『紅白大決戦!!』

著作:MOZA




数年前。

何でよ。何で私があんな奴に負けるのよ。
しかもあんな卑怯な手で………冗談じゃないわ!!

【クックック………復讐したいか………】

?!誰よおまえは!!
【力が、欲しいか……】
おまえは…………!!
【………私も欲しいよ、お前の力…………】
な、何!!…………ギャアアアアアアアアアアア!!!!

…………クックック…………貰ったぞ、お前の力……………せめて望みは叶えてやるよ。もう少し力を付けてからな…………日本、か。クックック…………

今年。12月1日。
「今成田は大変なパニックになっております!ヨーロッパでCD売り上げ世界新記録を樹立し、世界で大フィーバーを巻き起こしてる新進気鋭のダンスユニット、『セ・レン』のボーカル、セレンさんが到着ロビーにたった今、たった今到着しました!!サングラスをかけたまま、今ニコッと笑いました!!………」

クックックッ…………馬鹿共め……………

燻された黒い天井。剥がれかけた水着のポスター。焼酎のやたら入ったハイ・サワー。
裏さびた通りにあるけれど、寡黙な主人の焼くうまい砂肝。
14型のテレビはもうだいぶ昔に壊れていて、今はそこにたたずんでいるだけ。
客は引退間近の腕のいい大工がたった1人。
主人も客も何も言わない。
店に流れるBGMはAMラジオ。一年の内364日、ラジオ日本に針を合わせてある。
東芝が初めて世に出したトランジスタラジオのようなラジオから、静かに、演歌が流れる。
【〜〜〜〜悲しい弱さは見せまいと、夜空の月に男歌〜〜〜〜〜】
空になったハイ・サワーのグラスをトンッと置いて、大工は呟く。
「…………いい歌じゃねえか…………」
店の主人は何も答えない。
ただ無言で大工の頼んだかしらを焼く。
焼き上がったかしらを信楽の皿に載せ、主人特製のつけみそを隅に置く。
その皿を客に出したとき、初めて主人は口を開いた。
「…………ジェームス伝次郎の新曲ですよ、安さん…………」
安さん、と呼ばれた客は黙って頷く。
遠くから、夜行列車の汽笛が聞こえた。

『《セ・レン》なんと紅白に出場!!』
『《セ・レン》和田アキ子を押しのけ、紅組のトリ!!』
新聞の芸能欄には連日、大きな見出しが踊っていた。
美神はその記事をぼーっと目を通しながら、一つ大きな欠伸をした。
《何か儲かる話はないかしら…………》
記事には全く関心を寄せていなかったのである。
横島もおきぬも紅茶を飲みながらくつろいでいた。
そんなとき、ふいに人工幽霊一号が、来客を告げた。
人間ではないが、敵意は全く感じられない。簡単に、美神にそう告げた。
美神達は念のために、玄関で出迎えることにした。
玄関を開けると、そこには1人の幽霊が立っていた。
すらりとした背の高いスタイル、そして金髪。―――なのに荒波に浮かぶ富士山の浮世絵の描かれた着流しを着る幽霊…………
「あ、あなたは…………」
【…………久しぶり。おきぬちゃん。美神さんも横島さんも…………】
美神と横島は顔を見合わせた。
「……………誰?」
こける幽霊。
「ほ、ほら、ジェームス伝次郎さんですよ。コミックス9巻、『サウンド・オ ブ・サイレンス!!』に出ていた………」
美神と横島は同時に手を打った。
「たぶん原作者も滅多に思い出さない…………」
「マニアってどうしてこんなキャラを引っぱり出してくるのかしら……………」

落ち込む伝次郎を必死でおきぬは宥めた。

「紅白に出たい!?!?」
美神達3人は同時に叫んだ。
紅白とはもちろん、知らない日本人は1人とていない、MHKの『紅白歌合戦』のことである。
美神が部屋に招き入れ、伝次郎の来意を聞いた直後のことである。
伝次郎は黙って頷く。
「出たければ出ればいーじゃない。」
「美神さん、そんな簡単に行かないっすよ。人気があってヒット曲がなくちゃ………」
「美神さん、横島さん、知らないんですか?ジェームス伝次郎さんのアルバム、
『男歌十三章』は演歌系では空前の大ヒットで、100万枚も売れたんですよ。」
伝次郎は照れ隠しに頭を掻いた。
「…………知らないわよ。おきぬちゃん、何でそんなこと知ってるの?」
「新聞でも週刊誌でも取り上げられてるんですけど……………」
「演歌の記事なんか見ないわ。…………じゃ、何も問題ないじゃない。出させて貰ったら?」
【それがダメなんです………重大な問題があって…………今日、ここに伺ったのは、そのことで美神さん達のお力を借りたくて…………】
「………何よ、『重大な問題』って?」
美神はぴくりと眉を動かした。
【…………MHK曰く、『幽霊が紅白に出た前例がない』!!!】
すっころぶ美神達。
「…………あ…………相変わらずお堅いわね、MHK………」
気を取り直して椅子に座りなおす美神。
「それで、私たちにどうしろっていうの?」
【体を……体を貸して欲しいんです!!たった一度でいい、たった一度でいいから俺は紅白に出たいんです!!】
「いやよ。」
美神はあっさりと断った。
「そんな、美神さん、伝次郎さんがかわいそうですよ。………伝次郎さん、何でそんなに紅白に出たいんですか??」
おきぬの問いに、横島が応じる。
「大方、演歌歌手が紅白に出ると箔が付く、とかそんなところでしょ?」
【違う!!】
伝次郎は燃える眼差しで横島を見た。
【それは断じて違います。自分のためだけに、俺は紅白に出たいんじゃない!!】
「じゃ、何でなんだよ。」
【紅白は、紅白は、日本の『心』だからです!!!】
「…………はあ?」
【たとえば………】

