――2001年 5月30日 19時44分(モスクワ近辺標準時)ロシア連邦 サンクトペテルブルク――
西条輝彦は不機嫌だった。
先程から吸いつづけている煙草の灰が、さほど上等なつくりでもないホテルのカーペットにポトリと落ち、それを意に介する訳でもなく機械的に、短くなった灰の固まりを火を消す事もせず灰皿へと放り込む。
彼が不機嫌な理由は、わざわざロシアくんだりまで来て、ロシア政府が用意したこの部屋が予算削減がありありと分かる安っぽいホテルであったとか、この国に着いて早々に、空港で財布を掏られていた事が分かったとか、そういう事ではない。
有体に言えば――そう、彼は今回の任務そのものが大いに不満なのであった。
「……馬鹿げてる」
粗末なチェアに腰掛け、新しい煙草を取り出し、火を点ける。
そもそもが、今回の仕事はオカルトGメンの仕事ではない。ロシア政府からの協力要請を断りきれずに、日本の『腕利きの』Gメンが一人、現地対応指導として駐留する事になった。いわゆるオブザーバーという……その程度の事だ。オカルトGメンの本部はアムステルダムにあり、そちらから派遣した方が、よほどロシアには近い。
嗚呼、それをあの先生は。
実際わざわざこちらに自分が来る事になったのは、美神美智恵その人の指示であるのだ。実戦経験を積むいい機会だ。行って来なさい……と。これは建前。
本音と言えば……『面白いから』か? それとも自分に対する嫌がらせだろうか。どうも、数年前に劇的な復活劇を演じてからの彼女は、性格に丸みが出たと同時に悪戯心が出たような気がする。
椅子に深く腰掛け、彼は嘆息した。一息、煙を吸い込む。
「チャンスだというのに……」
焦燥感だけが、胸に募る。日本に残っている――美神令子の事が気に掛かった。
何故かは知らないが、現在『邪魔者』はいなくなっていた。
しかも、いなくなって数日は彼女は常に寂しそうにしており、こちらは大いに首をかしげたものだった。寂しがるだけなら分かるが、『あの』令子が事務所を閉めてまでふさぎ込むとは。
幸い、二、三日もすると復活したようだが、これは考え様によってはチャンスと言えた。『邪魔者』がいない間に、彼女との距離を急速に縮める。しかも彼女は寂しがっている。千載一遇のチャンス。
神魔界からのトラブルがなければ、そのまま『お兄ちゃんと妹』の関係からの脱却を図れていたのかも知れないのだが――ちくりと、胸が痛む。
不意に、指に痛みを感じた。煙草を挟んでいた、右の人差し指と中指。長い黙考の間に、煙草の火は完全に根元まで達していた。西条は一息しか吸っていないその煙草を、今度はしっかりともみ消し、再び新たな煙草に火を点けた。
漸くトラブルが収まったと思ったら、今度はロシア政府からの依頼だった。美知恵の推薦によりこんな北国まで送り込まれ、最初こそ日本大使館などに招かれたりして歓迎されたものの、それから既に十日。現在は、『敵』がロシア国境の山の中に差し掛かるのを今か今かと待っている状態だ。
敵を倒すのは、山の中。
今回の敵は大物だった。既に二ヶ月前――ちょうど、『邪魔者』がいなくなった頃だ――、イギリスで数個の町を破壊し、北海を渡ってノルウェー北岸に上陸したらしい。途中で各国のGSが抵抗を試みているらしいが、これらは悉く返り討ちに遭った。そもそも、生き残りの数が絶対的に少ない。
故に、西条は迎撃に山岳を提案した。周りに民家がなく、夏場で残雪も冬に比べれば比較的少ないロシア西部の山岳。ヘリを使用して、既に除霊に必要な機材などは運び込んである。
後は、待つのみ。煙を吸い込む。
報告によれば、『敵』は既にロシアとの国境線に近づいているらしい。『敵』を追っての迎撃も検討されたのだが、あまりの強大さ故、こちらから待つ――固定機材などを入念に準備した『場所』での迎撃の他に対処法はないと、西条は判断した。現に、既にイギリスで、政府の要請を受けた十数人のGSグループが『敵』の迎撃を試みていたが、完膚なきまでに敗れている。チームは全滅。生き残りは只一人という有様だった。――そこで、事態の解決がオカルトGメンに委ねられる事になった訳だが。
彼は立ち上がり、大きな窓からサンクトペテルブルク――ロシア第二の都市――の夜景を、しばし眺めた。煙草を燻らせ、苛立ちを、伸び放題の無精髭と、澱んだ眼光に乗せて。
令子は何をしているだろうか?
