――2000年 3月15日 18時50分(日本標準時)日本武道館――

 外には夕暮れが見える。彼にとっては、感慨を誘うわけでもない夕暮れ……
 伊達雪之丞は離散しかけた意識を、強引に現実へ引き戻した。まもなく……始まる。自分にとっての、最後の試合へ。
 勝って終わらせる。その決意へ……
「只今よりっ! 平成12年度、GS資格取得試験……決勝戦をっ、開始します!」
 雪之丞は歩み出る。『舞台』へと――そもそも、今までの試合も自分にとっては殆ど一人舞台だった。相手が弱すぎるのかもしれないが……
「伊達雪之丞選手! 対っ!」
 広い武道館に木霊する声。雪之丞は嘆息する。
「弓かおり選手!」
――――!?
その言葉は、彼を混乱させるには充分すぎた……実際、混乱している。何故、在学中にもかかわらず……資格試験に出場しているのだ? 彼女が。
 リングの向こうに『相手』が現れる。
 伝統的な、『山伏』もしくは『僧兵』とでも言うべきか……その衣装に身を包んだ女が、こちらを睨みつける。
「雪之丞! 手加減は無用よ。倒してあげるから覚悟なさい……!」
「……って、何でお前がここにいるんだよっ!!」
 彼も負けずに絶叫する。対戦表をしっかりと見ておかなかった自分も悪いが、この事態は自分の想像を超えていた。
「無論勝ち進んだからに決まっていますわ!」
「だーかーら!! 何でお前が出場しているんだっつーんだよ! 大体、お前高校生だろうが! 在学中は試験受けられないんじゃなかったのかよ!!」
「ふっ……! そのようなこと! 私の成績を以ってすれば、先生方を納得させる事など赤子の手をひねるより簡単でしたわ!」
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
 頭を抱えて唸る。基本的に彼は性差廃絶主義者(フェミニスト)だが、流石に自らの恋人(?)を殴るのは後味が悪い。
(どーしろっつーんだよ……!)
 その折……声が響く。
「決勝戦……」
 アナウンサーは、容赦なく告げる。彼にとっての地獄行き(どちらにしても)の宣告を。
「ファイッ!!」
「死になさいっ!! 雪之丞おおおぉぉぉぉぉっ!!」
 彼女は一片の迷いも見せずに突っ込んでくる。
(この場合……悪いのはどっちなんだろうな……)
 嘆息しつつ、彼は魔装を纏った――――――――


GSM MTH2
Who is Partner――初めの一歩――


――2000年 4月25日 14時30分(中国中央部標準時)香港 尖沙咀――

 香港は相変わらず活気に溢れている。繁華街の中央部ともなると、それはより一層顕著となる。
 雪之丞は故郷の街を歩く。いつもの漆黒のロングコート。いつもの鋭い――と言うよりはただ単に悪い目つきで……
「ニイちゃん、寄ってかないカイ? イイコ居るよ?」
「要らん」
 こちらが日本人である事を顔立ちの僅かな違いから看破したのだろう。売り込みの男が、片言の日本語で話し掛けてくる。
(やっぱ……ここは、変わっちゃいねえな……)
 雑然とはしているものの、雪之丞は基本的に香港の街が好きだった。自分の生まれた町にして、ホームタウンである香港の街が……
 しばらく日本に居たが、久しぶりに戻ってみても、ここ、尖沙咀(チムサーチョイ)の地図は然したる苦労もなく頭に浮かぶ。自分の『生まれた場所』も、そして自分の『事務所』も。
 実際言葉にしたって、日本語よりも広東語の方が得意な位だ。
 繁華街を抜け、裏路地に入る。事務所まで。距離的にはこちらの方が遠回りになるが、実際は近道である。人ごみを抜けて直進すれば、ゆうに倍は時間がかかる。ついでに、雪之丞は人ごみと言うのはあまり好きではなかった。
 故に暗い裏道を歩く。闇に、自らの纏う漆黒の衣装が溶け込んでいるのが感じられる。しかし、悪い気分はしない。むしろ、心地よさすら感じる。
(もう……こんな所で安心する必要はねぇってのによ……)
 自嘲する。自分は既に免許も持った、れっきとした正式なGSだ。しかし、体に染み付いてしまった過去の癖と言うものは、そう簡単には落ちてくれないらしい。
 ――事務所に戻ったら、まずするべき事は掃除だろう。
 物思いは、迅速に必要なことに取って代わられた。この迅速な思考の切り替えも、過去の遺産の一つ。
 体に染み付いて取れない、過去の傷跡の一つ……
(考えるな!)
 自らに叱咤し、再び、無理矢理思考を切り替える。脳髄に痛みすら感じるほどの迅速な思考の切り替えは、雪之丞の瞳からほんの少しの水分を搾り取った。
 瞳からこぼれた液体が地面に落ちるよりも早く。
 雪之丞は、その『弱さ』の液体を……蹴り飛ばした。
 鋭い蹴りの風圧により、液体はその形を崩し、粉々になって千々に飛び散る。裏路地の暗闇の中に、無意味に美しい光が散乱する……
 雪之丞は歩き出した。止まっていた脚を動かす。自分にも分かる。今の自分は……人形だろう。恐ろしいまでの無表情……
(……仕事、来るかな?)
 鬱な思考を打ち消す、単純な疑問。自分は今まで、モグリで様々な仕事をこなしてきた。裏の世界では、最早名を知られた存在だろう。
 だからこそ、自分に合法(マトモ)な仕事など出来るのだろうか。これが疑問だ。裏は良い。困難な仕事――当然報酬も破格だ――がいくらでもまわって来る。
 正規の仕事には、当然正規の手続きが要る。自分にその辺りの事務的な仕事が出来るとは、雪之丞はどうしても思えなかった。
(助手が……要るな。マトモに商売するんだったら……)