大晦日だというのに、安は裏通りの寡黙な主人の店に来ていた。
安には身寄りがない。妻には先立たれ、子供もいない。
安は強い男だった。だが、どうしても寂しさを感じてしまう時がある。
そんな夜は、この店に来る。
大晦日でもやって来る。なぜかこの店は大晦日でも開いている。
しかし安は知っていた。この不器用な主人が、自分のために店を開けていてくれていることを。
けれど安も何も言わない。
「今日は酒をくれ…………冷やでいい。」
主人は黙って頷く。
しかし主人の差し出した酒はぬるめの燗。
「…………安さん、今日は冷える………燗にしときな。」
安は黙って、一口あおる。
この酒の銘柄は知らない。おそらく、主人の故郷の新潟の地酒だ。
その酒は、今まで安が飲んだどんな酒よりもうまかった。
「………安さん、紅白、聞くかい?」
主人に問われ、安は少し顔を歪めた。
「…………最近の紅白は昔と違ってなっちゃいねえ………ぐるーぷばんどだとかチークダンスとかやらで…………聞くに耐えねえ……………」
主人は安の愚痴に耳を貸さず、ラジオの針をMHKに合わせる。
一年の内でたった一日、ラジオ日本から、針の変わる日。
「今年の紅白のトリは、ジェームズ伝次郎だ…………安さん、『男歌十三章』、好きだろ?」
安は何も言わず、燗をあおる。
遠くから、夜行列車の汽笛が聞こえる。………そうだ、夜行『はくつる』もまた、大晦日でも走り続けている。
主人は黙って、セブンスターを一本くわえて、火を付けた。

美神達はひっくり返ったまま、しばらく起きあがれなかった。
「何なのよ、その勝手な世界は…………」
【だから、自分にとって紅白は歌を伝える大切な時だと思うんです。‥‥‥‥
MHKの人も体があれば白組のトリをまかせたいって………】
「………ほんとにそれだけ?」
じろりと美神は伝次郎を睨んだ。
「そ、それだけです。」
伝次郎は一瞬たじろぐ。
「………確かあんた、『歌えれば何でもいい』って、ロックから演歌に転向したんでしょ?何でそんなにこだわるわけ?」
伝次郎は遠い目をして語りだした。
【俺、死んでからやっと気づいたんです………本当の『歌』とは何か。生きていたときの俺の歌は、只のまやかしだったんです…………】
「伝次郎さん…………可哀想…………」
「何も泣くこと無いのに、おきぬちゃん………」
横島は困った顔で応じる。
美神は一つ大きなため息をつくと、はっきりと言った。
「ダメよ。」
【………………】
「美神さん!!」
おきぬが詰め寄る。
「そんなこと言ったって、どうすればいいのよ。方法がないわ。」
【…………五千万円。】
「へ?」
【これから入る予定の『男歌十三章』のCDの印税、カラオケ使用料などを合わせれば、それくらいにはなります。………何とかしていただけたら、すべて美神さんに………】
美神は静かに首を振った。
「伝次郎、私には判っていたの。あなたのその歌にかける情熱、紅白にかける意気込み…………心を打たれたわ。この私に任せて。…………道のりは苦しいけど、この私が必ずあなたを紅白に出してあげるわ!!!!」
おきぬと横島は、呆れて何も言えなかった。

「しかしいったいどうするんですか?美神さん。」
横島が尋ねる。
「要はしばらくの間誰かから肉体を借りればいいのよ。伝次郎に肉体に入って貰って、肉体の持ち主にはしばらく浮遊霊になって貰えばいーわけ。」
おきぬは胸をなで下ろした。
「なんだ簡単なことじゃないですか。それなら私が幽体離脱して…………」
【おきぬちゃんではダメだ。】
「え?」
【『男歌十三章』は完全な男歌。女性が歌う歌じゃないんだ。】
「おとこ…うた?」
【単純だけど、女性が歌うことを前提に作られた歌が『女歌』。女性のおきぬちゃんでは『男歌』は歌えないんだ………】
「男、ねえ。」
ゆっくりと視線を移す美神。
「な、なんですかその『視線』は?!」
Rock On.
「横島君。」
「…………い、いやっす。」
美神は引き出しから包みを取り出し、紙を剥いた。
「そ、それは……………!?」
『チーズあんシメサババーガー・カオススペシャル・プロトバージョン』!!!
(大山のぶ代調)
「喰え、横島ァァァァァァ!!!!!」
美神は大リーガー真っ青の右の直球を放った。
『チーズあんシメサババーガー・カオススペシャル・プロトバージョン』は見事横島の口に命中し、飲み込ませてしまう。
「グアアアアアアア!!!!!!」

