著者:NOZA
どうしよう…………
もし次の模試で良い点が取れなかったら、もし順位が下がったら…………
「どうしよう、とか思わないのかね?」
失意のうちに職員室を出て歩き始めようとしたところで、横島は背後からミョーに楽しそうな声をかけられた。
「おまえがかあ〜〜〜??」
「実に仲が良さそうだね………僕にも勉強、教えて欲しいよ………」
ついに高堀と横島は一言も口を聞かなかった。高堀の方は自分よりはるかに成績の劣る横島など相手にできない、と言うような感じであった。
「明日、私とデートしてくれる?」
職員室の中では、高堀と担任の眼鏡の先生が何事かを話していた。
「『おまえ』の希望は判った」
《……………どうしよう、どうしよう………ママに怒られる………模試の結果が出ちゃったら………10位を下回ったら………なにか、なにかホウホウはホウホウハ………》
「ファァァ、暇ね………」
デジャブーランドの前で、横島はなんとも形容しがたい顔で立っている。
「だからね、私もプリクラとかルーズソックスとかたまごっち(現在は絶滅)とか色々青春を楽しんだんだけど、もっとも大切なことを楽しんでないの」
背に腹は代えられない、とはまさにこんな時に使う言葉なんだな、と横島はしみじみと実感していた。
「…………まったく失礼しちゃう!ほとんどの乗り物に乗れなかったじゃないの!」
何故かわからないが2人、いや、妖怪的な人間と人間的な妖怪の会話がとぎれた。
愛子は何も聞かなかった。何となく、聞いてはならないことのように思えたからだ。そんな考え方をする彼女は、真に人間的と言えた。
その日の夜は、やたらと明るく月が輝いていた。
横島の方が全て良い、と言うわけではない。
「どうしたんだ、高堀………」
この時神ならぬ担任の先生には、高堀の精神の脆弱さがすでに露呈していたことまでは気がつかなかった。
彼はピートに負けるのは仕方がない、と思ってはいる。彼は700年を生きたヴァンパイア・ハーフであり、強く、勝ち目がない。
《たとえ………たとえ死んだとしても、妖怪殺しなんて裁く法律はない……………『まともな人間』は妖怪が死んだって、誰も悲しまないさ……………》
その頃、美神除霊事務所。
非常口の薄明かりの中で、当初の目的を果たした人影が蠢いていた。
《月………》
静まりかえった暗い廊下で、ゴボゴボと何かをこぼす音だけが陰気に響く。
《月…………》
「おぉ、横島さん久しぶりじゃノー!!」
《なんなのよこれ?一体全体何が起こったの?!》
突然なにか大きな重い音がしたと思ったら、黒い煙が廊下から吹きこんできた。
愛子の、いや愛子の本体の最大の弱点は『燃えること』だった。
階段からは逃げられない。尋常な燃え方ではなかった。
《おかしい………異常すぎるわ………》
愛子は高堀をひっつかむと、とりあえず3階教室の窓際まで避難した。
だがこの手の相手には甘い姿勢と態度は効果はない。自分の方が強く、優位であることを示さなければならない。
高堀の話を手短に聞き終えたとき、愛子はあまりのバカバカしさとその結果による現状とに呆然とした。
「…………これ以上の会話は不毛だわ。最後に一つ答えなさい。なぜテストがイヤなだけで学校に火を付けたの?」
「いやあ、こいつはすごい…………」
「やはり逃げ遅れた可能性が高いノー……爆発的な出火のようだったし」
《……………最近、不思議に思うの。ずっと学校にいて、学園ごっこをして、卒業生を見てきてもそんな風に思った事なんてなかったのに………私は、横島君たちと卒業できないんだなって…………》
横島はぼんやりと頭を振った。なぜか愛子とデートのモノマネをしたときの、今まで一度も見たことのない彼女の少し寂しげな笑顔を思い出してしまった。
「コラ!!何度言ったらわかるんだ!危ないから下がれ!!」
火災は炎と煙だけではなく、ジリジリと温度も押し上げていた。
遂に火は5階にまで達し、愛子は追いつめられていた。
どうしよう…………
偏差値は落ちるばかりだ…………こんな学校の上位にいても、ママは認めてくれたりしない…………
どうしよう…………
どうしよう…………
「はあ………」
横島は彼を受け持つ担任の問いかけに、いかにもどうでも良さそうな返事を返した。
彼は不本意ながら、放課後の職員室に呼び出されていた。もっとも、自発的に職員室に来たことなど一度もなかったが。
これが美人でナイスバディーで色気過多の女教師だったら、いやそのうちの一つにでも引っかかっていれば、彼の返事はずっと誠意のあるものだったろう。ポーズだけだとしても。
幸か不幸か、彼の担任は眼鏡をかけた面白くもない男である。いや、男だから面白くない。
せめて美術の暮井先生なら、とも思ったが、それはそれで問題がありそうだった。
第一、ドッペルゲンガーに説教されたくもない。
「えーと、まあどうしようか、がんばってみようかなー、と………」
恐ろしく内容のない返事を横島は続けた。実際今教師としている話は、彼にとってみたらどうしよう、と言うよりも、どうでもいい、と言う類の話なのである。
「あのなあ、今度の模試は二年生の成績と今後の進路を決める大切なものなんだぞ。………お前はただでさえ出席日数が少ないし、成績もはっきり言って下から数えた方がずっと楽な位置だ」
「いやあ………自分は学校卒業したらゴーストスイーパーになるつもりですので、成績のことは大丈夫です」
教師には、楽観が学生服を着ているように見えた。
「いいか横島…………今度の模試は成績のことだけではない。お前の進級にも大きく関わってくる。合格点に達しなければお前は留年だ。カンニングをしようなんて考えるなよ。ちゃんと霊波探知機でも見張っているからな!」
さすがの横島もこれにはまいった。
なんとかそのような教師の横暴を阻止しようと彼なりの努力はしたものの、報われなかった。
努力の全ては報われたりしない物だ、と彼はナンパの経験で良く判ってはいたものの、
おかげで彼は人並みの勉強をしなくてはならなくなった。
もし留年でもしようものなら『あの』母にどんなことを言われるか判った物ではない。
前回はニューヨークに行かなくて助かったが、今度はナルニアに引きずり込まれるかもしれない。
彼は彼自身の自由と明るい未来を守るために、不毛な戦いに勝たねばならないと大袈裟に考え始めていた。
「留年かぁ…………青春よねー♪」
横島は振り返るまでもなく声の主が誰であるか判った。
『青春』だなんて、最早ゲームの中でしか存在しない素っ頓狂なフレーズを平気で使う奴は1人しかいない。
あまり振り向くのも気が乗らなかったが、やむなく横島は振り向いた。
そこには、廊下に置かれた『机に』座りながら、ニヤニヤした顔で実に嬉しそうに横島を見つめる女子高生の姿があった。
正確には、女子高生ではない。
さらに正確に言えば、人間ですらない。
ただ見た目は女子高生そっくりだ。そのために、彼女はその本質よりも、もっと違った点で人の注目を集めやすい。
なぜ彼女の側には常に机があるのか?
