。

( どこだ… ?)

『こっちだ。』

頭上から落ち着いた男の声が降ってきて雪之丞が見上げると、木の上にかなり長身の人物がいる。銀髪で白いマントを羽織、カミーラと名乗った吸血鬼を抱いて、静かな視線でこちらを見下ろしている。雪之丞はその視線に、すさまじい怒気が秘められているのをはっきりと感じ取る事ができた。

『父さん !! 』

カミーラが叫ぶのを聞き、雪之丞も全てを悟った。やはり、生きていたのだ。ロシア勢に襲われてやられた筈のもう一鬼。しかも、もうすっかり回復している。

「どうやって森に入ってきたかはしらねえが…お前はどうやら逃げる気はねえ見てえだな。」

『逃げるさ。』

端的に奴が答える。

『最終的にはな。しかしこのミューレル・キュイポーン、娘を殴った男を黙殺できるほど、心広くはない。』

カミーラをデスモに託すと、ひらりと雪之丞の前に降り立つ。

『殺しはしない。ただ、一撃御見舞いさせてもらう。そのぐらいはしないと、父として格好がつかん。』

雪之丞は応えず、精神を集中させた。こいつは手強い。態度は飄々としていても、物凄い殺気だ。雪之丞は殺気を読み、敵の攻撃に備えた。

( …!! 来る !!)

ガキッ !!

攻撃の位置もタイミングも、全てわかった。すさまじい殺気が、雪之丞にぶつけられていたからだ。それでいて、全く動く事もできないまま、雪之丞は木偶の様にまともに攻撃を食らった。

( …な…に… !?)

敵が速すぎた。わかっていて、体を動かす間もなく食らったのだ。魔装が砕け散り、雪之丞は後方の木をなぎ倒して吹っ飛んだ。

一撃必殺

そうとしか言いようがない。雪之丞は攻撃を食らうまで、指一本動かす間も与えられなかった。ミューレルは、既に雪之丞には見向きもせずに、後方に向かって霊波を放つ。

『はじけろっ !! 』

球体となった霊波は結界に直撃し…次に結界全体が鳴動すると、一瞬にして崩壊した。

『デスモ、カミーラをつれて先に逃げてくれ。私はレイスの所に行くから。』

『はっ !! 御気を付けて !』

狼達がカミーラを大事そうに背負い、林外へと走り出す。ミューレルはそれを見送って、また凄まじい風切り音とともに姿を消した。

 後には…驚くほどの静寂が残された。

雪之丞は、気絶してはいなかった。大の字になったまま、意識はしっかりしていた。だが、さすがにもう動く力は残されていなかった。

( つええ…… )

完敗だった。ただの一撃で、本当に完膚なきまでやられた。絶対無敵と豪語した結界も、一瞬にして破壊された。何一つ言い訳できない、雪之丞の戦歴で最大級の完敗だ。

「フ、ふふ…くっくっくっ……はは、ハハハハ……… !! 」

雪之丞は笑っていた。こんなに気持ちが晴れたのは、久しぶりだった。仕事を楽しんでいながらも、何か足りないものがあった。それを、思い出した気がした。いつ以来だろう、本当におかしくて、雪之丞は大声で笑った。

( 生きてろよ…おめーら… )

また会う。必ず会う。その時は、その時は… !! 決意と期待を胸に、雪之丞はさらに大声で笑った。雪の残る針葉樹林で、雪之丞の笑い声がいつまでも響いていた。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月16日  PM10:45

「うわっ !! 」

指令機の機体が激しくゆれ、西条は椅子から放り出された。想定したより長期戦になってきて、タイガーが疲労しはじめた様だ。操艦の反応が遅れつつある。

「弾幕薄いっ !! なにやってんの !!」

「下方霊視モニター・一部破損・視界 5 %・不能です」

マリアに代わり、人工式神が被害状況を報告する。西条は椅子に座りなおすと、インターコムでカオスと連絡をとる。

「敵の数はだいぶ減ったが、長引くとタイガーがもたん。一気に片をつけてくれ。」

「まかせておけ、行くぞマリア !! 」

「イエス・ドクター・カオス」

指令機下部から、マリアと小型戦闘機が発進する。カオスとマリアが敵の陣形内に切り込み、接近戦で吸血鬼を仕留めようというのだ。カオスが操縦する小型戦闘機「カオス・フライヤーV」には、例の吸血鬼退治用の杭が 3 本、装備されていた。

「タイガー ! カオス達を援護する。退魔主砲準備 !! 」

既に敵の眷族の数も半分ほどに減っている。まだ敵の首魁まで攻撃は届いていないが、このまま主砲で押切っていけば敵の陣形が瓦解するのも時間の問題だ。

「撃てっ !! 」

退魔主砲から杭が発射される。それはすさまじい勢いで蝙蝠達をなぎ払い、敵の陣形にまたひとつ穴をあけた。

( くそっ !!もう限界か… ?)

