その瞬間。

 世界は、綻んだ。

 そこは、横島忠夫の世界。横島忠夫が、自らの内に創り上げた世界。

 それは、横島忠夫が想像し、創造した世界。

 なればこそ。

 すべては、横島忠夫の望みのままに。

 すべては、横島忠夫の望みのために。

 横島忠夫の望むすべてがそこにあり、横島忠夫の望まぬすべてがそこにはない。

 それは、完全なる世界。横島忠夫の夢見る幸福を具現した、完璧な世界。

 横島忠夫しかいない、あまりにも孤独で、あまりにも悲しい、哀れな世界。

 その世界に、他者が入りこんだ。

 孤独の中に、マリーという他者が。

 横島忠夫の思い通りになる世界に、横島忠夫の思い通りにならない存在が入りこんだ。

 そこから。

 世界は、崩壊を始めていく。

 孤独でなくなった孤独な世界は、その存在の意味を持たないがゆえに。

 しかし、それを良しとしないのもまた世界。孤独へと向かう、横島忠夫の意識。

 横島忠夫は自らの世界を守り、また、自らの世界を崩壊せしめる。

 内なる世界か、外なる世界か。

 それは、横島忠夫が決めること。他者はただ、その決定の手助けをするに過ぎない。

 だからこれは、横島忠夫が決めること。どの世界で生きるかは、横島忠夫が決めること。

 崩壊の紡ぎ手は他者。すなわち、マリー。

 崩壊の防ぎ手は自身。すなわち、横島忠夫。

 崩壊の決め手も自身。すなわち、横島忠夫。

 そして。

 すべてを終わらせるのは――――――――――























人魔 第十七幕

ハジメマシテ





























 一、


「付いて来てくださいな」

 悲しげな微笑を見せた後、女はそう言い、オレに背を向けて歩き出した。

「……………………………」

 無視して帰るというのも、あるいは可能だっただろう。そういう選択肢も、確かに存在していたはずだ。

 だがオレは、その赤い背中を見て、無視する気にはなれなかった。

 自分の意思の外で、しかし自分の意識の中で、オレはその背中についていった。

「……………………………」

 女は話さない。振り向きもしない。ただ、オレに背を向けて歩いている。

 オレもまた、話さない。ただ、赤い女の赤い背中を見つめ、その後に続く。

 それは奇妙な時間だった。得体の知れない人物と行動を共にしているというのに、なんだかそれが心地よい。

 それは、赤い背中が小さいせいかもしれない。

 それは、先程の悲しい笑顔のせいかもしれない。

 それは、涙をこらえた声色のせいかもしれない。

 あるいは。

 その女の存在が、どこか、懐かしく思えたせいかもしれなかった。

 女は歩く。オレも歩く。

 どこまで行くのだろうと思ったが、聞く気にはならなかった。そんなこと、どうでもよかった。

 この時間と空間が、心地よかったから。

 いつまでも、こうしたいと思った。

 しかし、当然ではあるが、女の足は止まる。惜しみながらも、オレもそれに倣った。

 女の目指した先。立ち止まった建物。それは、

「……東京タワー?」

 女と同じ、紅い塔だった。

「……………………………」

 女は、やはり話さない。

 それでわかった。目的地は、ここではないのだと。

 たどり着けば、この女は喋ってくれる。

 そんな確信が、あった。

 女が飛んだ。文字通り、空中を、タワーの上方へと飛行していったのだ。

 さして驚くこともなく、オレは文珠で『飛』び、後に続いた。

 道具ナシに自力で飛行できる人間は存在しない。すなわち、女は人間ではない。

 神族、あるいは魔族だろう。ひょっとしたら妖怪の類かもしれない。

 しかしまあ、そんなことはどうでもよかった。

 人間でないことなど、大したことじゃない。

 オレが、この女と話したいことには変わりがないのだから。

 少し、おかしかった。

 敵とも味方ともわからず、しかも人間でない。なのに、オレは女に警戒心を抱いていない。

 相変わらず、無節操だな、オレは。

 女はタワーの、かなり上部まで飛んでいった。飛んでいって、皿のように突き出た部分に降り立った。

 すでに日は傾き、世界は緋かった。

 紅い塔の上。緋い世界に溶け込むようにして立つ、赤い女。


 ――――――――ドクン


 身体の中で、なにかが、跳ねた。

 女が、振り返る。

 笑顔。最初と同じソレは、歪んでなどはいない。

 だけど――――

「…………なんで、」

 泣いているの?

 ……言葉には、ならなかった。

 女が、再び背を向けたから。

 オレは、先程の感覚を確かめようと、女の背後まで足を進める。

 そこで、止まる。隣に並びたくはなかった。女の顔を覗きこむような真似は、したくなかった。

 女から、振り向いて欲しい。

 そう、思った。まったく、おかしな気持ちだ。

「…………初めて、です」

 夕陽を眺めたまま、女は口を開いた。

「こんな気持ちは、初めて、です」

 声色は、震えてはいない。

「あなたは、とても幸せそうで。それが、とても嬉しくて」

 だがやはり、泣いていた。

「でも、それが、とても、悲しくて――――」

 肩を震わせる、赤い女。

 抱きたい衝動に駆られる。

 この、悲しみに浸る女を、後ろから強く抱きしめたい。そうして、安心させてやりたい。

 そんな衝動に、駆られた。

 だが、そうしなかった。

 それはとても失礼な気がしたから。彼女の気持ちを、ないがしろにしてしまう気がしたから。

「――――横島さま」

 名を、呼ばれる。それにしても、横島『さま』、だなんて。そんな風に呼ばれたことなんて、初めて


 ――――――――ドクン


 ―――――の、はずだ……っけ?

