雨はまだやまなかった。
薄靄がかかる街を冷たく叩く雨。
どんよりとした雲は、ゆるく吹く風にびくとも動く気配がない。
薄汚れた場末の倉庫街にも、雨は容赦なく降り注ぐ。
昼下がりだというのにほの暗い路地裏に、かすかに人影が動いた。
長い髪の少女。
ズブ濡れのまま、おぼつかない足取りで路地を彷徨う。
時折、肩を倉庫の壁に打ち付けては、その痛みに呻く。
その瞳は何も見ていない。
ただ本能のまま、ただ歩むのみ。
少女の足元に錆びた鉄パイプが転がっていた。
少女はそれに気付かず、不用意に足を乗せた。
少女は無様に転び、汚れた水たまりに半身を突っ込んだ。
少女はそのまま、意識を失った。
雨の音だけが、辺りを漂う。
朽ち果てた気配。
単調な調べ。
そして無常。
どのぐらいの時が過ぎたのか。
雨音に紛れ、人工的で異質な音が次第に聞こえてきた。
色彩のない狭い路地裏に、淡い一つの光がちらつく。
やがて、バタバタと生乾いた排気音と共に、一台のヴェスパが現れた。
ヴェスパには、黒いソフト帽を被った若い男がまたがっている。
男は路地に散らばるゴミやボロを、器用に避けつつ先を急いでいた。
細身の黒いスーツに身を包んだ男は、全身がズブ濡れであった。
しばらくして、ヴェスパの進む前方に細長いボロ布の様な物体が見えた。
男は、それを勢いづけて乗り越えようと、アクセルを吹かす。
ヴィッ。
ヴェスパのエンジンが唸った、その直後。
男はあわててブレーキを踏んだ。
リアタイヤがスリップしたが、すんでの所で転倒だけは免れた。
ふぅ、と男はため息をつく。
そして、ボロ布の様に倒れている長い髪の少女を、複雑な表情で見つめていた。
−−−
少女は、柔らかく温かな感触で目が覚めた。
「ニィ」
耳元で、白い猫が鳴いていた。
「ニィ」
もう一度鳴くと、猫は姿を消した。
少女は首を振り、猫の姿を追った。
猫は、殺風景な倉庫の様な部屋を横切る。
そして、壁際のソファで横になっていた男の傍らに走り寄り、ちょこんと座った。
「よう、起きたな」
「・・・誰?」
少女は、見知らぬ男に問う。
「そいつはお互い様だ、俺も君の事は知らない」
男は、読んでいた雑誌から目を話さず、少女に答える。
少女はベッドに寝たまま、辺りを見やる。
「・・・ここは何処?」
「日本の東京、そして俺の部屋」
男は少女を見ようともしない。
少女はぼんやりとしたまなざしで男を見る。
雨音だけが、妙に響く時間。
「・・・雨、降ってる?」
「多分、今日はやまない」
部屋の中の少し高い位置に、窓があった。
窓の外は、薄暗くなっていた。
「今、何時?」
「もうすぐ夜・・・だろうな」
ぶっきらぼうな男の言葉。
少女は眉をひそめながら、ゆっくりと半身を起こす。
その動作に、ベッドから柔らかな毛布がすべり落ちる。
少女は、自分が素肌に洗いざらしのワイシャツ一枚の姿である事に気付いた。
少女は思わず、男を睨みつけた。
「心配するな」
少女のそんな気配に、男はようやく振り向いた。
「俺は、ガキなんかに興味はない」
そう言った男は、細面の優男に見えたが、瞳には鋭い迫力を秘めていた。
少女はあわてて毛布を拾い上げ、身を包む。
「信用、できない」
強ばった警戒の表情のまま、少女は男を睨む。
「もう一度聞く、おたく、誰?」
男は無造作に頭を掻きながら、立ち上がった。
そして、数歩先にある小型冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、一気に飲み干す。
空き缶をダストボックスにシュートした後、再びソファに腰を降ろした。
「色々な奴が色々と呼ぶが、通り名はリュウでいい」
「カタギじゃ、なさそうなワケね」
「まぁ、な」
リュウは、かすかに笑った。
「で、おまえさんは?」
不意のリュウの問いに、少女は視線を逸らす。
「・・・分からない・・・」
「言いたくないなら、別にいいけどな」
「違う、本当に・・・分からない」
少女はゆっくりとかぶりを振る。
「・・・さっきから思い出そうとしても、なんだか頭の中が真っ白になってて」
「まいったね、本当は記憶喪失のガキを拾うほど余裕はないんだが・・・」
そんなリュウの言葉に、少女は声を荒げた。
「私は子供なんかじゃないっ!」
「じゃ、いくつなんだ?」
あくまで冷静なリュウに、少女は無意識に自分の胸元を確かめた。
「えーと・・・17か8・・・ぐらい?」
「なら、まだ子供だな、大人だったらそんなにムキにはならないぜ」
リュウに軽くあしらわれた少女は、ムッと頬を膨らませた。
「ニィ」
リュウの足元で猫が鳴いた。
物欲しそうに小首を傾げている。
リュウは立ち上がると、小型冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。
床に置かれていた小皿に、リュウが牛乳を注ぐと、猫はすかさず舐め始めた。
そんな猫の様子を、リュウと少女が眺める。
「その猫、飼ってるの?」
「いや、野良だ、ちょっと前からなつかれてね・・・」
「ふぅん・・・」
