――2001年 3月25日 13時20分(日本標準時)東京 とある高校前――

 卒業。
 人生の節目であり転機。――そう、思いたい。マトモに通っていた訳ではないが、3年間通っていたこの高校には、自分なりに愛着もあり、執着もある。
 ……などと思いつつ、横島忠夫は、ひとり校門の前に立っていた。
 卒業式はつつがなく終わり、これからは卒業生たちの時間。即ち、お別れ会やら飲み会やら集会やら『また会おうね』とか涙目をして誓い合う女子の集団やら、エトセトラエトセトラ…… その中を一人、立っている。半眼で。
 無論、訳もなくただ立っているわけではない。横島は先ほどから人を待っていた。
「あ、いた!」
 不意に、背をもたれかけていた門柱の脇から――いや、上から、声が降って来た。聞き覚えのある声――聞き間違えようもない声だった。
「愛子か……?」
「何やってんの、横島クン! もうお別れ会始まってるのよ!?」
 心底腹を立てたように食掛ってくる愛子。その気持ちは横島にも心底――本ッ当に心底分かった。彼女にとって……恐らくこれが、初めての『お別れ』なのだ。ウン十年間高校生をやってきて……初めての。琥珀色の絵画にしか過ぎなかった世界が現実となった――初めての、悲しい……そして嬉しい出来事なのだ。
 それ故に……自分が彼女の期待に添えないことには罪悪感を感じた。
「……悪りぃッ! 実は今日、これから仕事が入っちまってるんだ! 大丈夫、間に合えば二次会にはキチンと顔出すからよ! 皆で楽しんでてくれや!」
 努めて明るく。横島は、いつもの自分に見えるように、細心の注意を払いながら言った。目の前の愛子の顔が、初めは驚きに――そして、落胆に曇るのが、はっきりと見て取れる。
「う……そうなの? でも、やっぱ一度しかない青春の記念なんだから、美神さんも許してくれるんじゃ……ホラ、タイガー君だっているし。今日実は仕事が入ってたらしいんだけど、エミさんが許してくれたんですって」
「いやホントごめん。今日の相手は強敵だから、俺のサポートがないと駄目なんだってさ。これを断ったら、生きて行く為に必要な最低限のカロリーすら摂取できなくなっちまう」
「う……分かったわ。みんなには私からそう言っとく。でも、二次会には絶対顔出してよ?」
「ああ、それは約束する。飯代を浮かせるチャンスだからな」
「……分かった。じゃ、待ってるからね!」
 そういい残し、愛子は机を担いで去ってゆく。途中、クラスの女子たちと校門で出くわし、なにやら話しながら校舎の中へと入ってゆくのが見え、横島は嘆息した。何とか誤魔化せたらしい。
 意識を目の前の路地に戻して程なく、こちらもまた聞きなれたコブラの排気音が聞こえてきた。待つことしばし、遠くに、明らかに過積載の真っ赤なスポーツカーの雄姿が見えてくる。
 ほどなくコブラは横島の眼前に停車した。二人乗りの車に、既に四人。美神におキヌ。それに、シロにタマモはそれぞれのシートの後ろに掴まっている。何にせよ、道路交通法を毛ほども恐れぬ暴挙ではあった。
「横島クン、乗って。ちょっと遅れてるから、急いで現場に向かうわよ」
「何処に乗れと…………」
 余りにも無謀としか言い様のない美神の言葉に、横島は多少の畏怖をすら抱きつつお伺いを立てた。この場合、聞き方が悪いと拳やら肘やら銃弾やらが飛んでくるので、ある意味命がけの提訴ではある。
「嫌なら走ってもいいけど?」
 笑顔で、美神。再び出掛かった溜息を押し殺しつつ、横島は従順に頷いた。たとえトランクの中でも、ひたすら目的地まで走らされるよりは幾らかマシだろう。努めてそう考えることにする。
(ま、いつもの事だしな……)
 諦めもあるかもしれない。胸中でだけ、素直にそう認めておいた……
「横島クン、乗った?――じゃ、いくわよッ!!」
 美神除霊事務所の面々を乗せたコブラは、真昼の街路を疾走して行った――