学校の外の人間には、まさかその『机』が彼女の本体だとは思いもよらないのだ。
「………なんだ。愛子か」
横島は特に面白くもなさそうに返事をした。
女性ならたとえ妖怪でも、と言うフシのある横島だが、意外にも愛子にはそっけがない。
と言っても、嫌ってるとか避けているとかそう言うことではない。
普通の友達同士といった感じである。
本体が机であることが判っている点と、以前酷い目に遭わされた経験が特に彼女を意識しない原因なのかもしれないが、とりあえず愛子に対しては鼻の下を伸ばしたりしないことは間違いなかった。
もっとも、妖怪と友達づきあいができるというのは、それはそれで特筆すべき事かもしれない。
「なんだはないでしょ。聞いたわよ、偶然に」
「偶然?」
「決して呼ばれた横島君の後を付けて、ここで聞き耳を立てていたわけではないわ」
「………立ててたんじゃねーか」
愛子は横島のツッコミをまったく無視した。
「で、どうすの?」
「何がだよ」
「勉強よ、勉強!このままでは留年でしょ?青春ねー♪」
「留年と決まった訳じゃない。………とりあえずピートに協力してもらうつもりだ」
「あら、ピート君なら試験の日まで学校休みよ。唐巣神父とまたヨーロッパに行くって」
「ぬわにいい〜〜〜」
ホホホッと愛子は笑った。
「ピート君は誰かさんと違って成績優秀だからねー。勉強しなくてもバッチリよ」
うーん、と横島は頭を抱え込まざるおえなかった。
とりあえずの期待が、職員室を出て数歩のところであっさりと頓挫してしまった。
あと、あてになりそうな人間?はいない。
タイガーは横島と五十歩百歩だし、小鳩ちゃんは学年が違うし、おきぬちゃんは学校も学年も違う。
美神さんは金でも積まない限り論外だ。
クラスメートに横島を助けてくれそうな優しい奴はいない。
困った。彼の前に立ちはだかる壁は、独力でなんとかできるほど低くはなさそうだ。
壁には『合格点』と大文字明朝体で書かれている。
「………私が教えてあげようか?」
横島にとって、それは意外な申し出だった。
横島はいかにも胡散臭そうに愛子を見た。
愛子はややムッとした顔をする。
「こー見えても私はずっとこの学校にいる学校妖怪よ。授業もさんざん聞いて、判らないことなんてなにもないのよ」
確かにその通りだ。授業の内容など一年ごとにそれほど大きく変わる物ではない。
成績も愛子は上位にいる。
「確かにそうだが、その割にはおまえトップではないな」
「人間社会は厳しいじゃない。トップになって妬まれたりするのはごめんだわ」
その時、愛子の背後から第三者が2人に声をかけた。
声のトーンを解説するなら、皮肉っぽく、陰湿な感じがした。
「………へえ、それはそれは」
驚いて愛子は後ろを振り返り、横島はうさんくさげな視線を浴びせた。
「高堀君………」
実にマズイ奴に会ったものね、と声のトーンは語っていた。
爬虫類かコウモリが人の言葉を話したらこうなるのではないか、と愛子は思ったが極力表情に出さず愛想笑いを浮かべて見せた。人間社会の処世術である。
「学年No2の高堀君に、教えて上げることなどありませんわ」
私が教えて欲しいですわ、とは言わない愛子であった。実に正直である。
「最近No9になったよ…………だれかさんが実力を出さないお陰でNo10にはならなかったよ…………No10さん」
愛子は反吐の出そうな陰気さに気分が悪くなりそうだった。
「じゃ、次の模試ではNo2になれるわよ」
「…………実に正直だね………ピート君には勝てないものな」
「それよりどうしたの?職員室に用事でも?」
愛子は妖怪ながら胃が痛くなりそうだった。さっさと精神的に良くない会話を打ち切りたいがために、話題を変える。
「ああ………僕も先生に呼ばれていたんだ………失礼するよ」
失礼してよ、と心の中でつぶやく愛子とうさんくさげな表情の横島を一瞥した後、高堀は職員室の中に入っていった。
横島の方は成績の良いだけのイヤミな奴は嫌いだから…………以外にも理由があった。
「愛子…………あいつだれだっけ?」
急に緊張が解け、愛子はコケた。
「………呆れた。女の子以外は覚えてないの?クラスメートの高堀君じゃない。ピート君が転入してくるまでの学年トップの………まあ、精神衛生上はその方がいいかもね」
ああ、と横島はいかにもどうでもよさそうに思い出した。
「あんまり特徴のない奴なんで忘れてた。そのうえ暗そうだしな………なんだよ愛子、高堀から出来杉君みたいに脅迫状やイタズラ電話でももらってるのか?」
「出来杉君なんて例えわかるのかしら?……あいにくそんな物は貰ってないけど。それほどの勇気はないみたいよ」
「じゃあ、ほっとけ」
ごくあっさりと横島は切り捨てた。まわり中にやたら個性的でやたらアクの強い人間と人間以外に囲まれた彼にしてみれば、気にする必要もない人間であった。まして男だ。
「なんとなく、怖いけどね。あーゆータイプってなにしでかすか判らないじゃない…………それより、どうする?横島君」
横島はポン、と手を打った。
「そう、そうだった。それなら頼む、愛子、勉強教えてくれ!!」
横島は両手を合わせて愛子に頼み込んだ。横島はつまらない男のメンツとやらに無縁のタイプだった。
愛子は自分で申し出ておきながら、すぐに返事をせずに、悪戯っぽい表情を浮かべる。
「いいわよ………ただし、一つ条件があるの」
その条件は、たった一つでも横島を卒倒させるのには十分だった。
先ほどの横島との会話より100倍も真剣であり、100倍も深刻であった。
担任にしてみればどちらも頭痛の種であった。どうして同じ歳、同じクラスでこうも違うタイプの人間が存在するのだろうか?
