LONG WAY HOME (後編)
著者:胡麻
(―――もうイヤ! こんなことはもうたくさんっ!)
どこへ行こうとしているのか、それとも何から逃れようとしているのか、自分でもわからないまま、彼女は闇雲に広い孤児院の敷地内を走り続けた。
やがて有刺鉄線をからみつけた鉄柵に行く手を遮られると、わなわなと震える手でその鉄線をつかみ、悔しまぎれに揺さぶる。
刺さった棘が皮膚を破り血が流れたけれど、それでもあのいたいけな子供たちに与えられた痛みには及びもつかないのだ。
この2年間、彼女は世界中を飛び回った。
それは大抵、戦争や災害があった土地で、人が人に与えるむごたらしい傷跡はいやというほど見てきた。おぞましいことに、いつしかそれに慣れ始めてさえいた。
なのに……今度という今度は最悪だ。
どんな戦争にも、それぞれの国の事情と言い分があるが……大人が子供を生け贄に使うなんて、いったいどんな理由があれば許されるのだろう。
(こんな……こんなのって……ひどい、ひどすぎる…っ!)
考えるだけで、自分まで汚れていくような気さえする。この思いから逃れるためなら、何だってできる。
「帰りたい……っ!」
口から無意識のうちにほとばしり出たのは、この二年間ずっと口にすることを自分に禁じ続けてきた言葉だった。
「帰りたい、帰りたいっ!―――助けて、美神さん! ……助けて、横島さんっ!」
足から力が抜け、両手は鉄線をつかんだまま、彼女は地面に崩れ落ちた。
「う……く…っ……」
涙があふれてとまらない。
泣いても叫んでもけして叶わない思いがあることは、もうずっと前に思い知らされていたはずなのに―――。
チリーン……
すぐそばで鈴の音がした。
『―――お姉ちゃん、どうしたの?』
その声に、おキヌは背後を振り向いた。
ニコライが、青白く光りながらそこに立っていた。
『どうしてそんなに泣いてるの?』
少年が小首を傾げる。
「悲しいの……」
どっちが年下かわからないような、涙に震えた幼い声でおキヌは答えた。
「悲しくて、悲しくてたまらないの……」
どこへ逃げても、どれだけ時が経っても、世界にはいたる所に悲しみが満ちている。
いつかきっと帰るべき場所が見つかる。それだけを信じて歩いてきたのに、そのたった一つの希望も、今は虚しさに変わり果ててしまった。
『かわいそうに……』
ニコライが大人びた口調で言った。
『お姉ちゃん、疲れてるんだね』
おキヌは返事ができずにしゃくりあげた。
『もうなにもかもイヤになってしまったんだ。そうなんだね?』
彼女の心を見透かして、ニコライは哀れむようにささやく。
『わかるよ。だって、僕もだ。僕も疲れたよ。―――さっきはあんなふうに言ったけど、本当はもう待つのにも疲れちゃったんだ……』
絶望に塗りつぶされた心は、淋しい子供の霊にたやすく同調していく。
それを見計らったように、霊は甘くささやき続けた。
『今までは他のみんながいたから平気だったけど……やっぱり一人じゃもう待てないよ。それにママは……ママはきっと来ないんだ……』
おキヌはぼんやりとした眼差しで少年を見つめる。
『ねぇ、お姉ちゃんも一緒に来て。僕と一緒にみんなの所に行こうよ。―――だって、僕一人じゃ怖いよ。お姉ちゃんが側にいてくれたらきっと……』
少年の瞳が青みを増す。ほとんど邪悪といってもいい表情だった。
『ねぇ、いいでしょう?』
きっと嫌といっても放す気などないのだろう、いつの間にか少年の霊気が彼女を包み、キリキリと縛り上げていく。
わかっていても、彼女にはもう抵抗する気力は残っていなかった。
―――だめっ、おキヌちゃん!