――16時27分(中国中央部標準時)――

「GSの助手ぅ〜?」
「そうだ。報酬はそれなりに出す。出来るだけ早く頼む」
 職業斡旋所。
 ここに来れば、表から裏まで大抵の人材は見つかる。雪之丞はそこに居た。あれから、事務所にも戻らず、その足でここまで歩いてきたのだ。観光名所、九竜(ガウルン)公園のすぐ側のここは、多くの観光客で賑わっている。
「あんた、GS免許は?」
 無論持っているかという意味ではなく、実績を問うたのであろう。雪之丞は、黙って真新しい免許を懐から取り出した。
 そして、おもむろに名乗る。
「俺は伊達雪之丞。最近までフリーでモグリやってたが、この度免許を取得したんでな。事務的なことは苦手なんで助手が要るんだ」
「伊達雪之丞……? 『あの』伊達雪之丞か? 一年ほど前、世界を襲った悪魔を倒したっていう……」
 驚いた顔でのたまう店主。雪之丞は苦笑して言い直してやった。
「倒したのは俺のダチさ…… 俺はその場に居ただけだ。モグリなんで大っぴらには活動できなかったしな」
 苦笑を交えて言う。事情通らしい店主は、それだけで納得したように黙り込んだ。そして帳簿に目を落としはじめる。
「……危険な仕事だからな。やりたがる馬鹿はそんなにいないが……」
「かまわねぇよ。事務仕事が出来る奴ならそれでいい」
「そうか……」
 コンピューターをいじり始めた店主から目を離して、雪之丞は空を見上げた。自分がしている事の愚かしさに、我ながら苦笑する。かつては自分はフリーでやっていこうと思っていた。独りでやっていこうと思っていた。それが今、自分は助手を探している。一体自分は何がしたいのだろうか…… それは、自分だからこそ分からないことなのかも知れない。
 再び店主に目を戻す。彼は既に、めぼしい人物のピックアップを終えていたようだ。
「取り合えずプリントアウトして渡す。後は自分で会って決めてくれ」
「分かった。……あんがとよ、オッサン」
「…………俺はまだ三十代なんだがな」
「充分オッサンだろうがよ」
 軽口を叩きつつ、渡されたプリンタ用紙にざっと目を通す。事務仕事担当とは言え、所詮はそれも一時的なものだ。初めは荷物持ちだったと言うあのダチのように、実戦に出る事がないとは言い切れない。それが、GS助手の慢性的な人手不足の原因でもあるのだが……
 店主に報酬を渡して斡旋所を出る。既に日も暮れ、辺りの人気は絶えている。雪之丞は、九竜公園のベンチに座り、再びプリンタ用紙を読んでみた。

