IV Broken heart――私は戦う彼女の為に――


――時よ停まれ。お前は美しい――

――1999年 11月5日 6時00分(アマゾンの辺境 現地時間)――

 突如として森に満ちた閃光が、視界を塗りつぶす。
「何……!?」
 彼にとって、これは予想外のことであった。これは……朝日ではない……!
 閃光は現れたときと同じく、突如として消え去った。本物の朝日が、先程の閃光に比べると大分弱々しく朝の訪れを告げている。
 しかし彼にとって、そんなことは最早どうでも良かった。
 閃光が消えた後。彼の目の前からは……
「メフィスト……!」
 メフィストの姿が消えていた。

――6時01分(現地時間)――

「おキヌちゃん! 美神さんを連れて出来るだけここから離れて!」
「はいっ!!」
(成功した……!)
 日の出にあわせて文珠で閃光を生み出し、超加速で美神を助け出す。ぶっつけ本番だったが、上手くいった。
 ……だが、
 美神は、淡く発光したまま動かない。よく見ると、発光しているのは美神の指にある指輪だ。その光が全身を包んでいる。
 美神を抱えたおキヌが、森の中に消えていく。……その姿を見送ってから、横島は姿を現した――魔族の前に……
 魔族がこちらに気付く。横島はその3メートルほど手前で立ち止まった。その表情を見ただけで分かる。魔族は激怒していた。
「メフィストを……何処へやった! 人間!」
「あの人はメフィストじゃない……美神さんだ」
「そうであったのは先程までのことだ。彼女は既に人間ではない!」
「お前が何をしたかなど、もう関係ない。……お前を倒す。そうすれば美神さんは元に戻るんだろう?」
「……何?」
 簡単なことだ。
「妖術は、術者が滅べばその効果を失う。つまりお前が死ねば、美神さんは人間に戻れるってことだ」
「……成る程……理屈自体は正しいことだ」
 横島は右手の中で文珠を握った。
「だがな……」
 相手が言う。怒りを感じさせない、静かな声で。
 横島は右手を上げた。魔族が言う。
「私を倒すこと……それがお前には不可能だというのだよ! 人間!」
 魔族の突進。伸ばした霊波刀でそれをいなす。そして、魔族の顔面に文珠を叩き込む!
――『砕』……!
 爆発。
 爆風に乗って間合いを取りながら、横島は叫んだ。
「お前は……美神さんに手を出した! お前は…………殺す!」
 最早横島に、先程までの冷静さは微塵も残っていなかった。只在るのは、美神に手を出した相手への獣的な怒り……。
 その怒りに任せて、横島は自動拳銃を抜いた。未だ爆音の中にいる相手に向け、精霊石弾を叩き込む。
 拳銃がはねた数だけ、薬莢が銃身から飛び出す。飛び出した薬莢の数だけ、相手の体に精霊石弾は食い込んでいるはずだ。
 煙が、晴れる。
 巻き込まれた木々を炎上させながら、煙は散った。……その向こうから、声。
「槍(ソウ)!」
 光の矢が、残った煙を巻き上げながら飛んでくる……横島へ……
「ちっ!」
 超加速、発動。横島にとっての時間が引き延ばされ、一瞬が永遠へと化ける。光の矢を軽々と避け、煙の向こうに……
「いないっ!?」
 叫んだ瞬間、横島の右肩に激痛が走る。
「…………!!」
「超加速か……魔族にとっては微々たる力に過ぎんが、人間には過ぎた力だ。竜の装備を何処で手に入れた?」
 魔族が、後ろにいる。光の剣が肩に突き刺さっている。
「何で……お前に、そんなこと言わなきゃならないん……だ?」
 苦悶のうちに言い返す。言い返しながら剣を抜く。
 肩から鮮血が溢れ出す。血液を失えば、自然に体温も低下する。体温の低下は、体力の低下となってすぐに現れるし、傷そのものは回復できたとしても失った血液は回復しない。
――『癒』……!
 取り合えず文珠で傷を癒す。注意は相手に向けたまま……
 相手は言ってくる。
「『言霊』……私の最も得意とする力だ。お前もその力を使うようだが、……文珠に頼っているのか。まだ青いな、人間よ……媒体となる文珠がなくなったとき、お前はどうするというのだ? ……私は違う。私は自らの力のみを以ってして、森羅万象を操る」
 横島は考える。
(『言霊』か……くそっ、厄介な……何とかしなきゃ……何とか……)
 血液が大量に抜けた右腕はひどく痺れている。当分の間、右腕は使い物にならないだろう。少なくとも戦闘には……
「……! ――ちっ!!」
 気配を感じ、左に飛ぶ。
 その空間を、魔族の手刀が突き貫く。
(! しまった!)
 はめられた。右腕が使えない以上、左に飛ぶべきではなかった。反撃が出来ない……!
 魔族は嘲っている。……追撃が――来る!
「炎(エン)!」
「ぐわああぁぁぁぁっ!!」
 肌が、皮膚が、炎に灼かれる痛み。炎の舌は横島の体を余すところなく包み込み、それを燃やし尽くそうとしている。
――『冷』……!
 炎を文珠で消す。横島は自動拳銃を連射しながら、相手からの距離を取る。弾丸切れの弾倉をイジェクト、新しい弾倉を装填。
 全身が痛い。
 体中に火傷を負い、服に擦れた傷口は彼に深刻な痛みを発生させていた。傷そのものはたいした事はないだろう。それよりも問題なことは痛みだ。文珠の使用には霊力の集中が絶対条件として必要だ。しかし……肉体的な激痛は神経を掻き乱す。
 相手は余裕ありげに横島を見やっている。口元に、ニヤニヤと笑いを浮かべながら。
 しかし、
(治癒をする余裕は、もう与えてくれないだろうな……文珠は、使えない……!)
 そう考えている最中にも、激痛は横島の神経を容赦なく掻き乱す。
 左手に保持した自動拳銃のグリップを握り締める。奇跡的に暴発もしなかった自動拳銃は、金属の感触を横島の手に伝える。
「人間よ、メフィストは何処だ? これは最終通告だ。今度は、殺す」
 笑いを引っ込めた魔族が、冷然と言う。
「関係ねぇよ……お前は俺が殺すんだ」
 横島もまた、凄絶な笑みを浮かべながら言葉を返した。
「そうか…………残念なことだ。…………さらばだ」
 魔族が消えた。少なくとも、横島にはそう見えた。
 痛みはなかった。
 魔族の腕が自分の腹から生えている。その事実を、横島はまるで他人事のように眺めていた。現実味がない……腹に生えた腕が消える。いや……引き抜かれたのだ。
 後ろへ。
 自動拳銃が掌から滑り落ちる。視界が急速に暗く――狭くなっていく。
(…………美神さん!)
 その思いを最後に、横島の意識は暗闇の中に崩れていった。