GSM MTH5
Jumpingoff point――弱者の旅立ち強者の彷徨――

――3月26日 0時50分(日本標準時)千葉 新東京国際空港――

 日本に帰ってきたのは、だいたい一年ぶりだった。ひと時すらも時が同じ所に止まろうとしないこの国らしく、空港内の様子も、少し――いや、大分……か――変わっていた。それが空港内の事だけではないことは、雪之丞には、これまでの経験上容易に予想できた。
(変わっているのか……いないのか。そんな事は俺の知ったこっちゃないけど……よ)
 雪之丞はエントランスを潜り抜け、春先の日本の、据えた空気をしばし楽しんだ。思ったとおり、少し冷たく、排気ガス臭い。――だが、一年ぶりであることを思えば悪くはない。
「お荷物、バスまでお運びしましょうか?」
 業務員が、ここぞとばかりに営業スマイルを振りまきながら、こちらに歩み寄ってくる。――が、生憎雪之丞の持ち物は、小さな旅行鞄一つだけだった。別段運んでもらうほどの物でもない。
「いや、いい。ところで駅はどっちだい? 一年ぶりなモンで、ちょいと勝手を忘れちまってな」
「あ、ハイ。それでしたら――」
 親切に身振り手振りまで交えて教えてくれた女性業務員に礼を言い、雪之丞は駅へと向かった。今は空港などを観察している時ではない。……それに、それならば再び発つ時にも出来ないことはないだろう…… この国にそれほど長い間止まるつもりは、雪之丞にはなかった。
 やらねばならぬ事……それは、ただ一つ。
 友に……自分と同じ道を歩ませぬ事……
 ふと、首筋に風を感じる――
 その風は何処からか桜の花びらを舞い散らせながら、飛行機が発する轟音に紛れて消えた――

――9時38分(日本標準時)横島の自室――

 目覚めは最悪だった。
「……う……む、頭痛てぇ……」
 横島はうめき、吐く為にトイレに向かおうと、立ち上がった。こういう場合、下手に耐えようとしていても状況が好転することはまずない。取り敢えず戻して、その後薬局に薬を買いに行かねばならない。
「う……うううう……」
 立ち上がり歩き出そうとした拍子によろめいて、再び座り込む。頭の中で画鋲が暴れまわっているような感じだった。立ち上がろうとしても、頭の痛みがそれを妨害する。――というのに、嘔吐感は強くなる一方だ。
 実際、昨夜に何があったのか、横島自身よく覚えていない。確か、自分が何とか会場となったカラオケボックスに到着したとき、既に出来上がっていた愛子に抱き着かれ、危うく越えてはいけない一線を越えそうになったのは覚えている。『カラオケタダちゃん』の異名を取った自分の歌声を披露できたのか……その辺は覚えていない。そのことが少々残念でもある。
(う……)
 頭痛がますます酷くなってきた。暴れ狂う画鋲は金釘へと進化を遂げ、チクチクガリガリと脳内を痛めつける。嘔吐感は既に臨界を越え、いつ解き放たれてもおかしくない状況だ。
「トイレ……トイレぇぇ……」
 這ってでも辿り着かねばならない。このコンディションで、自らの後始末をする自身は、流石の横島にもなかった。何とか部屋のドアを潜り抜け、手すりに身体を寄りかからせながら――
 横島の部屋にトイレはない。
 トイレに辿り着くためには、一階まで辿り着かねばならないのだ。『一階』である。横島の部屋は二階だ。
(う……)
 階段。目の前に広がる、階下への遥かなる断崖。……当然の事だが、このまま這って行った場合、身体を支えきれずに横転しながら転落してしまう。ついでに、その場で何かが爆発するのは火を見るより明らかだ。
「ううううううううううううう……………………」
 既に日は高い。このアパートは基本的に独身男性用のアパートなので、この時間帯には殆ど無人に近かった。ここまで這ってくる分には好都合だったのだが、それはこういうときに助けてくれる人物がいないということでもある。隣の小鳩ちゃんはもう学校に行っているだろうし、その病気がちな母親は眠っているだろう。――もし起きていたとしても、彼女に横島が運べるとは到底思えなかった……
 打つ手なし。孤立無援。四面楚歌。前門の虎校門の狼(ちょい違う)―― 絶望的な単語が、痛みに濁った脳裏に叩き込まれる。
 もう、限界だった。
「あれ、横島……お前そんな所でなにやってん――」
 目の前に何か黒いモノが立っているように思えたが、そんなことは気にしていられなかった、その『黒いモノ』の根元へ――
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
 悲鳴と同時にその黒いモノに力一杯殴りつけられ、口の中に酸っぱい味を感じたまま、横島は宙を舞った。

