II Never end love――私の愛は永遠に続く――


――メフィスト……ああ、メフィスト。千年ぶりか……お前とこうして直接話すのは……ああ、この瞬間が永遠に続けば良いのに――

――1999年 11月4日 23時20分(アマゾンの辺境 現地時間)――

 おキヌにはその声は聞こえていなかった。猛スピードで自分から遠ざかっていく美神――いや、遠ざかっているのは自分の方だ――を見ながら、ただあらん限りの大声で叫ぶ。絶叫する。
「美神さーーん!! 聞こえますかぁーーっ!! 美神さぁーーんっ!!」
 隣には横島がいる。相変わらず眠ったままで、まだ目覚める気配はない。
 つまり、この場で動けるのは自分しかいない。美神に何かが近づいていく。美神を助けなくては……
 そう思い、ネクロマンサーの笛を手に取る。息を吸い込み、笛に唇をつけて……思いっきり吹く。
『ピリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!』
 ふと、目で見た光景に対しての疑問が、頭をよぎる。笛を吹きつづけながらおキヌは考える。何故美神はあのような驚愕の表情をしているのだろうか? ただ、悪霊……たとえ相手が悪魔であっても、美神はあのような表情はしないはずだ。
 では何故?
 美神は――遠目でよくは分からないが、何か、愕然とした表情で眼前の『何か』を見つめている。
 このままでは駄目だ。
 理屈ではない。本能でそう感じる。
 しかし自分は無力だ……今の場面においては、余りにも……ネクロマンサーの笛は相手には通じていないようだ。むしろ、気づいてもいないようにも思える。
 笛を吹くのをやめ、美神と、その眼前の『何か』を凝視するおキヌ。
 その視線の向こうで――美神と、『何か』は、不意に彼女らを包む光ごと掻き消えた。
 ――そして、浮遊感。辺りは闇に戻り、おキヌは闇に堕ちていった。

――23時19分(アマゾンの辺境 現地時間)――

 その声は、美神を混乱させるに充分な内容を持っていた。
 眼前の男……それは……
「メフィストの……誕生を、見守ったもの……?」
 それが何故自分のところへ……?
 光の中、その男……いや、男と限ったわけではないのだが……を凝視することしか出来ない。どちらかというと行動派の美神にとっては拷問のような時間である。
 その、『何か』は、明らかに美神のこと……いや、メフィストのことを知っている。その言葉の真偽に関わらずだ。
 それだけのことを、美神はそれに感じていた。
 それが言ってくる。
「……やはりお前はメフィストではないのか……? それとも記憶を失ったか。アシュタロス様に歯向かったのならばそれも仕方がないが……」
 その言葉に思考のスイッチが入る。
「アシュタロス『様』……? あんたアシュタロス軍の残党なの!?」
 一気に叫ぶ。あり得る事ではあった。アシュタロス軍の残党が、アシュタロスを倒した自分たちを狙うということは……
 しかし、
「やはり覚えていないのだなメフィスト。私はお前を取り逃がしたことを責められ、数百年前にアシュタロス様に解雇されている……いや、棄てられたと言ったほうがより良いとは思うがな……そのようなことは最早どうでも良い。私はあのときお前に問われたことを、この千年間ずっと考えていたのだよ。しかしもう良い……もう良いのだ。私は見つけてしまったのだからな……」
 そこでそれは言葉を切った。そして……
「……お前を。そして……答えを。『楽しさ』……か。これに勝る楽しさがあるか? これは流れていた千年間のうちに人間に教えてもらったことだ」
 見当もつかないが、頭の中身だけはぐるぐると回る。美神にとっての楽しみ。それは当然金勘定をすることだが……
 それはしかし言い切った。
「愛だ」
 美神の脳裏にその言葉は最初、侵入してこなかった。
 約30秒がたった後、美神はようやく、その言葉が、紛れもなく自分に向けられていることを悟った。そして……
 その結果として……驚く。本っ気で、驚く。それ以外にリアクションは取れない。
 最初はまずそれがメフィストの誕生を見守ったなどとほざいたこと。
 次にそいつが、アシュタロスの元部下であったらしいこと。
 そして止めに愛。最早驚くしかないではないか? 他にどうしろというのだ。
 そして、結論。驚いた末に……結論。曰く……
「あんた……いきなり登場して何言ってんの!? 助けてくれたことは感謝するけど、いきなり『愛だ』って何よ!? 『愛』って!! 第一あんた、メフィストのこと言ってるみたいだけど、私はメフィストじゃなくて美神令子よ!! 美神令子っ!!」
「すまないが魂の色は全く同じようだが……?」
「当たり前でしょ!? メフィストは私の前世なんだから!! あいつはもうこの世にいないの!! 今の私は美神令子よ!!」
「……なるほど」
 思いっきり言いまくって肩で息している美神に向かって、それは言った。
「ならばこうしよう。とりあえずここから離れて…………転移……」
 美神の全身の感覚が消えた。
 そこは闇の中だった。闇の中に一つ浮かぶ光……美神が最初に認識したのはそのことだった。そう、それはつまり……
「空間転移能力(テレポーテーション)……!」
「私はアシュタロス様により造られた魔族だ。これくらいは出来て当然だろう」
 一言で……一言つぶやいただけで、瞬間移動。美神は戦慄する。
 この魔族の力は……半端なものではない。少なくともメドーサクラスの魔物。自分ひとりでは闘うことも出来ない。
 横島たちとも引き離されてしまった。このままではまずい……
 悶々とする美神。そのときそれはつぶやいた……極めて明るく……
「さて、記憶を戻すとするか。少し時間はかかるが、まぁ良い。メフィスト。お前は永劫の命を手に入れるのだよ……」