――6時09分(現地時間)――

 彼は地面に倒れた人間を見つめた。致命傷だ、その確信があった。事実、人間の腹部の傷口からは、絶望的な量の血液が流れ出している。
 故に死亡確認はしない。止めも刺さない。
 この人間は、運が悪ければこのまま死ぬ。しかし、運がよければ助かることもあるだろう。そんなことは最早どうでも良い。意味のないことだ、自分にとっては。
 早急にしなければならないことがある。
(メフィスト……!)
 取り戻さねばならない。もう、二度と別れるのは……許容できない。彼にとって……それが彼にとっての、今、唯一の意味のあること。
 メフィストを連れ去ったあの人間を追う。そして、メフィストを連れ戻す。二度と自分のそばから離れてしまうことのないように……
「転移……!」
 空間転移。
 彼はメフィストの気配を捜した……

――6時14分(現地時間)――

 横島は無事だろうか……
 おキヌが思うことは、先程からそればかりであった。
 美神を背負って森の中を歩く。美神は、おキヌには物凄く重く感じられた。
(……大丈夫。横島さんは「逃げる」って言ってた……私は私の役割を果たさないと……)
 自分の役割。即ち、美神を連れてここから逃げ切ること。
「美神さんっ!」
 呼んでも揺すっても、美神は反応しない。淡く輝くその表情は、信じがたいまでの無表情。目を閉じ、無表情に眠っている。
 発光しているのは指輪。そうだ、指輪をはずしてしまえば……!
 おキヌは考え、美神の指――左手の薬指にはまった指輪に触れる。
「――!!」
 声にならない悲鳴をあげ、おキヌは手を引いた。指が熱い……
(熱い……何かの術が掛かっているの?)
 指輪に触れた指を見るが、火傷もしていない。感覚だけが熱いと感じたのだろうか?
(あっ)
 はたと気付き、先程のことで放り出してしまった美神に慌てて駆け寄る。美神は、今もなお無表情で眠っていた。
「……美神さん…………」
 どうすればいいのだろう? 分からない……自分には分からない。自分には何も出来ない……横島が今も頑張っているというのに!
 自然と、涙が出てくる。堪えなければ……堪えなければ……
 自分には何も出来ないかもしれないが…………今の美神を護れるのは自分しかいないのだから。

