II Into the scarlet――夕暮れに通り過ぎる――
――君にとっては……死、それすらもどうでも良いのかも知れないね――
――2001年 2月10日 15時50分(中国中央部標準時)土瓜湾 倉庫街――
同じ場所で神経を尖らせ続ける事は、結局のところ何ももたらしはしなかった。ことに、それが生命が掛かった問題だったとしても、伊達雪之丞にとっては違いを見出せる程のことではなかった。
(結局のところ……待ってるだけじゃ終わらないって事か……)
嘆息し、一歩を踏み出す。飛んで来るかと思われた銃弾は、結局何処からも飛来しては来ない。ナーバスになり過ぎていたか……もしくは、相手側に何か事情があるのかは知らないが。
雪之丞は歩き出した。……どちらにせよ、こちらとしては終わらせなければ話にならない。向うから終わらせる気がないのなら、こちらから出向くしかないだろう。
先程から注意を払っていた物陰の一つに目を向ける。こちらが無防備な状態で歩いているというにもかかわらず、相変わらず気配の尻尾すら感じない。余程熟達した隠密者が潜んでいるか、あるいは、元より誰も潜んでいなかったか。……確認する方法がこちらにない以上、結局のところ慎重になるほかはない。
(それとも……こちらから動くのを待っていたのかな?)
気配の尻尾が見えた。
雪之丞は前触れなく、その場に伏せた。ボウガンのものと思われる矢が頭上を通り過ぎてゆくのを見送り、矢の射出方向に眼を向ける。……と同時、隠し持っていた小石を投げつける。
「クッ」
相手が顔を庇う為に顔を覆ったのが好機だった。
「シッ!」
一息で間合いを詰める。ボウガンは至近距離ではその真価を発揮する事は出来ない。相手が次の矢を番える前に、鳩尾に拳を埋め込んでやる。
「グェ……」
蛙が轢き潰されたような声を出して倒れた狙撃者を見下ろし、雪之丞は嘆息した。
(……こいつだけ……か?)
先程まで感じていたプレッシャーは、もう感じない。つまりは雪之丞に殺意を抱いている人間がこの場から居なくなったということだが、何かが引っかかる。
(こいつ……訓練は受けているが、暗殺のプロじゃない。……ただ、ボウガンをもって隠れていただけだ……)
自分の感覚を疑うわけではないが、気配を掴み損ねたということで、昔より大分感覚が鈍磨している事が分かる。……しかし、流石にこの男一人なら分かったはずだ。先程まであった気配はこの比ではなかった。
(二時間前って所か……気配が減ったのは……)
曖昧な時間間隔でそれだけを推し量る。気配の減少は正確には掴めなかったが、それでも分かったことはある。
(時間稼ぎ……ってことか)
撤退に際し一人を残していったのは、雪之丞の感覚を欺こうとした為に他ならない。……そして実際に、自分は二時間近くも足止めを喰らってしまった。
(俺を欺いて『瀦双秀』が行かなきゃならん所と言えば……事務所?……いや、あんなトコに大金は置いてないしな……)
それに、相手の目的は金ではない。
雪之丞は何故かそれだけを確信していた。……そう、金ではない。
(殺された奴の名を名乗る……か。俺に恨みがある証拠だな)
腹の底に溜まる重い何かと共に、そう、認識する。……そう……瀦双秀は俺の為に殺された……?
(いや、考えちゃ駄目だ……)
今はここで鬱になっている暇はない。
ここで雪之丞が足止めを喰らっていたと言う事は…… 相手の目的は、明飛。……今、啓徳空港跡地で依頼をこなしているはずの明飛に違いない。
「あの……馬鹿!」
雪之丞は走り出した。啓徳空港は近いが、それでもここからでは走れる距離ではない。タクシーをひろってもいいが、こんな倉庫街まで足をのばすタクシーがあるとも思えない。
走る。それすらもやらねばならぬことならば……自分は……伊達雪之丞は……やり遂げなければならない。
絶対に。
――16時30分(中国中央部標準時)啓徳空港跡地――
「ま、金で雇った囮部隊なんて……だいたいこんなモンかな……」
狂四郎は呟き、夕闇の迫り始めた飛行場跡地を睥睨した。……視界にかかる前髪を、鬱陶げに払いのける。……ついでに、手に持っていたトランシーバ型の盗聴端末を、その場に軽く投げ捨てる。
全てが……予想された上での全てが、上手く行っている。……あとは……そう、あとは主賓の来場を待つのみ。
(早く……おいでよ。伊達雪之丞……僕は待ち遠しくて仕方がないんだよ……)
伊達雪之丞の来訪を待つのみ……
狂四郎はその場で軽く伸びをした。
(伊達雪之丞……君はどんな顔をしてくれるかな? 僕はやるべきことをやった……後は君が僕のところまで来る……それだけなんだよ?)