できるなら2人をミキサーにかけてまぜこぜにして、2人の人間に作り直したかった。
「…………なあ高堀。おまえの希望も良く判る。お前のお母さんからも希望を聞いている…………だが、無理をしすぎなんじゃないか。おまえならT大の理3だって可能かもしれないが、医者になりたいならもう少し楽な大学でもいいだろう」
高堀は無表情に首を横に振った。
「母の望みですので」
担任は少し溜息をついた。その溜息にはあきらめと同情、どちらも含まれていた。
《可哀想と言えば可哀想だ………あのヒステリーぎみの母親の期待を一身に集めているんじゃな》
彼の両親は中規模ながら病院を経営していた。そして彼はただ1人の跡取り息子である。
そしてそんな彼はまったくご多分に漏れず、跡取りになるために厳しく教育され、己の実力以上の結果を常に求められていた。
『ステロタイプすぎる』だって?とんでもない。
病院にしろ企業にしろ、これがまったく日本における標準的な姿だからだ。
この点、江戸時代の武家社会となんら変わるところはない。ごくまれにそんな人生のレールに反抗するものが現れると、珍しいのでテレビドラマの題材にされる。
………そして高堀は、ドラマの主人公にはなれそうもなかった。
教師は『おまえ』を強調した。イヤミではなく、メッセージを感じとって欲しかった。
「だが、次の模試は進路を決定する大きな参考になる。もし成績が悪ければ、もう少し志望校のレベルを落とすなり、浪人するかを決めなくてはならない」
「………希望は変えませんが、浪人はしたくありません」
教師は実に難しい顔をしていた。
「…………高堀、無理はイカン。こう言っては何だが最近のおまえの成績は下がる一方だ。このままでは医学部そのものも難しくなる………怒っているのではないぞ。たぶんおまえのメンタルな部分に問題があるんだ。今度お前のお母さんとも良く話してみる。無理をするな」
高堀は無言のまま席を立った。
「マ………いえ、母には黙っていて貰えませんか」
「……………」
失礼します、とおきまりの挨拶をして、高堀は職員室を出ていった。その頃には横島も愛子の姿もすでになかった。
《我々教師は》
眼鏡の先生は椅子にもたれかけながらぼんやりと考える。
《愛子君や小鳩君のような生徒のために教師になった、か………》
高堀と横島、どちらがより良い生徒なのだろうか、と担任は教師としてはマズイ想像をしてみた。どちらが幸せかは、考えてみるまでもなかった。
美神は一度あくびをすると、退屈そうにつぶやいた。
おきぬは美神のために眠け覚ましのコーヒーを煎れる。
「今日、横島さんはお休みなんですか?」
おきぬの問いかけに、美神はだるそうに答える。
「急用だってさ…………時給が減っていいわ」
「もしかして…………デートとか」
やや硬い表情のおきぬの想像を、美神は一笑した。
「そんな物好きがいるとしたら、人間じゃないわね」
穏やかな時間が、事務所の中を流れていた。
彼は何となく、昨日の事を思い返していた。
「プリクラとかって青春なのかよ…………まあいいが、大切なことってのは何だ?」
「青春と言ったらデートじゃない!甘い青春の思い出よ!清い交際ってやつよ!」
愛子は腕を突き出し力説した。
「大声でそんなことを言うな…………つまりあれだな、おまえは青春を楽しんでみたいがために、デートをしてみたいと?」
ニコニコと笑いながら愛子は首を縦に振る。
横島は非常に疲れた表情で、ガックリとうなだれた。
「そんなこたぁーピートにでも頼め」
「わかってないわねー横島君。我が校女子人気ダントツNo1のピート君と物まねでもデートしたことがバレてみなさい、私は橋田ドラマの嫁のごとくイジメと迫害に遭うわ。人間社会は厳しいのよ!」
「………お前少しは妖怪らしくしたらどうだ?」
「そんなことより、どうするの?」
「タイガーじゃだめか?」
「彼には一文字さんがいるじゃない」
「………どーせ俺は人気がなくて彼女いないわい」
デート?の費用はすべて愛子持ちで、まあ一日付き合えば人生のハードルが一つクリア出きるとなれば、横島には選択肢がなかったも同然だった。
しかし横島は次回からは少しは真面目に勉強しようと決意を固めていた。
こんな事で愛子に弱みを握られ、青春ごっこに付き合わされていてはたまったものではない。
しまいには世界中探しても存在しないであろう『伝説の樹』を学内ででっち上げられて、その下で告白ごっこをやりたいとか言い出すのではないか…………
そんな想像に横島は背筋を寒くする。
もっとも彼女の青春に対するイメージは7、80年代の金八先生的なものであったため、その可能性は低そうだった。
《………それはともかく、あんな理由のデートというのは、できそこないの恋愛シュミレーションゲーム的な感じかなあ》
横島自身はそれらのゲームをやってみたことはない。そんなもの買う金があったら牛丼特盛りを食っているからだ。横島という男は現代日本人高校生の平均と大きくかけ離れていた。
ただ、漠然とそんなことを考えていたのだが、手を振ってやってきた愛子を見たときそんな自分の考えがまったく当てはまらないことを理解した。
…………少なくともゲームには、机を背負ってデートにやってくる女の子は登場しない。
デジャブーランドの観覧車の中で、脇に机を置いた愛子が悪態をつく。
時刻はいつの間にか夕方に迫っていた。
愛子の前に座っている横島は呆れた顔をしつつ、つぶやく。
「当たり前だろ。何処の世界に机をジェットコースターに乗せてくれる遊園地があるんだ?」
この観覧車に乗せてくれただけでも感謝しなければいけない。それだけでも破格の待遇だ。
結局のところ、派手なアトラクションに乗ることはできなかった。しかしなんだかんだで、時を過ごすことはできた。
《デジャブーランドも経営が苦しいのかな………》
横島はなんとなくデジャブーランドに同情したくなる。
「………ところでお前はどこから今日の費用を取りだしたんだ?」
「人をドラえもんみたく言わないでよ。ちゃんとアルバイトで貯めたお金よ」
「……… バイト?」
ますます妖怪らしくなくなってきたなぁ、と横島は考える。
「そうよ。青春でしょ?学業の傍らで一生懸命にするアルバイト!」
「そんなもんか?………で、何のアルバイトだよ?」
「学校の近くの本屋さんのレジ。私の本体が台がわりよ」
きっと本を買っている人は、妖怪の本体の上で金を払っているとは思っていまい。
「まあそれはいいや。………ところでお前はその机、いや本体を小さくしてポケットに入れてしまうとかできないのかよ?みっともなくてしょーがない」
「失礼ね。それができるならそうしてるわよ。私は机が変化した妖怪だから、基本的に本体は机なのよ。机は小さくならないでしょ?」