――10時07分(日本標準時)――

「スマン……雪之丞……この通りだ」
 手を合わせて……あまつさえ土下座すらして平謝りに謝って来る横島を見据えて、雪之丞は口腔から何かを吐き出そうとした。結局は口から出たのは溜息だけだったが……何を言おうとしたのかが伝わっていないわけではないだろう。ちなみに先程嘔吐物で汚れたいつもの黒コートは、今は洗濯籠の中である。後で洗って置くそうだ。――この室内状況を見る限り、清潔さを保つことは期待できないが。
「まぁ……それはいいとして……だ」
 雪之丞はうめいた。実際は『いいとして』などという問題ではないのだが、その辺は後で働きでカバーしてもらうことにするとして割り切る。……実際、この割り切りが戦場での生き死にを決めることすらあった。常々『無鉄砲』と言われていることではあるが。
「おお。で、何の用なんだ? 態々日本まで来て。まさか、まぁた俺に訳の分からない無理難題を押し付けに来たんじゃあねぇだろな……」
 力一杯不信の篭った眼差しでこちらを睨みつけつつ、捲くし立てる横島。実際、過去何度も無理難題を吹っかけたこちらとしては、疑われても仕方がないと割り切るべきなのかもしれないが、今回は雪之丞にも……真摯な思いがあった。一昨年の年末辺りから、常々感じてきた事ではあるのだが――
「横島……お前、強くなりたいか?」
 単刀直入に、訊く。
「はぁ?」
「お前は……力を手に入れたいか? 力を、お前は必要としているか?」
「…………」
 反応は上々と言えた。沈黙は、この場合肯定と同義である。
「俺は……力が欲しい」
 更に雪之丞は続けた。横島を『ここ』から引き離す――その為には、自分の事を語らなければならない。……語りたくない。……だが、語らざるを得ない――
「俺は、香港の事務所を閉めた」
「――!? ンだと!? お前、去年あれだけ――」
「詳しくは言わない……言えない。人生最大の過ちだよ――俺は香港で過ちを犯した……罪を犯した……過去の遺恨を掘り返して――掘り返されちまったんだよ……」
 見えるのは畳の敷かれた床。真正面に居る横島の顔を、正視することが出来ない……
「俺は明後日、アメリカに発つ」
「……アメリカ」
「着いて来いとは言わない。俺にはそんな事を言う資格はないし、そのつもりもない。……だが」
 顔を上げる。……横島の顔が――驚愕と狼狽に固まった顔が――真正面に見えた。その眼をしっかりと見据え、雪之丞は叫んだ。
「……お前は鬱屈している。自分の無力を恐れてるんだ。このままじゃ、お前は何処にも行けない! ……俺は往く。お前は行け。今のお前はヤドカリだ……安住出来る居場所に安住しちまってたら、これ以上何処にも行けなく――その場所を護ることすら出来なくなっちまうぞ!!」
 叫び、雪之丞は立ち上がった。――そのまま、横島の顔を見ずにドアへと向かう。言うべきことは言った。後の事を考えるのはアイツ自身だ。考えた結果、アイツがどうしようと自分の知ったことではない。
 だが。
(横島……お前は『俺』になるな……)
 眼を閉じれば瞼の裏に、あの、素直な瞳が浮かんで来る……
 最早、失われた瞳の光…… 誰にも、それを取り戻すことなど出来ない。
(……出来ないんなら、俺は何を求めているんだろうな……)
 取り戻すことの出来ない過去を忘れることが出来ず、自分は何のためにアメリカに向かおうというのか…… 復讐に意味などない。自分はかつてそう思っていたのではないか……?
 雪之丞は眼を開け、同時にドアノブを回した。錆びたドアが耳障りな音を立てて開いてゆく最中、横島の呟きは雪之丞の耳には断片的にしか届かなかった。
「――――は――」
 ――が、そのことに満足し、雪之丞はドアを閉めた。