――
 ココハドコ?
 ワタシハダレ?
 ワタシハナゼココニイルノ?
 ワカラナイ。
 ワカラナイ。
 ワカラナイ……………………

――6時18分(現地時間)――

『いってらっしゃい』
 彼が聞いた、『彼女』の最後の言葉。
 その言葉を最後にして、『彼女』は彼の前から消えた。文字通り、忽然と。
(考えるな……! 考えるべきではない!! これは過去のことだ…… 今更こんなものに意味などない!!)
 しかし、自我とは逆に思考は暴走する。50年前の絶望を、彼の脳裏に再生する。
(やめろ……!!)
 今のことを考えるべきだ。過去は既に自分にとって何の意味も持たないものだ。過去とは過ぎ去った時のことであり、それは最早覆すことの出来ない物だ。
『彼女』は最早、今の自分にとっては意味のない存在。
 今の自分にとって意味のあることは……現在。
 今の自分にとって意味のあるものは…………メフィスト。メフィストだけだ。
「メフィスト…………!!」
 メフィストの霊波を発見。彼は降りていった。…………失うことはもう沢山だ。彼自身の『未来』の為に、メフィストは取り返さなければならない。

――
 ワタシハココニイルノ?
 ワタシハホントウニワタシナノ?
 ココニイルワタシハホントウニホントウノワタシ?
 ワタシはナニ?
 ワタシハ…………

『美神さん!!』

『メフィスト!!』

『美神さん!!』

『メフィスト』

 コレハダレ?
 ダレナノ?
 デモ、ワカル。
 ワタシハ……
 ワタシハ…………
 コレヲシッテイル……………………

――6時20分(現地時間)――

 おキヌの目の前に、それは降り立っていた。
「そんな…………」
 圧倒的な力。自分ではどうすることも出来ないだろう。時間稼ぎも出来そうにない。余りに……無力。
 しかし思う事がある。それがここにいるという事は……
 横島は……
「メフィストを返してもらおうか……」
 それが言ってくる。冷たい……声で。
 しかし自分でも驚いたことに、おキヌの第一声は怯えを含んではいなかった。
「…………横島さんを……どうしたんですか……?」
 魔族は即答した。やはり……冷たい声で。
「先程の人間なら殺した。死亡確認はしていないが、あの出血量なら、即死していなくとも数分で死んだだろう」
 顔が、強張る。
(横島さんが……死んだ?)
 横島が死んだ。横島が死んだ。横島が死んだ。横島が死んだ。横島が死んだ。横島が死んだ。
横島が……………………
「う・う・く…………」
「メフィストを返せ。お前も殺すぞ……」
「……死亡確認は……していないんですね?」
「何……?」
そう、横島が………………
死ぬはずがない。
この魔族が殺したと思い込んでいるだけだ。横島はまだ生きている。そうに違いない。だとしたら…………
『ピリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!』
「……!? 馬鹿なことを」
 ネクロマンサーの笛を吹く。付近の悪霊たちが、魔族に襲い掛かる。
「滅っ!!」
 悪霊が消える。消されたのではなく、『消える』。一瞬で……
「滅べ人間……」
 魔族がその腕を上げる。やはり多少はこちらを侮っているのだろうか、その動作はゆっくりだ。
 しかしその間に、おキヌは次の行動を起こしていた。
――『縛』……!
「ぐっ…………これは……っ!!」
 数時間前、横島に渡された文珠。彼女はそれをまだ持っていたのだ。
 文珠による呪縛は、相当にレベルの高い魔族にも通用する。少なくとも数秒は……
「ええいっ!!」
 持っていた破魔札を全て投げつける。
「がっ……あぁぁぁぁっ!!」
 自動拳銃をフルオート連射。魔族の全身に精霊石弾がばら撒かれる。
「ぐっ……っっくぅぁっ!!」
 そして……
 おキヌは美神を背負って森の中に駆け込んだ。
(今の攻撃であの魔族の力はかなり弱っているはず……文珠の呪縛を解除するにはあとしばらくは掛かる……)
 だから逃げなければならない。横島は来る。だから、自分は自分の役目……美神を護りきらなければならない。
(横島さん……)
 横島は生きている。心配などする必要はない。
 美神を背負って森の中を走りながら、おキヌはそれだけを自らに言い聞かせ続けた。

――
 コレハダレ?
 ワタシハドウシテソウオモウノ?