「ゆーずーのきかん奴だ」
「だからギャグができるのよ」
「何の話だ?」
観覧車はまだ高さの頂点に達していない。
観覧車には茜色の夕日の光が差し込んでいる。高いところから見る夕日はひときわ大きく、美しく見えた。
「きれいね………青春だわ…………」
横島は何も答えなかった。たいていつっこまれるはずなのに。
愛子が不思議そうに横島を見ると、横島は夕日を放心したように見つめている。
「どうしたの、横島君。………夕日に何かあるの?」
「………あ……いいや」
間抜けな質問だったかもしれないが、愛子は表情に出さず少し驚いた。あの横島が気まずそうに言い淀んだからだ。
愛子にはその理由がまったく判らない。ただ、そこにいる横島は彼女の知る横島ではないように思えた。
誰にも見せないもう一つの顔…………迂闊にもそれを見せてしまっていることに気づいていない、そんな感じだろうか。
「ゆ………UFOでも現れるかと思って」
愛子は思わず笑ってしまった。
面白かったからではない。まるで冴えがなく、ひどい無理を感じたからだ。
《何を思っているの………いえ…………誰のことを考えているの?》
横島が誰かのことを考えているという推察は、なんら確証があったわけではない。強いて言えば、『女のカン』と言ったところだろうか。
正確には女性と言うわけではない。人間ですらないのだから。
しかし長く、女性形でいたことは確かだ。
愛子は一瞬、横島の横顔に誰かの面影を見たような気がした。しかしそれは、ただの夕日の陰影に過ぎなかったかもしれない。
「………今日はありがとう。横島君」
愛子はなんとなく話題を変える。横島も自然に話を変えた。
「勉強頼むぞ」
「私は教えるだけよ」
「独力よりはマシだ」
愛子には横島が少し復調したように見えた。
「………横島君は留年しなければ3年生ね。ピート君も、タイガー君も………」
「?それがどうした」
「私は………私は、学校の妖怪。3年生になれたとしても、みんなと卒業したりはできないわ………」
「…………」
「最近、不思議に思うの。ずっと学校にいて、学園ごっこをして、卒業生を見てきてもそんな風に思った事なんてなかったのに………私は、横島君たちと卒業できないんだなって…………」
「………すればいいだろ。しちゃいけない、なんて決まりがあるわけじゃあるまい」
「学校妖怪が卒業してどーするのよ」
「本屋で働いて本屋妖怪を目指せ」
愛子は思わず吹き出してしまった。
「…………やっぱり不思議な人だわ。私がそんなことを考えてしまうのは、横島君やピート君たちだからだと思うわ………妖怪にそんな感情、あるわけないもの」
今度は愛子のそんな表情を、横島は見たことがなかった。
「…………よくはわからんが、おまえなんて俺の周りの奴等と比べたら、まだ人間らしいと思うぞ」
「え?」
「だからだな………つまり………そんなふうに思ってもあたりまえだってことだ」
「…………ありがとう」
「なんだよ、礼なんて」
横島は自分がとんでもなく恥ずかしいことを言てしまったのではないか、となぜか焦った。
「………横島君が物の怪に好かれる理由、少し判ったような気がするわ」
「なんのことやらわからんが………いい解決策があるのか?」
「ないわ………ない方がいいじゃない♪」
「はあ?」
霊や物の怪は心の奥底がやさしい人に、すがろうとするものだとは愛子は言わなかった。自分たちが虚ろだからこそ、確かなものにすがろうとすることを。
だがあえてそんな憶測を横島に話す気はなかった。彼女の個性では恥ずかしすぎるからだ。
観覧車は地上に近づいていた。
「もう一周、乗っていてもいいかしら?」
「なんだよ………観覧車なんておもしろいのか?」
愛子はにっこりと笑った。
「おもしろいわよ」
横島君がね、とまでは口に出さなかった。
ただ1人当直室で書類を書いていた横島達の担任の眼鏡の先生は、疲れをとるために背伸びを一度した。
《当直ってのは退屈だ………》
もっともマジメ一本な性格なので、家に帰っても大差はないのだが。
《それにしても今年は頭が痛い………来年になったらどうなるんだろう》
担任はぼんやりと昨日の横島と高堀のことを思い出していた。
《…………やっぱり横島よりも、高堀の方が心配だ》
成績の事を考えたら、横島の方がよほど心配である。比較にならない。
だが、横島と高堀はまったく違う人間だった。目や鼻や口の数は同じだが、精神構造は別の生物のようだ、と担任は考えていた。
もちろん横島が高潔で立派な人格者、と言う意味ではない。彼を僅かでも知る人間なら、そんなことを言う人間の頭の中身の方を疑うに違いない。
どこがまったく違うのかと言えば、その強靭さであった。
使い古された陳腐な表現を使えば、横島は雑草だ。
セイタカアワダチソウが裸足で逃げ出し、サハラ砂漠に撒けば3年ぐらいで覆い尽くしてしまうのではないか。
高堀はアクアテラリウムだ。
みてくれは良いが、誰かが世話をしつづけなくてはすぐに死んでしまう、野生とかけ離れた存在だ。
なにしろバイトだと言っては学校をさぼるし、成績の落ちることなどはまったく気にしていない。『留年』の二文字は効果があったようだが、どんな理由で効果があったか大変に疑わしい。
『留年したら恥だ』とかでは絶対にないだろう、と担任は想像し、その想像は当たっていた。
高堀は『管理』さえし続けてさえいれば、相応の能力をコンスタントに発揮し続けるだろう。
だが『管理』には相当の手間と神経がかかり、環境の変化ですぐにダメになってしまいそうであった。
それが担任には心配だった。
ぶっちゃけた話、横島などはほっぽり出しても勝手に笑顔で生きて行くだろう。
そこまで割り切れないのは、彼の教師としての生真面目さであった。
もし彼の担任が暮井のドッペルゲンガーだったら、1秒も彼のことを心配しないに違いない。
だが高堀は………
今の時点で彼の成績は急降下している。
《だからこそチャンスなのではないか》
担任は高堀の成績を上げたい、と考えてはいなかった。
この学校が有名進学校などではないことは彼にとって幸運になるはずだった。
もしこの学校が有名進学校などであったら、彼の精神上の欠陥など鼻にもかけられず、ただひたすらに進学率を上げるために勉強漬けにされているだろう。
《だが、本当に高堀にとって幸運だったのか?》
担任は頭を抱え込まざるおえない。
高堀は有名私立に失敗してこの学校に来た生徒だ。もし有名私立に合格していればブロイラーのように管理され、大学に合格するためだけに生きていけただろう。
そして親の病院を継いで、えばりちらしながら一生を全うできるのではないか?