――10時39分(日本標準時)横島の自室――

「…………雪之丞、俺は――」

――12時48分(日本標準時)美神除霊事務所――

「……………………遅いっ!」
 美神令子は開口一番、思いっきり不機嫌にうめいた。依頼者指定の時間まで後40分。行動前に作戦内容の確認を入念に行なって置きたかった美神としては、横島がなかなか顔を出さないのは、非常に……不満な事だった。取り敢えず、来たら真っ先にぶん殴ろう。心中で、ひそかにそう決心する。
「来ませんねぇ……横島さん。やっぱり、昨日の仕事が不満だったんじゃないですか? 昨日、横島さんお別れ会を断って来たって言ってましたよ……?」
 背後から、おキヌの突っ込みが入る。――やはりおキヌは心中では横島に同情しているのだろう。声に美神を非難するような響きがある。
「……あのねぇおキヌちゃん、この仕事は、横島クンが来るって言ったのよ? 私だって鬼じゃないんだから。卒業式の日くらい別に休ませてあげても構わないのよ……」
 美神は言い、執務机にへたり込んだ。心ひそかに、嘆息する。――横島が仕事熱心になったのは別に好い。むしろ、歓迎すべきことではある。……が。歓迎すべきではあるのだが。
 何かがおかしい。最近の横島は、美神自身の眼から見てもおかしかった。以前のように飛び掛ってくるようなことは少なくなったし(零ではないが)、積極的に危険な役割を志願するようになった。――以前の横島の性格からすれば、考えられない事ではある。
(あれは……いつ頃からだったかしらね……)
 そういえば一年半ほど前、ブラジルでの仕事の帰り、横島はずっと無言だった。
 あれ以来……か? あれ以来……横島はしばしば夕刻になると部屋から出て行くし、行き先は判っているので誰もそれを口に出すことはない。あれは……何が原因なのだろう……?
(ねぇ、あなたなの……?)
 虚空に浮かぶ、最早いない彼女の顔。横島の心を根こそぎ奪っていってしまった、自分にとっては……敵と言えなくもない彼女の――
(――!)
 ふと、正気に戻る。『敵と言えなくもない』だと? 自分は何を考えているのだ?
(……ちょっと、何考えてんのよ美神令子……! 私があんな青臭いガキを相手にするはずないでしょ?……ったく)
「……美神さん?」
「――え? あ、ああ……何? おキヌちゃん」
 少々長く考え込みすぎていたらしい。おキヌの声には不安げなものが混じっていた。
「そろそろ出発しないと…… 仕事に間に合いませんよ? 横島さん、どうしましょう。一応メモを置いて、後から来てもらいましょうか……」
 横島。
 自分が、あんなガキで丁稚で貧乏でスケベな男を――!
 一時の気の迷いだとしても許せるものでは――――ない!
「いいのよあんな奴! おキヌちゃん、行きましょう。シロとタマモも呼んで来て――十分後にガレージよ」
「あ、美神さん――」
 未練げなおキヌの声を振り払い、美神は立ち上がった。除霊道具を巨大なリュックサック――普段は横島が背負っているソレ。横島がいない時はシロの分担となる――に詰め込みつつ、頭の中のモヤモヤ感を、かぶりを振って吹き飛ばす。
『マスター美神……』
 不意に、無機的な音声が居間に響き渡る。人工幽霊一号だった。
『横島様がいらっしゃったようです。結界内に、当該霊波をキャッチしました』
「横島さん……!」
 おキヌが玄関へと走ってゆく。
(ったく……)
 美神は嘆息し、我知らず笑みの形にゆがもうとしていた口元を、意志の力で押し戻した。