「美神さん…………ただいま」

「……また会おうな」

ワカラナイ。
ワカラナイ。
コレハダレナノ? ワタシハダレナノ? ワカラナイ……………………

――6時35分(現地時間)――

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 咆哮。文珠によりできた呪縛結界を吹き飛ばす。
「おのれっ! 人間めぇっ!!」
 殺す。この世界から消す。
(何処へ行った?)
 彼は考える。あの人間が姿を消してから大体十五分。恐らくメフィストの霊波は既に何らかの手段によって妨害されているであろう。
 空から捜しても、この森の中では見つかりはしないだろう。
 しかし、そう遠くへは行っていないはずだ。あの人間は女、肉体的な力はそれほどでもない……それに加え、メフィストを背負っている。ペースはどうしても遅くなるだろう。
(ならば……大丈夫だ。メフィスト……見つけることは可能だ)
 人間は『群れ』を作る動物だ。先程『殺した』人間。あの人間のところに行ったのではないか? メフィストを背負って探せるものかどうかは疑問だが、そもそも人間とは不条理を好む動物だ。死体の側で待っていればいずれ向こうからやって来るだろう。
「……転移!」
 死体は気配を発さない。記憶に従い、彼は屍を探した。

――
 ヨンデル。
 ワタシヲヨンデル。
 コレハナンナノ?
 ワタシハナンナノ?

「美神さん」「メフィスト」「美神さん」「メフィスト」「美神さん」「メフィスト」「美神さん」「メフィスト」………………

 ワタシハ…………………………………………

――6時35分(現地時間)――

 此処は何処だ? 俺は今何処にいるんだ? 寒い……体が冷えている。何故だ? 行かねばならない。そう、あいつは……殺さなければ……
 此処は何処だ? 暗い……体が動かない……動けない。此処から出なくては、あいつを殺さなくては……ならない。あいつは美神さんに手を出した。報いを受けさせる――殺す!
『横島さん…………』
 誰だ?
『先生っ!!』
 誰だ?
『横島……』
 お前たちは誰だ…………!?
『『霊気』を送ります。私たちの残った霊力全てを……』
『先生。美神殿とおキヌ殿を頼むでござる……』
『頼んだぞ……横島!』
 これは……?
 …………………………………………暖かい……

――19時35分(日本標準時)東京 美神除霊事務所――

 成功した……
 そう認識すると同時に、小竜姫はその場にくず折れた。……限界だ。ほぼ全ての霊力を搾り取り、今の彼女に残っているのは生命維持の為に最低限必要な量のみだ。
 隣を見やると、シロとタマモも同じようにへばっている。シロはその場に倒れこんで肩で息しながら腕を上げることも出来ないようであるし、タマモにいたっては狐の姿に戻ってしまっている。
 小竜姫は今、遠き地にいる横島に、自らとシロ、そしてタマモの全霊力を与えた。無論直接送ることは出来ない。小竜姫は、横島が身に付けていた自らの竜の装具を媒介にして、横島に霊力を送ったのだ。
 霊力と……言葉。ことによると、力よりも重要な……希望。
 これでもう後は自分たちに出来ることは何もない。
 後の希望は横島。
「……横島さん……頑張ってください……」
 そう呟き、小竜姫の意識は心地よい眠りの世界へ飛び込んでいった。

――6時37分(現地時間)――

 横島は眼を開けた。夢を見ていた……とても、いい夢を。
「小竜姫様……シロ……タマモ……」
 力はみなぎっている。彼女らのおかげだ。腹や全身に負った傷も塞がっていた。自己治癒能力が、流し込まれた多大な霊力によって一時的にその機能を活性化させているらしい。体調はほぼ普段どおり。大丈夫だ、いける。
「おキヌちゃんは……?」
 自分が気を失っていた間、何が起こったのだろうか。おキヌは大丈夫だろうか。美神は無事だろうか。
「……!!」
 横島はそこで思考を止めた。
来る……!!

――6時38分(現地時間)――

(横島さんっ……)
 密林を駆ける。何度も転びながら駆ける。美神の体を背負って駆ける。
 美神は依然として目覚めない。
 しかし……
 横島は生きている。それならば、美神が元に戻らない筈がない。そう、横島がそう言ったのだ。美神は無事だ……横島も無事だ……そうに決まっている。
 だからこそ駆ける。一刻も早く、横島と会わなければ……
(横島さんっ……!)
 おキヌは、涙を流しながら走り続けた。

――6時40分(現地時間)――

 彼にとって、それはちょっとした衝撃だった。
「……驚いたな…………まさか生きているとは……」
 彼の目の前に今、立ちはだかっているのは先程彼が『殺した』筈の人間。信じがたいまでの回復力、そして幸運で、彼の前に今又、立っている。
「思ったよりタフなようだな……」
「関係ないよ……美神さんは、俺たちが連れ戻す」
 その『人間』は腰の後ろから短剣を引き抜き、構えた。
「人間よ。メフィストは最早、私にとってもいなくてはならぬ者になってしまったのだよ。……だから……お前を殺す。その後で、先程の人間をも殺す」
「? ……おキヌちゃんに会ったのか?」
「それが先程の人間のことであればイエスだ。随分とひどい真似をしてくれた」
「……そうか、おキヌちゃんも戦ってくれたのか……」
 感慨深げな表情をする『人間』。
「人間よ……お前は良くやったと言えるだろう。だが……さらばだ」
 彼は地を蹴った。

――
「メフィスト……」

 アナタハダレ?