《だが、それを幸せと呼べるのだろうか?》
行き着く疑問はいつも同じだった。
当直室のドアがノックされたのは、同じ疑問にたどり着いた時だった。
ドアを開いた担任は驚いた。
そこに立っていた人間は、高堀だった。
笑顔を浮かべてはいたが、どこか虚ろな感じがしていた。
担任は不思議そうに高堀を見つめた。ハッキリ言って、教師にわざわざ会いに来るような生徒ではない。
「先生………実は相談があって来ました…………よろしいでしょうか?」
まあ上がれ、と担任は気さくに招き入れた。
「しかし………体調が悪いのか、高堀………顔色が悪いし目がボッとしているぞ」
高堀はビニール袋を差し出しながら返事をした。
「少し、風邪気味で……先生、アイスコーヒーの差し入れです。ブルーマウンテンですよ」
袋の中身は魔法瓶であった。
「いや………悪いな………」
高堀は担任がコーヒーに目がないことを知っていた。
実を言えば彼が有名私立に落ちて、この学校に入学したときから精神的崩壊は少しずつ始まっていたのだが、かろうじて『学年トップ』の地位が完全な崩壊を妨げていた。
横島あたりにとってみれば「牛丼特盛りの方がよほど価値がある」と言う程度の形容詞であったが、彼にとっては重要であった。価値観は人それぞれである。
その学年トップの座はピートに奪われた。
ピート自身もまったく意に介しておらず、ピートはピートで「唐巣先生の晩御飯の方がよほど価値がある」と言う程度の認識でしかない。
そんな地位は彼のささやかな努力の結果であって、別に望んでいたわけではないし、愛子のように周りの人間の嫉妬などまったく考慮していなかった。
彼は日本に居着いてから日が浅く、物の考え方や価値観がヨーロッパ的であったからだ。なぜ一番が恨まれるのか、彼には理解できない。
その点も、高堀は面白くない。彼の人格全てを否定されたようなものであった。
もっともピートはまったく悪くない。
確かに価値観は人それぞれだが、他人が勝手な価値観に付き合ってやる必要はまったくないからである。彼が面白くないのは、彼の勝手であった。
だからと言って、高堀にはピートに立ち向かう勇気もない。ピートはあらゆる点で高堀を上回っていた。せいぜいピアノの腕前と歌声ぐらいは勝てそうだったが、『そんなもの』で勝っても仕方がない、と高堀は考えていた。
そして遂に、彼は二桁の順位に『転落』しそうであった。
当然だが『』の表現は彼の勝手な評価基準であって、賛同してやる義理は誰にもない。
同じ人間である他の生徒に負けるのもなんとか諦めもつく。
だが………だが自分が二桁の順位に転落し、今度は『たかが』妖怪に抜かれるなんて我慢できなかった。
実を言えば妖怪うんぬんは関係がない。女性の姿をしていて、自分より『弱そうに』見えていただけだからだ。
そしてもう一つ、呆れるほど自分勝手なファクターがあった。
屋根裏部屋では恒例のシロとタマモの取っ組み合いが起こっていた。
毎度のことで一種のコミュニケーションのようなものだ。どうせケンカの理由は「キツネウドンはうまいかまずいか」ぐらいのことなのだろう。
パラパラと屋根のカスが美神の頭の上にふりかかる。
「…………退屈ねぇ」
美神はボウガンを手に取ると、無造作に天井にぶっ放した。
おかげで屋根裏は静かになったが、あまり退屈しのぎにはならなかった。
瞳には暗い情熱をともし、口元には誰にも届かない怨恨の呟きが漏れる。
憎悪とやり場のない怒りに合理性を欠いたまま暴れ続ける心とは別に、体は若干の震えのみを障害とし着実に仕事をこなしていく。
《僕が悪いんじゃない》
《なくなってしまえばいい。なくなってしまえば………》
《みんな喜ぶじゃないか》
《ママもしかたないって思うよ………》
《消えてしまえ、アイツ………》
そんな声にならない呟きを聞いてくれる存在は、彼の周りにはいない。
猛烈なプレッシャーとストレス。臆病さのために吹き上げることのできない怒り。
崩壊寸前の精神。そして生み出される狂気。…………それだけを、友として。
愛子は誰もいない学校の教室の窓から、ふと空を見上げた。
窓からの景色は、夏休みに入ってから行われる外壁塗装のための足組のせいで視界が悪い。しかし隙間から見える月は、ひときわ美しかった。
《無粋よね………》
愛子は足組に悪態をついて見せたが、どうなるものでもない。
普段この時間愛子は眠っている。誰もいない深夜の学校で起きていてもしかたがない。
当直の先生が好きな先生なら一緒にお茶を飲んだりする事もあるのだが、今日は担任の眼鏡の先生だ。悪い先生では決してないが、あまり乗り気もしない。
最近は心を入れ替えたドッペルゲンガー、暮井先生とけっこう妖怪同志ウマが合っている。
《それにしてもこの学校、ますます妖怪だらけになってきたわね……》
その中でもっとも古株である愛子は、やれやれとため息をついた。
以前美神さんが「横島や愛子など霊的存在の多さが妖怪を引きつける」と言っていたが、この調子でいくと本当に妖怪だらけになりかねない。
頭の痛いところね、となんら問題の解決に寄与しない結論を導き出してから、彼女は思考を打ち切った。
ではなぜ彼女がこの時間まで起きていたかと言えば、勉強をしていたからである。
つまらない理由だが、正確に言えば教えるための勉強をしていたのである。
横島は約束を守った。彼女も約束を守らなくてはならない。
《メーワクよね………》
思考とは裏腹に嬉しそうに悪態をつく。
《横島君、月と夕日、どちらが好きなのかしら………》
調子狂うわね、と彼女は教科書に視線を戻した。
独特の臭気を持つその液体は、撒いている本人の予想より早く気化を始めていた。
定まらない心とは別に体は単純に動き続けた。体を支配するものは、総括された黒い情念としか呼びようのないもの。
《いいんだ、これで》
彼の思考の全ては自己弁護と責任の擦り付けで構成されているのだが、本人にそこまで理解できない。
彼は無表情に空になった赤いポリタンクを放り投げると、機械的にポケットから何かの小箱を取り出した。
そして虚ろな笑みを僅かに浮かべて、焦点の合わない目つきで小箱から赤いマッチを取り出す。