――13時04分(日本標準時)――

 ――それで自分は、結局またここに来る訳だ……
 横島忠夫は息を吐いた。まだ、朝の嘔吐感が微妙に残っている。体調は最悪だ。最強に劣悪でないとしても、動けなければ除霊に参加することは出来ない。
 ……だがそれでも、来てしまった。
(どちらにしろ……か)
 来なければならなかった。来ざるを得なかった。――どちらにしろ……だ。
 横島はドアを開けた。遠くから足音が聞こえてくるのは、大方シロの足音だろう。もしくは、遅刻した自分を張り倒すために走ってくる、美神令子その人か。
「横島さ〜ん!」
 だが、予想に反して走ってきたのはおキヌだった。玄関手前で立ち止まり、こちらに向けて唇を尖らせる。
「もう、遅いじゃないですか……! 美神さん、怒ってますよ?」
 まるでその為に走ってきたのだとでも言わんばかりに、おキヌはこちらの手を取って歩き出した。廊下の途中で、シロが目を丸くしながら――ついでに唸り声などあげながら――こちらを見つめていたのには気づいていないらしい。横島には、その視線の意味は嫌というほど分かったが。
「おキヌちゃん……いきなりどうしたの?」
 訊ねる。いきなりの事で、頭が少々混乱気味らしい……状況が正確に把握出来ない。実は引かれている腕の感触が少し気持ちいいのだが、おキヌに襲い掛かるわけにはいかないのでひたすらに耐える。
「もう! 急いで車に乗ってください!」
「あ、ああ……そうか、そういうことね……」
 おキヌが横島の手を引いていたのは、完全に業務上の必要性からであったらしい。先程までの自分の考えと淡い期待が急速に萎んでゆきつつ、再び違う疑問が湧き上がって来る。
「で、美神さんは?」
 訊いた瞬間、おキヌの顔に険しいものが走るのが見えたような気がした。……が、たとえそうであったのだとしてもそれは億尾にも出さず、おキヌは素直に答えた。
「多分、もうガレージに行ってると思います。……何か、横島さんなんていなくてもいい……みたいなこと言ってましたけど……」
 それは言葉のあやだろう――
 そう分かってはいても、それでも多少は傷つく。横島はおキヌに隠して嘆息し、ふと、思索の海へと自分が沈み込んでゆくのを感じた――
『俺は、必要とされているのか?』
 ――本当に、自分はここで役に立っているのだろうか。
『俺は、ここにいなくちゃいけないのか?』
 ――自分は、ここでなくては生きてゆけないのだろうか。
『俺は……ここを護る事が出来るのか……?』
 ――…………
 今朝の雪之丞の言葉が思い出される。
――『……お前は鬱屈している。自分の無力を恐れてるんだ。このままじゃ、お前は何処にも行けない! ……俺は往く。お前は行け。今のお前はヤドカリだ……安住出来る居場所に安住しちまってたら、これ以上何処にも行けなく――その場所を護ることすら出来なくなっちまうぞ!!』――
 自分は、ここを自分の力で護りきることが出来るのだろうか……
 ――俺は…… ここの皆を護れるだけの力を持っているのだろうか……
 思い出されるのは紅い色。昼夜の間隙に在る狭間の時間……短い時間しか見れないから美しい――
 もう、二年近く前の事だ。
(俺は……)
 更に、一年半前。遠い異国の地に現れた悲しき魔物。自らの愛した魔物の面影を美神に重ね、それを盲追した……することしか出来なかった――
(アイツは……『答え』を見つけることが出来たのかな……)
「――まさん、横島さん?」
「――え?」
「どうしたんですか? 随分長いこと考え込んでいたみたいですけど……」
 我知らず、かなりの時間思索していたらしい。気が付けば、彼らは既にガレージの前にいた。シロとタマモも既に前にいて、こちらの眼を不思議そうに覗き込んできている。
「横島、また何か変なモンでも食べたの?」
「先生……またえっちなこと考えてたんでござるか?」
 それぞれ、勝手な事を言ってくれる。
(だが……そうだよな。その方が、俺らしいと言えば俺らしいのかも知れないよな……)
 今の自分は、はっきり言って自分らしくはないだろう。横島は素直に認めた。……が、それだからこそ、やっておかなければいけない事というのもある。
 ……あるのだろう。
「ハイハイ……和むのはそこまでよ」
 鶴の一声。横島は振り向いた。
 コブラは既にそのエンジンを発動させ、独特の重低音を撒き散らしている。それに乗った美神は、充分に様になってはいたのだが――、それを悲しく感じてしまう心が何処かにあるのも事実だった。
「飛ばすわよ」
「え、ちょっと俺まだ乗ってな――ぁぁあああああああッ!?」
 急発進したコブラに危うく振り落とされそうになり、横島は一日ぶりの悲鳴をあげた――