心のどこかで警鐘が鳴り、誰かが自分を戒める声が聞こえた気がした。
けして弱い心で霊と向き合ってはいけないと、繰り返し教えてくれたあの声……。
けれど、気づいた時にはもう手も足も痺れたように動かなかった。
このままこの淋しい霊とともに黄泉の国へ連れ去られるのだろうと、観念の目を閉じた時―――。
「―――その人を放せっ!!」
突然飛んできたその声が、ムチのように彼女を打った。
ハッと我に返ったおキヌの視界に、今まで走り回って彼女を捜していたらしいピートの姿が飛び込んできた。
激しく肩で息をしながらも、その姿は荒々しい怒気をはらんでいた。
「その人を連れていくつもりなら、たとえ子供でも容赦はしない!」
封印札を手に、ピートはニコライを睨みつける。
いつも穏やかな彼が、こんなに怒っている姿を初めて見た気がして、おキヌはあっけにとられた。
「ピ、ピートさん! やめて下さい、相手は子供です!」
思わず自分のいる状況も忘れて彼女は叫んだ。
「―――それが、どうしたんです!」
ピートは激昂した様子でおキヌまでジロリと睨みつけた。
「子供だからってやっていいことと、悪いことがある。たとえあなたが許しても、僕は絶対に許さない!」
ピリピリとした物騒な怒りのオーラをまき散らしながら、彼は厳しい声で少年の霊に迫った。
「さぁ、成仏するか、それとも僕に封印されるか、今すぐどちらかを選ぶんだ!」
『ぼ、ぼ、僕……』
選ぶもなにも、あまりの剣幕に少年はすっかり怯えてしまっている。
三人が三つ巴状態で硬直してしまったその時だった。
チリーン……
闇を裂いて、かすかに響く鈴の音。
「―――え?」
「あの音……」
今度は少年の耳元のピアスが鳴ったものではない。
おキヌとピートは、思わず音のした方に顔を向ける。
チリーン……
それは確かに、門の方から聞こえた。
『あれは……あの音は……』
ニコライが確かめるように自分のピアスに指で触れる。
まるで呼び合うように、彼のピアスの鈴も同じか細い音色をたてた。
『マ……ママだ! ママが迎えに来てくれたんだ!!」
少年の顔が喜びに輝いた。
『ママ? ママ―――!』
叫ぶように呼びかけて、ニコライはおキヌの体を放り出すと、一目散に門に向かっていく。
「まさか、本当に―――?」
突然の展開に、おキヌとピートはその場で茫然と立ちつくしている。
暗いうえに、ここから門まで距離があったが、門の外から伸びた白い腕が少年の小さな体を抱え上げるのが、確かに見えた。
「ニコライ君……」
門の先で、青白い光がポゥッと輝き、そして消えた。
あっけないけれど、幸せな幕切れだった……。
「お母さんが……。よかった……んですよね、これで……」
まだ成り行きが飲み込めない様子ながらも、おキヌはピートに同意を求めた。
「…………」
ピートは答えなかった。
黙ったまま、地面に座り込んでいるおキヌに手を貸して立ち上がらせると、ふいにその頬をパチンと叩いた。
「え……?」
おキヌは茫然と自分の右頬を押さえた。
痛みよりも、ピートにぶたれたという事実の方が信じられなかった。
「―――ここに美神さんたちがいたら、同じ事をしてるはずです」
けして彼女の目を見ようとしないで、固い声でピートはそう言った。
(あ………)
恥ずかしさで、全身が熱くなるのをおキヌは感じる。
確かに、さっきまでの自分はGSとしてあまりに不様だった。
どうしていいのかわからず、おキヌは地面に目を伏せた。
そんな二人を後目に、荒野の果てでは、ゆっくりと夜が明けようとしていた……。
「たぶん……彼のお母さんはもうずっと前から霊になって彼を迎えに来てたんじゃないでしょうか」
完全に夜が明けるのを待ってから、バス停に向かって歩き始めた時、ピートがポツリと言った。
「……でも子供たちの『外に出ちゃいけない』という強い念が結界のようになってあの孤児院を囲んでいたから、どうしても中に入ることができなかった。そして昨日、あなたがそれを取り払ってくれたおかげで、やっと子供の元にたどりつくことができたんじゃないかと」
「そうなのかしら……。でも、それってやっぱり悲しい……」
それほどまでに愛し合っていたのに、離れ離れにされてしまった親子。
戦争さえなければ、もっと幸せになれたはずなのに…。
「何が幸せかなんて、本人たちにしかわかりませんよ」
彼女の心を読んだように、ピートが言った。
「あ、バスがきましたよ!」