説明しよう!!!(富山 敬調)
『チーズあんシメサババーガー・カオススペシャル・プロトバージョン』とは、喰えば不味さで簡単に幽体離脱ができる、あの『チーズあんシメサババーガー』を厄珍とカオスが改良を加えたものである。その目的は幽体離脱可能時間をのばし、約一カ月間幽体離脱を可能とするものである!!!
しかし、現在はまだ試作の段階であり副作用として、もしかしたらそのまま逝ってしまう、という危険を伴っていた!!!!
だが美神は、笑顔で危険を無視するところがステキなカンジじゃよ。(ファーザー調)
【ああああああああ!!!!】
「今よ伝次郎!!!横島君の体の中に入って!!!!」
【はい!】
………………………………………………

「………思ったよりうまくいったみたいね。」
【………思ったより?】
浮遊霊状態の横島が恨めしそうに呟く。
「あ………えっと、さあ、伝次郎、とりあえず歌ってみてくれる?」
「はい!」
今は横島の体を借りた伝次郎が、こほん、と一つ咳払いをした。
〜〜〜〜〜こぼれえたああさあけでええなみだあをかあくしいい―――――
3人は同時に審査結果を述べた。
「すっごい下手。」   
ガーーーン
伝次郎はショックの余り凍りつく。
「やっぱり、ね。」
「…………やっぱりって、美神さん?」
「よく『体が覚えている』って言葉、使うわよね。伝次郎の場合はその逆。横島君の体が覚えてないの。」
「体が………覚えていない???じゃ、どうすれば…………」
「どんな歌の先生についてもダメよ。歌の技術やコツなんかは伝次郎はマスターしちゃってるんだから。要するに伝次郎の魂が、横島君の喉や声帯を完全に伝次郎のものとして使いきればいいわけ。」
「俺の…………『魂』。」
「その仕事は私たち霊能者の仕事よ。」
「どうすればいいんですか、美神さん!!!」
「…………特訓よ。」
さらに伝次郎は凍り付いた。
「私は言ったはずよ。『道のりは苦しいけど、この私が必ずあなたを紅白に出してあげる』って!紅白まで約一カ月、みっちりしごいてあげるわ!!」
「…………お願いします、先生。」

「今度はローソクの火を揺らすな!!!」
ドカ!!バキ!!!グシャ!!!ボコ!!!!
「コブシを回しすぎるな!!!」
バカン!!ゴカン!バキン!!!ベシャン!!!!
【痛みを感じないとはいえ、俺の体………】
「…………………!!!!」
グシャ!!!…………
《……殴り慣れている横島君の体とはいえ、中身が違うと新鮮だわ………!!》

「美神さん…………何か目が危ないですよ……………」
地獄の特訓は紅白直前まで続けられた。

狭いカウンターに置かれたビールはキリンのラガー。
安の前に来ていたうらびれたサラリーマンが、『ありきたり』だなんて言っていたっけ。
ありきたり?馬鹿を言うなよ。
こいつは『生』じゃねえ。加熱処理したほろ苦いビールを出す店は、もうこの店だけさ。
主人はもしかしたら『ドライ』何てビールは知らないのかもしれねえ。と、安は思った。しかし、主人は何処から仕入れているのだろうか。
「………俺は正月が来たら、青森へ帰る。………」
一瞬だけ、主人の動きが止まった。しかしすぐあとには何事もなかったように椎茸を塩で焼く。
「もう、この街には帰らねぇ…………」
主人は黙って椎茸を安の前に置いた。
「あさってで、今年も終わりだ……………」
主人は何も答えない。
ラジオから『越冬燕』が流れている。
遠くからは、また笛の音のような汽笛が聞こえた。
彼の故郷へ行く列車…………


「こいつはすごい装置だなあ………」
「ああ、それか………紅組のトリの『セ・レン』が使う専用の音響機器らしい。」
紅白の2人の音響係は興味津々で機器を見つめていた。
「…………あんまりじろじろ見ないでくれる?」
音響係の背後から威圧的な女性の声がかけられる。
「こ、これはセレンさん。失礼しました。」
音響係はそそくさと退散した。
セレンはニヤッと唇の端をつり上げる。
馬鹿共め…………

大晦日。紅白当日。MHKホール。控え室。
「………どうですか、横島さん、美神さん。」
おきぬは横島の体の伝次郎を金髪に染め、髪型を整え伝次郎に変身させた。
もちろん完全に同じと言うわけではない。あとはプロがやってくれるだろう。
「上出来よ、おきぬちゃん。」
伝次郎は見事白組のトリを射止めた。
今年の紅白のトリは白組。伝次郎は紅白のトリでもある。
実績とMHKに殺到するラブコールの前では、当然の成りゆきだった。
体の問題も解決した伝次郎は、あとは出番を待つだけだ。
美神達は伝次郎の見送りを受け、観客ホールへ向かおうとした。

!!!!!!!
突然美神は今すれ違ったばかりの女性を振り返った。
「?どうしたんですか、美神さん。」
おきぬが不思議そうに尋ねる。
「……あれ、誰?」
【あれ?………あ、『セ・レン』のボーカルのセレンさんっすよ。今世界的にすごい人気で………】
浮遊霊状態の横島が答えていたが、美神は横島の解説は聞いていなかった。
美神は歩き去りつつあるセレンを睨み続けていた。
《何も感じなかったのに………何故気になったのかしら?》
美神は疑問に思いつつも、観客ホールへと向かった。
誰しも、常に完璧とは足り得ない。