今も、仕事をしているんだろうか。
会いたい。
酒でも飲みながら、あの馬鹿男の話に花を咲かせるのもいいだろう。それで、彼女の気分が晴れるならば。あんな男でも、昔から我侭なところがある令子の支えの一端になっていたのだろうか?
西条は煙草を握りつぶした。清掃員が真面目に掃除をしていないのか、隅に汚れが目立つカーペットの上に煙草の残骸が降りそそぎ、撒き散らされた灰が視界を汚す。煙混じりの息を吐き出し、ガラスに手を当てた。
ガラスに頭を思い切りぶつけ、彼は思いを振り払った。
『敵』は強敵だ。無駄な事を考えていたら死ぬ。除霊作業さえ済めば、自分は日本に帰れるだろう。令子に薔薇の花束を贈るのは、その後でもいい。
二十九歳。自分も既に決して若くない事を思い出し、苦笑する。そろそろしっかりと思いを伝えておかねば、後はますます自分が不利になってゆくばかりだ。この好機を逃したくはない。
(早く……来い)
出現を知らせる電話が鳴ったのは、その時だった。
――ロシア北西部 カレリア共和国地帯――
それほど速くはなく。
かといって遅くもなく。
それは歩いていた。凍れる土の上を、その四コの肢――二個と二個の肢で。標高が高い地域とは言い条、今は春過ぎ。日中は暖かい。
――が、今は夜。それも深夜だった。
それは立ち上がった。その後肢――否、脚部と呼べる形状をしている部位で。
それは暫く立ち止まった後、少しだけ、方向を変えた。東南東へと進路を取り、それは再び四本肢に戻る。戻った後で、歩き出す。凍れる山岳を、歩き出す。
それは探していた。
それは目指していた。
それは求めていた。
それは…………
ヒトの敵。
太古の魔物。
超然の殺戮者。
そう、
それは獣だった。
――5月31日 1時29分(モスクワ近辺標準時)カレリア共和国地帯 旧鉄鉱山――
夜中にヘリを飛ばす事が危険な事でなかったかと言うと、実際は、かなり危険な事ではあったのだろう。
西条は肝を冷やしたに違いないヘリのパイロットに礼を言い、厚手の防寒着を着込んで、暖房が効いたヘリの機内から降りた。深夜の高山の寒さは、紛れもなく肌身から体温を奪ってゆく。
「ミスタ・西条、こちらです!」
ロシア人の――通訳だろうか? 流暢な日本語を話す男が、簡易テントの前で手招きしている。その声を受けて、取り敢えず彼はそちらへと向かう事にした。何にしろ、日本語が通じてくれるのはありがたい。イギリスに留学したときも、最初は英語に非常に苦労したものだった。
――良く勘違いされる事なのだが、別段、西条には一般的な意味での『学』がある訳ではない。
何となく、皆英語ぐらいは話せるだろうと高を括って、こちらに対しさまざまな難題をふっかけてくるのだ。無論、今は英語は話せる。あちらで死ぬような目に遭ったのだから。
GS修行で忙しかった彼にとっては、一般的な勉強など付随物でしかなかった。故に、心霊授業以外の実用数学やら国語やらは思い切り手を抜いて勉強していたし、テストの成績そのものは良くても、それは殆ど一夜漬けの知識であったのだ。翌々日には綺麗さっぱり頭の中から消えてしまうような――そう、雪のような記憶。
――ともあれ、西条がテントの前に着いた頃までには、その男は温かそうな帽子を取って会釈し、西条にコーヒーを勧める程度の動きを見せていた。……黙って、コーヒーを受け取る。
「現場指揮のミハイル・ラルトフです。宜しくお願いします」
「宜しく、ミスタ・ラルトフ」
コーヒーをすすりながら、西条はラルトフと名乗った男と握手を交わした。意外だったのは、彼が現場指揮官という重要な役割についていた事――その役割に日本語を話せる彼が配置されたと言う事は。やはりロシア政府がどれだけ日本人のオブザーバー――即ち自分を当てにしているか。その度合いがおぼろげながら読み取れる。
「……で、『奴』の動きは?」
分厚い手袋に辟易しながらも、付近の地図を指して西条は訊いた。――訊きはしたものの、大体の予測はついていた。地図の側に置いてある赤鉛筆、そして、地図に書き込まれた真新しい赤い矢印。今も、スタッフの一人と思しき人物が、トランシーバーを片手にその線を延長した。線の端に赤い丸が書き込まれる。現在位置から15キロ程度の位置だった。
「分かると思いますが、ミスタ・西条。残念ながら、それ程の猶予はありません」
言いつつも、あまり残念には思っていない口調ではあった。ラルトフは、自身の属する組織が果たした仕事――この場合は、『罠』の設置になる。――に絶対的な自信を持っているようであった。
「ですが、日本製の強力結界の性能は素晴らしいですな。あれを使えば、どんな悪霊でもその中に閉じ込める事が出来そうです。いやはや、全く素晴らしい」