「アシュ様が滅びてから、今日まで、わたしはずっと、あなたを見てまいりました。

 20ヶ月間、欠かさず、あなたを見つづけていました」

 20ヶ月? アシュタロスが死んだのは、3年前――――


 ――――――――ドクン


 ――――だった、はず、だ…………

「そして一年前、あなたの中の霊基構造が暴走を始めた」

 ああ、それはよく覚えている。なにしろ生死の境をさ迷ったからな。

 いつだったか、事務所で倒れたんだ。愛子が必死にオレを呼んで、だけどその呼び声もだんだんと遠ざかっていった。

 何日か後に目を覚ましたら、ルシオラが泣いてたっけ。涙で顔ぐしゃぐしゃにして、抱き着いてきた。

 いや、あれは参ったよな、実際。頭ぼ〜っとしてて状況が掴めなくって、聞いちまった。

 なんで、泣いてるの?って。

 ルシオラは泣きながら怒って、オレの胸を叩きながら、ただ叩いて、泣きながら喜んだ。

 そうだ。覚えてる。一年前、確かにそんな出来事があったんだ。


 ――――――――ドクン


 …………確か、に――――あったん、だ……

「そして、この2週間」

 この2週間? そういや、タイガーと魔理さんが結婚するって


 ――――――――ドクン


 ――――それ、だけ……か…………?

「わたし、幸せでした。あなたと出会って、あなたのことを想えて、とても、幸せでした」

 女の言葉が理解できなかった。オレは、今までこの女と会ったことはない


 ――――――――ドクン


 …………はず、な――――のに……


 ――――――――ドクン


 …………なんだ、これは?


 ――――――――ドクン


 なにかが、オレの中で蠢いている。心臓でない何かが、脈動を繰り返す。


 ――――――――ドクン


 いったい、これは、


 ――――――――ドクン


 なん、なん、だ……?

「最初の夜、あなたは眠っていました。わたしはあなたのベッドに潜りこんで、一緒に眠りました。

 白状しますと、誰かと一緒に眠るというのは、わたし、初めてだったんです。誰かが隣にいるだけで、ああも気持ちよく眠れるのですね。

 もっとも、翌朝はすごい騒動になってしまいましたけど」


 ――――――――ドクン


 だから、これは、なんなん、だ……?

 お前は、一体、なんなん、だ……?

「次の夜も、楽しかったです。横島さま、好き嫌いはいけませんよ。イモリはともかく、タマネギくらいは克服しないと。

 ああ、でも、楽しかったなぁ。今思い返すと、とても楽しかった。

 ……あのときは、恐れが先行してしまったけど。どうしてもっと早く、気付かなかったのかしら」


 ――――――――ドクン


 なんとなく、左手を見る。当たり前だが、そこにはなんの変哲のないいつも見慣れたオレの左手が


 ――――――――ドクン


「!!」

 一瞬。左手が、異常なそれに変わった。

 皮がめくれ、肉が腐れ落ち、骨が覗く。指は槍のように突化し、伸びる爪先はナイフのような光沢を持っていた。

 それは一瞬のことで、瞬きの後にはやはり、なんの変哲もない見慣れた左手だったが。

 オレはその幻想に、言い知れない不安を覚えた。

 今のは、いったい、なん……?

「その次の夜は、わたしはあなたとは会いませんでした。でも、あなたのことばかり考えていました。

 あなたに会うのが、とても怖かった。ううん、違う。あなたと会って、また、あの感覚を持ってしまうのが怖かった。

 半神半魔のわたしは、常に神と魔の間で揺れ動いています。わたしという天秤がどちらかに倒れれば、わたしはわたしではなくなる。それが、怖かった。

 密林で、膝を抱えて震えていました。なんて滑稽なんでしょう」


 ――――――――ドクン


 脈動は続く。オレの中の何かを食い破ろうとするかのように。


 ――――――――ドクン


 脈動は続く。自分を封じる檻を突き破ろうとするかのように。

「次の夜も、わたしはあなたの元を訪れなかった。まだ、怖かったから。

 でも、心は落ち着いていた。考えるのは、あなたのことばかり。おかしいんですよ。あれほど怖かったのに、怖いのに、あなたに会いたいと思うわたしがいるの。寂しいと思うわたしがいるの。

 あなたの顔を思い浮かべると、わたしの心は優しくなっていった。背に受ける雲の感触も、青い月の光も優しく穏やか。でも、あなたの顔が、一番安らげた。

 だからわたしはわからなかった。あなたは、恐怖と安らぎが混在していたから」


 ――――――――ドクン


 女の話を聞くたびに、脈動は強くなる。女の声に呼応するかのように、脈動は激しくなる。

「次の夜は雨でした。わたしはあなたに会いに行って、でも、やっぱり怖くて会えなかった。窓から、あなたを見つめていた。

 あなたは、わたしに気付いてくれた。それはとても嬉しくて、嬉しく思うことが怖かった。

 自棄になってると、あなたは言った。わたしはそれこそ自棄になって反論したけど、でも、やっぱりあなたの言う通りでした。わたしはあの日以来、ずっと、自棄になっていた」


 ――――――――ドクン


 この女は、なにを言っている? なぜ、この女は、この女の、この女を、この女が、この女に、

「次の夜は、わたしは一人だった。あなたには会わなかった。まだ、戸惑いがあった。

 あなたと会うのは怖くて、恐ろしい。でも、それすらも心地よいほどに、嬉しくて安らげる。それがなんと呼ばれるものなのかを、わたしはその夜、知りました」


 ――――――――ドクン


 やめろ。

 目を閉じろ。耳を塞げ。女の話を聞くな。

 なにかが命ずる。だが、身体は震えるだけで、動かない。

「次の夜。わたしは、あなたと一緒に寝ました。最後に、あなたと一つになりたかった。

 でも、あなた、意外と生真面目なんですね。背を向けるだけで、ちっともわたしに手を出さなかった。まあ、わたしを女として見てくれてるということだから、べつによかったですけど。