――23時25分(現地時間)――

「永劫の命? ハッ、馬鹿言ってんじゃないわよ。魔族にすらその命には限りがある。それは厳然として事実よ。現にアシュタロスだって死んだじゃないの……最期にはね…………」
「メフィスト……ここでの永劫は、魔族の言う永劫とは違う……」
「違う? 何が違うってのよ?」
 訊き返す。無性に腹が立つ。この魔族、冷静ぶっていて実は変態なのではなかろうか……実際、そのようにも見えないこともないことだし……
 そのようなことを思い、口を開こうとしたが、
「この永劫の意味。それは私とお前にとってのものだ」
 また先に言葉をつなげられてしまう。
「だーーっ!! 何度も何度もうっさいわね!! あんたなんかと付き合う気も、愛し合う気も、添い遂げる気も私にはないの!! 全くないの!!」
「さてメフィスト、記憶を戻す。少し今の君は眠っていてくれ」
 あくまでマイペースに言ってくるそれ。美神にとって、最悪なまでに嫌悪の対象となる態度だ。腹の底から沸々と怒りが湧いてくる。
「あんたっ!! ちょっといいかげんに…………!!」
 怒りの声は途中で消える。急速な脱力感。目が霞む。
「あんた……いったい何を……」
「美しいお前の体を傷つけるわけにはいかない。故に、人間が開発した薬を使い眠らせる。さあ、今は眠れメフィスト。私はお前の時を停める。時計の針は今、ここに停まるのだ」
「くっ…………」
 そこで、美神の意識は闇に溶けた。

――23時40分――

 彼は眠る彼女をいとおしげに見つめる。彼にとっては、彼女の全てがいとおしげに見えた。
 ようやく会えた。長かった……彼の気持ちは留まるところを知らなかった。
(メフィスト……お前は今どこにいる? お前の魂は……お前の体のどこにいるのだ? 私が見つけ出すぞ。本物のお前を……)
 メフィストは眠っている。自分が眠らせた。眠っているのならば、記憶の復活に伴う痛みも緩慢なものでしかあるまい。それならば良い。しかし、彼女には一片の苦しみも与えてはならない。それは彼自身分かっていた。メフィスト・フェレス。彼女の心は何処へ?
 彼女を眠らせるために使用した薬は、クロロホルムというらしい。昔、人間の元にいたとき、そのことを人間から学んだ。
 その薬は今、揮発されてこの周辺に漂っている。魔族の自分には効果はないが、肉体が人間のものである彼女には絶大な効果を及ぼしているはずだ。
 しかし、
 クロロホルムは劇薬だ。そのこともまた同時に学んでいた。短時間に大量に吸収すると、人間の身では、下手をするとショック死することすらあるらしい。
 そのことを踏まえ、彼は呟き、命じた。
「烈風……」
 烈風が充満していたクロロホルムを吹き飛ばす。これで、彼女の身は安全だ。
 さらに、彼は、自らの指にはめていた指輪の一つを引き抜いた。
 この指輪は、これから始まる儀式には絶対に必要なものだ。
 もう一度メフィストの寝顔を見る。
 穏やかな顔だ。
 先ほどの剣幕が嘘のように、彼女は規則的な寝息を立てて、赤子のように眠っている。
 もうすぐ時が来る。メフィストの時は、夜明けと共に再び始まる……
 後、残り6時間20分……