昨夜の剣呑さが嘘のように、穏やかにピートはおキヌに笑いかけた。
ほとんど客のいない早朝のバスに寄り添って座った二人の肩は、バスがガタガタと揺れるたびにぶつかり合う。
徹夜明けのせいもあってか、その震動が妙に心地よくてついウトウトしそうになるのを、おキヌは懸命に堪えなければならなかった。
「―――ねぇ、ピートさん?」
眠気覚ましに、本当は出会った時からずっと持っていた疑問を、とうとう彼にぶつけてみることにした。
「え、何ですか?」
「昨日、空港で偶然私に会ったっていうのは、本当はウソなんじゃありませんか?」
ずばりと言われて、ピートは面食らったように目を見開いた。
それからきまり悪そうに、髪をかきまわす。
「えーと、その……実はそうなんです」
彼女の目を見ないようにして、彼は白状した。
おキヌはくすりと笑った。
「やっぱり。―――情報元は……美神さん、ですね?」
これも確信があった。
国連が管理するおキヌのスケジュールをのぞき見するなんて違法行為をピートがするはずがない。そんなことをやりそうな知り合いなんてたった一人しかいなかった。
「はは……、バレちゃいました?」
ピートもあっさりと認めた。
「実は美神さんに、あなたの様子を見てきてほしいと頼まれてしまって……。空港で偶然を装って待ち伏せするなんてマネ、嫌だったんですけど、他に方法を思いつかなくて」
「美神さんが……」
「彼女も横島さんも、すごく心配してました。いえ、仕事自体じゃなくて、あなたが頑張りすぎちゃうことが。あなたがその優しさのために、いつか自分を犠牲にしてしまうんじゃないかって……」
「…………」
ピートの言葉に、おキヌは胸を突かれる思いだった。
「あの二人はいつもあなたのことを心配してるんですよ」
ピートは優しく言って、うつむきかけた彼女の肩に手を置いた。
「そうそう、もう一つ。美神さんから伝言があるんです」
「え、何です?」
「『世界の痛みをあなた一人が背負い込むことはない。それはこの地上のすべての人が等しく受ければいいことだから』だそうです」
おキヌは今度こそ驚いたように、ピートを見返した。
もう長い間会っていないはずなのに、これだけ距離が離れているのに、美神は彼女の心境を正確に見抜き、そしてもっとも欲しいと思う言葉をくれたのだ。
「全部お見通しなんですね、美神さんには……」
「それだけ、あなたのことをいつも気にかけてるってことですよ」
思いやりに満ちた眼差しで、ピートは言う。
胸が熱くなって、涙がこみ上げてきた。
この地上のどこかで、誰かが自分のことを思ってくれている。心配して、あらゆる手を使って助けてくれようとしている。
『どんなに離れてても、私たちいつも一緒よ!』
『そうだよ、おキヌちゃん!』
日本を発つ時に、彼女の手を握って言った美神と横島の言葉。
あの言葉を、あの二人の思いを、自分はいつの間に忘れてしまったのだろう。
「恥ずかしい、私ったら……」
目元をゴシゴシこすりながら、おキヌは泣き笑いの表情になった。
「美神さんの言う通りです。いつの間にか私、一人で世界を背負ってる気になってました。世界中の悲惨な現場を見てるうちに、世界を救わなきゃって……。自分だけが不幸で、自分だけが苦しいみたいに」
「おキヌさん……」
「でも……私は一人じゃない。私には、仲間がいる。どんなに離れていても、いつも心を送ってくれてる人たちが……」
だから自分は旅立てたのだということを、彼女は思い出した。
けして変わらない絆がそこにあるから、一人だって世界中のどこにでも行ける―――そう信じられたから、あの二人の元を離れることができたのだ。
「そうですよ」
ピートが優しく笑いかけてきた。
「……だからどうか、昨夜みたいなことはもう絶対しないで下さい。あなたを本当に必要としているのは、死んだ人間なんかじゃない。今、生きてる僕たちなんだから……」
「ピートさん……」
昨夜の彼の怒りの理由がやっとわかった気がして、おキヌはハッとした。
その時、バス内のアナウンスが流れ、終点への到着を告げた。
短くも長い二人の旅に、終わりが近づいていた。
「いろいろ面倒かけちゃって、すいませんでした」
空港で航空会社の受付にチェックインを済ませ、あとは搭乗用ロビーに向かうだけになった時、改めておキヌはピートに深々と頭を下げた。
「いいえ、そんな」
ピートが笑いながら、首を振る。