 眷族の防御壁を貫いて突き進んできた杭をきわどくかわして、レイスは撤退を考慮し始めた。状況的にはまだ奮戦している様に見えるが、実際には吸血鬼側は時間を稼ぐだけで精一杯の状況になってきていた。絶え間なく続く敵の銀弾の攻撃を密集隊形で凌ぎつつ、各小隊で敵の旗艦に周囲から攻撃を与える。とにかくカミーラが安全な場所に移動できるまで、敵に余力を与えてはいけない。数で劣る吸血鬼側は分散すると防御が薄くなり、あの杭の一撃でレイスがやられてしまう。中枢のレイスがやられればそれが致命傷となるのは、人間側の事情と異ならなかった。ひたすら我慢の戦いが続くが、それでも眷族はずいぶん減らされてしまっている。

( カミーラ…無事だろうか ?)

妹の事を思いながら、レイスは敵の旗艦をにらんだ。それにしても何と言う防御の硬さ、機動性のよさだろう。どの方向から攻撃しても、的確に防御し、正確にかわした。まるで軍全体が一つの生き物のようだ。

『レイス様、上っ !! 』

 眷族の声にはっと我に返ったレイスは、轟音を上げて飛んで来た杭を紙一重でかわした。敵の旗艦の主砲からではない。至近から放たれた様だ。

『くっ !! 』

かわしつつ、即座に霊波攻撃を返す。その攻撃をかいくぐって、一体の人影が肉薄してきた。女性だ。

ガシッ !!

マリアとレイスは空中で組み合い、力比べの体勢になった。ぎりぎりとすさまじい力で締め上げられながら、レイスは彼のさらに上空から彼に向けられている砲口を見た。

『うおおおおおおっっっ !!! 』

とっさに力任せにマリアを振り回すと、上空の戦闘機に向かって投げつけようとした。マリアはアームをがっちりとレイスの腕に食い込ませ、ふり飛ばされまいとすがる。

ベキッ !!

遠心力に耐えかねたのはレイスの腕のほうだった。左腕がもぎ取られ、マリアはカオス・フライヤーVに向かって振り飛ばされる。激突するかと思われたが、マリアはそれを寸前で回避した。レイスの方も腕がもげたというのに、平然とした顔をしている。

「ほう、小僧 ! マリアを投げ飛ばすとは、なかなかやるではないか !! 」

戦闘機から顔を出した老人が、賞賛の声を発する。レイスは返答せずに即座に霊波を放ち、同時に眷族にも攻撃を促す。

『撃てっ !! 』

「どわーっ !! 」

すさまじい弾幕を浴びせられながらもカオスはそれを回避し、再び杭を打ち出した。杭はレイスの右頬をかすめて、樹海へと吸いこまれていく。

「こ、小僧 !! 敵とはいえ、ちったぁ礼儀というものをわきまえんか !! こういう場合はまず半歩ひいて、誰だ貴様は ! とか叫ぶのが常じゃろーが !! 」

『…そうなのか ? 』

「貴様、何年吸血鬼をやっとるんじゃ !! 中世以来、そういうしきたりになっとるわい !! 」

『誰だ、貴様は !! 』

わざわざ聞いてやるところが素直でよろしい。レイスは年上には常に敬意を払う事にしていた。それを聞くと、カオスは満足そうに用意していたキメ台詞を吐く。

「ふっふっふっ ! 聞かれて名乗るもおこがましいが、神秘と謎に包まれた世界一の天才科学者、 Dr. カオスじゃ !!地獄にいっても忘れるな !! 」

世界一なのに謎と言う男も珍しい。謎と言っているのに直後に名乗りをあげる男はさらに珍しい。とりあえずキマッタ、と思ったらしいカオスは、再度攻撃に入ろうとした。その時。

ズガッ !!