今回、結界用の破魔札の作成には、神魔族の力を借りた。
より具体的に言えば、小竜姫とパピリオの協力を――である。
彼女らは先のトラブルを気に病んでいるらしく、協力を要請したら快く承諾してくれた。特別製の破魔札に仕込まれた力は、単純な悪霊は勿論の事、かなり高位の悪魔ですら封じてしまえる程の力を秘めていた。――無論、この事はロシア側には秘匿の事実であるが。
「――では、結界の設置に問題はありませんね?」
確認のつもりで、西条は念を押した。ここまで来て、こちらのミスで相手を取り逃がしたなどという事になったら、笑い話にもならない。
「はい。奴が何処を通っても、最小でも三枚――最大では十四枚の破魔札が、奴の動きに反応して結界を展開するはずです。我々は、ただ奴が破滅するところを黙って見ていればいい」
「そうか……」
陶器のカップに口をつけ、漆黒の液体が咽喉に流れ込むに任せる。既に中身は大分冷めていたが、それでも、その苦味は彼の意識を尖らせる事に貢献してくれた。
「一応、確認しておきましょう。案内してください」
飲み終えたカップを地図の脇におき、西条は歩き出した。慌てて、その後ろからラルトフがついてくる。
「ちょっと、ミスタ・西条! もうそんな時間はありませんよ。下手をしたら、あなたまで展開する結界に巻き込まれます。あのレベルの結界に巻き込まれたら、それだけで命はないですよ!?」
「心配要らない。ちょっと見回るだけだよ」
返事を待たず、西条は足を速めた。傍目にも慌ててこちらを追おうとしていたラルトフが、雪に足を取られて無様に転倒するのもハッキリと見えた。
西条は苦笑し、すぐにその笑みを引っ込めて、前方の闇を見つめていた。
――鉄鉱山北方約14キロ地点の山間――
白き闇。
歩くそれ。
白い風。
その風に溶ける――それ。
闇の中。
それは奔り出した。
GSM MTH7
Gigantic Streams
――流され行く理由――
――2001年 6月2日 12時57分(中部アメリカ(東寄り)標準時)アメリカ合衆国 インディアナ州 ブルーミントン――
案内されて入ったその家は、意外に整頓されていた。
白。まず思い浮かぶのはその純粋な色だ。赤い屋根の白い家――まるで童話に出てくる主人公の家だが、こういうものは実際に存在しているものであったらしい。玄関には大輪の花――名前は解らないが――が飾られ、恐らくこれがこの家に来訪する者を和やかな気分にさせてくれるのであろう。
――が、そんなものをじっくりと観察する余裕などあるはずもなく、横島忠夫はただただその瀟洒な内装に気圧されていた。日本では一間の貧乏アパート暮らしであった彼にとってこの家は、理解を超えた別世界であった。
振り向けば庭がある。リビングの大きな窓からそのまま降りられる中庭には、小さいながらもプールがあった。そしてその隣には、同じく小さいながらも手を入れて育てられている事が分かる家庭菜園。英語で書かれた立て札に野菜名が書かれており、見てみるとトマトの面積が最も広いように見える。更に奥にはバレーボールで使うようなネットが張られている。放し飼いにされているらしい二頭の犬が、窓ガラスの向こうに行儀良く並んでこちらに舌を出している。
横島は、自分がポカンと口を開けっ放しにしている事に気づき、無理矢理口を閉じた。眼を転じれば再び口を開けっ放しにする他ない事も理解したので、視線はあくまでも庭に固定しておく事にする。
「――どうだい? ちょっとしたモンだろう」
掛けられた声に振り向きたい衝動に何とか耐え、横島は声を絞り出した。緊張のあまり――余りにも場違いな所に来ると、人間は緊張するものだ――口腔内で萎縮していた舌を引っ張り出し、無理矢理。
「……俺の部屋が二十個は入りそうな家だな」
「それが感想? まぁ、キミらしいといえばキミらしい」
あくまで視界に映っているのは庭の情景である。それ以外のものを眼に入れるわけにはいかない。――少なくとも、この状況に慣れる為の時間を稼ぐ必要がある。
彼は再びぼやいた。
「アンタ、何か悪い事かなんかしてるんじゃないだろーな。こんな家、そうそう持てるモンじゃないと思うぞ?」
「ま、田舎だからね。でも、州都のインディアナポリスからもわずか一時間で、こんな家を格安で手に入れられたのは、ボクの商才の賜物かな」
「何の才能だよ……」
横島は振り向いた。日本人である自分にとって、庭にある数点の贅沢品の中でも最も贅沢であろうと思ったプールを数分間凝視し、この家に対する抵抗力を高めた末にである。――それでも、話し相手の顔と共に、後ろに幾らなのか見当もつかないような金の置時計を発見し、意識が飛び掛けたが。美神除霊事務所もそれなりに稼いではいたはずだったのだが、考えてみればあの人はこういうインテリアにはあまり金を遣いたがる人ではなかった。
