Epilogue――終章――


 その霊がそこに居るようになったのは、つい最近の事だった。
 霊にとってはそこが何処であるかなどはどうでも良かった。ただ、何かを思い出せそうで思い出せない……もどかしさだけを、霊は感じていた。何が、自分に足りないのだ?
 霊は考えた。自分がここに居るのは何故か。霊の記憶には、その様なことはなかった。……ただ、何か、自分は……何かの為にここに来たような気がする。ここからは動けないし、動こうとも思わなかったが、その為に、霊は得体の知れない焦燥感を感じた。
 感じ続けた――――
 

 不意に、霊の感覚に何かが入ってきた。既に長い時間、外界からの情報など霊には入ってきては居なかった。刺激が入るのはいつ頃ぶりだろう。それとも、実はそれほど長い時間は経っていないのかも知れない。……だが、霊にとっては同じ事だった。最早、こんなモノにたいした意味はないという点で。
 音。
 ザッ ザッ ザッ…………規則正しい音。辺りは闇に包まれている。これは何の音だろう? 霊は考えた。思い出せそうで思い出せない。……何か、ぼんやりとしたものが何処かで自分の考える事を邪魔している。……霊はその『何か』に怒りを感じた。
 更に、声。
「……居たか」
 その声には意味があったように、霊は思った。思い出せないが、何故か悲しくなってくる……野太い、声。
「探してたぜ…………お前だけは、俺がやらなきゃ……駄目だしな」
 霊はその躰を震わせた。途方もない寒気を感じる。何かが止まらない。……その声は、霊の精神を激しく揺さぶった。
「俺は……これからお前を、『除霊』する」
 震えは止まらない。霊は考えた。この震えは何なんだ? どうして自分は震えているのか? そして……この声は、何なんだ? 自分を震えさせる、この声は……何なんだ?
 疑問に答えは出なかった。
「お前は……昔、教師になりたいと言っていたな」
 語る、声。意味の取れない、音。
 ただ、躰の震えは増す。声が続く限り、止まらない。収まらない。
「お前は……もう、何もなれない。……これは、もしかしたら俺の所為なのかもしれない。俺が……だからせめて……俺が……!」
 不意に、霊に光が見えた。その光は霊に今まで見えていた漆黒の暗闇を圧倒し、一瞬にして霊の感覚を覆う。
 ……そして、光の中に黒い影が立っていた。
 全身から何か紅いものを滴らせながら、その場にただ直立しているその影は、その右腕に何かを持っていた。霊自身にもかすかに判る。……だが、動けない。
「今のお前は、只の焼き付きだ。この世にもう、お前の居場所はない……」
 そして、影は右腕に持った綺麗な石を、霊に押し当てた。……静かに、呟く――――
 そして、霊にもそれが……不思議と、理解できていた。
「精霊石よ……この霊を……成仏させてくれ……」
 そして、霊は自らの感覚が、急速に曖昧になってゆくのを感じていた。その、途方もない喪失感の中で…………
 霊は、全てを思い出した――――
 

 彼――伊達雪之丞は、満身創痍の身体を引きずりながら、精霊石を作動させた。
 聖なる石は、雪之丞自身の意思に関係なく、その霊を極楽へと導くだろう。……そして、雪之丞の眼前の霊は今、急速にその存在感を失いつつある。
「これで……いいだろう? 俺は……忘れないからな……お前を、地縛霊なんかにして……たまるかよ……」
 薄くなり、消滅しようとしている霊に、呟く。
 血液とは違った液体が、コンクリートの地面に落ちる。……心をコントロールする事の出来ないが故に存在する、弱さの液体――だが、雪之丞はそれを払おうとはしなかった。ああ、ママ。結局俺は何も変わっちゃいなかったよ…… 弱いまま……弱い俺のままだ!
 雪之丞は消滅しつつある霊を見つめ続けた。光が霊を包み、その光の中に薄れた霊の躰が飲み込まれて――
『さよなら…………伊達サン』
(……!)
 愕然と霊を見つめる。
 霊の姿は、もう、なかった。……その名残として残る精霊石の残光も、既に消滅しつつある。
 止まりかけた涙が、また涙腺から溢れ出して来た。……だが、雪之丞はその涙を、今度は振り払った。
 そして、きびすを変え歩き出す。全身の激痛を霧雨に感じながら、ただただ歩きつづける……
 行く当てなどはない。
 もう香港に未練などはない。
 それでも俺は行かなくちゃならないんだ……
 前方に視線を向けたまま一度立ち止まり、雪之丞は一言、呟いた。
「告別(ガオビェ)……明飛」
『じゃあな……明飛』

――The end and to be continued another story…――


※この作品は、ロックンロールさんによる C-WWW への投稿作品です。
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