レイスのさらに下方から突如として放たれた凄まじい霊波攻撃が、マリアを直撃した。衝撃でシステムに狂いが生じ、樹海へと落下していく。

『父さん !! 』

『ミューレル様 !! 』

下方から攻撃した人物を見止めて、レイスが歓喜の叫びをあげる。眷族達からもいっせいに声が上がった。一気に士気が高まり、物凄い攻撃がカオスに応酬された。

「なるほど、真打ちの登場と言うわけか。そうでなくては面白くないわい。」

眷族達の攻撃をかわしながら、カオス・フライヤーVは見事なスピードで急降下し、ミューレルの後ろに回った。なかなかの旋回力だ。対してミューレルは急上昇し、上空で停止してカオスを引き付ける。さらにカオスも後を追い、主砲のねらいを定めた。

「照準・ロック・オン !! 」

ミューレルは少しも動かずに、カオス・フライヤーVに対峙している。

( そうだ…はずすなよ…よーく狙え… )

「死ねっ !! 」

カオスが撃った主砲の杭は、まっすぐにミューレルの胸元に向かい…貫いた、かに見えた。次の瞬間、カオス・フライヤーVは肉博したミューレルに拳を叩き込まれ、更にまるで木片の様に蹴り飛ばされた。信じられない速度であった。完全にねらいをつけさせた上で主砲をかわし、攻撃に転じたのだ。一方、かわされた主砲はそのまま直進し、西条達が乗る指令機にぶち当たった。ミューレルは敵の旗艦を背後に背負った位置を計算し、主砲攻撃をかわして同士討ちを狙ったのである。眷族達から、どっと歓声が沸き起こった。

『父さん !! 』

『レイス、よくがんばったな。』

ミューレルはレイスの肩に手をおくと、にっと笑って見せた。

『しかし、カミーラといいお前といい、少し戦い方が慎重過ぎるかもしれんな。』

そう言うと、大きく腕をぶるんと回し、高らかに宣言した。

『全軍に告ぐ !! ただ今よりレイス・キュイポーンに代わり、ミューレル・キュイポーンが指揮を受け継ぐ。反撃の機は熟した。たっぷり今までの借りを返すぞ ! 』

全軍にトキの声が響き渡る。レイスは改めて父を見た。これだ。自分になくて、父にあるもの。眷族達を奮い立たせる、圧倒的なカリスマ。今や、士気は最高潮に達していた。もはや負けると思っているものは、ただの一鬼もいない。レイスは常に父の傍らに立つ事にした。父の一挙一動を隈なく覚えておこう。若きキュイポーン家の次期当主は、大きな胸の高鳴りを感じていた。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

2005 年6 月 16日  PM11:15

( なんだ… ?)

西条は、敵の動きに奇妙な不安を覚えた。先ほどのカオスが放った流れ弾の直撃を受けたとはいえ、まだ旗艦は安泰だ。しかし、戦況は徐々に苦しくなってきている。カオスとマリアがやられた。結界が破壊されたことを見ると、雪之丞もやられたらしい。

「敵・散開・接近します」

( 最終攻撃に出る気か… !)

「タイガー !! 敵首魁の位置はわかるか ? 」

「さっきまで霊力を抑えとったが、今はむき出しジャ !! 真正面中央におるっ !! 」

「退魔主砲準備 !! 敵首魁の位置を集中的に狙えっ ! 陣形が薄くなった今がチャンスだ ! 」

敵が痺れを切らして接近してくれば、散開した陣形に切りこむのは容易だ。うまく陣形を崩せば、手薄になった首魁に杭を打ち込んでやれる。西条はこの事態を待っていた。てこずったが、まだ首魁を仕留めるだけの力はある。

しかし。

「ダメじゃ、これじゃ主砲はつかえんデス !! 」

西条の想像以上のスピードで肉薄してきた吸血鬼と蝙蝠達は、一気に小型機の陣形の中に飛びこんだ。激しく動き回り、超音波で小型機を破壊する。大混戦になった。密集した空域での混戦では、味方の小型機が邪魔で主砲が使えない。撃っても味方にあたって誘爆を引き起こすだけである。

「しまった !!! 」

最も恐れていた事態になってしまった。混戦のなか、誤射や流れ弾にあたって小型機同士が破壊しあう。首魁の吸血鬼も高速で動き回り、巧みに小型機の陰を飛びまわる。少数の敵と多数の味方が入り混じって、全軍の統率も乱れる。