「今回ピートさんがいなかったら、私どうなってたか……。本当にありがとうございました」
「お礼なら美神さんに言って下さい。―――僕は楽しかったですよ。久しぶりにあなたに会えてうれしかったし……」
「でも……」
おキヌは何か言いかけて、口をつぐんだ。
彼に何か伝えなければいけないことがあるような気がして、さっきから一生懸命考えているのに、どこからも気の利いた言葉一つ浮かんでこないのだ。
「あ、ほら。飛行機の最終搭乗アナウンスですよ」
相変わらず音の悪いスピーカーから流れてくる早口のアナウンスを聞き取って、ピートがおキヌをせかすように言った。
「あ、は、はい」
どことなく名残惜しい気分で、おキヌはボストンバッグを持ち直した。
「元気で。どうか、体にだけは気をつけてください」
少し淋しそうに、それでも優しさに満ちた静かな眼差しで、ピートは別れの言葉とともに右手をさし出した。
「はい……。ピートさんも」
これで本当にお別れだと思った途端、急に胸に迫ってきた思いを無理に抑えこみつつ、おキヌはピートの手を握った。
「それじゃ……」
よそよそしく目をそらし、おキヌは搭乗口に向かうため彼に背を向けた。
(どうしたんだろう、私……)
歩き出しながら、彼女は途方に暮れる。
なんだか胸がズキズキして、今にも涙がこみ上げてきそうなのだ。
(ピートさんは、美神さんに頼まれたから私を助けに来てくれただけで、それ以上でも以下でもなくて……)
なのに、どうしてこんなに別れが辛いんだろう。
彼女はふと、荷物を持っていない方の腕の掌を見た。
そこには白い布地が巻きつけられていた。
昨夜、有刺鉄線をつかんで怪我をした彼女の両手に、ピートが黙って自分のハンカチを引き裂いて手当してくれたものだった。
『あなたを本当に必要としているのは、今、生きてる僕たちなんだから……』
あのセリフには特に他意はなかったはずた。たぶん、いやきっと……。
ついに一歩一歩の歩みが耐えきれないほど辛くなって、おキヌはもう一度さっきピートと別れた場所を振り返った。
ピートがもうそこから立ち去っていることを祈りつつ……。
「あ………」
そこに、ピートはまだ立っていた。
彼はさっきの場所を一歩も動かずに、まっすぐに彼女の背中を見つめていたのだ。
その淋しさを噛みしめるような瞳は、たぶん今の彼女と同じもの――。
そして彼女が振り返ったのに気がついて、慌てて頭を振って表情を作り直そうとするのが見てとれた。
行くべきか戻るべきか、一瞬の躊躇の後、おキヌはもう一度ピートの元に駆け戻っていった。
「ど、どうしたんです、おキヌさん!」
彼女の突飛な行動に、ピートが仰天する。
「あ、あの、あのー私……」
おキヌは勢いこんで何かを言おうとしたものの、やっぱり言葉が出てこない。
さっき、ピートの顔を見た途端、何か大切なことに気づいた気がしたのに、それはまだ言葉にするにはあまりにもほのかな想いで……。
「えっと、だからそのぅ……。あっ、そうだ!」
散々思い悩んだ末、どうにか伝える言葉を見つけることができた。
「じ、実は、私のいる世界超常現象対策局のヨーロッパ支部がロンドンにできることになったんです。それで、たぶん私も近いうち、ニューヨークからロンドンに引っ越すことになりそうなんですよ」
「え……」
一瞬ぽかんとしていたピートだったが、すぐに嬉しそうに顔を輝かせた。
「あ、ああ、そうなんですか。でも、ロンドンだったら僕の住むパリとは目と鼻の先ですね。電車で1〜2時間の距離だし」
「そうなんです。だから、あの……」
おキヌは心臓がドキンと跳ねるのを感じた。
今まで何気なく言えたはずの言葉が、急に重くなってなかなか口から出ていかない。
「―――じゃあ、また会えますね」
言いたかった言葉を、代わりにピートが言ってくれた。
「ええ!」
救われたような気持ちになって、おキヌはやっと笑うことができた。
初めて会った頃と変わらない、あどけない少女のようなその笑顔に、ピートは少し眩しげに、照れたように微笑み返す。
「その日を……楽しみにしてます」
「私も…」
たぶんそう遠くない、明るい未来の予感を互いに胸に抱きながら……。
アナウンスが彼女の名前を挙げて搭乗をせかし始めたので、おキヌはピートに軽く手を振って駆け出した。
さっきとは打って変わって、今度は胸の奥までが暖かい。
ようやく、彼女の一人ぼっちの旅は終わりを告げようとしていた―――。
―end―