 最初の夜と同じに、あなたのベッドで眠った。あなたの背中、とても広かったです。とても、安らげた」


 ――――――――ドクン


 脈動はますます強く、ますます激しく跳ねあがる。

 オレはそれを懸命に押さえた。体が震え、全身から汗がにじみ出る。目が乾き、呼吸が乱れ、熱を帯び始めた。

「そして、最後の夜。わたしはあなたを殺し、あなたはわたしを殺した」


 ――――――――ドクン!


 なにかが、今までで一番強く脈打った。オレはたまらず、膝をつく。

 殺した? オレが? この、女を?

 殺した? オレを? この、女が?

 それは矛盾だらけの言葉だったが、強く、真実の響きを感じた。

 低くなった視点から、女の背を仰視する。

 赤い背は、緋い光に照らされて、

 オレは、目をそらすことができなかった。

「そうして今日まで。あなたはずっとこうしていて、気付かなかったのですね」

 可哀想なコ、と、女は続けた。


 ――――――――ドクン


 熱い。ああ、熱い。全身が、火がついたように熱い。

 震える。なぜ、震える。恐怖か? 何を恐れる?

 苦しい。呼吸。呼吸を忘れていた。呼吸をしなければ。

 脈動は激しく、全身を食い漁り暴れまわる。


 ――――――――ドクン!



 ――――――――ドクン!



 ――――――――ドクン!!


「あのコは自棄になって暴れて、そうして崩壊の危機にある。救えるのは、あなただけ」


 ――――――――ドクン!!



 ――――――――ドクン!!



 ――――――――ドクン!!!


 たまらず、地に伏せる。

 呼吸もできないほどに激しい鼓動。視界が白く染まり、脳が圧迫される中、ただ、女の声だけが内に響く。

 呼吸はもはや呼吸とならず、手はかさかさとあたりを探る。

 目の前に女がいるはずなのに、手は女の裾に触れない。


 ――――――――ドクン!!!


 女は多分、後ろのオレに構わず淡々と語るのだろう。前のみを見つめて。

「それはあなたの使命であり、あなたの義務です。あなたは、こんなところで燻っていてはならないのですよ」

 ほら、な。

 でも、わかるんだよな、なぜか。女が必死に涙をこらえてるって。振り向くまいとしているって。


 ――――――――ドクン!!!


「だから、横島さま」

 だから、応えなきゃ。


 ――――――――ドクン!!!


「だから…………」

 振り向いて欲しいから。


 ――――――――ドクン!!!


「だから…………」

 オレは、彼女に応えなきゃ……


 ――――――――ドクン!!!


「だか、ら…………」

 思い、出さなきゃ…………


 ――――――――ドクン!!!


「だか……ら…………」

 そんな顔するなよ。すぐに思い出す。だから笑ってくれよ、ほら。でないと、美人が台無しになっちゃうぞ。


 ――――――――ドクン!!!


 ほら、なあ――――


 ――――――――ドクン!!!


 なあ……マリー…………






































 ――――――――ドクン!!!!!!!!!!!!!