その人物と愛子との三次元的な意味での距離は、互いの心情的な意味での距離よりもずっと離れてはいなかった。
不思議と目が冴えて、暇つぶしにコンビニへ立ち読みに行く途中で横島は足を止めた。
やけに美しく、冴え冴えとした月だった。
もっと不思議なことは、足を止めて月を見上げたことだったが。
…………どうも調子が狂いっ放しだ。
調子がおかしくなるのも不思議ではない。あんな不自然な理由であんな不自然な奴とあんな不自然なデートのモノマネをしたばかりだからだ。
「調子狂うよなぁ………」
彼は今度は声に出して、月に向かって愚痴をこぼした。
さらに彼を不調に追い込んでいるものは、何かを愛子に見すかされたのではないかと言う漠然とした感覚と、実に普段の彼らしくない行動をとってしまったことへの後悔だった。
常に共にいるチームの美神さんやおきぬちゃんに、彼自身を見すかされているとしてもそれはそれで仕方がない。
しかし友人とは言えそれほど多くの親交を持たない愛子に、『彼らしくない一面』を看破されたとなるといささか心穏やかではいられない。
『彼らしくない一面』こそ、彼の本質であるかもしれないからだ。
それを愛子に見すかされたかもしれない、と言う思いが彼の心を動揺させ、調子を狂わせている…………だとしたらカッコ良いのだが。
いまいち横島と言う人間の持つ個性はわからない部分が多いので、断言はできなかった。
そんな時、彼よりもさらに『美しい月』が似合わない男が背後から横島の肩を叩いた。
知らない人が夜道で会ったら必ず逃げ出す、と評判のいかつい男が親しげに横島に声をかけた。
「……………」
「誰?ってギャグはなしにしてくれんか」
「………そんなこと言うわけないだろ、タイガー」
「『………』が引っかかるんじゃが……」
【人物紹介 た行:タイガー寅吉>横島の友人A】
「それだけ!?それだけですかい!?」
《充分すぎるような気もするがなぁ》
横島はもちろん声に出しては言わなかった。
「ところでお前、なんでこんなところにいるんだ?」
「腹が減ったんでなじみのコンビニに夜食を買いに来たんですけん」
「なじみ?」
「ようやく最近、夜食を買いに来ても強盗に間違われんようになってノー」
「………苦労が絶えんな」
その瞬間、横島とタイガーは遠くの方からボウン、となにか間の抜けたような音を聞いた。
「?なんか聞こえなかったか」
「横島さん、あれは………」
タイガーが指さした方向から、モクモクと灰色の入道雲のようなものが沸き起こった。
それとともにかすかに輝く火の粉のようなものが見えた。
「………煙?火事か?」
「あれ…………学校の方じゃないかノー?」
「がっこう………野次馬に行ってみるか?」
「のんきですノー」
そこでタイガーはハタとあることに気がついた。
「…………横島さん、学校には夜、愛子さんが残ってるんじゃ………」
「………そう言えば………でも愛子ならだいじょうぶなんじゃないか?」
「横島さん………妖怪でも全体的には火に弱い……まして愛子の本体は……」
そこで横島もある事実に気がついた。
「………とにかく行ってみるか、タイガー」
二階の階段の踊り場まで本体の机を抱えて駆け下りてきた愛子は、火の海になっている一階を見おろして呆然としていた。
人間だったらそれだけで危ないところだったが、幸い愛子は煙に対してはまったく平気だった。
《火事!?》
とっさにそう判断した愛子は机を抱えて走り出した。
とりあえず逃げ出さなくてはならない。煙は平気だが、本体の机は木製だ。愛子が机から変化した妖怪である以上、その本質は変わらない。
とりあえず愛子は二階に戻った。窓の方に目を移すと、塗装工事用の足組が燃え上がり始めていた。いやむしろ、丸木を組み合わせてある足組の方が火の廻りが早いように思えた。
本来これらの工事は学校が休みの間に行われるべきものだ。だが工務店なりゼネコンなりの都合で、工事を早めたり遅めたりする事はしょっちゅうある。
工事の正式な開始時期は、あくまで役所に出される書類に書き込まれた日付だ。足組ぐらい試験期間前に組んで置いてもどうという事はなかった。
その意味で言えば、愛子は完全にツキに見放されていた。
炎は、置きっぱなしのペンキにも引火したようであった。
《ここもすぐに火が廻るわ》
愛子は冷静に判断した。次に手近の非常口のノブに手をかけてみた。
「熱っ!」
愛子はものすごい熱を感じてあわてて手を引っ込めた。
《ノブに熱が伝わっていると言うことは、ドアの向こうは火の海だわ…………強引に開けたりしたらバックドラフトを起こしちゃう!》
とりあえず逃げ道は上にしかない。だがそれは時間を稼ぐ程度の意味しかない。それと引き替えに、ますます脱出は困難なものとなるだろう。
この状態の中でも愛子はとにかく状況を分析する。
《この火事でスプリンクラーも作動しない、警報も鳴らない……非常口の外にまで火が廻っている……それに何よりも、一階全体の爆発的出火、この火の廻り方の早さ………そしてこの煙の臭い………ガソリンが混じってる……》
「うぅ………たす………」
愛子はそこまで考えたときに、廊下の端の愛子がいるところとは別の階段の方から、苦しげなうめき声が聞こえてきた。
《誰かいる》
とりあえず愛子はそちらの方へ走った。
階段の二階に上がりきったところで、誰かがうつ伏せに倒れ込んでいるのを見つけた。
若い男だ。もしかしたらうちの学校の生徒かもしれない。
愛子がそう考えたとき、男はうめいた。
「いたいよ………たすけてよママ………」
なんとも情けない声に愛子は一瞬悪寒を覚えたが、そんなことを言ってる場合ではない。
「ちょっとしっかりしなさいよ!こんなところでへたりこんでる場合じゃないわよ!!」
愛子は男の襟首をひっつかむと平手打ちを喰らわせようとして、その手を空中で止めた。
「あなたは…………」
愛子は驚いて目を剥いた。男は愛子の知っている人物であり、彼女と横島のクラスメートであった。もっとも横島はまったく覚えていなかったが。
そして愛子は、全てを理解してしまったように思った。
「高堀君…………」
愛子は煙には平気だが、高堀はそうはいくまい。
「痛い、イタイよママ………」
「何を言ってんの!大した火傷じゃないでしょ!!」