『藪蚊のごとく飛び回れ !! 敵に再編成の機会を与えるな !! 小型機を無力化し、混乱を助長しろ !! 』

ミューレルの指揮のもと、眷族達は敵陣内を狂奔し、蚊柱のごとく舞い狂った。数の多さと組織的攻撃という西条達の優位条件は、一瞬にして覆された。

 その間、レイスはやや距離を置いて敵の旗艦を霊視していた。いままで巧みな操船で致命傷を避けてきたが、この戦闘でどこかに隙ができているはずだ。

『エビル・アイ ! 』

吸血鬼族独特の視力は、レイスが必要としていた情報を正確に大脳へと供給した。

『そこが死角か !! 』

レイスは最大級の霊力を溜め込むと、旗艦の死角部分めがけて叩き込んだ。

『ダンピール・フラッシュ !! 』

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月16日  PM11:21

下方から完全な奇襲となる直撃を食らい、旗艦はキリモミ状態になって高度を下げる。レイスの霊波攻撃は下部から上部に向かって貫通し、旗艦に大穴を開けた。

「タイガー !! タイガー、応答しろっ !! 」

周囲のあらゆる方向に体のあらゆる部位をぶつけながら、西条は連呼した。脳が頭蓋の中で暴れまわり、三半規管が悲鳴を上げる。

「霊波モニター・被弾・視界 45 %不能。退魔主砲・及び・メイン冷却炉・同じく修復不能・です」

「なんだとっ !! 」

人工式神の無個性で機械的な被害報告に、西条は同じく個性の無い、しかし感情たっぷりの反応を示した。

メイン動力部分がやられた !!

「くそ……あと少し……あと少しなんだっ !! …」

汗が止まらない。息が白くなる気温だというのに、西条は既に全身汗だくだった。

「タイガー !!! 応答しろっ !!」

タイガーは被弾個所のすぐ近くにいたはずだ。ただで済んでいるはずがなかった。冷却炉から漏れ出した冷却ガスが立ちこめ、一寸先も見えない。西条は手探りで緊急制御ボタンを探し、安全カバーを叩き割ってボタンを押した。

「緊急制御モード・作動します」

機体が何とか落下をとめる。傾いてはいるが、地面との激突は避けられた。西条はすっかり風通しのよくなった上部砲台にかけあがると、上空をにらんだ。

 上空では、吸血鬼達が歓呼の雄叫びを上げていた。西条は唇を噛んだ。やられた。最後に来て、突如現れた 3 鬼目の吸血鬼に全てひっくり返された。今や、彼らは勝利を確信し、上空で手を取り合っていた。

 数秒間じっと上空をにらんでいた西条だったが、はっとして慌ててタイガーのいる制御コクピットに向かった。

「タイガー !! しっかりしろ !」

タイガーは既に虫の息だった。どうやら頭を強く打ったらしい。長時間の精神感応でかなり疲労していた事もあった。自己制御できる様になったとはいえ、精神に多大な負担をかける能力なのである。

( 間に合わないかもしれない… )

人里離れたシベリアの奥地だ。病院に急行するのに、どうしても時間がかかってしまう。とにかく連絡をとろうと思い、西条はポケットを探った。

( ん…?)

ポケットに、何か丸いものが触った。文珠だ !! すっかり忘れていたが、一つだけポケットにしまっておいたやつがあった。とっさに西条の頭に天啓が閃いた。

( …今なら… !)

再度砲台によじ登り、そこにしまってあるはずの小型バズーカを取り出す。カオスが改造して、長距離射程に加え相当な威力を持っているはずだ。西条は再度上空を見た。例の吸血鬼は、完全に背を向けている。全くこちらに気付いていない。

( せめて、一太刀 !!)

文珠をこいつで叩き込んでやれば、いくら吸血鬼でもただではすまないはずだ。横島の生成する文珠は、上級魔族をも一撃で倒した事がある。

だが…

西条は下を見て、はっとなった。眼下には、瀕死のタイガーが横たわっている。今から救助を呼んでも、助からないかもしれない。

上を見る。吸血鬼は以前として背を向けている。今撃てば絶対にはずさない。今撃たなければ、もうチャンスはない様に思えた。

( …今回の仕事で無理はだめよ。駒を使い果たしたら、引き際を、忘れずにね…… )

( 先生… )

西条は、大きく溜息をつくと、文珠をポケットにしまった。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

ガツン !!