――
 彼にとっては慣れた場所だった。
 そう。慣れた場所だ。
 彼はいつもそこにいた。……『彼女』と共に。
 そこが壊れるまでは……

――
 人間とは、なんと弱くもろい生き物なのだろうか? 彼は切に思った。
 だから。
 人間では駄目だ。
 駄目なのだ。
 人間はいずれ壊れてしまう。
 それは、彼にしても同じ事だ。
 だがしかし。
 人間とは、なんと弱くもろい生き物なのだろうか? 彼はそう思う。
 何故か?
 彼は人間の壊れる姿を見ていたのだ。
 そう。
 アシュタロスの元から追放された彼にとって。
『彼女』は初めての友人だった。

――
 彼にとっての景色は、気だるい色に包まれていた。
 彼の主……アシュタロスは、彼を捨てた。そのときの彼は、それが全ての始まりだと思いたかった。彼の力の大半もまた消えていた。
 石造りの町並みは美しく、そこに歩く人間の顔もみな晴れやかだ。
 当然だろう。
 あのとき……長い戦乱は、つい先日終わったばかりだったのだ。

――
そう。
彼はそこで『彼女』とであった。
彼に『愛』を教えてくれた『彼女』。
そのときの『彼女』の顔は、この先の人生への希望にあふれていた。
彼にはそれが解せなかった。
人間の命は短い。
どうしてそんなに嬉しそうに生きるのか?
『彼女』は答えたのだ。
短いんだから、精一杯楽しんどかなきゃ損じゃない。

――
『彼女』の顔は晴れやかだった。『彼女』もまた楽しんでいるのだろうか? 自分には、おそらく永遠に『彼女』のその気持ちを理解することは出来ない。
『彼女』は彼に興味を持ったようだった。どこにでも付いて来た。彼はその場所から去った。それでも『彼女』は付いて来た。
 理由を問いただした。そうしたら、『彼女』はこう答えたのだ。
『あなたを愛しているの』

――
 この概念を理解するのには時間がかかった。
 人間は、その概念を生まれながらに持っているものらしい。
『彼女』はそのことについて、彼に熱心に教えてくれた。
『彼女』にとって、彼が何者かということはどうでも良かったらしい。
『彼女』に自分が悪魔であることを告げた。
 そのとき、『彼女』は鼻で笑ってこう言ったのだ。
 そんなの知ってたわよ。だってあなたちょっとおかしいもの。

――
『彼女』は笑っていた。それは、非の打ち所もない、一片の曇りもない笑顔だった。
彼は戸惑った。このようなことに対処する方法は、アシュタロスによって施された思考システムの中には入っていなかった。
 それは、彼が人生で二度目に感じた安らぎだった。
 彼は『彼女』としばらく一緒に暮らしてみることにした。そのことによって、何かが得られそうな気がしたのだ。
 力も取り戻す必要があった。そのために、彼は待った。『彼女』と共に過ごす年月の中で、彼に力が再びみなぎるのを。
 二十年ほどそのまま時が過ぎた。
 その間は、退屈ではあったが、少なくとも『彼女』にとっては……そしてあるいは彼にとっても、満ち足りた時間であったらしい。
 しかしある日……

――11月5日 2時47分(現地時間)――

 彼は眼を開けた。
 夢を見ていたらしい。……昔の夢を。
「いや……夢であったな。あのことも。このことも。所詮たかだか五十年やそこら、……魔族にとっては夢に過ぎない」
 独り言を言う癖はなかったはずだ。確かに感傷的になっているらしい。魔族である自分が、千年間の中の五十年間の中のたった二十年。その夢のために感傷に浸る。自嘲する。
 そのようなことでは駄目だ。
 傍らで未だ眠っているメフィストを見やる。これから行うことにおいて、感傷は命取りになる。意志制御(マインドセット)。自らの意志をもって、感傷的になりかける感情を圧殺する。
 自らが終身をかけて愛する者の隣で、失敗は許されない。それは、彼自身が己に課す鎖だ。その鎖をもって自らの心を雁字搦めに縛る。
 失敗は許されないのだ。
 それは事実でもある。メフィストの心を現在の空間に呼び出すため。それをメフィストの肉体に注魂するため。メフィストを蘇らせるために……
 まずはこれを成功させなければならない。
 後、残り3時間10分……