ともあれ、その相手は何が楽しいのか、終始ニコニコと笑っていた。これもまた高そうなロレックスを右手でいじり、左手をそのまま胸の前に当てて。
「商才はあればあっただけ自分が得をする。日本の学校ではそんな事は教えないのかい? 便利だよ。モノを見る目が養われると」
「少なくとも、今の俺に必要なのは物を見る目や調度品の自慢よりは食い物だと思う……」
昨日、晴れて病院から退院し、そこから飛行機で約二時間。州都インディアナポリスに着いてからは、車で一時間半ほど。退院する前、昨日の夜の病院での低カロリー食が最後の食事となっている現在、横島はひどく空腹だった。その上、長旅で疲れてもいた。
相手は苦笑したようだった。柔らかな照明の光――これも、どうやら意図的に調節されているらしい――の中、その鼻腔から微かな息が漏れる。
病院で二ヶ月ほどこの相手と付き合ってみて横島が学んだ事は忍耐だった。コイツには、些細な事でも、たとえ本人に悪気がなかったとしても、相手の失敗に対し包み隠さず苦笑してしまうという悪癖がある。実際、病院で英語のレクチャーを受けているときも、上達の遅さに何度も苦笑を聞かされることとなった。
「何か喰いに行こう。流石に、僕も食べ物は用意してないんでね」
言って、そのまま相手は横島を置いて歩き出す。慌ててその背後につき従いながら、横島は呼びかけた。
「待ってくれキョウさん。何処に行くつもりなんだ?」
流石に、ノーネクタイでは入れないような店――値段はそこから推して知るべし――に連れて行かれても困る。何よりも、こちらにはそんな服装は用意がない。言えば用意してくれるだろうが、そこまでしてもらうのも気が引ける――
相手――キョウシロウは再び苦笑した。その問いには答えることをせず、キョウシロウは家から出て行った。――13時24分(中部アメリカ標準時)――
場所には匂いがある。それがどんな匂いであるにしろ、確実にその場所に密接に関係する匂いが存在する。表通りには表通りの匂いが。裏路地には裏路地の匂いが。
そして、今横島がキョウシロウに連れられて来たここにも匂いがあった。例の家――というか、邸宅――に滞在している間、彼が良く来ると言う店。
そこは――活気に満ち溢れていた。
「……意外だな」
それは横島の想像を裏切っていた。この店は高級レストランなどではなく、大き目の屋台に壁をつけただけのような質素な店。狭苦しい店内には英語の奔流が交錯し、嬌声と罵声が響き渡る。
怒号のようにすら聞こえる店主の濁声が客に注文を促し、それに負けじと客もまた怒声で注文を取る。日本でいうなら、場末のラーメン屋――しかも取材拒否の旨い店のような雰囲気ではある。彼にとっては、馴染んだ雰囲気だった。
「どうだい? 結構活気あるだろう」
キョウシロウの言葉に素直に頷く。万一高級店に連れて来られたときの為に、こちらに来てから買った黒のスウェットを着て来たのだが、そのスウェットはここでは明らかに場違いな服装だった。いつものGジャンで充分だったのだ。
周りを見渡して、空いている場所にキョウシロウと並んで腰を下ろし、彼は半眼で隣を見やった。未だ英語を完璧に理解した訳ではない横島にとっては、この英語の奔流は雑音に過ぎない。メニューを見るが、どれがどのような料理なのかも理解できなかった。
「横島クン、ここは軽食屋だよ。ハンバーガーか何かを頼むといい」
「ああ、そーさせてもらうよ……」
英語の発音で『ハァンバーガ!』と叫んでから、横島は口を閉ざした。隣でキョウシロウが肩をすくめるのが感じられるが、それも敢えて黙殺する。
「横島クン、後で知人を紹介しよう」
……故に、その言葉も危うく聞き逃すところであった。
「知人?」
顔を上げ、キョウシロウに向ける。
「キョウさん、幾らなんでもそこまでアンタにして貰う訳には――」
「二、三日中には出てくつもりなんだろう? 分かってるよ。僕が紹介したいのは、その先に至っても役に立つ友人――警察官だよ」
「警察?」
「そ、田舎警察だけどね」
おどけたジェスチャーで本意を示そうとするが如く、キョウシロウは再び肩をすくめた。注文したハンバーガーが二つ、理解できない怒声と共にテーブルに置かれる。キョウシロウはそれに礼を言い、こちらに食べるよう眼で促してきたが、横島はキョウシロウから眼を離すことが出来なかった。
雪之丞の言葉が、脳裏をよぎる。
(俺は……変わっていない)
結局……自分は他人のお零れにあずかって生きているだけなのか? 決断に後悔はない。……だが、決断するまでの迷いが、今でも俺を苦しめている――
俺はまた決断を迫られているのか!?