愛子は気持ち悪さを押さえ込んで怒鳴りつける。
恐怖による一時的な幼児退行かしら、と愛子は考えた。
幼児退行は極度に精神が圧迫された際、精神崩壊を防ぐための心の緊急回避行動だ、と精神学では説明されている。
だが何となく、愛子はこの高堀の場合そうではないように思えた。普段の高堀から感じられた本人の『本質』のようなもの………例えば横島などからとはまったく異質なものを愛子は感じとっていたのだ。
「答えてもらうわよ高堀君…………私が妖怪であることを忘れてないでしょうね?」
愛子は横島やピート達には決して見せない怒りの表情で、高堀の喉元を捻りあげる。
愛子は胸の中では怒りと共にやるせなさを抱いていた。こんな行動は彼女の真意でも本望でもなかった。
彼女のモットーは『明るい青春、楽しい学校』である。
それがどうだ。学校は燃え上がり彼女はクラスメートを締め上げている。
しかも脅し文句に自分が妖怪であることを利用し、妖怪らしく振る舞わねばならないとは。
《少しは妖怪らしくしたらどうだ、か………》
なんでこんな時に横島君の言葉を思い出してしまうのかしら、と彼女は自嘲気味に考えた。
伊達に古株の学校妖怪ではない。高堀が自分より弱いものには強く、強いものには弱い官僚的な性格であることを見抜いていた。そのつまらない性格を利用するのだ。
愛子は口の端をつり上げ、犬歯を見せながらニッと笑って見せた。
高堀はヒィィ、と涙と鼻水を垂らしながら情けない悲鳴を上げた。噛まれる、とでも思ったのかもしれない。
高堀は愛子をなめていた。自分よりずっと弱いと思い込んでいた。
くどいが、思い込んだのは彼の勝手である。
しかし愛子はどうしようもなく情けなく、内心イヤでイヤで仕方がなかった。
「………もっとも簡単に言うと、あなたは模試を中止させるために学校に火を付けたのね?」
母親に怒られる幼稚園児のような情けない顔で高堀は頷く。
「ご丁寧に警報もスプリンクラーの回線も切断して、非常口にまでガソリンと灯油をまいて、急に怖くなって『思わず』上へ逃げてきたのね?」
「…………どうか、どうかしてたんだ」
「ど・う・か・してるわよ!!」
愛子はギリギリと喉元を締め上げた。
なるほど、それならたいした火傷を負っていなかったわけだ。あらかじめ距離を置いて火を付けるぐらいの目先の判断は働いたのだろう。
「おかしかったんだ………自分が自分でないみたいで…………火を付けるまで夢の中にいるようで………炎を見たとたんに、正気に戻って、混乱して………」
「…………今度は悪霊のせいにでもしたいわけね」
愛子は無造作に手を離し、高堀は無様に倒れ込んだ。
犯人はそれまで自分が何をやっているか判らず、とんでもないことをしでかした直後にその事態の大きさのために正気に戻ることがある。
一種の心身喪失症のようなものだ。だからと言って高堀を許してやる気には愛子はなれなかった。
「あれだけ大量の灯油とガソリン、何処で手に入れたの?」
「家が病院で……備蓄しておくところがあって………」
「誰にも咎められないで………そうだ!先生!!当直の先生はどうなったの!?」
愛子は真っ青になった。一階で逃げ遅れていれば、今頃ケシズミだ。
「…………先生はコーヒーに仕込んでおいたハルシオンで眠らせて、外に運び出しておいた………」
「病院から盗んだのね?」
愛子はホーッと安堵のため息をついた。さすがの高堀も殺人を犯したくはなかったのだろう。ただ先生が邪魔だっただけかもしれないが。
それにしてもずさんな計画だ。こんな犯行がばれないとでも思っているのだろうか?
《肝心な想像力や洞察力が欠如している》
そんなことを考えても、事態はまったく好転しなかった。それどころかますます悪くなる一方だ。
《気づいていたのに………高堀君がとんでもない行動にでそうな怖い人だって……》
しかしこの事態はとても愛子の想像を超えていた。思いつきもしなかった。
高堀は愛子と視線を合わせないように、か細く答えた。
「…………これ以上成績が落ちて順位が下がったら、両親の志望している大学に行けなくなるから………」
「火事ならしかたないだろう、と言う事ね?これっぽっちも自分に責任を持ちたくなかったのね!!」
愛子は強烈なケリを高堀のアゴにぶち当てた。
高堀は意味不明のうめき声を上げながら無様に床の上を転がり、のたうった。
「最低だわ………私の学校に火を付けたことだけじゃなく」
「……………」
「あなたは他人に言われるままに生きているのよ。それがうまくいっている時はいいけど、少しでも歯車が狂うと他人のせいにして逃げることしか考えないのよ!」
「ぼ、僕は………」
「逃げることが悪いことじゃないわ………戦って戦ってそれでもダメなときには、逃げることもしかたないわ………でもあなた、一度も戦ってないじゃない!それがあなたの『正体』よ!!」
突然愛子の本体である机が変身した。
普通の木製の机から、文字どおり『机の妖怪』と呼ぶにふさわしいグロテスクな姿へ。
《もうこんな姿になりたくなかったのに……》
その姿は初めて横島と美神に出会い、彼らを自分の異空間に取り込んだときの姿だった。
机の引き出しから長い舌が伸び、高堀を捕らえた。
「ヒィィィッ!!許してぇ!!く、喰われる!!!!」
「だぁぁぁれがあんたなんか喰うものですか!腹痛起こすわ!!」
そんな愛子の言葉とは裏腹に、高堀は情けない悲鳴と共に机に取り込まれた。
高堀を取り込んだとたんに、机は元に戻った。
「…………普通の人間には、私の異空間の中が一番安全だわ……あんなのでもクラスメートを見殺しにしたんじゃ、寝覚めが悪いもの………」
床がだいぶ熱くなってきた。もうすぐここにも火が廻ってくるだろう。
《もっとも、私が焼け死んだら彼もおしまいだけど………連れ歩くのは、はっきり言って足手まといだし》
ドラえもんは自分の四次元ポケットに自分が入り込み、跡形もなく消えてしまうと言うとんでもない自己矛盾を抱えた芸の持ち主だが、もちろん愛子自身が自分の異空間に逃げ込むことは不可能だった。
《とにかく上へ逃げなきゃ………残念だけど助けを待つ以外に方法がないわ》
愛子は机を抱えて歩き出した。
でも、誰が助けに来てくれる?