『うっ !! 』

ミューレルは、不意に後頭部を痛打され、顔をしかめた。

振り向くと、はるか下方に先ほど落としたはずの旗艦がまだ浮かんでいた。その上部に、長髪の人間が立っているのが見える。

『父さん…』

レイスが、父の後頭部にあたったものを眷族から受け取り、父に渡した。

( …?)

それは、白い、小さな球で…人間のやる、ゴルフとか言うスポーツに使うボールだった。表面に、何か書いてある。

『日本語、ですね…』

横から覗きこんだレイスがいった。ミューレルは無言で身を翻すと、まっすぐに下へと降りていった。

 文珠でタイガーを治療した西条は、上空から降りてきた吸血鬼に対し、全く動揺した様子を見せなかった。旗艦は大破、西条自身にも無数のあざができており、ぼろぼろの様子であったが、態度は悠然として、全くひるむところがなかった。

ミューレルは、西条をまっすぐ見、手にゴルフボールをかざした。そして、ゆっくりと宣言した。

『この文字に偽りがなければ、北珪山に人間を一人よこすがいい。一人だけだ。武器を持たぬものを一人。その者と話をして、我々は人間との関係を和とするか否か、決定する。』

和睦交渉の機会を与える、というのだ。西条はまっすぐにミューレルを見つめ、敬礼を持って返答した。ミューレルは無言のまま勢いよく飛び立ち、瞬く間にかなたへと消えたいった。

( 大敗北だな… )

不思議と、いい気分だった。なんとなく笑いがこみ上げてきて、西条はタイガーを見た。タイガーもまた、笑っていた。

「くくく……はははは………」

一度笑い出すと、後から後から笑いがこみ上げてきた。普段あまり会話のない二人だったが、このときは肩を組んで、しばし、大声で笑っていた。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月20日  AM10:02  ロシア ICPO本部

「本日を持って、吸血鬼除霊活動への日本からの援助は全て終了とする。各員は、従来の部署に戻り、職務に励む事。尚、今後の吸血鬼に関する除霊活動と再攻撃は、アメリカからの GS 協力部隊及び、 WHO吸血鬼取締課、ロシア ICPO 超常犯罪課の共同でこれを行なうものとする。」

「ばかな !! 」

 報告を告げられたとき、普段一同の中で最も冷静な西条はまさに怒髪点をつく勢いで椅子から立ちあがり、報告に訪れた職員に飛びかからんとした。

「お、おい、西条、よせって…」

いつもなら自分が先に切れるところだが、西条に先を越されてしまったため、仕方なく雪之丞が制止役に回る。西条のあまりの逆上ぶりに報告者は真っ青になり、挨拶もそこそこに部屋から逃げ出してしまった。

「気でもちがったか ICPO 本部は !!」

西条は机を蹴っ飛ばし 20 pほど宙に浮かせた後、さすがに痛かったのだろう、つま先を抑えてうずくまってしまう。それでもまだ、ぶつぶつ呟いていた。

「最後のチャンスなんだ !! 今回の事で、敵が上級魔族に匹敵するレベルだということもはっきりした !! 今回の和睦の機会を逃せば、もうチャンスはない ! 連中が本気になって人間を襲い始めたら…。それを、連中の方から和睦交渉のチャンスを提示してきたと言うのに、よりにもよって再攻撃だと !! 」

最も冷静に事態を聞いていたカオスがぼんやりと言った。

「やれやれ、こんな事ならあの腕、どっかに隠しとくんじゃったかな ? 」

それを聞いて、西条ははっとなった。

今回、西条たちは完全に敗北したが、得る物もあった。一つは吸血鬼側にまだ和睦の意思が残っていると言うことを確認できた。もう一つは、カオスが手に入れた吸血鬼の腕から、今回の吸血鬼の魔力に対するワクチンが精製できた事だ。これによって、吸血鬼の被害は恒久的なものではなくなった。しかし、この事が再攻撃の引き金になったのである。

「 Gメンもここんとこ資金が苦しいって話じゃからな、このワクチンは美味しいと踏んだんじゃろう。そうすると、吸血鬼の被害を敢えてなくす事もないな。」

カオスの想像通りだった。セトによるここ数年の事件の増加、除霊器具の無力化、オカルト G メンに対する不信感、民間 GS の反発…。公的機関の除霊活動資金は、ここ数年深刻な赤字を出している。おりからの不況で増税するわけにも行かず、除霊報酬を上げれば民間に客がとられる。日本にしても、やはりシェアのほとんどは民間 GS が握っているのだ。危険な割に給料が安いため、人手も足りない。公的な除霊機関がほとんど機能できなくなっている国まであるのだ。