手が震えている。……これは悦びの為のものなのか?……いや、躰全体が震えている。……もうすぐだ。もうすぐ君に会えるよ……
早くおいでよ……伊達雪之丞……僕が君を裁いてあげるんだ……
――16時43分(中国中央部標準時)土瓜湾 倉庫街――
延々と変わらぬ風景はいつもより余計に肺を痛めつけ、魔装術の使用から来る霊的な疲労は重く身体の中に沈殿して行く。
(い……行けるトコまで行っちまったな……)
雪之丞は立ち止まった。……短時間で呼吸を整え、再び走り出す。……走り出してから3回目の休憩。マラソン選手は2時間強で40キロ強を休みなしに走るらしいが、何分速度が段違いに違う。入り組んだ倉庫外の地形は、容易に、走った距離を勘違いさせ、体力を余計に消耗させてくれる。
(……くそ……今どの辺だ……)
酸欠により、頭が朦朧としている。魔装術の装甲(兜含む)を纏っている為、入ってくる空気の絶対量も少ない。霊力の鎧だろうが何だろうが、実体化している以上空気の進入も一緒に防いでくれる。……つまりは息苦しいのだ。物凄く。
ふと、前方に海が見えた。
(九竜湾(ガウルン湾)……!……てぇことは啓徳空港跡はもうすぐか……!)
九竜半島東部に位置する人工湾――九竜湾。啓徳空港の着工と共に進められた埋め立てにより造り出された人造の湾。
つまりは。……その湾が見えたのならば、その湾が出来る元となった啓徳空港も見えるはず。既に大部分が取り壊されているとは言え、その偉容だけはまだまだ現役であるはずだ。
雪之丞はその湾に飛び込まんばかりにスピードを上げ、海の手前で立ち止まった。
「…………見えたぜ……」
数年前、友と共にかつての仲間を殺したとき、この地に降り立ったのは、あそこからだった。その苦い記憶と共に脳裏に焼きついた姿とは大分違う。……そう云えばあれ以来ここを訪れた事はなかった気がする……
啓徳空港。
瓦礫と廃墟と工事機械の混在する無人の空間へ向け、
雪之丞は再び走り出した。
――16時57分(中国中央部標準時)啓徳空港跡地――
(ついた……か)
あがる呼吸を押さえ込み、雪之丞は滑走路跡をゆっくりと歩いた。どちらにせよやるしかないのならば、闘う為に少しでも体力は回復させておかねばならない。その為に、魔装も一時解除する。
(……西の工事現場……)
視界の中に、小さく写る工事機械の群れ。逆光が眩しいし、あそこが明飛が目的としていた工事現場だろう。
(……依頼人は……キャンスーラオ……電話であちらから言っていた……)
その名前に文字を当てはめてみる。キャン……狂……? スゥラオ?
(! 狂四郎(キャンスーラオ)!……日本人か!?)