 はじけた。

 オレの内側で、オレははじけた。

 オレはオレを閉じ込めていた牢を破り、表へと現われた。

 オレの右手が砕け散り、中からオレの右手が現われる。

 オレの左手が破け飛び、中からオレの左手が現われる。突化した指にナイフのような爪、骨まで覗くほどに肉は腐り、皮も垂れた、オレの左手。

 足も、腹も、胸も、背中も肩も首も頭も。

 21歳のオレの体が、ガラスのように粉々になっていく。

 そうして内から現われるのは、18歳のオレ。

 スーツの代わりに青いジーンズの上下に身を包み、髪をバックに固めずに赤いバンダナを巻いた、真っ白な髪のオレ。

 それがつまり、本当の、オレ。

 21歳のオレという虚像を突き破って出た、本当のオレ。

 21歳のオレの体は粉々に砕け、夕陽の緋に煌きながら散っていく。

 そうして残ったのは、18歳のオレ。

 今、マリーを後ろから抱きしめているのは、マリーを愛した、マリーが愛した、本当の、オレなのだ。

「よ、こし、ま、さま……!」

 頬にまわした手に手を重ね、マリーは溜めていた涙を流した。

「ごめん、マリー。心配かけた」

 そうして、込められるだけの優しさを込めて、オレはマリーに囁く。

「…………ただいま」

「おか、えり、な、さい………」

 嗚咽に詰まるマリーの声。涙に震えるマリーの肩。

「泣くなよ、マリー」

 頷くが、マリーの涙は止まらなかった。

 だからオレは、より強く、彼女を抱きしめた。

 オレがここにいるんだと。本当のオレが戻ってきたんだと、教えるために。

 それ以上、言葉は要らなかった。

 ただ、二人で抱きしめあう。

 紅い塔の上、緋い世界の中。

 いつかあいつとしたように、オレたちは静かに、唇を重ねあった。


































 二、


 横島忠夫の夢の世界で、横島とマリーが邂逅を果たしている頃。

 現実世界では、ベスパと大竜姫が、互いの目的と信念の元、死闘を続けていた。

「邪魔をするな、ベスパ!」

「聞けないね、大竜姫!」

 拳と剣が交じり合い、罵声が飛び交う。

「自分の任務を忘れたのか!?」

「んなもん、知ったこっちゃないね! アタシはヨコシマを守るんだ! もう二度と、あんな思いはしたくない。パピリオに、させてたまるか!!」

 打撃と斬撃が重なり、二人共にはじかれる。

「…………どうあっても邪魔をするというのか」

「あんたがヨコシマを殺そうとする限りはね」

「――――わかった」

 大竜姫は剣を構えなおす。

「もはやなにも言わぬ。お前を障害と認め、排除する」

「上等だ! やれるもんならやってみな!!」

 ベスパが動く。最速で間合いを詰め、最大の霊力を込めて拳を振るう。

 頭一つだけ動き、大竜姫はそれをかわした。すれ違い際に脇を突く。

「く! このぉ!!」

 距離が開ける前に、ベスパが回し蹴りを放つ。回転力を加えた踵は、大竜姫の左手により、軌道をずらされた。

 右の掌底が、ベスパの腹に突き刺さる。

「くそ!」

 肘を打とうとして、足を払われた。大竜姫の足刀が、顔に打ちこまれる。

 とっさに、空中へ逃げ出した。

 スピードは全力だ。後方の大竜姫を確認しようと振りかえったとき、しかしすでに、同じ高さまでその姿はあった。

 背中に斬撃がはしる。振りかえり、ベスパは自身の背を斬りつけた剣を手に取った。

 武器を奪ったと思ったのもつかの間。すでに大竜姫は剣を手放し、ベスパに拳を見舞っていた。

 無言で、大竜姫はベスパを攻めたてた。

 反撃するベスパの拳も足も、いなされ、返される。

 大竜姫の拳も足も、確実にベスパへと吸いこまれる。

 たまらず、ベスパは大きく距離を取る。追いすがる大竜姫。

「このお!!」

 迎撃しようと、ベスパは強力な霊波を放つ。

「ワシの、千年を超える技術の研鑚」

 それを、大竜姫は最低限の動きで避け、

「お主の二年に破れるほど、脆くはない」

 神剣は、ベスパを袈裟懸けに切り裂いた。
































 三、


 日も沈んだ街の中、いつもの帰り道を、いつものように歩いていた。

 帰るべき家は、21歳のオレの記憶が教えてくれた。

 思い出していた。すべてを。

 気付いた。ここが、オレの夢の中だということに。オレの望んだ、オレの内なる世界だということに。

 だからこそ、オレはオレを騙せなくなって、そうして、21歳のオレは本来のオレに戻った。18歳のオレに戻った。

 だから、オレはここにいる。

 現実へと回帰するために。そのためのけじめをつけるために。