主人の入れてくれた地酒の燗も、最後の一口。
安はお猪口に入った酒を見つめて、酒に写った顔を眺める。
《40年か………この街で暮らして…………》
少し酒を揺らしてみる。酒に写った顔が歪んだ。
《俺の仕事場に遊びに来ていた悪ガキも、でかくなるわけだ…………》
最後の酒を安はあおる。
《悪ガキが歌手になって………事故でポックリと逝ったときよりも…………》
空になったお猪口をコトリと戻す。
《なのに幽霊になって演歌を歌いだしたときよりも…………》
安は空になったお猪口をじっと見つめた。
《俺には驚きでならねえ。あれほどの歌を歌えるようになるとはな。…………長
生きはしてみるもんだ。》
その時主人には、安が珍しく思い出し笑いをしたように見えた。
《…………ここんとこもうずっと会っていないが、俺のことなんか忘れちまったかもな……………》
「………もう一本だ。熱いやつで。」
《いいんだ。それで。だが…………聞かせて貰おうか。この街で聞く最後の歌がお前の歌というのも、何かの縁だ…………》
紅白は紅組のトリである『セ・レン』の番になろうとしていた。

やたらに派手な舞台装置とやたらに派手な音響装置。
『セ・レン』の準備された舞台を一目見て、美神はそう評価した。
わざわざ紅白のためにヨーロッパから持ち込んだらしい。ご苦労なことだ。
「あ、美神さん。私何か飲み物買ってきますね。ウーロン茶でいいですか?」
「始まっちゃうわよ。いいの?」
「すぐ戻りますから。」
おきぬは小走りにホールから出た。しかしすぐには戻れなかった。自販機が見つからなかったのである。
そうこうしている内にセレンが舞台に上がり、派手な音楽が鳴り響き始めた。
「まったくうるさいわね………」
美神は呆れ顔で呟く。
セレンは息を吸い込み、カッと目を見開いた。
!!!!!!!!
美神は戦慄した。その時に初めて、セレンから邪悪な気が放たれたことを感じる。
「あいつは!!!!」
うかつだった。あんな奴を見逃してしまったなんて!
その瞬間、スピーカーからセレンの歌が響きわたった。
!!この歌……しまった!!!!
「精霊石!!」
美神はイヤリングの精霊石をむしり取ると、握りしめたまま両耳に当てた。
「結界!!!!」
簡易結界を出している暇はない。精霊石の力と美神自身の霊力で守りきるしかない。
何から?
《………何てこと………この邪悪な気………これは……『魔唱』!!!》
《この歌、この歌が終わるまで耐えられれば……………》
美神の激闘はほんの3分程だった。しかしそれは永遠と感じるほど長かった。

安はあまりの気分の悪さにカウンターにうつ伏せてしまった。
お迎えが来ちまったのか、と安はぼんやりと考えた。

安がなんとかカウンターから起きあがったのは、何とかと言うガイジンの歌が終わった何分後かであった。
ズキズキと痛む頭を振りながら、周りを見渡しつつ考える。
「………いったいなんでえ、あの変な歌を聴いたとたん…………」
その時に安は、店の主人が倒れているのを見つけた。
「おい!!しっかりしろ!!おい!!!!」
主人はぼんやりと目を開けたまま、安の声が聞こえてはいないようだった。
安は平手打ちを何発か喰らわせてみた。しかし、反応はない。
まるで夢遊病者のようであった。
ラジオからは自動で流される『しばらくお待ち下さい』のオルゴールが、無機質に流れていた。

紅白の観客席は異常な光景に包まれていた。
観客席に座っている全員がぼんやりと目を開けたまま、少しも動こうとはしない。
魂の抜け殻………そんな感じであろうか。
いや、たった1人だけ、正常に動き得る者がいた。
そのたった1人も肩で息をして、ものすごいエネルギーを使用したようである。

美神はすばやく浮遊霊の横島を見た。
ダメだ。ぼんやりと宙に漂っているだけだ。むき出しの霊体はまともに影響を喰らったのだろう。
美神は急いでホールから出ようとした。が、出る必要はなかった。
「おきぬちゃん!!」
おきぬはウーロン茶の缶を握ったまま、入り口で倒れていた。
美神はおきぬを抱き抱えてみたが、ダメだった。他の人たちと一緒だ。
ブチブチブチッと美神は頭の中の血管が切れたような気がした。
「…………あんのクソ女!!!ナメたまねを!!!」
美神はおきぬを楽な姿勢に床に寝かせると、神通棍を伸ばしながら猛然とステー
ジの上に駆け上がる。
ステージの上ではセレンが腕を組みながら、余裕の表情で美神を見つめ返した。

セレン以外のバンドのメンバーやダンサーは人形のように転がっている。
いや、奴等はただ操られていただけの本物の人形だ。
「………美神令子か。」
美神は神通棍を油断無く構えながら返答した。
「誰よあんた?」
セレンはクックックッと笑った。
「わからない?そう、わからないわね。私は………」
突然セレンの姿が変わった。とがった耳にきつい目、派手な髪型。
一見して人間とは違う種族だとわかる。
「私はあなたの卑怯な反則技で負けたセイレーンよ!!」
妖怪セイレーン。歌で海の男を引き寄せ遭難させる妖怪。
美神達とカラオケ合戦で戦い、美神の裏技の前に破れ去った妖怪。
『妖物大百科』のような美神の頭脳は直ちに答えを弾き出した。しかし、美神の発した問いはまったく別のものである。
「………誰よあんた?」
「………つまらないギャグね。」
「ギャグじゃないわ。『誰よあんた?』。」
「…………………」
「お前はセイレーンじゃないわ。体と能力はセイレーンのもののようだけど。中身は別ね。セイレーンの気とは違うわ。正体を現したらどう?クサレ悪魔!!」