――19時20分(日本標準時)新宿区 歌舞伎町――

 正直、これで一千万円はボロかった。
 帰路、美神の脳裏を占めていたのは、至福と満足――そして多少の気だるさ。……それだけだった。こういう繁華街には、自殺者の霊などが出現しやすいのだが、不動産所有者は大抵が金を持っている。――故に、不況の折にもかかわらず相当額の報酬を頂くことが出来る。GSとしてはこれほど美味しい相手もいない。
「働いた後は気分がいいわね!」
「ボロ儲けした後は……でしょ?」
 背後から声。振り返りもせず、ただ、美神は背後へと拳を突き出した。拳に、固いモノがあたる感触。それと同時に、背後から悲鳴が響き渡る。
「いいかげん……学習しなさいよ……」
 もんどりうって倒れ、背中の荷物の重みの為に起き上がろうにも起き上がることが出来ない横島を見やり、美神は嘆息した。少しは成長したなどと思った自分が馬鹿だった。こいつはまったく成長していない。二年間も。
「ああ、横島さん……殴られることは分かっているはずなのに……」
 おキヌが介護に入るのも、いつもの事だ。ちなみにシロとタマモは、今はこの場にいない。先に車に戻り、路駐すると必ず寄ってくる――これは偏にコブラの珍しさの所為なのだが――野次馬たちを追い散らしておくように言っておいた。その車にも、後七、八分で着くだろう。
「うう……何か、だんだん突っ込みの威力が増していっているような気が……」
 うわ言を呟く横島を無視して、美神は歩みを速めた。

――19時31分(日本標準時)――

「だいじょぶですか? 横島さん」
「ああ……OK、OK、全然だいじょぶだ……と思ううぅ……けど、何か、脳が揺れてるよーな揺れてないよーな……」
 定まらない視界と、鼻血が止まらない鼻腔を持て余しつつ、横島はそれでも軽く答えた。
 鼻血が止まらない……いつもは慣れから軌道を読んで、最適な防御姿勢――つまりは、受身のような物を取る事が出来ないこともないのだが、流石に後ろを向いた状態で殴られるとは思わなかった。姿勢変更が間に合わず、つまりは……起こるべくして起こったということだ。
 ――などとつらつら考えているうちに、眩暈も治まってきた。視界が安定し、世界が落ち着きを取り戻す――真っ先に見えたのは、目の前に映る心配そうなおキヌの顔だった。
「本当にだいじょぶなんですか?」
「ああ、って、ここ街中じゃ……」
 倒れている自分に、それに覆い被さるようにしゃがんでいる彼女。通行人にはどのように見えているか……想像に難くない。恐らくは、ろくでもないものだろうが――
「あ……そうです……ね」
 微妙に顔を赤くして慌てて立ち上がるおキヌ。こちらに手を貸して立ち上がらせてくれつつも、顔は何故かうつむいたままだった。何かあるのか――とも思ったが、何の事はない。単に照れていただけらしい。
「あの……おキヌちゃん?」
「……はっ……」
 現実世界に復帰してくるおキヌ。
「あ、ハイ!……あ、美神さん、もう行っちゃってますね! 追いかけましょう、横島さん!」
「……ああ」
 何かを誤魔化すように、大げさな身振り手振りまで交えて、あまつさえ全身から『慌てている』といったオーラというかなんというか、そういうものまで発散させ、おキヌが言って来る。横島は素直に頷いた。いろいろ言いたいこともあることはあるが、それはここで言っても栓のないことではある。
(おキヌちゃんも……まだなんか浮世離れしたとこがあるからなぁ……)
 大体は直ったと思っていたのだが、やはりこういうしぐさから、昔の――幽霊だった頃のおキヌの姿を思い出してしまう。そう、あれは確か小竜姫さまの所に行ったときだったか――
「あの、横島さん?」
「ん、ああ、なんでもない。行こ、おキヌちゃん」
「はい」
 横島とおキヌは、歩き出した。
 ――現実の光景。本当に、現実の光景。今現在ある場所……自分にとっては居心地の良い場所であることは、最早疑いない…… 護れるのならば、この光景は護りたい……どんなことをしても……自分の還る場所を――
 ――だが。
 ――俺は。
 ――美神さんや、
 ――おキヌちゃんを、
 ――護れるほどの、
 ――力を……
 ――持って――
 ――持って――
 ――持って――いるのか……?