 今、オレは、夢にまで見た最愛の女性の待つ場所へと、足を運ぶ。

 たどり着いた家。表札には、「横島」と。

 オレは迷わず扉を開けた。鍵はかかっていない。オレが入ることを望んだのに、オレの夢の中で入れないはずがないのだ。

 ここは、つまりはそういう世界。

 オレの望みが存在する、オレの望みしか存在しない世界。オレが否定したものは存在しない世界。

「ただいまぁ!」

 オレは明るい声で言った。

 すぐに彼女がかけてきて、笑顔で言う。

「おかえりなさい、あなた!」

 オレの姿をいぶかしむ様子はない。当然だろう。オレがそうと望まない限り、コレはそんな行動は取らない。そうする様にできているのだ。

 腹が減ったと言うと、嬉しそうに、すぐにご飯にしますと言った。

 食卓へ向かうと、予想通り、そこには豪勢な食事が並んでいた。

「すごいご馳走だな。なにかあったのか?」

 わかっていながらも、オレは尋ねた。

「あのね…………」

 俯き、腹に手を添えて、彼女は言う。

 その先は、わかっていた。なぜならコレは夢だから。オレの願望が映し出した虚像なのだから。

 昼間のタクシーの中で、オレはそれを望んだ。だからこうなるのは、当然のことなのだ。

「赤ちゃんが、できたの!」

 この上もなく嬉しそうに、彼女は言った。

 ルシオラをかたどった傀儡は、この上もなく嬉しそうな表情を張り付かせて、そのセリフを口に出した。

 それが、限界だった。

 オレは――――そっと、彼女の頬に、手を添えた。

 暖かい。なんて心地よい暖かさ。夢にまで見た暖かさ。

 夢だから、それは当然のこと。

「あなた…………?」

 頬を、温かい水が伝うのがわかった。

「ルシオラ…………」

 いつだったか。夢で、彼女が出てきた。オレは夢と知りながら、彼女との再会を楽しもうとした。喜ぼうとした。

 今もまた、夢の中で、望み通りの彼女がここにいる。違うのは、これが永久に覚めない夢だということ。オレが望めば、永遠にこうしていられるということ。

 それはあまりにも甘美な誘惑。それはあまりにも残酷な誘惑。

 この世界にとどまれば、オレは幸せなまま、無自覚に死んでいく。それでもいいとさえ思えるほどに、ここは幸せな世界なのだ。

 だが。

「赤ちゃん、よかったな?」

「はい」

 ああ、なんて――――

「嬉しい、な?」

「はい!」

 なんて美しい、笑顔。なんて幸せな、笑顔。

 これだけで安らげる、これ以外は何もいらない、そう思わせる笑顔。

 だが、それは気付かなければの話。

 気づいてしまえば。コレが夢だと知ってしまえば。

 ただの色褪せた画像にしかならない。望んだ幸せは、くすんだものにしか映らない。

 ここは、とてつもなく幸せで、とてつもなく孤独で、とてつもなく虚しい世界。

 オレが一人で人形遊びをしている、ただそれだけの世界。遊びはしょせん遊びでしかなく、だが遊びに没頭できることの、なんと幸せなことか。

 だけど、オレは気付いた。オレは知ってしまった。

 だから、もう、ここにはいられない。

 孤独な世界が孤独でなくなれば、世界はその存在を維持できない。

 だから、世界は崩壊する。こうしている間にも、少しずつ、見えないところで、世界は亀裂を刻み、崩れている。

 ―――――――そう、だから。

「もう、終わりにしよう、ルシオラ」

 オレは彼女の瞳を見つめて、別れを告げた。

「………………………」

 彼女はなにも言わない。まるで、糸の切れた操り人形のように、笑顔を顔に張り付け、固まっている。

 やがて。

 震える声で、彼女は尋ねた。

「――――気付いた、の?」

「ああ。気付いた。気付いちまった。これが夢で、現実のオレは死にかけてるんだろ?」

「そうよ。確かに、そう。でも――――でも、そんなことどうでもいいじゃない。そんなこと忘れてさ、楽しく」

「無理だ」

「無理じゃない!」

 無理なんだよ、もう。

 もう、気付いてしまったんだから。

 夢だと、知ってしまったんだから。

 どう足掻こうとも、オレはこの世界に浸ることなどできやしないんだ。

 だから、もう、

「終わりなんだよ」

「終わりじゃない! もっと! もっとずっとここにいればいいの!

 ここは、あなたが望んだ世界なのよ。アタシは生きていて、あなたと結婚して、子供もできて!

 ここは、あなたが望んだ幸せそのものなのに!!」

「でも、夢だ」

「夢でいいじゃない! 現実に戻ってなにするって言うのよ!?

 人間じゃなくなって、だけど魔族にもなれないあなたが。現実に還っても、ただつらいだけじゃないの!