「!!!何故俺を悪魔だと……!」
「馬脚を現したわね。あんたの発する気からそうじゃないかと思ったけど………しかもあんた、セイレーンの願いを叶えたんじゃなくて、セイレーンの体をのっとたわね。あんたからセイレーンの気をまったく感じないことが証拠よ。」
「ふん…………あんなザコには過分な能力だったのでな。俺が磨きをかけて有効に使ってやろうとしただけさ。代わりに俺は奴の願いを叶えてやろうと思ったのさ。手始めに、美神令子がいる日本とか言う国からな………お前を餌食にしようと思ったが………。」
「それで紅白を利用しようとしたのね?紅白以上に『魔唱』を有効に使える物はないものね。………猿よりは賢いみたいね。ついでに人気が出るようセイレーンの魅力を利用したわね?」
「何とでもほざけ。どうだ。俺の『魔唱』の力は?お前は霊力で防いだようだが
な。俺の魔唱を聞いた奴は皆………」「…………そうか。テメーだったのか。あの反吐が出そうな雑音は。」
突然美神とクサレ悪魔の会話に割って入った者がいた。
「……伝次郎!!あなたあの歌を聴いて平気だったの?!」
『心』の一字を染め抜いた着物を着た、横島の体を借りている伝次郎が静かに現れた。
「………あんなものを『歌』とは言いません。昔の俺のロックよりひどい。あまりのひどさに頭が痛くなったぐらいだ………」
クサレ悪魔はうろたえた。
「バ、バカな。俺の『魔唱』を聞いて……」
美神はクサレ悪魔に向き直った。
「これでハッキリしたわ。あんたの『魔唱』はまだ不完全ね。あんたの立派だった点は私に正体を悟られなかった点だけよ。あとは不完全な『魔唱』以外、ロクな力もないはずよ。クズ悪魔!!」
クズ悪魔、と呼ばれた悪魔はいらだちながらも冷笑を浮かべた。
「ならおまえはクズ以下だ。クックックッ……確かにまだ『魔唱』は不完全かもしれん。だが、あとせいぜい2時間で『魔唱』は心を完全に喰い尽くすぞ。……
…そうなればあとは俺の思いのままだ。セイレーンばりに海に引きずり込むか?
それとも人を殺しまくらせるか………クックックッ……」
美神はぎりっと唇を噛み、神通棍を構えなおした。
「おおっと。……俺を殺せば『魔唱』は暴走して精神を破壊するよう仕込んである。……それでよければ切ってみな。」
「……………そうね。ここであんたとくだらないおしゃべりをしている暇はないみたいね。けど、覚えておきなさい。」
フォン、と神通棍が唸りをあげて横一文字に走る。
セレンがわざわざ持ち込んだとされる音響機器が、神通棍の一撃を喰らってひとたまりもなく砕けた。
美神はすでにこの機械の正体に気づいていた。
「セイレーンはザコだったけど自分の力で勝負したわ。あんたはセイレーンの能力を奪い、こんな『音響機器』なんて嘘っぱちの小道具で『魔唱』を増幅しなきゃ何もできないゴミ以下よ!!……ゴミが過分な夢を見たらどうなるか、ハッキリと教えてやるわ!!………行くわよ、伝次郎。」
ゴミ悪魔は、悪魔の自分がたじろいだことを認めようとはしなかった。
ゴミ悪魔は最大のミスを犯した。そのミスとは、美神を敵に回したことではない。
美神の面子とプライドを踏みにじり、彼女を怒らせた点である。
それがどんな結果となるか、ゴミ悪魔はまだ知らない。

……………どういうことだ?
これは何らかの霊障に違いない。だが、何故こんなに沢山の人が?
緊急事態発生の連絡を受け、西条はとりあえずもっとも近い現場に到着した。
実は他にごろごろと同じ異常事態が起こっていたが、そんなに手が回らない。
警察から霊障の疑いもあると『オカルトGメン』に協力を要請されたのだが、疑いどころかその物だ、と西条は確信した。
携帯に美神からの連絡が入ったのはまさにそんなときだった。
「………紅白?いや、見ていないが……………『魔唱』だって?!…………」
西条は美神から手短に説明を受け、美神の要請を実行すべく行動を開始した。
美神の要請は民放の人間によるMHKの機能回復、紅白会場からの電波の放送、政府からの圧力によって民放すべてとあらゆる公共スピーカーから、『紅白の続き』を流させることだった。
それほど難しいことではない。90分以内にすべて完了して欲しい。
西条は美神に詳しい説明を求めず、迅速に行動を開始した。
キザでイヤミで横島の天敵ではあるが、無能の2文字と程遠いことは間違いなかった。

そして、混乱の内に年が明けた。だが戦いはまだ、終わっていない。

1時間50分後。舞台裏。
伝次郎は紅白の舞台に上がろうとしていた。
紅白もまだ終わってはいない。白組のトリの伝次郎が残っている。
司会者による伝次郎の紹介はない。迎えの拍手もない。
だが伝次郎は静かに舞台に上がろうとしていた。
たった1人、いや、たった1匹だけが彼の前に立ちふさがる。
「クックックッ………紅白の続きかね。」
伝次郎はすっと目を細めた。
「どけ。ダニ悪魔。」
ダニ悪魔、と呼ばれた悪魔はいっぺんに頭に血が登った。
「大切な歌と紅白を滅茶苦茶にしやがって………あとで美神さんにしばいてもらいな。」
「なにおお!!たかが体を借りた幽霊とかの分際で!!」
ダニ悪魔は伝次郎に飛びかかろうとしたが、その手前で見えない壁のような物にきれいに弾かれた。
「これは……悪魔除けの結界か?!あの女!!」
伝次郎は再び舞台に向かって歩き出した。
「お前程度にはよく効くそうだ………そこでおとなしく聞いていろ。この俺の『魂』の歌を!!!」