 今回、新種の吸血鬼のワクチンは、国ががっちり握っている。ワクチンの精製、輸送、販売、治療にあたる人件費…吸血鬼被害の救済活動には、大きな経済効果がある。その核となるワクチンを G メンのみで独占できれば、それは一大流通経路となり、強力な資金源となるはずだ。そしてそのためには、吸血鬼との和睦などあってはならない。連中にどんどん被害を出してもらい、その被害の復興・救済投資による利益を公的除霊機関が独占する。吸血鬼をわざと攻撃し、怒りを煽った上で野放しにする。民衆を犠牲にし、救済してやるから金を出せ、と言うわけだ。更にその裏でリベートにありつく輩もいることだろう。

「…吸血鬼め !! 」

眩暈がした。足の痛みがひいても、西条は立ち上がる事ができなかった。そこまで、そこまでして金がほしいか。自分らは机にふんぞり返っているだろうが、誰が命の駆け引きをやっていると思っている !!

 西条は自分の仕事に誇りを持っていた。市民を悪霊や妖怪から護る、それこそが仕事だった。しかし、自分が勤めてきた G メンの実情はどうだ。自分の上司達で尊敬できる人と言えば、美神美智恵と、民間から協力してくれている唐巣神父ぐらいのものだ。他の連中は、官僚や財界人とつるんで汚い小銭集め。挙句の果てに、市民を吸血鬼の犠牲にして金を巻き上げようとは。はらわたが煮え繰り返る思いだった。全くどちらが吸血鬼だか、わかりはしない。

 怒りのあまり放心した感じになっている西条を気の毒そうに眺めながら、 Dr. カオスが立ちあがった。

「マリア、そろそろ行くぞ。」

「イエス・ドクター・カオス」

「西条、気持ちはわかるが、辞表はまだ出すなよ。おぬし達が、最後の砦だからの。日本に帰ったら、酒でも付き合ってやるから…おぬしのおごりで。」

「ミスター・西条・元気・出してください」

「…タイガー、俺達も行くぜ。」

「ああ…」

雪之丞が廊下にでた後、タイガーはまだ座り込んだままの西条にそっと近付き、小さな手帳を膝元に置いた。

「これ、気晴らしくらいにしかならんかもしれんけど…」

タイガーが部屋を出ていって一人になっても、西条はしばらく動けなかった。やっとのろのろと立ちあがると、カオスが言った言葉を思い出した。

( 最後の、砦か… )

西条はバシンと両手で頬をたたき、きっと顔を引き締めた。

「よしっ !! 仕事だっ !!」

気合を入れて歩き出そうとしたとき、足元に何か落ちているのに気付いた。タイガーがさっき置いていった手帳だ。なんとなく少女趣味の手帳を開いてみて…西条は、にやりと笑い、完全に調子を取り戻した様子で、足取り軽く部屋を出ていった。

「ハイホーッ、はいほーっ、しごっとが好っきっ !! 」

やややけっぱちに歌いながら、彼は今日の職務へと戻っていった。

手帳には… ICPO のあらゆる部署の悪党たちの髪の毛がズラリと、貼り付けてあった。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

2005年6月25日  PM0:32  東京

「帰ってくるんだったら、連絡ぐらいいれなさいよ…」

昼時で混雑するファミリーレストランでサンドイッチをつつきながら、弓はもう 3 回目の台詞を口にした。

「でかい仕事があったんだよ…それに、言わなくても知ってたじゃねえか。」

雪之丞の返事にぷうっとふくれる弓。

「そう言う問題じゃないでしょ…」

確かに人伝で聞いてはいたが…直接言ってほしかったのだ。遠距離恋愛が長いのだから、雪之丞もそのくらいはわかっている。わかっていて言ってみたのだが、前とは弓の反応が違うので、雪之丞はじっと弓を見た。久しぶりにもろに瞳を見られたので、弓は少し赤くなってしまう。

「な、なによ、何かついてる ? 」

「お前、なんかあったか ? 」

「な、なんかって何よ。別に何もありはしないわ。」

「ふうん…」

やはり変だ、と雪之丞は思った。いつもだったら、もっと景気よくたんかを切って見せるはずだが。何度が吹っかけてみているが、どうも反応が大人しくて、逆に調子が狂ってしまう。