――ここで――
「キョウさん」
「ん? なんだい?」
ハンバーガーをパク付きながら、軽く応えるキョウシロウ。その前のテーブルに、横島は無言で十ドル札を置いた。
「行く」
「……止めないけど、ここの料金はそんなに高くないよ。ハンバーガーだけならたったの一ドル半だ」
その言葉には応えずに、横島は席を立った。いつも着けている赤いバンダナを外し、額を親指でこする。
と、思いついて横島はバンダナを見つめた。
既に随分使い古されたバンダナ。先代の白いバンダナがGS試験時に破壊されてからの付き合いだから――もう二年以上、毎日コイツとは額を合わせている事になる。
キョウシロウは既に止める気もないのか、こちらには全く関心を失ったようにハンバーガーに喰らいついている。
そのキョウシロウに――横島はバンダナを放り投げた。
「――とっ! なんだい、これは?」
顔に掛かったバンダナをハンバーガーと一緒に口に放り込みそうになり、キョウシロウが罵声をあげる。その存外間抜けな姿に、横島は微笑した。
「やるよ、キョウさん。お礼代わりだ。俺の相棒……大事にしてくれよ!」
その言葉を残し、横島は店を出た。
まだ額が外気にさらされる事になれていないのだろう。むず痒いような感覚が額に起こる。普段はあまり気にならなかったが、バンダナに押さえ込まれていた前髪が顔に掛かり、視界を半分方塞いでいる。
「さーって、何処に行こうかな!?」
店の前で景気良く吠え、取り敢えず髪を切ろうと決心し、横島は久しぶりに大声で笑った。
――同刻(中部アメリカ標準時)――
「行ってしまった……ね」
「……宜しいのですか?」
横島が去った店の中……鎌田狂四郎は静かに呟いた。その側らに立つ、この店の店主――店主の格好をした『何か』が、その言葉にすかさず言葉を返す。
その言葉の意味を明確に汲み取り、彼は静かに頷いた。既に皿の上のハンバーガーは全て胃袋に収められ、彼の右手には今、横島が残していったバンダナがある。これといって特徴もない、市販品の汚れた赤いバンダナ。何か横島が手を加えていったところでもあるのかと探ってみたが、別段その様子もなかった。
「なぁ、王(ウォン)さん」
店主の姿をした腹心の部下に向け、狂四郎は片眼を向けた。大分空き始めた店内には人も少なく、そのくせ異常なまでに店内は騒音で満たされている。静かに話す分には、機密情報を喋っても漏れる心配はない。
「『彼』はどうなったかな?」
同じく、こちらの意図するところを理解したのだろう。変わらぬ無表情で王は唇を開いた。そのまま、まるで報告書でも読み上げるかのように感情のない声を静かに放つ。放ちつづける。
「今現在はロストしておりますが、五日前の時点ではサンフランシスコにおりました。どうやら、上海系の中国人マフィアグループと接触したようです」
「ふーん……やっぱり、か」
「……それと、気になる情報が」
「なんだい?」
わずかに言いよどむ王を正面に見つめ、彼は軽く問い掛けた。言いよどむとはいうものの、王の実際の表情は髪の毛一筋分ほども変化してはいない。コック帽の下の無表情には、長年を経た巌の如き重量感があった。引き結んだ唇を再び開き、わずかに舌で下唇を湿して続ける。
「『彼』は……ひとりではなかったようです」
「――なに?」
ガタン……!