その10分前。控え室。
ようやく西条から準備完了の連絡を受けたが、少し時間がかかりすぎたようだ。

だが仕方あるまい。外は大混乱になっているはずだから。
「…………いい、伝次郎、よく聞いて。奴の『魔唱』の暴走プログラムと『魔唱』本体を解除するわ。奴のセコい『魔唱』の暴走プログラムだけなら、音に変換した私の念波だけでも何とかできる。でも、それだけではダメ。気づかれたら奴は逃げるし、逃げられたらアウト。しとめても解除にかける時間がない。『魔唱』が心を支配しきったら、そう簡単に解除できなくなるわ。時間をかければできるけど、六千万人は多すぎる。解除に手間取れば、心を破壊することになるわ。」
「………………」
「だから『魔唱』の暴走プログラムと『魔唱』本体は同時に一回で解除しなくちゃダメ。でも、『魔唱』本体の解除には重大な問題があるの。」
「問題?」
「『魔唱』を解除するには、私の念波のこもった音に『耳を傾けて』貰わないとダメ。ほんの一瞬、ほんの僅かでもいいから耳を傾けてくれたら『魔唱』を解除できる!あなたは奴の歌に耳を傾けなかったから、『魔唱』にやられなかったのよ。その逆をやるの。」
「それで、俺はいったい何をすれば…………」
「あなたの『歌』で人々を引きつけなさい。」
「?!」
「あなたの歌に私の念波を同調させて即席の『魔唱』を作るの。『魔唱』にやられかけている人がほんの一瞬、ほんの僅かでもいいの、あなたの歌に耳を傾けてくれたら、私の念波であのゴミ悪魔のセコい『魔唱』を解除できる!!!」
「……よくわからないのですが、要は俺の歌で心を揺り動かせ、と言うことですか?」
美神は頷く。
「全員でなくていい……多少の人数ならいくらでもあとで対応できるわ。でも、むずかしいわよ。演歌に興味のない人も引きつけなくちゃならないの。」
「美神さん…………人の心を揺り動かす歌に演歌も流行歌もありません…………
『魂』です。俺は俺の魂を突き動かした歌を、魂をかけて歌います!!!」
…………………………

美神は音響室のテレビから、伝次郎の姿が全国に放映され始めたことを確認して、伝次郎の練習用のカラオケのテープのスイッチを入れる。
生伴奏を準備する時間など無い。伝次郎の歌さえ届けばよいのだ。
前奏が流れ始めた。
美神は音響室に即席で作った魔法陣の中央に立つと、神通棍を床に突き立てる。

「念!!!」
美神の激闘の第二ラウンドが始まった。

舞台に立ち、マイクを手にした伝次郎にも、彼の歌う歌の前奏が聞こえてきた。

《やれやれ………大変なことになっちまった。……本当はただおやっさんに晴れ舞台を見てもらいたくて紅白を目指したんだけど………美神さんに嘘をついたバチかな》
正直に言うのは気恥ずかしいことだったのだ。
伝次郎は再び真剣な目に戻る。
《だがこうなったら…………俺の魂が滅ぶことになっても、全力で歌う!!》
熱く、澄んだ歌声が、すべてのテレビやラジオから流れ始めた。

安は店の主人のためにできそうなことはすべてやった。
しかしすべてが無駄であった。
119番に電話をかけてもとても手が回らないと言う。とにかく安静にさせとくように、ただそれだけだった。
救急センターの人間はもちろん紅白など見てはいなかったが、一斉に押し寄せた要請にもはや機能は麻痺していた。
どうしたらいい、と安が主人のそばで思案に暮れているとき、いつの間にか沈黙していたラジオから、曲が流れ始めた。スイッチは入れっぱなしだった。
男歌十三章〜第三章、男風〜
伝次郎のもっとも得意とする歌だ。演歌の中でも余り演歌らしくない、万人向けの歌であることを安は知っていた。
さすがの安もラジオを切ろうとした。残念だが、それどころではない。
〜〜〜風に背を向け振り向かず〜〜〜
安の手が空で止まった。
その瞬間が、安にとって悪ガキに対する人生最大の驚きの瞬間であった。
伸ばした腕の震えが止まらない。
《………伝次郎、おめえ、まさかこれほどの……これほどの………》
「ウッ…………」
安ははっとして主人を見やった。
「おい、しっかりしろ、しっかり………」
安は主人を揺り動かした。今までまったく無表情だった主人の目に涙が浮かんでいた。