キョウシロウ。……それが相手の名前。
これで、相手が提示してきた経歴が全て偽りのモノである事がハッキリした。……依頼の電話によると、香港人実業家だという事だったが。……それは仮面。本当の狂四郎は、自分を罠に嵌める為に明飛を使い、さらに自分をおびき寄せているということになる。
「あの馬鹿……! 戻ったら折檻の嵐だ畜生……!」
とりあえず捕まっているであろう助手に八つ当たりし、雪之丞は前に進む事に専念した。……堂堂巡りの思考を繰り返しながらも、足は着実に前へと進む。……そして、それにつれ、精神は否応なく、戦闘的に洗練されて行く……
工事機械の群れがすぐそばに見える。いつのまにかかなり近くまで来ていたらしい。……その工事機械に向けるつもりで、雪之丞は大音声を上げた。
「オイコラッ!! 何処の誰で俺に何の恨みがあるんだか知らねぇが……ここまでやってくれたからには覚悟は出来てンだろうなっ!?」
………………………………返事は、なかった。予想していたことでもあるが。
さらに言うならば、返事がないという事は身を隠しているということでもある。……感覚を研ぎ澄まし、相手の気配を探ろうとする…………が、出来ない。先程の男の比ではない隠密術だ。敵は隠れた。自分の居場所は察知されているであろう。更に人質まで取られている。何にせよ、自分が不利な事には変わりない。
「返事がないな……ないならこっちから……行くぜッ!!」
言葉と同時。
雪之丞は魔装を纏い、全身をバネに変じて跳躍した。……それとほぼ同時。何処からか飛来した霊弾が、雪之丞の立っていた場所の地面を直撃する。
「……そこかッ!!」
コンパクトに纏めた霊気の弾丸を散射。……敵のいる辺りを、霊気の散弾で蜂の巣にする。
「……!」
相手の姿が見えた。低い姿勢で工事機材の合間を走りながら、こちらに狙いを定めている。こちらは空中。……逃げ場は……ない!
「……ちィッ!!」
雪之丞は空中で身体を丸め、魔装の装甲で一瞬を待った。
ど……ん…………
直後、腹部に凄まじいまでの一撃を喰らい、上空できりもみしてバランスを崩す。……そのまま、雪之丞は地面に叩きつけられた。
「う……く……」
「その程度かい……? 伊達雪之丞……」
「……! テメェが……狂四郎……か?」
雪之丞の前に余裕たっぷりの姿で現れたのは、やはり上空から見た姿と同じ、若い――もしかすると雪之丞自身より若いかもしれない――青年だった。……癖の少ない素直な黒髪をざんばらに刈り込み、上等なスーツに身を包んだその姿は、確かに青年実業家でも通じるものがあるだろう。……ただし、その青年の眼を見ていなければ。
その眼は…………昏かった。昏い……悦びが、眼の奥に燻っている。……歪んだ……喜悦の光……
「……驚いたよ。……確か本名は名乗っていなかったはずだけど?」
「思いっきり広東読みの本名を名乗っておいてそう来るか……? 瀦双秀を殺したのも……テメェか?」
この事件の発端となった依頼人を引き合いに出す。
「ん〜……半分当たり、もう半分は間違い……かな?」
「何……?」
「じゃ、説明しとこう。……『瀦双秀』は……僕だよ」
「! 何だとっ!?」
「まぁ、もうちょっと黙っててよ。正確に言うと僕の偽名の一つ。香港での偽名だよ。君を釣るのに都合が良かったんで、GS助手の募集受けてた。ただそれだけの存在」
「馬鹿な……じゃあ……あの時俺が感じた血臭は……」
確かにあの時、あの安アパートの一室には血の臭いが充満していた。……薄かったとは云え、雪之丞の感覚を欺き通せるものではない。
「そう……本物だよ。ただ、ちょおっと『仕事』を一件あそこでやっただけ。流石に血の個人差までは分かんないでしょう?」
「……それだけ……たったそれだけの為に……テメェは人を一人殺したのか? 全く関係のない他人を……殺したのか!?」
雪之丞は立ち上がった。先程受けた霊弾のダメージは、最早感じない。魔装が霊気を分散させてくれたお陰だ。
「まぁ、君にとってはそうだろうね……」
狂四郎は言いながら、雪之丞から距離を取った。こちらも身構える。
「でもね……伊達雪之丞……」
突如、凄まじい霊気が狂四郎の身体から放射される。狂四郎の身体は、その霊気に完全に隠れた。……しかし……これは……
「『僕にとっては』そうじゃないんだよ……」
霊波の殻が消える。
「『それだけ』なぁんて言葉では表されない……僕にとっての正義……」
広がる白髪。
「君はね……僕の兄さんを殺したんだ……」
一回り巨大化した身体。
「君には、どうしても味わってもらいたいんだよ……」
黒を基調として、鎧われた全身。
「僕と、兄さんの、苦しみを……ね」
そして……能面の如き仮面。
(これは…………!)
魔装術。
しかし、これは……この形状は……細部こそ違えど……似ている……いや、同じ。……これは、同じモノだ! 『アイツ』の魔装術と……!
「テメェ……まさか……」
「改めて名