 それなら、いっそこのまま――――――――!!」

 夢の中で、幸せな幻を観ていればいい、か…………

 確かに、それは魅惑的な選択だ。

 でも――――――――

「ルシオラは、夕陽が好きだった」

 目の前の人形にではなく、現実のルシオラを、オレは思い浮かべる。

「昼と夜の一瞬の隙間。短い間しか見れないから、余計美しく感じる。

 ――――夢もさ。似たようなもの、じゃないかな」

 そう。

 一日の終わりと、一日の始まりを繋ぐ鎖。

 朝と夜の間隙に現われる幻視。

 今日と明日の、一瞬の隙間。

「短い間しか見れないからこそ、美しいんだよ、夢も」

 幻だからこその喜び。儚いからこその甘美。

 すぐに果てるからこそ、夢は夢足り得る。

 永遠に続く夢など、もはや夢ではない。

 現実とよく似た、滑稽な人形劇だ。

 出演者はオレだけで、後はみんな手作りの人形で。

 観客はオレだけで、その喜劇を見つめつづける。

 なんて滑稽な、芝居。

「だから、もう」

 だからもう、幕を下ろそう。

 この、哀れな人形たちを、夢の中へと還そうじゃないか。

 さあ。

「目、覚まさなきゃな」

 閉幕の時間だ。

「…………どうしても、ですか?」

「ああ、どうしてもだ。オレは還えるよ、現実へ」

「そう――――――ですか」

「君はルシオラじゃなかったけど、オレが望んだルシオラだった。

 君はオレが夢見たルシオラだったけど、本当のルシオラじゃなかった。

 でも、短い間だったけど、君と過ごせてよかった。仮初でも、君と夫婦を演じられて、幸せだったよ」

「……そう言っていただけると、光栄です」

 少しずつ、終わりが近付いてきた。

 世界が崩れていく。

 人形の姿もまた、薄れていく。

「また、夢の中で会えたらいいね」

「はい。また、夢の中で」

 少しずつ、終わりが近付いてくる。

 もう、崩壊は足元まで迫って。

 人形の姿は、もう、輪郭しか見えなくて。

「それまで………」

 そうして、最後の崩壊。

「おやすみ、オレの夢の世界」

「おやすみなさい、愛しき夢の主」

 喜劇の幕は、閉じられた。

































 そうして、オレは目覚めた。

























































































 四、


 闇纏う扉の前で、マリーは待ちつづけていた。

 マリーの眼前で、扉から、闇が噴き出る。

 闇はそこにあった闇を食らい、侵食し、そして、果てていった。

 闇が晴れた、闇の中。

 背を向けて立つ、愛しい人の姿があった。

 瞳を開き、自分の姿を見とめると、彼は微笑した。

「わりいな、マリー。こんなとこまで来させちまって」

 彼女もまた、微笑した。

「生きてたんだな。嬉しいよ、マリー」

「わたしも、あなたが戻ってきてくれて、嬉しいです」

 互いに、笑顔を交わす。

 向き合い、相手の笑顔を眺める。それだけに、時間を費やす。それ以外は、この世界に存在していないかのように。

「――――まだ、やるべきことがあるんだろう?」

「……気付いていらしたのですか?」

「なんとなく、な」

 頷き、マリーは手を振った。

 闇が果て、光に満ちた扉が、180度回転する。

 扉の後ろには、また、扉があった。

 弱々しく、闇を吐き出しつづける扉。

「………知らなかったな、こんなのがあるなんて」

「仕方ありません。本来ならば、扉ができること自体が有り得ないのですから」

「でも、ここにある」

「はい……すべては、わたしのせいです。ごめんなさい」

 顔を伏せるマリーの頭に、横島は手を置いた。気にするなというように。

「それで、オレはどうすればいいんだ?」

「この扉にお入りください。そこで何をするかは、あなたにお任せします」

「わかった。ところでマリー、なにかいいことでもあったのか?」

「はい。わかります?」

「ああ。前よりずっときれいになってる」

「…………ありがとうございます」

 横島の口からすらりと飛び出たその言葉に、マリーは赤面した。

「横島さま。一つ、お聞きしてよろしいですか?」

「なに?」

「わたしは、あなたを愛しています。あなたは?」

「ああ。オレも、愛してるよ」

 よどみなく答える横島。その視線の先で、マリーは笑顔を形作る。

「その言葉、もう一度、言わせてみせますわ」

「何度でも言ってやるさ。オレは」

 言いかけた横島の唇を、マリーのそれが塞いだ。

 キス。

 最初のときのように、舌は絡まない。二回目のように、すぐには離れない。

 長い間、唇だけが、重なっていた。

 マリーの身体が、淡く光った。

 唇が、離れる。

「これで、他の人たちと条件は一緒」

 横島の魂から自分の霊基片を分離させ、マリーはそう言って微笑んだ。

「横島さま。一つ、お願いが」

「なに?」

「これからのこと、あなたにすべて、お任せします。あなたが受け入れようが、否定しようが、それはあなたの自由です。

 でも、できれば。できれば、受け入れてやってください。あのコに、わたしのような想いをさせないでください。わたしと同じ轍を、踏ませないで」

 上半身を倒し、ぺこりと、マリーはお辞儀した。

「外でお待ちしていますから。戻ってきてくださいね」

「ああ。もう、背を向けたりはしないさ」

 にこやかに頷くマリー。彼女の姿は、徐々に薄れていき――――

 淡い光を残して、消えていった。

「……………………………………………」

 横島は、その光すらも消えるまで、マリーの居た場所を見つめ続けた。

 光の残滓が消え、横島は扉へと向き直る。

 闇の漏れる扉。自分の預かり知らない、自分の中にある扉。

「受け入れて、か」

 呟き、

「心配するなよ、マリー。

 どんなものでも、それは、オレとアイツが愛し合った証。それを否定するのは、アイツにとって失礼だ。