しまったああ!!
ここにいたってようやく猿よりましなダニ悪魔にも事態がわかった。
あの女の霊力とこいつの歌を合わせて『魔唱』を作る気だ。
この歌から感じとれる霊力は自分のものより強い。『魔唱』にかかった人間がこの歌に耳を傾けたら簡単に俺の『魔唱』は無効化されてしまう。
止めなくては。しかし、女の居所を探している暇はない。
ダニ悪魔は目の前でひたすら歌い続ける伝次郎に目標を定めた。
直接的な攻撃はできない。ダニ悪魔は舞台裏にあった大道具のハンマーを掴むと、思いきり伝次郎に投げつけようとした。
ドクン。
突然ダニ悪魔の動きが止まった。
ドクン。ドクン。
《馬鹿な…………悪魔の俺が、奴の歌に心を打たれているだって?》
ドクン。
《違う。俺じゃない。これは………》
ダニ悪魔の顔は青ざめ、歪んだ。
《セイレーンか!!!》
ドクン。
ギャァァァァァァァァ!!!
その瞬間、ダニ悪魔は胸を押さえて苦しみだした。
《あ、あの歌に反応して……目覚めるな、目覚めるなよセイレーン!!お前の力はまだ必要なんだ!!!》
今度はダニ悪魔が伝次郎の歌が終わるまで、孤独な激闘を繰り広げる番だった。

伝次郎の歌が終わった。
既に新年だが、紅白はようやくプログラムを終えた。
パチパチパチ
観客席の1人の老人が虚ろな表情で手を叩いた。
その拍手はさざめきのように会場全体に広がっていった。
ある人はまだぼんやりとしたまま、理由もなく拍手をしたくて拍手をしていた。

ある人はひどい頭痛を感じながらも拍手をしたくて仕方がなかった。
ある人はすべてが判ったかのように拍手を続けた。
だから強くはない。派手ではない。しかし心のこもった拍手が会場を埋め尽くした。
伝次郎は静かに息をつくと、深々と一礼した。
どうやら美神の賭は成功したようであった。

暖かい拍手は、古い店のラジオからも流れてきた。
「いたた……俺はいったい…………?」
店の主人はかなり早く『魔唱』の影響から抜け出していた。かかりが悪かったのだ。
安は自分の想像は口に出したりはしなかった。
「………どうやらもう、大丈夫そうだな。………新年のようだ。………俺は帰るぜ。」
起きあがった主人は黙って安を見た。
「これは今年、いや、去年の分のツケだ。」
安は1万円札のかなり入った封筒を主人に渡した。この店のツケがいくらになるのか、安は知らない。だが自分の想像よりずっと多くの金を入れてきたつもりだ。
主人は黙って受け取った。中身を確認したりはしなかった。少なくても、新聞紙でも構わない、と言うかのように。
安は店の引き戸を開いた。
「…………達者で。安さん。」
もう二度と、この店に来ることはないだろう。だが安は振り向かなかった。
振り向いたら、見せたくない表情を見せてしまう。
「………あんたもな。」
ただ一言を残して、安は店から外へ歩き出した。
夜風はただ、冷たかった。
これからの人生がどうなるか、安には判らなかった。
ただこの店は、今年の大晦日からは店を閉じるだろう。
それだけが、確かと言えることだった。

《迂闊だった!!》
セイレーンの目覚めをなんとか押さえ込んだダニ悪魔は、まだ痛む胸を押さえながら廊下を走り抜けていた。
《まさかたかが人間にあんなまねができるとは………だがまだ終わったわけではない、とりあえず逃げ延びて、『魔唱』の完成度を高めさえすれば…………》
ダニ悪魔の駆け抜けようとした廊下の先に、スッと人影が現れた。
「………何処に行こう、て言うのかしら。」
ダニ悪魔は思わず立ち止まる。
その人影は、美神令子、本人だった。
純血の修羅。二本足の恐怖。
こんな時の美神はそんな表現すら大げさに感じない。
「あんたが行っていいところ何て、たった一つしかないのよ。」
悪魔の自分が『戦慄』したことをダニ悪魔は認めたくなかった。
美神は一定の歩幅でためらうことなくこちらに近づいてくる。
右手には神通棍が握られている。
「私がそこへ送ってあげるわ!!!」
こいつ、セイレーンの体ごと俺をぶった切る気だ!!
ダニ悪魔は瞬間的にそれを悟った。
その判断は正しい。しかし判断の正しさと、行動の迅速さは同じものではない。

ダニ悪魔はセイレーンの能力をあきらめ、セイレーンの右肩の辺りから体を捨て逃げようとしたが、すでに神通棍の間合いに詰められている。
「そこは極楽じゃないわよ!!!!!」
ダニ悪魔が脱出に成功したのは、セイレーンの体から抜け出したまでだった。
神通棍は示現流も真っ青な縦の太刀筋を残して、ダニ悪魔を真っ二つに引き裂く!
………………!!!!!
過分な夢を見た名も知らぬ悪魔は、悲鳴を上げることもできずに消滅した。

美神は床に倒れ込んだままのセイレーンを見おろすと、ゆっくりと神通棍を振り上げる。狙いはもちろん、セイレーン。
「待って下さい、美神さん!!」
突然何者かが美神とセイレーンの間に割って入った。
「伝次郎……………どういうつもり?」
「待って下さい、美神さん………この人、いや、この妖怪はただあのダニ悪魔に操られていただけでしょう?見逃してやっては貰えませんか。」
まだ横島の体を借りたままの伝次郎が必死な目つきで美神に訴える。
「何甘いこと言ってるの伝次郎…………こいつの能力と油断がそもそもの原因よ。」
「判ります、判りますが………確かにあの『魔唱』は歌とは呼べないひどいものでした。しかしこの人には、歌の魅力を感じます。使い方を誤らなければ、きっとすごい歌い手になれる!」
「だから何?それが私を止める理由?………伝次郎、私はたとえあなたでも祓うわよ。」
「しかたありません…………俺はこの人の歌の力が惜しい!」
美神と伝次郎の間で、刃を交えぬ激闘が繰り広げられた。
只の睨み合いでしかなかったが、ダニ悪魔との戦闘よりも過酷で激しく、長かった。