高堀君はともかく私が校内にいることを知っていても、レスキュー隊員がこんな猛火の中で机の妖怪を助けに来てくれるなんて考えられない。
しかし、愛子は助けが来ることを信じていた。あきらめるわけにはいかない。
《……………私は、誰の助けを期待しているの?……………》
学校にたどり着いた横島とタイガーはひきつりながら呆れた。
学校は実に見事にぐるりと火に囲まれ、火勢は三階にまで届きそうになっていた。
《この世界の創造者はそーとー底意地の悪い奴だな》
横島は匙を投げた。もっとも、彼は学校が燃えてしまったところでこれっぽっちも困らなかったが。
ぞくぞくと消防車が集まってきていて、野次馬もぞくぞくと集まってくる。
もう一部の消防隊が消火活動を開始していたものの、『焼け石に水』のことわざを実演して見せているかのようだった。
「愛子さん………いませんノー………」
タイガーと横島はあちこち見回してみたものの、机を抱えた女子学生の姿はなかった。
「そこ!危ないから下がりなさい!!」
横島とタイガーは突然消防士から叱責された。校舎に近づきすぎたのだ。
「すんません………机を抱えたここの女子生徒は救出されましたか?」
横島のなんだか間の抜けた質問に、消防士は胡散臭そうな表情をした。
「当直の先生は外に倒れていたところを発見したが………この時間校舎の中には誰もいないはずだ」
「横島さん………やっぱり………」
「外に逃げた可能性がないわけじゃないだろ」
「さっきから精神感応で探しているんじゃが、見つからんのじゃ………愛子さんは妖怪だから人間と違う波長で、すぐにわかるはずなんじゃが………」
「学校から遠く離れたってことは?」
「学校妖怪がですかい?」
消防士はいらいらと横島達を強引に下がらせた。
横島は何か考えた後、ぽん、とタイガーの肩を叩いた。
「タイガー………君は勇敢な男だ………実に素晴らしい………」
「………ワシには助けに行く能力なんかないですけん」
「ここに予備の文珠がある。これで君も一躍ヒーローだ」
「ワシ文珠なんて扱えん」
「初心者でも3分の練習でプロ並みだ」
「…………インチキな通信教育みたいじゃノー」
ゴウ、と火勢が強まる音が彼らのいるところにまでハッキリと聞こえた。
「………横島さん、はっきり言ってマジにならざるおえんけん。消防隊は愛子さんを救出できそうもない………ピートさんがおれば、『バンパイアミスト』なりで何とかできるかもしれんが、ピートさんは不在らしい………。愛子さんのことだからまだ無事だろうが、学校中が燃えたらアウトじゃけん」
「……………」
「………残念じゃが横島さん以外にはどうにもできそうもない。友達を助けるために、ワシからも頼むですけん!」
タイガーは手を合わせて横島に拝み込んだ。
「………調子狂うよなぁ」
やれやれ、と言うように横島は頭を掻いた。
「今、愛子に死なれると非常に困るしな………」
「横島さん…………」
「タイガー。俺の霊能力の源を知っているな?」
「?煩悩ですかい」
「おまえの精神感応力を使って俺の頭に直接(ピー)なイメージを叩き込んでくれ」
「はあ??」
「だから、美神さんでもエミさんでもいいからきっつい(ピーーー)なイメージを俺の頭に直接叩き込むんだ!!」
「な………なんですかいそりゃ!ワシはイヤですけん!!」
「俺だってイヤじゃ!!だが文珠が足りん!霊力が足りん!おまけに資料(?)もない!想像力だけで補うには時間がかかり過ぎる!!」
「……………漫画のヒーローはもっとかっこいいもんだと思うんじゃが……」
「グダグダ言ってる暇はないぞ。とにかくやれ!ただしおきぬちゃんや小鳩ちゃんは不可だ!」
「…………なぜですかい?」
「嫌がる人もいるから………いや、そんなことはどうでもいい!ガツンとやれ!具体的にだ!!」
「しかたないノー…………これも友達を助けるためじゃ……フン!!」
突然横島は鼻血を吹いて卒倒した。
「…………やっぱりおまえ年齢ごまかしてるだろ!?なんでそんなに具体的に(ピーーー)と(ピーーー)が(ピーーー)な(ピーーー)を(ピーーー)するイメージができるんだ?」
「横島さんがやれと言ったんじゃろが………それよりどうですかい?」
「ああ………バッチリだな………イヤすぎるけど」
横島がゆっくりと開いた手から文珠が数個現れた。
また学校の方へノコノコと近づこうとする巨漢とバンダナの男を見咎めて、同じ消防士が叫んだ。
彼は職務に忠実であり、一般市民を守る名誉ある仕事に就いているだけであり、社会になんら迷惑をかけたことはない。
だが横島とタイガーは障害として、彼を排除せねばならなかった。
「じゃあタイガー、後頼むわ………イヤだなぁ」
突然バンダナの男の方が校舎の入り口に向けて駆け出した。
「おい!待て!!」
彼と何人かの消防士が横島を制止しようとしたが、突然ほうけたように立ち止まり、首を振りつつ元の部署へ戻っていった。
「ワシができるのはここまでですけん………後は頼みますけぇ」
消防士に精神操作を施したタイガーは燃え上がる校舎に目を移した。
《どーせワシがあおらんでも助けに行ったくせに……難儀な人じゃ…………》
5階のその部屋の茶色や透明な瓶に詰め込まれた液体は、封をされたまま徐々に気化を起こしていた。
まずいことにそれは一瓶だけの現象ではなく、多種多様の瓶に詰められた液体が等しく同じ反応を起こしている。いつ連鎖反応を起こしても、不思議ではなかった。
物に心があるなら、爆発を心待ちにする時限爆弾の心境に近かったろうか?
屋上に逃げられれば良かったのだが、たどり着く前に炎に道を塞がれてしまっていた。
《八方塞がりね》
もう階下へは逃げられない。ギリギリまで時間を稼いだがそれも限界に近づきつつあった。彼女はもっとも火から遠い教室に逃げ込んだが、ここまでだった。
すでに火は教室の入り口に達していた。
この階の窓までは足組は届いてなかったが、飛び降りることも不可能だったし、壁が盛大に燃えている以上脱出用のシューターも出すことはできなかった。
《学校妖怪が学校と滅ぶのは本望かもしれないけど………高堀君と一緒じゃ浮かばれないわ》
もっとも妖怪が滅んだら地獄に行くのか天国に行くのか、彼女にはまったく想像することもできなかった。
《ヒーローの救出を待つなんて、ガラじゃなかったかしら………》
彼女は苦笑した。こんな状況で