「ほ、香港は…どう ? 」

「… ? どうって ?」

「だから…その…楽しい ? 」

ますます変だ。雪之丞はだんだん気味が悪くなってきた。思わず弓の額に手をやる。

「んー、ちょっと熱っぽいかな…。ちゃんと飯食ってるか ? 」

「なによっ !! 今食べてるじゃないのっ !! なんでもないって言ってんでしょ !! 」

「あ、ああ、そうか、そんならイけど…」

やっといつもどおりの反応が返ったので、ちょっと安心して雪之丞は引き下がる。弓はつい大声を出してまわりの客の注目を集めてしまったので、ますます真っ赤になってしまった。

「楽しいぜ。」

「え ? 」

「だから、香港の話。」

「あ、ああ、そうだったわね…」

「日本にいた時より余計な事に気を使わなくていいし、活気もあるし、毎日退屈しないしな。結構順調にやってるんだぜ、近所づきあいもできたし。」

雪之丞は純粋に仕事の事に関していっているのだが、ついつい深よみしてしまう心境の弓には一言一言が問題発言に聞こえてしまう。

「そ、そう…気兼ねがなくて…退屈しないで…順調なつきあいが…」

「そっちはどうだ ? 」

「え ? 」

「お前の方はどうなんだよ。」

「わ、私は別に…」

「なんだ、仕事あんまりこねーのか ? 」

「へ ? あ、ああ、仕事ね。えっと、うん、すっごく忙しいわよ。実家の手伝いだけじゃなくて、週に何回か美神お姉様のところにも行ってるし、実家の方はだいぶ私に任されるようになったから、毎日 4 件はこなさないとスケジュールがおっつかないわ。」

「ほー、それはそれは。」

「そうよ、もう忙しくって、ゆっくり時間とる暇もないわ。休日なんて、久しぶりなんだから。」

「忙しいのはいいこったぜ。仕事が来てるうちが花だからな。」

先輩風の事を言って、コーヒーをグビリと飲む。いつの間にブラックで飲むようになったんだろう、と弓は思ったが、口には出さなかった。

「…今日は、どうしたんだ ? 」

ややあって、雪之丞が切り出した。

「どうしたって…別に…」

「そうか ? お前から誘いが来るっていうのは、なんかあるときだと思ってたぞ ? 」

以前だって、別になんかあるから誘ったわけじゃなかった。何も無いのに誘うとカッコ悪い気がして、無理やりでも何か理由をつけていただけなのだ。そんな事を思い出すと、また赤くなってしまう。さっきから赤くなってばっかりだ。

「そ、その…」

たっぷり間を置いて、歯切れ悪く話し始める。

「よ、寄りを…寄りを戻してもいいと…戻したいと…思って…」

「はあ ? 何言ってんだ、お前 ? 」

仕事に没頭しており、時間も忘れて働く生活を送っている雪之丞は、「寄りを戻す」とか言う話になるほど離れていた気はしないのである。確かにしばらく連絡が途絶えていたが、今日会えて、もう元通りになったつもりでいた。だが、弓は違った。彼女らしくない今日の態度にしても、会えてもまだ安心しきれない物があるのだ。そこに来てこの雪之丞の反応なので、またしてもマイナス方向に思考が傾いてしまう。