「冬を愛する人は
心強き人………………」
青森県、鯵ヶ沢。
この街の冬は長い。せっかくの日曜だが朝から、純白の粉雪が舞い続けている。

この小さな家の二階の窓からも、曇ったガラスの向こうで舞っている雪はよく見えた。
その降りしきる雪を見ながら、1人の女性が歌を歌っていた。
いや、練習をしていたようだ。
「…………どうした。セレン。」
階段で一階から上がってきた、老齢にさしかかろうとした男が女性に優しく声をかけた。
「あ、安おじさん。………ちょっと、歌の練習を。」
振り向いた女性は少し照れたように答える。
その女性は、紛れもなくセイレーンであった。
「そうか。」
安は目を細めて答えた。

あの日…………
安が東京からこの街に戻ってきた数日後、やはり雪が降りしきる晩に突然、まったく突然、伝次郎が彼の前に現れた。
さらに驚いたのは、1人のガイジンのような女性を連れていて、
「身内として助けてやって下さい。」
と、頼まれたことだった。
誰がどうしたかはまったく判らないが、安の遠縁の子供として戸籍まで用意してあった。
何か事情があるらしい。安は深く尋ねず、頷いた。
生活費は伝次郎が振り込むと申し出たが、安は断った。
安には伝次郎が自分を頼りにしてくれただけでも嬉しかったのだ。
この日から、安とセイレーンの親子のような毎日が始まった。

一月一日、PM2:00頃
美神と伝次郎の激闘は、意識を取り戻した横島とおきぬの介入により突然ピリオドが打たれる。
この事態はおきぬの大岡裁き的な提案により終結した。
美神の強力な霊力によるセイレーンの能力の封印と、横島の文珠による記憶の抹消と別人の記憶の刷り込み。
引き替えとしてセイレーンの生命の保証。
結果として、美神は奪いたかったセイレーンの生命を奪うことはできず、伝次郎も守りたかった歌の才能を守ることができない。
美神は神通棍を引いた。
もちろん、おきぬの提案に納得したのではない。
戦いの修羅が本当の鬼かと言えば、それは違うのである。
…………そしてセイレーンは無害なセレンとして、伝次郎の古い知り合いに預けられることになる。

「………もう少し『ヤングな』歌を練習しないのか?」
安は精いっぱい若いセレンに話を合わせたつもりだ。
それが判っているから、セレンは笑わない。
「この歌、何となく好きだから……………」
安は孫を見る目つきで頷いた。
セレンはこの街で簡単な事務の手伝いをしていた。
少し記憶喪失に陥っているらしい。伝次郎から詳しい話は聞かなかったが、もしそうなら、自分が生きている間に1人でも立派に生きていけるようにしてやりたい。
安はそう決意していた。
『家族』、か…………ずいぶん、懐かしい響きだ…………
安は窓から降りしきる雪を見つめる。
伝次郎…………おめえって奴は…………
「………仕事場の人がね、カラオケで、私の歌は余りうまくないって…………歌の魅力がないのかしら?」
安はじっと窓の外の雪を見つめながら答えた。
「……………セレン、歌は魅力じゃねえ。」
「…………………」
「歌は………『魂』だ。」

この街の冬は長い。
だが、長くとも遠くとも、春は必ず来る。
それだけが、確かと言えることだった。

美神とおきぬが一緒に買い物に出かけると、とても珍しい光景を見ることができた。
無事自分の肉体に戻った横島が、女性の大群に追いかけられている。
「きゃ〜〜〜よこしまさ〜〜〜ん」
「ず〜〜で〜〜き〜〜〜」
「たたたた助けてくれえええ!!!」
あの紅白事件のあと、一部マスコミに伝次郎が肉体を借りていた横島のことが暴露されてしまった。
高まった伝次郎人気とともに、一部のコアなファンは横島にも付きまとい始めた。
しかし残念なことに、演歌のファン層は年齢が高い。
「イヤじゃあ!おばさんやおばあさんなんてイヤじゃあ!!若いねーちゃんがいいんだあ!!!」
絶叫しつつ走り去る横島に美神は声をかけた。
「横島クーン!あなたの体は伝次郎の歌を覚えてるわよー!歌ってあげたらー!!」
「イヤじゃぁぁぁぁぁ!!!!」
横島は素晴らしい快足で去っていった。
美神はやれやれ、と言うように息をついた。
「まったく、演歌なんてこりごりだわ。」
おきぬはクスリと笑った。
「…………美神さんは浪花節ですからね。」
「どーいう意味よ、それ。」
「なんだかんだ言ってセイレーンさんの戸籍とか作ってあげてるじゃないですか。」
「あ………あれは伝次郎の印税とかが五千万より多かったから、サービスよ、サービス!!!」
おかしさを必死にこらえて、おきぬは頷いた。

「えんかなんていやじゃぁぁぁぁ……………」

遠くから細く、風に乗って横島の絶叫が聞こえてくる。

                           
【終】


※この作品は、著者の NOZA さんの投稿作品です。
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