 そう言ってくれたのは、お前だろう?」

 躊躇なく、横島は扉をくぐった。



























 五、


 落ちていくベスパに、大竜姫は目もくれない。

 障害を排除したならば、あとは任務を遂行させるだけ。

 改めて、横島に向き直り、

 美神が立ちはだかっていた。

 斉天大聖が構えていた。

「…………結界を解かれたか」

 状況を整理する。敵は2体。1体は戦力外だが、もう1体は油断できない。時間がかかれば、ベスパも復活するだろう。

 今の自分の状態と、相手の戦力を分析、比較して得られる結論。

 敗北の二文字だった。

 しかし、大竜姫はなんの変化も示さない。なんの表情も持たない。

「なぜ、そこまでする? 神界にも、魔界にも、人間界にも害にしかならない男を、なぜ、お前たちはそうまで守る?」

 持っていた疑問を二人にぶつける。

「こいつは私の丁稚よ。生殺与奪の権利は私が握っているの。それに、アンタは気に入らないわ」

 女は、そう答えた。

「――――老師は?」

「お前を救うためじゃ」

「…………………そんな、下らぬことのために」

「いい加減にせんか! 大切な者を失う気持ちは、お前が一番よく知っておろう!! お前は他人に、その気持ちを味わわせようというのだぞ!?」

 その言葉は刃となり、大竜姫の胸へと食いこむ。

「……だから、どうした?」

 だが、大竜姫の声にはなんの変化も現われなかった。

「任務は遂行する。方法は一つしかない。そのための犠牲ならば、致し方なかろう」

「ここで横島を殺してみろ。小竜姫はおそらく、お前を許さぬぞ」

「だから、それがどうした。任務遂行のための犠牲を、ワシは厭わぬと言ったはずだ。

 そこを退け、斉天大聖。これはお前の上司からの命令だ。断るとあらば、軍事裁判にかける」

「裁判でもなんでもするがよい。それでお前が救われるなら、安いものじゃ」

「…………」

 説得を諦めた大竜姫は、最終手段をとった。

 腕を突き出す。

 右手が虚空へ消え、空間を渡り、そして、

「「な!?」」

 引き戻した右手には、少女の首が握られていた。

「今一度言う。退け。従わぬ場合、この娘がどうなるか、わかるじゃろう?」

「パピリオ!!」

「動くな、ベスパ!」

 叫ぶベスパに、大竜姫が牽制した。

「動けば殺す。そして美神、斉天大聖よ。動かねば殺すぞ」

「な……」

「大竜姫! きさま、そこまで堕ちたか!!」

「五つ数える。その間に、退け。

 一つ」

 パピリオを盾に、大竜姫は歩き始める。

「く。大竜姫……!」

「二つ」

「それが神族のやること? アンタ、魔族になったほうがいいんじゃない!?」

「三つ」

「大竜姫。お前は、そこまで…………」

「四つ」

 歩みを止める。

「これが最後だ。退け」

「その必要はありません」

 声を発したのは、美神でも、ベスパでも、斉天大聖でもなかった。

 彼女は、ゆるりと立ちあがる。

「この人は、もう、大丈夫。殺す必要は、ありません」

 大竜姫の視線に正面から抗し、マリーはそう、宣言した。



























 六、


 踏みこんだ中は、闇だった。

 濃い、なにも見えない闇。

「…………ああ、そうか」

 その闇を見て、その闇の中に入って、横島は初めて理解した。一年以上をかけて、ようやく、理解した。

 先の見えない闇。自分と相反した扉。

 それは、つまり。

「そういうことだったんだ」

 横島は、足を進めた。

 闇の中へ、恐れず、ためらわず、散歩するように入っていく。


 ナ・ニ………………………?


 闇の中に、声が響いた。

 そう思って足を止め、横島はその考えが不適切だったことに気付いた。

(『闇の中に』じゃない。これは、この闇の声だ)

 闇が自分を見ているとしたら、一体どこからだろうか。

 そんなことを思いながら、横島は視線を前方へと投げかける。


 オ・マ・エ・ハ・………………………!


 侵入者が横島であると、『闇』は気付いたようだ。

 『闇』が、変化する。漂っていただけのそれが、明らかに殺意を持って、横島へと向かっていった。

 横島は動かない。構えもしない。小さく笑い、慈しむような目で、迫り来る『闇』を見つめている。

 『闇』が横島を貫く、その直前、



























「ほたるってのはどうだ?」























 ぴたりと。

 『闇』が、止まった。


 ナ・ニ………………………?


 声には、戸惑いが伺えた。

「なにって、名前だよ、名前。オマエのナマエさ」


 ナ・マ・エ………………………?


 腫物に振れるかのように、恐る恐る、『闇』は聞き返した。

「そう、名前。オマエが、オマエである証だ」

 横島は、右腕を、掌を上に向け、肩の高さまで上げる。

「自己紹介、しようか。オレの名前は、横島忠夫」

 名乗り、そして、尋ねる。

「オマエの名前は?」


 ナ・マ・エ………………………


 『闇』は、蠢く。


 ア・タ・シ・ノ・ナ・マ・エ………………………


 『闇』は、反芻する。


 ア・タ・シ・ハ………………………


 横島は動かない。手を差し上げ、ただひたすらに、待つ。


 ア・タ・シ・ノ・ナ・マ・エ・ハ………………………


 名前とは、自分を示す証。存在の受け皿。

 それの無いものは、そこには居ない。ただ在るだけで、そこには居ない。

 名前とは、自らを形作るための呪縛。存在の具現。

 それがあって初めて、在るものは、居ることができる。


 ア・タ・シ・ハ………………………


 『闇』が、収束する。名前という容器に、『闇』が、納まっていく。

 与えられた名に、『闇』はようやく、自分が居ることを、認められた。受け入れられた。


 ア・タ・シ・ノ・ナ・マ・エ・ハ………………………!