その決して小さくはない音と共に、蹴倒した椅子が床に転がる。思わず立ち上がった際に脚が当たったらしい。舌打ちして椅子を拾い、周りの視線をしばし無視する。
「……で、相手は」
周りが自分達に興味を失ったことを確認してから、狂四郎は後を続けた。ゆっくりと懐から煙草を一本取り出し、咥える。火は点けない。葉の芳香だけを楽しみ、眼は王から離さない。
「分かりません。ただ、空港でちらりと観察できた限りでは、恐らく日本から一緒に来たのだろう……と」
「……そうか。調査を続けてくれ」
食いしばった歯で噛み千切られた煙草が床に落下するのがぼんやりと見える。
再び仮の店長業務に戻った王を視界の端に見据えながら、彼が真実見ていたのはその煙草の残骸だった。千切れて、臓物とも言うべき葉を撒き散らした哀れな煙草の『惨殺死体』を。
「……座興は、まだ終わらないという事かな?」
彼は嗤った。嘲笑った。
それは見るものを暗黒の世界へと誘う、昏い笑みだった。
――6月3日 16時14分(中部アメリカ標準時)――
髪を掻き揚げる。
思い切り短くし、後ろに流した髪の毛はもう指に絡み付いてくる事もなかったが、その感触だけが過去の物として指に残る。過去への思いはときに自らを縛り、未来への踏み出しを痴躊させる事となる。
忘れてはいけない。縛られてはいけない。
既に大分慣れた、バンダナのない額の疼き。
それすらも、暫く忘れていた事だった。
常に自らの頭をきつく締め付けていたバンダナ。それがない……それを失った感覚。一度だけ、過去に体験した事がある。GS試験のとき……自分の代わりに果てた白バンダナ――
(あれからも……大分経っちまったな……)
小さなナップザックを背負い、スラックスの上にGジャンを着て、横島忠夫は歩いていた。考える事はたくさんある。それを纏める為に、歩いていた。
この道を歩き、何処に行くのか。――それは分からない。ただただ歩く為に歩く。それには、このアメリカ合衆国の無駄に長い道路はうってつけではあった。
――力が欲しかった。
(俺は、力が欲しかった)
――自分の場所を、護れるだけの力が。
(それさえ出来れば――それ以上の力なんて要らない)
――自分の場所を護る力。
(……だけど……)
――それ自体に何がある?
(一体それに何の意味があるってんだ!?)
自らの力。敵の力。護る力と奪う力は実質的には等しく、その力の矛先は結局は『心』に委ねられる。自分を半殺しの目に遭わせたヤンキー連中の持つものも力であれば、それらをキョウシロウが目線で下がらせた――あれも純然たる力だ。
自分が持つものも力であれば、あのアシュタロスやファウストが持っていたものも、自分とはレベルが段違いに違うとはいえ力には変わりない。力はどんなものにでもその姿を変え、どんなところにでも存在する。肉体の力、精神の力、発言の力、数の力……
結局自分がやっている事は、ただの『抑止力』を得ようとしているだけの事なのかも知れない。
核兵器に核兵器で防御するようなものだ。結局はより強い力を得ようとする限り、それより強い力で以って打ち破られる事となる。誰よりも強くなったところで、『集団』の力には適うすべもないだろう。……あの、アシュタロスですらそうだったのだから。
――だとするならば。
そう、そうだとするならば――
(俺は……ここで一体何を得ればいいんだ!)
ここで得られる物は力ではない。殺されかけて、さらにそれを助けられて悟った。結局は力には意味などない。――力の弱さを克服したところで――結局は自分は何も出来なかっただろう。
ここで得られる力以外の物。
見つけたい。
強くなりたい。
力だけでは……駄目だ。
俺は、弱い。
俺は、一人では何も出来ない――決断する事も出来なかった。迷いが生まれた。女一人護りきる事も出来なかった。後悔が生まれた。自分の居場所を侵され、それを阻止する事が出来なかった。慙愧が生まれた。そして―― 一人にされたら何もすることが出来なくなった。失望が生まれた。
壊さねばならない。
自分を取り戻さねばならない。
いつもの自分を。『アイツ』が好きだと言ってくれた自分を。道化師でない、事務所の明るさとしての自分を。――スケベで、手段の為ならば目的を選ばない自分を――
「そう……だな」
呟き、横島は再び歩き出した。
――19時10分(中部アメリカ標準時)インディアナポリス・インディアナ州立空港――
指の間で、赤いバンダナがくるくると回っている。
つい数時間前まで、横島の頭にきつく巻きつけてあったはずのバンダナ――それを指の間で手持ち無沙汰にくるくると回しながら、鎌田狂四郎は時間を計っていた。
明るい空港の光の中、暗い色のサングラスをかけて。
……いや、これはむしろそのままに『黒』である。このサングラスの透明度は極限まで押さえ込まれており、実を言うと彼自身殆ど視界が利かない。ただ、その方が余計なモノを見ないで済む分、都合がよい。この『アロハシャツ』という自分の格好も、観光客に溶け込む上での必然的な演出だった。――ついでに、この格好ならば闇夜にサングラスをしていても不自然には見えない。
側らに無造作に置かれた大荷物の上にバンダナを放り投げ、狂四郎は退屈の大欠伸をした。考えてみれば、今日の朝横島と共にインディアナについてすぐの出発である。若さ故疲れを溜める訳ではないが、それでも強行軍ではあった。
(さて、どーしたモンかな?)