「…あなた…あなた、やっぱり、香港に…」

別の女性が、と言いかけた時、雪之丞の携帯電話が震え出した。手で弓を制止して、電話に出る。

「伊達だ」

『もーしもしぃ。横島ですけれどもぉ。』

「ああ ? 何だ、おめえ、もう帰ってたのか ? 」

『いや、昨日ちょっと野暮用があってさ。』

「なんだよその野暮用ってのは。」

『いや、ほんとに野暮用だから気にせんでいい。それよりあさって会う約束だったけどさあ、あれキャンセルしてくんねぇ ? 』

「なんだよそりゃ !! おめえが会おうって言い出したんじゃねぇか ! 」

この言葉に、弓がまたぴくりと反応する。

『いや、悪いんだけどさあ、今日ちょっと隊長につかまっちゃって、仕事はいっちまったんだ。急だったんだけど、どーしても急ぎだって言うから。』

「仕事だあ ? 待て、お前今、どこにいるんだ ? 」

横島の言葉に何か引っかかるものを感じて、雪之丞は声を落としつつ食い下がった。

『成田だよ。この後西条達と打ち合わせして、夜の便で出発。』

「ちょっと待て !! 気になるぞ !!俺も混ぜろ !! 」

『お前も行く ? せっかくなんだからゆっくりしたらぁ ? 』

「行き先はどこだ !! 教えねえんならこれから押しかけるぞ !! 」

『……北珪山。なんか、一泡ふかすにはもう勝手に和睦するしかないって事で。』

「やっぱり !! だが、もう昨日攻撃が開始されたはずだ。和睦交渉には、ワンタッチ遅かったんじゃねーか ? 」

『そうでもないぜ。その道の専門家がいるから。』

「……おキヌか !! 」

『ソゆこと。まあお前はせっかく日本に帰ったんだし、ちょっとぐらい仕事の事忘れてのんびりしろよ。いずれにしても、今回はあんまし俺らの土俵じゃないんだからさ。そんじゃ。』

「おいっ ! 待てっ !!もしもしっ ! モシモーシッ !!」

一方的に電話を切られ舌打ちした雪之丞は、電話をしまうと腕組みして何か考え始めた。

「…… ? 雪之丞 ?」

不信げに弓が声をかける。雪之丞は顔を上げると、まっすぐに弓を見、言った。

「すまん弓。俺ちょっと急用ができたんで、香港に帰るわ。」

「えっ… !! 帰るって、い、今すぐ ? 」

「ああ、早く戻んねえと、抜け駆けされちまう。」

「ぬ、抜け駆けって…じゃあ・・・やっぱり…」

「すまねえな、この埋め合わせは、いずれ、精神的に…」

そういうと、伝票を持っていそいそとレジに向かう。

「イヤよ !! 」

突然、物凄い声を出されて、雪之丞はびくっとして振り返った。怖い顔をした弓が立っている。

「な、なんだよ、びっくりするじゃねぇか。」

「いやっ !! 」

店の客が、一人二人と注目し始める。もう弓は構っていない。その剣幕に、今度は雪之丞が焦り出した。

「あ、そうだ、今度戻ってきたらなんでも好きなものおごるからさ、今回は…」

「イヤ―――――ッッッ !!! 」

既に店中が注目している。構わず弓はまくし立て始めた。

「なんでよっ !! なんで今日に限って帰っちゃうのよっ !! 新しい服着て新しい靴下ろして、何とか休日の予定あわせたのに、そういう日に限ってなんで帰っちゃうのよっ !! 」

「悪かった !! すまん !!反省する !! 心から反省する !!!…から、今回ばかりは…」

雪之丞もなかなかに往生際が悪い。店の客は既に過半数が弓の味方だ。

「どんだけ待ってたと思ってんのよっ !! 向こうにいる時だって電話もしないで、そうかと思ったら突然帰ってきて!ほんとだったら埋合わせの企画ぐらいそっちがセッティングするのが当然でしょ!!それを、人がせっかく、ええとなんだ、シミズの舞台から飛び降りるつもりで…」

「清水きよみずだろ。」

「そうソレ。…その、そんなつもりで誘ったのにどうして…」

「あー、さっきの件なら了解だぜ。」

「え ? 」

「寄りを戻す話だろ ? 了解。今度帰ってきたら実家に挨拶に行くから。」

おおーっと、客内から声が上がる。拍手をするものまでいる。

「ソ、そう。それじゃあ…って、なによ、それじゃよけい訳わかんないじゃないのっ !! どうして寄り戻すのに行っちゃうのよっ !! 」

「大げさだな、すぐ帰ってくるってば。」

「何なのよっ !! 一体向こうに誰がいるっていうのよっ !! こんないい女置いていくほどの、何があるっていうのよ――――っ !! 」

この言葉で、やっと雪之丞にも事態が掴めた。やや息を切らしながら、弓はまっすぐにこっちを見つめている。店の客まで、固唾を飲んで雪之丞に注目していた。返答を待ち、長い沈黙が流れる。

「…………………………………………………・…………………………………………………」

「…………………………………………………・…………………………………………………」

「…………………………………………………・…………………………………………………」

「…………………………………………………・…………………………………………………」

 

「仕事さ。」

VAMPIRE CAPRICCIO


※この作品は、shinshoさんによる C-WWW への投稿作品です。
[ 煩悩の部屋に戻る ]
fukazawa@st.rim.or.jp