――
 彼はその日、いつもより早く家を出た。特に意味はない。ただ、指定された期日までに仕事を終わらせるにはそうすることが必要だったというだけのことだ。
 そう、そのとき彼には職があった。
『彼女』は彼に職を持たせた。言うには、人間として生きるためにはどうしても働くことが必要であるらしい。
 石造りの町並みを歩く。無意味なこの行為も、人間として生きていくためには学ばなければならないことの一つだ。
 途中軽食屋によって、人間がよく食べる『ソーセージ』という物を注文しつつ、店主と他愛もない話をする。これも必要なこと。彼にとっては、人間の基準での栄養の摂取は余り意味のある行動ではない。店主と会話することもだ。このことも、『彼女』が教えてくれた。
 しかし、その会話によって得たものもあった。
 この地域一帯を支配する国家。その国が、世界的に今孤立しているらしい。先日戦いが始まった。
 別段彼にとってはどうでも良い話ではあった。店主は熱っぽく語っていたようだが。彼には興味がなかった。
 仕事場に到着する。
 彼の仕事場では印刷機が回り、常に無数の紙を刷っている。『新聞』という物を製造しているらしい。彼にとってはどうでも良いことだが。仕事の内容にこそ意味はある。結果出来上がるものに彼にとっての意味はない。
 作業主任に頭を下げ――これも意味のないことだ――、仕事が始まる。
 作業仲間と会話をする。意味がない。作業に集中していないということは、能率の低下を生む。しかし彼の作業仲間もまた、刷り上ったばかりの新聞を見て何か興奮した声で叫んでいた。
『わが国は……ゲルマン人の誇りは最強だ! ドイツ民族こそ世界を制し、世界の者を管理する民族だ!』
 どうでも良いことだ。今のままを続ければ良い。印刷機を回し、印刷された紙束を束ね、それを指定の通りに並べ、重ねる。それを続ければ良い。
 花火のような一生に何を求めるというのだ? ただ、自らが消えるそのときまでその生活が続くことを何故求めない? 人間とは何故今の状態を変えようとするのだ? 大して不幸とも幸福とも思っていないが故に、より良いものを求める。それが人間なのか?
 彼の物思いは深い。しかし、体は休むことなく動きつづける。それが魔族。意味のない物思いに行動を阻害されたりはしない。
 この生活も、もう十年来続けてきた。家も買った。人間としては、まずまず一般的な暮らしをしているらしい。『彼女』によれば。
 そう、彼にとって今は先刻の延長に過ぎない。そして、未来もまた今の延長に過ぎないのだ。
 こんな神話がある。古代の北ヨーロッパでは、三人の女神が崇められていたらしい。
 過去と運命をつかさどる長姉ウルド。現在と存在をつかさどる次姉ヴェルダンディー。そして、未来と必然をつかさどる末娘スクルド……
 どれが欠けても、この世は成り立たない。過去がなければ未来は存在することが出来ず、未来がなければ現在に意味はない。
 そう、所詮現在時制そのものに意味などないのだ。人間にとっては。
 彼にとっては違う。彼にとっては、何があるか分からぬ未来や、既に過ぎ去ってしまった過去など意味のないものだ。
『現在』。悪魔である彼は神話に興味はないが、現在という瞬間のために彼は今を過ごしている。第一『今』は、『過去』の自分においての『未来』なのだ。『未来』という偶像を手に入れるために血を流すのは馬鹿げている。意味のないことだ。
 仕事場の時計が鳴る。終業時刻だ。
 彼は帰り支度を始めた。必要以上にこの場に留まっていても意味はない。作業主任は良い顔をするだろうが、残って仕事をしていくことにも意味はない。今日の分の仕事はもう終わったのだから、続きは明日すれば良い。
 そのようなことも、人間には意味のあることに見えているらしい。彼の作業仲間たちは、大抵がまだ、印刷機についていた。そもそも、終業時刻を過ぎているというのに印刷機はまだしっかりと回っている。そう、この終業時刻にも意味はない。虚構のものだ。誰しもそれを信じていないのに、それにすがっている。虚像が心理として平然としている。それが人間の世界。自分が今いる世界。
 彼は仕事場を出た。街行く人々はみな新聞を片手に、上気した顔で歩いて行く。今日の記事は確か、ドイツの戦勝を告げるものだった。
 馬鹿馬鹿しい。政府のプロパガンダに律儀に乗ってやっているようなものだ。昨日、黒いロングコートを着た高慢な男が仕事場を訪れていた。
 虚構の記事に喜ぶ虚構の群集。これは、人間社会を体現したようなものだ。誰一人として真実に気づかない。そして無意味な楽しみを謳歌する。
 ひたすらに馬鹿馬鹿しい。
 彼は町を歩く。祖国の戦勝を記念してのことだろう。通りには赤、黄、黒のゲルマン国旗が翻り、店々はのぼりを掲げ、戦勝記念セールなるものを行っている。
 その中を黙々と歩く。力がほぼ戻った今ならば飛んで帰ることも可能だが、それはしないようにしていた。意味のないことだが、人間であることを演じるためには必要なことでもある。
 これを続けるためには、必要なことをするしかない。必要なことをし損ねた場合、人間たちは自分を……そして自分と共に暮らしている『彼女』をもまた放逐するだろう。些細な対立は破局の引き金となる。これは神魔界においても同様だった。
 そう。神は神ではないし、魔も純粋な魔ではあり得ない。自分たちもまた、人間と同じように、必要なことのために無意味なことをしなければならないのだ。全知には程遠い。
 ほどなく彼は自らの家に着いた。扉を押す。『彼女』が選んだ木製の扉は、余り丈夫でない割にはひどく重い。人間の女の力では、開け閉めするのにも苦労するだろう。これも無意味なものの一つ。実用性には乏しい。
 彼は扉を開いた。ベルが鳴る。『彼女』が迎えに出てくるはずだ。無意味だが、これも人間らしさなのかも知れない。待つ。
 しかし…………
 いくら待っても『彼女』は家の中から出てこない。
 呼んでも出てこない。
 そう、決して出てはこなかった……