「美神さんっ!」

 アナタハダレ?

 ワカラナイ。ワカラナイ。ワタシハ…………
 ワタシハナンナノ!?
 ワタシハ…………

――6時39分(現地時間)――

 おキヌは走る。
「……さらばだ」
 声が聞こえる。さっきの魔族の声だ。
 横島の声も聞こえる。きっと横島はそこにいる。
 行かなければ……! 自分にも何か出来るかもしれない。横島を少しでも助けられるかもしれない。美神を助けられるかもしれない。
 美神を背負って声のする方へ走る。声は何時しか打撃音に変じていた……

――6時40分(現地時間)――

(来た……!)
 超加速。横島は魔族の繰り出した鋭い蹴りを、高速移動によって避けた。
(しかし…………来るっ!)
 右手に気配。これだ、さっきはこれでやられた。
「転移っ……!」
 魔族の叫び声が遅れて聞こえる。
 この世で唯一、超加速状態にある自分よりも素早く移動出来得る方法。――空間転移。移動する場所に元より居なければ、攻撃など喰らうはずもない。
「弓(キュウ)っ!!」
 光の矢の豪雨が、横島に降り注ぐ。
「ちいっ!」
――『盾』……!
 文殊発動。横島の眼前に作り出された『空間』の盾は、光の凶器を易々とはじき返した。……しかし――
(……! まだだっ!!)
 悪寒を感じ、盾をその場に残してバックステップで後ろに跳ぶ。数コンマ遅れて、魔族が叫んだ。
「槍!」
 光の槍は空間の盾を貫き、先程まで横島が立っていた位置を貫く。盾の効果が消える。横島は神剣の刃を『槍』に突き立て、左手に伸ばした霊波刀で魔族を狙う。
「フンッ……!」
 当然魔族はそれをかわす。しかし、それは横島の狙いどおりでもあった。
(かかった!! ……曲がれっ!)
 霊波刀が、突如その向きを変える。霊気の刃は、真っ直ぐに魔族の体へと進んでいく。
「!! ……護っ!!」
 今度は魔族の眼前に、先程自分が出したものと同じような障壁が聳え立つ。光の刃は、障壁に跳ね返されて空しく消えた。
「くそっ!!」
(あの状況で『言霊』を使うかよ……!? こいつ、戦い慣れてやがる!)
 横島に、格闘、剣術、柔術等の、戦闘術の心得は殆どない。強いて言うならば、霊波刀を効果的に活用するために、剣術の基礎を学んだくらいである。
 横島はこれまでの戦いにおいても単純な戦闘力と言う意味に置いては、殆ど文殊の存在に依存していたのだ。
 ……しかし『あの事件』で、彼は『世界』を救った。事実として、一流GSが何人も居て相手に出来なかったモノを、横島は――どんな形にせよ――倒したのだ。そう、横島は……
『世界』を、救ったのだ。『自分』……そう、今はもう、『自分』なのだろう……の力で――
 再び後ろに跳ぶ。魔族が生み出した火炎が、その場に炎の柱を作り出す。その炎の中に向かって、横島は自動拳銃を連射した。弾倉が空になるまで……連射。薬莢が、乾燥した地面でぶつかり合って澄んだ音を立てる。弾倉をイジェクト、新たに装填。――後残り二つ……30発。
 炎が消える。魔族は全身に銃創を受けて尚、平然とした表情でそこに立っていた。
「……無駄なのではないか? いい加減に意味のないことをするのは止めろ。私の『言霊』は、実働までのタイムラグも殆どない。アシュタロス様によって与えられ、私が極めた最強の能力だ……」
「フン……そうかよ。能書きはいいから来てみな、美神さんは渡さん」
 いや……余裕は……ない。
 魔族の次の一撃を防ぎきる自信は、横島にはなかった。魔族は戦い慣れている。自分は戦闘は得意ではない。文殊の使用も、所詮は使用者の感覚に依存する。
 しかし……負けられない。勝つ。
 勝って、普段の美神を……日常を取り戻す。美神の為に、おキヌの為に、シロの為に、タマモの為に、小竜姫の為に……
 そして……自分の為に。
 今の自分の日常には美神がいる。いや、今はいなくてはならない。『普段』を取り戻すためには…………勝たなければならない。美神を取り戻さなければならない。
 魔族が消えた。少なくとも、横島にはそう見えた。
(そう……俺は……)
 勝つ。
 前方に体を投げ出す。気配で、魔族が後ろに現れた事が分かる。地面で回転しつつ体勢を変え、右手に霊波刀を発生させる。
 魔族は驚愕の表情をしていた。
(へっ…………)
 横島は、左手に持ったままになっていた神剣を――――魔族に投げつけた。
「――!!」
 魔族の表情が強張る。その身を投げ出して神剣をかわす。
 ……しかしそこに隙は出来る。
 横島の右腕に顕現した光の『手』が、その形を保ったまま伸びて、魔族の足を掴む。
「! 何っ……!」
 魔族が叫ぶ。横島は魔族の目の前にいた……
――『封』『言』……!
「!! …………!!」
 文殊発動。閃光を発し、二つの文殊が砕け散る。
(効いた……!!)
 横島には戦闘術の心得はない。しかし、横島には常人を遥かに超えた霊力の器と、その使用法を考えつくだけの頭。そしてその顕現たる、文殊があった。上手く使えば、上級悪魔だろうがなんだろうが倒せるだけの力……
 特殊霊波刀――『栄光の手(ハンズ・オブ・グローリー)』。その機能は決して『切る』だけではない。『殴る』ことも、『掴む』ことも当然可能なのだ。
 横島は霊波刀を両手に出し、反撃を開始した。
 ――美神を助ける為に……