――21時40分(日本標準時)美神除霊事務所 執務室――

 コン コン……
「? 誰?」
「……俺っス」
「横島クン?」
 美神令子は疑問を投げた。先ほど、階下で解散は告げた。もうとっくにアパートに帰っているものだと思っていたが―― ちなみに、美神自身は現在事務所内に居住している。あの戦乱で自宅マンションを壊されてから、結局同じだからと移り住んだのだが――
「……何の用? 夜這い、ってんならお断りよ」
「まだベッドに入ってないじゃないですか……」
「……それもそうだけど」
 違和感を感じる。
 いや、これは『違和感』なのか?――横島が、真摯に自分を見つめて話し掛けて来るというのは…… 美神は、彼から視線をそらして言い放った。
「……それなら早く帰りなさい。学生生活は終わったんだから……朝から晩まで扱き使ってやるわよ。睡眠時間くらいは取った方がいいんじゃないの? いくら不死身のアンタでも」
「実は……その事です」
「――え?」
 言葉と同時。横島が懐から出した封筒を、美神は受け取り損ねて取り落とした。呆然とする美神をよそに、横島はその茶封筒を――恐らく、つい先日渡した給料袋をそのまま流用しているのであろうソレを――拾い上げ、再度こちらに手渡してくる。……美神は呆然と、その封筒の表に筆ペンで大書された文字が、脳裏に叩きつけられるのを感じた……
『辞表』
「……長い間、お世話になりました」
 紅い色が脳裏によぎる…… 紅い光の中の黒い影が、こちらに向かって嘲笑している――
「――どうして……」
 ほぼ、反射的に言葉が出た。
 出た言葉は止められない。零れ落ちた感情は、続けざまに唇から滑り落ちてゆく――
「どうしてなの……? 横島クン……? アンタ、また何かに騙されでもしてるの……? それとも、給料をあげてほしいの……?」
 横島は、美神の眼を見つめたまま、黙して何も語らない…… 湿った瞳の中に、自分の姿が映っているのが見える……
「答えてよ……横島クン……! アンタがいなくなったら、私……!」
「……帰って来ますよ」
「……え……?」
 頬が熱い…… 触ってみると、湿っていた。すると、自分は涙を流していたのか?
「いつになるか分からないけど……必ず、帰って来ます。だってそうでしょう? 俺の還る場所はここなんだ……ちょっとふらっと行ってくるだけですよ」
 ――そして、美神の頬を撫でる――
「おキヌちゃん達には、スミマセンが上手く伝えといてください……」
「……」
 ――横島の指が、美神の涙を拭う――
「帰って来ます」
 横島はきびすを返し、足早に部屋から立ち去った。
 拭われたはずの涙が、後から後から頬を伝い落ちる。……これは泣いているのか? 自分は泣いているのか? あんな取るに足らない男の為に……? 私は美神令子よ? 男なんかに頼らず、自分だけで生きていける女なのよ? それが、あんな……あんな男の為に……!?
 胸中で慟哭しながら、美神は泣きつづけた。時折漏れる嗚咽は、自分の物とも思えない…… 泣きつづける自分を傍観しながら……美神令子は、ただただ呆然と涙を流しつづけた。