暗い視界の中、ほぼ真っ黒のバンダナが荷物から少し離れたところに落ちるのを眺め、狂四郎は唇をゆがめた。些細な事につけてもこの表情をとってしまう――冷笑癖、直そうとは思っているのだが、なかなか直らないものではある。頭を掻く。
聴覚は鋭敏だった。周りの音を漏らさず聞き取ってくれる。視覚がほぼ封じられている分を補うかのように。
(来た)
「待たせました……ボス」
「遅いよ」
近づいてくる大柄な気配を感じ取り、彼は唇を歪め――ようとして自制した。変わりにバンダナを拾い上げ、手持ち無沙汰を隠すように頭に巻きつける。
空港のロビーは混雑していた。事に、ここはエントランスの前である。飛行機に乗り遅れまいと急ぐ人々が走って目の前を通り過ぎ、団体行動の学生がにぎやかに喋りながら通り過ぎてゆく。
取り敢えず、平和であった。
「『彼』は?」
可能な限り手短に、問うた。少なくとも、目の前の腹心――王には理解できるだろうという確信と共に。腹心は頷き、手帳から一枚の紙片を取り出した。それをこちらに差し出してくる。
無言で、受け取る。サングラスを外し、不意に眼を刺した白光に眼を細める。
そこには偵察していた部下からの報告がこと細かく書き連ねてあったが、そんな事は後回しだった。今知りたい事は現在位置…… そしてそれは末尾にあった。
『N.Y.』
「ニューヨーク……やはり『ビッグアップル』に向かったか」
ビッグアップル――合衆国第一の都市ニューヨークの別名にして……
「はい、詳しい事は不明ですが、我々の本部は嗅ぎ付けられたようです」
「僕たちの――『ホーム』をかい? ふふ、予定通りじゃないか……」
唇を歪める。
いずれは来ると思っていたが、それがこれ程早いとは――心底嬉しかった。恐らく『彼』は未だ本拠地――『ビッグアップル』の所在地にまでは情報が至っていないであろう。早ければ一ヶ月――遅くとも半年。それまでは爪を研ぐ時間だ。エモノを引き裂く爪と、噛み砕く牙を。
「ボス……俺はもう行きます。一足早くあちらに向かって『準備』を進めて置きます」
「そうだね……」
恍惚とした表情で、狂四郎は曖昧に頷いた。額を緩く締め付けていた赤いバンダナが、首まで下がってくるのをぼんやりと感じながら。
その恍惚の中で、ふと思い至る事があった。
「ああ、そうだ王さん、『彼ら』の活動に対する根回しはしておいたかい?」
「……はい。彼らにとっての敵はこの国です。それを掻き乱す我々が援助するというのを彼らは断れないでしょう」
「そうだね……」
後は無言で立ち去ろうとする王に背を向け、彼はバンダナを再び額に締め付けた。元々短髪であった故このようなモノは使用した事がなかったのだが、あればあったでなにやらこそばゆいような感じもする。
「再見(ツァイツェン)、王さん。気をつけて」
背を向けて放ったその言葉は、恐らく王には届いていなかっただろう……
――20時36分(中部アメリカ標準時)ブルーミントン郊外12キロ 路肩――
消し損ねた焚き火の炎がくすぶり、燃えカスと化した木切れの中で情けなくその残痕を残している。
適当な樹の下で寝袋にくるまり、横島は黒い塊へと変じてゆくかつての樹木の一部を見つめていた。
(みんな……元気かな)
こうして夜空の下に寝そべっていると、考えつく事といえばそれだけだった。止めようとしても止まらないし、止める事に意味もない、望郷の念。
(シロは……まぁ、黙ってても元気だろうな)
(タマモの奴は俺がいなくなったくらいじゃあ毛程も動揺しないだろ)
(おキヌちゃんは……寂しがってるかな? 寂しがってて欲しいな……)
(美神さんは…………)
そこで思考が止まる。
美神は。美神令子は自分がいなくなった事についてどう感じているのだろうか。
他の三人については大体の予測がついたのだが、彼女の、彼女の今だけには、自分の考えは思い至らない。辞表を提出したときに見せたあの態度。そして、その後手紙で書いて寄越したあの内容。自分が知る限りでは、あれはどちらも美神令子であって美神令子ではない。
(……ま、あの人もいろいろあったからな)
そこで考えるのをやめておくことにした。代わりに、昼間理髪店で手を出した(で、その後殴られた)パツキンのグラマーなおねーさんの事に思考を誘導する事にする。燃えさしの薪が爆ぜて、視界を一瞬火花が掠める。