――同刻――

 彼にとってそれは驚愕すべき事態だった。
(馬鹿な!?)
 眼前の『人間』の連撃をかわしながら、彼はその事を胸中で繰り返す。有るべきでない事態。有ってはならない現実。
(私が……人間に…………)
有ってはならない。その様な事は……有ってはならない……!
 もう二度と、人間などに絶望を掴まされは――しない……!
50年前のあの日、自分はそう決めた。そして、その時から自分は、メフィストを探し……50年の歳月を生きてきたのだ。
 そして――自分はメフィストを見つけた。メフィストと再会することが出来たのだ。
 もう――失うのは……嫌だ。断じて許容できない……! 人間に、メフィストまでを奪われるのは……
『人間』の動きは、まるで出鱈目だった。只彼を目指して、剣を叩きつけるのみ。この『人間』は、それ以上の事をしようとしていない。
 勝たなければ。
 勝ってメフィストを取り戻さなければ。
メフィストまで、『彼女』と同じ様に失いたくはない……!
 こちらも霊波刀を腕から伸ばす。彼は、考える事を止めた。勝つのみ。勝てば全てが上手くいくだろう。
『人間』の左手の霊波刀に、こちらの霊波刀を打ち付ける。『人間』は、すかさず右手の霊波刀をこちらに振ってきた。
(フンッ!!)
 霊波の盾を形成して、霊波刀の力を逃がす。『人間』の霊波刀が盾の表面を滑った。『人間』が大きくつんのめる。
(貰った!!)
 背後から音。茂みから、音。
 霊波刀は『人間』の背中に滑り込むように差し込まれた――破砕音。何かが爆発するような……
 ――そして……
「横島……さん……?」
 メフィストを背負った人間の女。それが、背後から呆然とした表情で、こちらを見尽くしていた。

――
『ドンッ!!』

「美神さん……! 美神さん……!! 美神さん!!」

ヨンデイルノハダレ?
アナタハナンデナイテイルノ?

「美神さん……横島さんが、横島さんが……!」

 ヨコシマ……ダレダロウ――トテモナツカシイキガスル……

「横島さんが……!」

 ……

「……うっ、うっ…………横島……さん……」

 ……マサカ……
 ……ソンナハズハ――

「美神さんっ……起きてくださいっ……! 横島さんが……死んじゃう……」

 ――『!』――

 メビウスの輪は切れた!!