――3月28日 9時25分(日本標準時)千葉 新東京国際空港――

 その時伊達雪之丞は、空港内の免税店でカップ味噌汁を買っていた。日本を離れれば日本食が食べたくなるは道理。更に免税店ならそれなりに安価でもある。――通常、免税店にカップ味噌汁は売っていないものなのだが、入国時に見つけたのでそこに来たのだ。
「……よう。雪之丞」
「来たか」
 振り返らず、雪之丞は応えた。カップ味噌汁(なめこ)を一旦棚に戻し、あらためて振り返る。
 そこには、横島忠夫の姿があった。いつもの巨大なリュックサックではなく、きわめてシンプルな旅行用鞄一つを持っている。いでたちはいつもの通り、ジーンズにGジャンにバンダナ――これだけを見れば、身軽な学生旅行にも見えなくはない――
 ――いや。
「腹は決まったみたいだな」
「……ああ」
 眼。
 断じて、旅行者の眼ではない――求道者の、眼。疲れ果てて……それでも、追う事を止めるわけにはいかない……そんな、眼光。
「……そうか」
 雪之丞は頷いた。意味のある動作ではない……が、それでも頷かざるを得なかった。
「雪之丞……」
「うん?」
 横島の呼びかけに、雪之丞は疑問符で答えた――が、問われることは分かり切っていた。儀礼のような物だ。これを訊かねば、先へは進めない――
「お前は……結局何が――」
 不意に、横島の言葉が、止まる。
「……………………!」
 ドン。
 すぐ側の窓ガラスが、激しい音を響かせて揺れる。――見やると、ガラスには大穴があいていた。融けて、焼け焦げたような大穴が――
「……全く! やっと追いついた!」
「……タマモ!」
 そこに現れたのは、長い金髪を九房に分けた少女だった。――少なくとも、見た目は。雪之丞には一目で分かったが、人間ではない。この少女は妖怪だ。それも、極めて強力な――
「横島?」
「ああ、心配するな、コイツは別に怪しい妖怪じゃねぇって痛ええええぇぇぇぇッ!?」
「……誰が怪しい妖怪よ」
 少女の腕が複雑な形に曲がり、横島の腕と脚を、人間には不可能と思える関節技に完璧に極めている。蛸の如く曲がりくねった左手は、さらに複雑に分化し、横島の悲鳴を更なる高みへと導いていった。
「ああああッ!! ギブギブ! タマモ、離せッ! 離してくれえええぇぇッ!!」
「あ、そうだ。忘れるとこだった。ハイ、アンタに、事務所の皆からよ」
「ああああああああああああああああああああッ!!」
 あくまでも横島の手足は極めたまま、少女は横島のGジャンの胸ポケットに、封筒大の何かを差し込んだ。大きさ、そして色からすれば、見たままの茶封筒らしいが――
「のわおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」
 さらにあり得ない方向へと、着実に曲がってゆく横島の手足。
 雪之丞は唖然としつつも、心のどこかで……嘆息していた。失ってはいない横島。失った自分。旅は同じくしても、目的は違う旅――
「のぎゅええええええええおおおおおおおおいいいッ!!」
 少女は既に関節技を止めているのだが、相変わらず地面を転がりつづける横島。よく見てみると、その右手はなにやら外側に向けて曲がっているような気がしたが――
 ……まぁ、出発までには直るだろう。
「ったく。わがままもいいかげんにしときなさいよ? おキヌちゃん、泣いてたわよ。シロなんか、付いて行くって言って聞かなかったんだから……」
 自身も、少し寂しげに……
「じゃあね。せいぜい頑張りなさいよ!」
 最後は、怒ったように叫んで――少女はガラスの大穴から外に飛び出していった。両腕を翼と化し、そのまま大空へと舞い上がってゆく――
「なんだったんだ……一体……?」
 雪之丞はうめいた。眼下に、ようやく動きを止めた横島を見据えながら……
 待つこと、3分。
「お待たせ……」
 何処となく憔悴した様子ではあるが、取り敢えずは復活したらしい――そんな横島を見やりつつ、雪之丞は噛んでいたガムをごみ箱に吐き捨てた。
「……行くぞ」
「……ああ」
 共に無言。共に迅速。共に……強力に――
 ――されど、一方は自らの為。
 ――他方は、既に死したる者の為。
 彼らは……搭乗ゲートへと向かった。

――13時49分(日本標準時)機内――

――『横島さん。……正直、私に何も言わないで、横島さんが行っちゃったのは……辛かったです。……でも、これが最後ってわけじゃないですよね? また帰ってきてくれるって、言ってたんですもんね? だから、さよならは言えなくていいんです。無事に帰ってきてくださいね……横島さん……  おキヌ』

『先生が、『がいこく』にしゅ行の旅に出ると、美神どのにきいたでござる。拙者もついて行きたかったんでござるが、美神どのがだめっていうから…… でも! すきをみてぬけだすでござる! 拙者、先生について行くでござる! だから、そっちでさきにまっててくだされ、先生!  シロ』

『私は別に伝えることないけど……横島、結局どこに行くの? なんか、美神さんも『知らない』ってふさぎ込んじゃったし……電話とかあるんなら週に一度はかけなさいよ。お土産よろしくね(出来ればあぶらげっぽいの)  玉藻』

『……………………横島。何よりも初めに書いておくわよ。あの場で見たことは、全て忘れなさい。これは命令よ。私は別に、アンタなんかいなくても構わないんだからね!? あの場でアンタが見たのは幻よ! 幻覚よ! いい!? これが守れてなかった場合、帰ってきて即行シバキ倒すわよ!? 判ったわね! ったく。ホントにクビにされたくなかったら、早く帰って来なさいよ? 分かったわね!!  美神』――

――To be continued next story…――


※この作品は、ロックンロールさんによる C-WWW への投稿作品です。
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