 小さな闇色の手が、横島の掌にかぶさる。

 あたりは光。『闇』は小さな、本当に小さな少女となっていた。

「ほ・た・る………………」

 闇色の少女は、初めて手に入れた口で、初めての言葉を呟いた。

「ア・タ・シ・の・な・ま・え・は………………」

 自らの存在の肯定。その証を、闇色の少女は口にする。

「ほ・た・る………………!」

 笑顔で、横島は名を受ける。

「はじめまして、ほたる。これから、よろしく」

 光が、爆ぜた。

 爆発する光の中、闇色の少女は泣いていた。

 横島に抱きつき、大きく声を上げて泣いていた。

「ほ・た・る………ア・タ・シ・の・な・ま・え…………!!」

 ようやく手に入れた声で、ほたるは泣いた。

 ようやく手に入れた腕で、ほたるは横島を抱きしめた。

 ようやく手に入れた身体で、ほたるは横島に抱き返された。

 名前は、肯定の証。ソレこそが、闇色の少女が真に求め、望んでいたものだった。

「ごめんな。今まで、気付かなくて」

 ほたるの髪を愛しそうに撫で、横島は言う。

「これからは、いつでも、オレが傍にいるから」

 ほたるを抱きしめ、横島は言う。

「オレが、ついているから」

 ほたるは泣きじゃくる。ほたるは泣き叫ぶ。

 それは産声。彼女がこの世に誕生した、今こそはその瞬間。

 ほたるは、ありったけの声で泣き叫ぶ。自らの存在を示すため、あらん限りの声で泣きじゃくる。

 光の中。

 闇色の少女の産声は、消えることなく続いていた。



























 七、


 美神と斉天大聖の前に出て、マリーは大竜姫と対峙する。

「必要がないとは、どういうことじゃ?」

「言葉通りです。あのコは、横島さまと出会った。そして、名前を与えられたことでしょう。

 それがどういう名かは、わたしにはわかりませんが…………でも、それですべてが終わったことは、わかります。

 もう、横島さまを殺す必要はありません」

「それを信じろと?」

「あなたならばわかるでしょう。横島さまの身体から発せられる波動が、安定し始めているのを」

 言われ、大竜姫は気付いた。確かに、あれほど乱れていた霊波が、驚くほどに安定し始めている。

「あなたの任務は、この事件を終わらせることでしたね。

 もう、事件は終結しました。わかるはずです。

 それでも、横島さまを殺すというのですか? ならば、わたしも容赦はしませんよ」

 言いきり、マリーは構えた。

「…………………………………」

 大竜姫は、なにも言わない。なにも言わず、左手で、自分の顔を覆った。

 しばしの時間が流れる。

「…………ベスパ!」

 いきなり、大竜姫は彼女のほうへとパピリオを放り投げた。

「うわ! ったた!」

 慌てながらも、見事にキャッチするベスパ。

「パピリオは妖毒を受けておる。お主の免疫を分けてやれ。幾分、回復するはずじゃ」

 ベスパに指示を下し、大竜姫は美神たちへと向き直る。

「陽蘭、お前はそのまま横島殿の治療を。美神殿、他にけが人は?」

「え? あ、あの…………」

「返答は速やかに、簡潔に頼む」

「えっと、入り口に」

「わかった。先に行く。他の連中は後から来い」

 空間を渡り、大竜姫は姿を消した。

「…………な、なんなの、いったい?」

 その変わりように、美神は呆然と呟いた。

 ベスパも、唖然としている。

 マリーも同様だった。

 ただ、斉天大聖だけが、小気味よい笑いを浮かべていた。

「老師、笑ってないで説明してよ。あの女、一体なんなわけ?」

「なに。あれが本当の大竜姫よ。先ほどまでは、ただ、任務のために自分を押し殺していたに過ぎぬ」

 笑いを押さえ、しかしこらえきれずに笑いながら、斉天大聖は語る。

「あやつは、何をしても任務を遂行するやつでな。それゆえにあのような態度を取ることもあるが、本当は優しい娘なんじゃよ」

「優しいって、パピリオを人質に取っておきながら!」

「許してやってくれ、ベスパ。あやつも、可哀想な娘でな。任務で犠牲が出ることを厭わずにおきながら、いつも後で泣いておるんじゃ。

 あのように晴れ晴れとした顔は、久しぶりに見た」

 去り際の顔を思い出したのか、くっくっくと、斉天大聖はまた笑った。

「マリーの言う通り、すべては終わったんじゃ」

「あ、そうだ! それよそれよ! ちょっと、マリー。いったいどういうこと? 終わったって一体全体なにが結局どうなったのよ!?」

「まあまあ。それは後でよいじゃろう、美神よ。今はけが人の収容と治療が先じゃ。今ごろあの巫女と人狼、力の使いすぎでバテておるぞ?」

「あ! おキヌちゃん、シロ!」

 慌てて駆けていく美神。

「…………さて、わしらも行こうかの、マリー?」

「そうですね、お爺さま」

 晴れた空の下、崩れた瓦礫の上を、斉天大聖とマリーは歩き始めた。











































 雲間から、光が覗いていた。
























































 八、


 闇の中。暗き雫が落ち、黒い波紋が乱れ浮く。

 そうして、ソレは産まれた。


 ナ・ニ?


 まず、ソレが最初に思った事は、それだった。


 コ・コ・ハ・ナ・ニ?

 ア・タ・シ・ハ・ナ・ニ?

 ナ・ニ・ッ・テ・、・ナ・ニ?



 そして、次にこう思う。


 イ・ヤ。

 コ・コ・ハ・イ・ヤ。

 ア・タ・シ・ハ・イ・ヤ。

 イ・ヤ・ハ・イ・ヤ。



 漂うソレは、わずかな亀裂より漏れる光に気付いた。

 ソレは、光に憧れた。

 ソレは、光を求めた。


 ア・レ・ハ・ナ・ニ?

 コ・コ・ハ・イ・ヤ。

 イ・ヤ・ハ・イ・ヤ。



 そうして、ソレは光の元へ行こうとした。

 それが、すべての始まりだった。この物語の始まりは、そんなものだった。

 ただ、真に孤独なソレが、光に焦がれたソレが、光を求めたソレが、孤独でなくなる物語。光に包まれる物語。

 光を求めるソレに、彼は言った。

 彼は手を伸ばし、ソレに名を与えた。

 ソレの名は、ほたる。

 闇に佇んでいた闇。闇にたゆたい続けた闇。

 闇は光に焦がれ、しかし闇ゆえに光の中へは入れない。

 名は、闇のたゆたう闇を払った。

 闇は光の中へと入ることを許された。闇は光の中に居ることを許された。

 それは、ソレが求めてやまなかったこと。

 それは、ソレが憧れてやまなかったこと。

 長く、永くさ迷って、やっと出会えた。

 やっと、見つけてもらえた。

 泣き、叫び。その果てに、ようやく。

 名を、呼ばれた。

 だからこそ、ソレは反芻する。

 与えられた名。自らの存在を示す名。アタシの名前。

 ほたる。

 ソレの名は、ほたる。

 ほたる。

 ほたる。

 ほたる。

 ほたるは自身の名を刻みこみ、名を与えた彼の姿を刻み込む。





































「自己紹介、しようか。オレの名前は、横島忠夫」

 じこしょうかい、するね。アタシのなまえは、ほたる。

「はじめまして、ほたる。これから、よろしく」

 はじめまして、ヨコシマ。これから、よろしく!































※この作品は、桜華さんによる C-WWW への投稿作品です。
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