――6時49分(現地時間)――

 おキヌは見た。
 美神の指にはまっていた指輪……それが……
 崩壊した。文字どうり、完膚なきまでに。
 そして……
 美神は眼を開く。

――6時50分(現地時間)――

(メフィスト……)
 彼は声を発した。――心の中で。現れた者たちがいる。
 彼の視線の先にはメフィストがいた。その隣には、先程の人間の女がいる。その女は殆ど半泣き状態で、こちらを見据えている。いや、見据えているのはあの『人間』か?
 しかしそんなことはどうでも良い。
(何故……)
 メフィストは立っていた。立って、呆然とした瞳でこちらを――いや、地面に倒れている『人間』を見ている。
 その瞳に、感情は見えなかった。メフィストは目覚めてはいないのか?
(メフィスト……お前は、メフィストなのか?)
 呼び掛ける。しかし、反応はない。……当然だ。自分は声を出していない。相手に思いを伝える事は、今の自分には出来ない。……しかし、メフィストは『何か』に気付いたらしい。先程の『人間』を見る目の色が微妙に変わる。
 メフィストの隣に立ち尽くしている、女に怒りの目線を向ける。メフィストに……メフィストに何をしたのだ?
 女は答えない。只呆然と、涙を流しながら、倒れた『人間』を見尽くしているだけ……
(…………)
 風が流れる。彼はメフィストの方へ向かって歩き出す。――メフィストは渡さない。
 しかし、最早それすらも出来なくなってしまった。人間の女が動く――
「――――!」
 声にならない声をあげながら、女はこちらへ珠を投げつけてくる。――避けられない!
――『縛』……!
 呪縛の文殊が発動。彼の動きを封じる。
(ぐぅっ!!)
 不意を突かれた。動けない……!
(おのれっ……)
 視界の中にあの女の姿はない。しかし、あの女は恐らく、自分に致命傷を与える事は出来ないだろう。呪縛を破って、捕捉。そして、終わりだ。
(――!?)
 視界の中に、何かの影が映る。逆光で見えない……しかし、これは――彼女は……
(……メフィスト?)
 影は、その手に短剣を持っていた。先程、『人間』がこちらに投げ、この辺りに落ちていたのであろう短剣だ。
(メフィ……)
 影が短剣を――振り下ろす。
(――――――!!)
 痛み。途方もない痛み。メフィストによる痛み。痛み……メフィスト、何故だ。何故だ。何故だ……!?
「私は、メフィストじゃない」
 影が、言う。日が翳り、影は影でなくなった。
「私は……美神令子よ!」

――6時56分(現地時間)――

 美神令子は、その場に倒れ伏した魔族を睨み据えたまま、堰を切ったように言葉をまくし立てた。
「あんた! よくも私のところの丁稚を散々可愛がってくれたわね!! 言っとくけど、許すつもりはないわよ!! だぁれがメフィストですって!? 私は私!! 私は美神令子!! 過去なんかを気にする私じゃないのよ!!」
 一気にまくし立てる。しかし、地面にうつ伏せに横たわっている魔族は、聞いている様子ではない。
「聞いてんの!?」
 魔族を蹴り、仰向けに引っ繰り返す。魔族の瞳は、ここではない――どこか遠くを見つめていた。唇からは、紫色の血液が溢れている。
「? ……あんた?」
 魔族は、何か呟いていた。しかし、その言葉は声にはなっていない。声を出す事が出来ないらしい。
「……おキヌちゃん」
 横島を必死に起こそうとしているおキヌを呼ぶ。おキヌは、信じられないというような視線を、美神に向けてきた。
「み、美神さんっ……横島さんが――」
「よく見なさいおキヌちゃん……」
 嘆息しつつ、言う。実はこれは、先刻、横島をじっくりと観察したときに気付いた事なのだが……
「横島クンは……怪我なんてしてないわよ……」
「――え……?」
 おキヌが横島を見る。確かに気を失ってはいるが、よく見れば、ブッシュスーツの背中に開いた大穴からは血も微量しか流れていないし、呼吸はいたって正常だ。
「――え……?」
 律儀にもう一度同じ言葉を返すおキヌ。そのおキヌに、美神は心底馬鹿馬鹿しく思いながら説明した。
「拳銃よ」
「? 拳銃……? それがどうかしたんですか?」
 美神は無言で、横島のブッシュスーツの背中の穴の奥に手を突っ込み、ソレを取り出した。
 完全に大破した自動拳銃を。
「……こいつの攻撃はコレに命中したみたいね……残った弾丸が暴発して、その衝撃で横島クンは気絶しちゃったみたいだけど……、火傷は軽いみたいだし……」
 未だ倒れたままぶつぶつと何事か呟いている魔族を指差しながら、美神はおキヌに告げた。――横島の無事を。
「じゃあ……横島さんは大丈夫なんですか!?」
「大丈夫でしょ。コイツ悪運強いし……」
「美神さん……」
「――さて、本題よ。おキヌちゃん。『心眼』は持ってる?」
「え、えぇ。一応」
「それじゃ……未知の世界の探検といくわよ……」
 不敵に呟き、美神は魔族を見やった。

――
 メフィスト!
 何故なんだ! メフィスト!
 私は何をしていたのだ!? 私はお前の為に……お前の為に!! お前の為に、私はこの手を下したというのに……何故だ!?
 メフィスト!!