暫く経って、横島は眠りに落ちた。薪という燃料がなくなると共に焚き火の炎はその勢いを衰えさせ、やがて消える。かすかに残る灼熱した炭が、そこに炎が確かに存在したという事を静かに証明している。
闇の中には一人の女性が立っていた。
もろ手を広げて横島の前に屹立するその女性の後ろには光が見えた。女性の後ろから刺すその光は闇を塗りつぶし、その女性の姿を陰の中に隠す。
紅い、光だった。
そして女性は光に向かう。まるで自ら焔に身を投げる、真夏の虫のように。
待ってくれ……! 彼は叫んだ。叫ぼうとした。だがその言葉は声にならず、その脚はピクリとも動かない。動いてくれない。
見れば、女性は既に紅へと迫りつつある。その紅い光球は炎の球だった。その姿を陰に塗りつぶした女性は、走ってその球へと近づいてゆき――――
身を投げた。
――6月4日 2時01分(中部アメリカ標準時)――
「うわあああああああああっ!!」
その声で、横島は眼を覚ました。
気づいてみれば何の事はない。別に初めて見るわけでもない夢であった。……ただ、久しぶりであっただけ。もう二年ほど、この夢は見ることはなかった。
ふと、自分が右手に何かを握っている事に気づく。燻る焚き火の跡の、微かな光の中じっと見る。
文珠だった。
(…………)
横島は黙って、その文珠に文字を念じた。即刻発動させる。
――『眠』……!
そして――、闇。
――6月4日 11時02分(モスクワ近辺標準時)ロシア連邦 サンクトペテルブルク 救急病院201号室――
連絡を受けて駆けつけた美神美智恵は、そこに変わり果てた姿の弟子の姿を目撃した。
「……西条クン」
「骨折十数箇所。打撲に至っては数え切れません。全くもって生きている方が不思議なくらい……だそうです」
日本から連れてきた通訳が、医師の言葉を性格に伝える。
そのようなことは聞かなくても分かっていた。そして、更に付け加えるならば、霊力中枢――チャクラにもまた深刻なダメージを負っている。恐らくこの怪我は長引く事になるだろう。
集中治療室の中で無菌衣にその身体を包まれ滾々と眠る西条の顔を眺めながら、美智恵は西条を送り出す前に感じていた嫌な予感が的中していた事を感じていた。……苦々しく。
(あの結界は破られていた…… 小竜姫さまとパピリオが作った結界を重複して掛けられても猶動ける『モノ』……少なくとも悪霊レベルじゃないわね――)
「『アレ』は今現在何処に向かったの?」
心中の不安は言葉の億尾にも出さず、美智恵は冷静に通訳に伝えた。――そして、その向こうにいるロシア側臨時指揮官である巨漢の男に。
通訳がその言葉をロシア語に直す間、再び眠る西条の顔を見つめる。見たところ、呼吸は安定していた。人工呼吸器の世話にならずに済んでいるところを見ると、それでも善戦はしたらしいという事がおぼろげながら読み取れてくる。
何しろ……唯一の生き残りなのだから。
「また……一人か……」
「はい?」
「なんでもないの。気にしないで」
爪を噛み、声をかけてきた通訳に曖昧に応じる。応じながらも、思考は更に精神の奥深くへと沈み込み、その耽溺は過去の事実を呼び覚ます。
(イギリスで雇われたGS。ロシア政府総力をあげたGS達――どちらも生き残りはたった一人)
この事実は何を指しているのだろうか。
(『アレ』が無差別に町を破壊して回っているだけならば、こんなに多くの被害者が出ることはおかしい。戦意を喪失して隠れていれば、充分にやり過ごせるはずなんだから。――逆に、『アレ』は意志を持っているにしては行動が余りにも動物的過ぎる……)
その行動には付け入る隙も多いはずであり、また、最も危険な動きでもあった。付け入る隙が多いようで、獣の動きは予想出来ない。それが霊体ならば尚更だ。
……ならば、考えられる事は只一つ。
(『アレ』は、霊能力者を狙っている……!)
それも、本能で。
原始的な記憶であるが故に、強い。元々が強大な力である魔物に、『敵意』が加わるとなれば。
(……いえ、『アレ』は探している……)
ある特定の霊能力者を。
それ以外でない、只一つ……只一人の霊能力者を探している。その只一人を探す為だけに、『アレ』は町を薙ぎ払い、ひたすらに東上している……!
「止めなくちゃ、ならないわね……」
「え?――あ、ええ。そうですね」
今いち様にならない通訳の同意に苦笑し、美智恵は窓から太陽を見上げた。
中天前の太陽は、南東の空に輝いていた。