《瀦双秀 李白麗 金明飛》

 三人の中国人名が羅列してある。そしてそれぞれの名前の下に、簡単なプロフィールも添付されていた。残念ながら顔写真などはなかったが。
(近いのは……誰だ?)
 再びリストを見やる。連絡方法として、携帯電話のものと思しき電話番号が記されていたが、直接会って話を聞くほうが、向こうとしてもこちらとしても都合が良いだろう。向こうも簡単に死にたくはないであろうし……
(三人とも現在は香港在住、無職か…… アルバイトでもしてんのかね?)
 そのアルバイトで生活が出来ているならば、わざわざGSの助手など希望はしないだろう。職業斡旋所にまで登録しているくらいだから、三人とも生活はかなり苦しいと考えて良いだろう。あるいは……アルバイト、もしくは正式な仕事を出来ない事情があるか……自分も昔はそうだったが。
「一応カタギの事務所を目指してるんだがなぁ……」
 声に出して言うと、余計に空しさが募る。目指しても実らない目標もあるものだ……そんなことは分かっていたのだが……
(だが逆に……)
 必ず実る目標もある。マトモに働いて、マトモに生きていく。日本に残して来た彼女の為にも、それは良い事のはずだ。一ヶ月前から全く会っていないが……やはりあのときやりすぎたのだろうか。精一杯手加減はしておいたが……
 取り合えず近くに住んでいる者から尋ねて行ってみよう。誰を選ぶかは、会ってから判断すれば良い。
 さて、まずは…………

――19時50分(中国中央部標準時)香港 油麻地――

 尖沙咀から車で二十分。渋滞に巻き込まれ大幅に時間をロスしたものの、雪之丞は油麻地(ヤウマティ)に到着した。この街に、三人のうち二人が住んでいる。
 通り沿いに適当に車を路上駐車し、ほどなく、一人目――瀦双秀の住所を発見する……ソウシュウとでも読むのか? 長らく香港を離れていた自分には分からないが……
 ノックする。扉は呆気なく内側にそのまま倒れた。
(恐ろしくボロい建物だな……)
 轟音を発し家の中に埃を撒き散らした扉の残骸をまたいで、雪之丞は広東語で呼びかけた。住所が間違っていなければ、このアパートに住んでいるはずだ。瀦双秀は。
「おーい! 誰かいないかー!?」
 静寂は、無意味に声音を長引かせる。とまれ、反応はない。
 住所を確認する。やはり住所に間違いはない……しかし。
 雪之丞は室内に踏み込み、手近にあるテーブルの表面を指でなでた。指には大量の埃が付着していた。少なくとも一ヶ月。このテーブルには誰も触れてはいないだろう。
 瀦双秀は何処に居るのか。とかく、このままここに居ても仕様がない。公安に連絡して、後は彼らに任せるべきだ。自分がここで出来る事は何もない。
(そう……そうなんだ……! 俺に出来る事は何もない!)
 しかし、
 鍛えぬかれた感覚は、空気中に潜む僅かな気配を、自分の意志とは無関係に探り当てていた。これは……血の臭いだ。一ヶ月前、ここで誰かが血を流した……しかも相当量……絶望を意味するほどの量……
 雪之丞は無言で、懐から携帯電話を取り出した。出来る事はない……しかし、しなければならない事は、しなければならないだろう。

――20時00分(中国中央部標準時)――

 彼がその場に居る事に、伊達雪之丞は気付いていないようだった。
 我知らず、唇の端が吊りあがるのが感じられる。自分では知覚できないが、恐らく自分の表情はかつてないほどに強張っているだろう。
 彼の思惑どうり、伊達雪之丞は血臭に気付いたようだった。ここは流石と言うべきだろう。しかし、甘い。血の臭いに気を取られて、彼が潜んでいる事に気付かないようでは……まだ、甘い。近頃は思い出す事もなくなって来ていた激情が、胸のうちに蘇って来るのが、こちらははっきりと自分で感じられる。
『瀦双秀』は『殺した』。動き回るのには、あの男は少々邪魔だった。彼がこれからしなければならない事に対して……
 そうだ。
 殺さなければならない。あの男を……伊達雪之丞を。この胸のうちの激情を静めるためには、最早他に手段はない。伊達雪之丞を、殺す他には。
 しかし、ただ殺すだけでは駄目だ。そう、駄目なのだ。
 伊達雪之丞には、自分の苦しみと、そして、『あいつ』の苦しみの二つを味あわせてやらなければならない。一つだけでは駄目だ。そして『伊達雪之丞を殺す』だけでは、そのうちの一つしか味あわせてやることは出来ない。
 もう一つ……もう一つを味あわせてやるために、待たなければならない。しばらく……いや、案外長く掛かるかも知れないし