――7時00分(現地時間)――

「あんたは、『メフィスト』の為に手を下したんじゃない」
 思考と思考。意志と意志の奔流。美神はその中で、魔族――確か、ファウストとか言った――に言った。
「あんたは、あんた自身のエゴの為に『メフィスト』を求めていたのよ……」
「美神さん……この人――」
 おキヌが言ってくる。何か、愕然とした声で。
「どうしたの? 何か見えたの、おキヌちゃ――」
 言い終わる前に、美神の頭の中にファウストの思考の奔流は流れ込み、そして――

――
 その日、ファウストはいつもより早く家を出た。
(こいつの……過去の、記憶!)
 ファウストは、仕事場に到着する。
(なんで、こんな情景を見ているの? こいつは……)
 ファウストは、仕事場で詰まらない与太話をし、就業時間が終わると共に、速やかに家路についた。
(だから……だから何なの? これがこいつの過去の重要な部分なの? これの何処が……?)
 石畳の道を急いで家へと向かうファウスト……急いで……
(家? ……こいつに、魔族に人間の世界での家?)
 ファウストは小ぢんまりとした家の前で足を止める。重そうな木製のドアを開け、中へ入る。玄関に取り付けられたベルが鳴る。そして、ファウストは何かを待つ。
(……?)
 ファウストは動かない。ベルが鳴り終わっても、その場から動かない。
(待っている……の? ……何を?)
 ファウストは、長い時間その場に立ち尽くした後、家の中に向けて走り出した。
(何が……?)
 ある、名前を呼びながら……
「――――!! 何処に行った!? ――――!!」
(――!)
 名前は良く聞き取れなかった。しかし……これは!
 ファウストは、散々家の中を探し回った後、テーブルの上に置いてある、ある書状を発見した。
『軍部の命令により、この者を連行する』
 それだけを残し、『彼女』は、ファウストの前から消えた。ファウストには、『彼女』が何処に『連行』されたのかも分からなかった。
(……ユダヤ人狩り、か……しかし、まさかこいつ……)
 ファウストは、それ以来、消えない人――魔族。メフィスト・フェレス――を探しつづけた……
(やっぱり……! こいつ、こいつは……!)

――7時14分(現地時間)――

「そういうことだったのね……」
 美神の表情は暗い。おキヌは、美神の表情を陰になる側から見て、自分の考えが間違っていない事を悟った。
「……美神さん」
 美神は、暗い表情で立ち上がった。おキヌも、それに合わせて立ち上がる。
 美神が、言う。
「横島クンを起こして。ケリをつけるわよ。おキヌちゃん!」

――7時26分(現地時間)――

「う……うぅ……」
 意識が現実に帰還する。鈍い痛みが、脳裏に残っている。メフィスト……
「起きたようね、ファウスト」
 メフィストの、声。
 反射的に眼を無理矢理開く。そこには、メフィストと、人間二人がいた。
「メ……フィスト……?」
「私はメフィストじゃない」
 それに応じたメフィストの声は……冷たく、無機的だった。
「何故だ…… メフィスト。私はお前を……」
「違う…………あんたが愛しているのは、美神さんじゃ……メフィストじゃない」
 隣の人間の男が告げる。先程自分と戦った男。その男が、ひどく暗い声で、自分に。
 違う。
 何が? 何が違うというのか?
 メフィストが、それを受けて、言ってくる。
「あんたは……『メフィストを愛す』ということを口実に……逃げているのよ。……時間から……! そして、いずれ訪れる別れから!!」
「――――――!!」
「『彼女』。あんたがそう呼んでいる人」
 ――――――――――――!! それは……!!
「あんたが分かれることになった、人間の、女性。ね。さっき言ってたわよね、『自分に愛を教えてくれたのは『人間』だ』って」 「……………………」
「あんたが『今』愛しているのは、メフィストじゃない。初恋の相手は憧れで終わる――あんたの思い人は…………この人なのよ……」
「……………………」
「『永遠の時間を二人で過ごしたい』? ……馬鹿言ってんじゃないわよ! そんなものはない。あんたはその人を束縛したいの!? 自分の思い人を束縛したいの!?」
「――!」
「私には、少しだけその気持ち、分かるけど」
「……う……うぅ……」
「それじゃ駄目……駄目なのよ……」
 眼前の彼女の目には、何故か涙が光っている。これは……まるで、自分の事を言うような……
「……うぅ…………」
 メフィスト…………美神、令子――
 間違っていたのは……自分なのか?
 ……分からない――――

――To be continued――


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