――
 これも夢……それは分かっていたことだ。
 過去の自分。
 そう。理解していた。
 後悔や物思いは無意味だ。
 もう、失うものはない。
 それもまた、既に理解していることだ。
 理性では。
 感情と理性は相反するものだ。
 自分にとっての失うことのない、永遠に美しいままでいるもの。
 それは何か? ……考える意味はない。分かっていることだ。
 メフィスト。
 私はお前を愛しているのだ。
 それ故お前を失うことは出来ない。
 お前は永遠に美しいまま。
 私の傍らに座していてくれれば良い。
 嗚呼メフィスト。
 お前なら私を裏切ることはないだろう?
 私はお前を愛しているのだ!

――5時25分(現地時間)――

 その思いは彼にとっての全てだった。
 眼を開ける。視界に映るのは空。漆黒の空だ。
 時間を確認。彼にとっての……時間。彼にとっての時間はここから始まる。いや、始める。彼と彼女が始めるのだ。
 思いは強い。メフィスト・フェレスと初めて相対したときに、この決断をすることは決まっていたのかも知れない。
 決まっていた? 誰が決めたというのだ。
 苦笑する。そう、運命を操るものなどどこにもいない。ウルドは破天の刻に滅びた。運命は今、それをするものの手にゆだねられている。
 彼は未来を造る。もう二度と、あのようなことは起こさせない。……永遠の、愛。あの時の『彼女』が教えてくれたもの。そういえば『彼女』は出会ったとき踊り子をしていた。そして、別れたときも、『彼女』は酒場で踊っていたはずだ。人間の作り出した無意味な娯楽の一つ。
 いや、考えるべきではない。過去は所詮過去。既に過ぎ去った事実としてのみ、過去はその意味を持つ。
 意味があるのは現在。
 そして、
 その現在の延長上にある未来。
 未来は厳然として存在するものではない。女神の去った今、未来は自分の力で掴むものであるのだ。永遠の、未来を……
 彼は立ち上がった。ずっと掌の中にあった希臘風の指輪を握り締める。その指輪は、薄く発光していた。彼の念を受けて。
 これから始まるのは儀式。この儀式によって、彼女の人としての生は終わる。魔としての人格を呼び戻す。そしてこの儀式によって、彼女と彼の新たな生が始まる。
 彼に迷いはない。
 後、残り30分……

――5時53分(現地時間)――

「汝の名は?」
「……美神……令子……」
「もう一度問おう。汝の名は?」
「…………美神れい……こ」
「汝の真実の名は?」
「………………みか……み……」
「魔よ、汝の真実の名を告げるが良い」
「………み………………………メフィ…………」
「ならば汝は何だ?」
「ゴー……ス……ト…………スイー……パー…………」
「……それは何だ?」
「悪霊……シバく……」
「それが何なのだ?」
「…………それは……」
「汝の名は?」
「……みか…………」
「汝の名は?」
「み…………め」
「汝の真実の名は?」
「めふぃ…………す……」
「名は?」
「……め……ふぃ…………す……………………と……………」
「……メフィスト。時計の針は停まったぞ……この指輪をはめるが良い」
「………………………………」
「……良し…………」

――5時58分(現地時間)――

 全ては整った。
 指輪……『メビウスのリング』はメフィストの指にある。後一言。それだけで、『これ』は終わる。そして、始まる……
 彼は言った。
「……時よ停まれ。お前は美しい…………」
 夜が明ける。森に光が満ちた――

――To be continued――


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