ふと、リュウが手にしていた牛乳パックを振る。
「おまえも、いるか?」
少女は思わず、猫が舐める小皿に目が行く。
「心配するなって、ちゃんとカップに入れてやるから」
「あったりまえじゃない、私は猫じゃないワケ」
リュウの言葉に少女は表情を和らげ、ようやく微笑んだ。
「それでいい」
「え?」
きょとんとした少女に、リュウは目配せを返す。
「ガキでも女は笑っている方がいい」
そう言うとリュウは、少女に背を向けてその場を去った。
「何よ、大人ぶっちゃって」
少女はポツリとつぶやく。
しばらくして、チンという軽やかな音が鳴る。
そして、マグカップを手にしたリュウが現れ、ベッドの縁に腰掛けた。
「熱いぞ」
「ありがとう」
少女は息を吹きかけながら、温かい牛乳を飲む。
冷えた身体に心地いいのか、少女は無意識に微笑む。
「そうだ、おまえさんに名前をつけてやろうか?」
「え!?」
突然のリュウの言葉に、少女はとまどう。
「変なのにしないでよ」
「そうだな、おまえさんが笑うのを忘れない様に『えみ』ってのはどうだ?」
「・・・えみ・・・?」
少女は、つぶやいてみる。
「悪くはないだろう?」
何故か得意そうなリュウに、少女・えみはじっと考える。
「まぁね、悪くないってだけね」
「生意気言うな」
リュウはえみの額を軽く小突く、えみはそれでも微笑んでいた。
−−−
朝になっても、まだ雨は降っていた。
雨垂れの音が、妙に響く。
それほど強くない雨だが、じんわりと心に厚く、のしかかってくる。
えみは、まだぼんやりとした意識のまま、リュウの部屋で過ごしていた。
昼にはリュウが買ってきたサンドイッチを食べた。
「何もしなくても腹は減るんだな」
と、リュウは憎まれ口を叩いたが、えみはただ笑っただけだった。
えみは感じていた。
昨日の夜から冷え切っていた身体の芯が、少しずつ温まってきている事を。
リュウは、決してえみにつきっきりではなかった。
朝早いうちから、色々と忙しく部屋を出入りしている。
むしろ、えみの存在など関知していない様にも見える。
これがリュウの日常なのだろうと、えみは思った。
そして逆に、あれこれと関与されない事の方が、えみには嬉しかった。
客人扱いで違和感を覚えるより、日常の存在の様に思われる方がいい。
えみはそんな面持ちで、立ち回るリュウを眺めていた。
しかし、リュウはちゃんとえみを気遣っていた。
喉が渇いた頃と思えば、ジュースを。
小腹が減った頃と思えば、お菓子を。
テレビがない代わりにと、ラジオを。
それらをうまい具合に、えみの手の届く場所に置いてくれるのだ。
それも、何も言わずにさりげなく。
押し付けがましい素振りなど、一切ない。
だから、えみも遠慮はしなかった。
それが、リュウの優しさだと分かっていたから。
それが、えみの心と身体を少しずつ温めてくれているのだと。
リュウが何者なのかは分からない。
しかし、今の自分も何者か分からないのだ。
不安という名の恐怖が、えみの眼前にそびえていた。
記憶という名の時間を、えみは見失っていたのだ。
そんなえみを、リュウが癒してくれている。
言葉ではない優しさで。
えみは嬉しかった。
それが随分、忘れていた気持ちだと、えみは思った。
そして失った記憶は、このまま思い出さない方がいいとも思った。
微かながら胸に潜む過去の自分の記憶が、とてもキナ臭く汚れている。
何故か、そう感じられたから。
朝、顔を洗った時に鏡を見た。
浅黒く、大きな瞳を持つ整った顔立ちの女がいた。
それが自分であると、そう認めるのにしばらく時間がかかった。
なんだか、その女の瞳の奥に酷く恐ろしい光が見えた様な気がしたのだ。
「これが、本当に私なワケ・・・?」
えみの背筋に、悪寒が走った。
あわてて目を背けた。
そして、二度と鏡を見ようとはしなかった。
しかし、身体の状態が落ち着くにつれて、忌まわしげな情動が蘇りつつある。
今となっては、その方が怖かった。
自分の正体は、自分が一番知ってはならないのかも。
リュウが部屋を出てゆく後ろ姿を見ながら、えみはぼんやりと考えていた。
−−−
夕方近くから、雨音が静かになってきた。
そして、日が暮れた頃にようやく止んだ。
そのうち、リュウが大きな紙袋を抱えて帰ってきた。
「ただいま」
今日初めて、リュウがそう言った。
「おかえり」
ごく自然に、えみはそう返した。
リュウは、抱えていた紙袋をえみのベッドの上に置いた。
「クリーニングしといた、おまえさんの服だ」
「あ、ありがとう・・・」
袋の中を覗き込んだえみは、別の紙包みを見つけた。
「これ、何?」
「下着、サイズも多分合ってると思う」
えみは口を尖らせた。
「スケベ」
「いらないなら、返せよ」
「返したら、どーするのよ」
と、リュウはえみに振り向くと、おどけて笑った。
「別の女にプレゼントするよ」
「リュウのバ〜カ!」
えみは、手近にあったクッションをリュウに投げつけた。
それをひょいと避けたリュウは、くるりとえみに背を向ける。
「着替えたら、晩飯を食いに行くからな」
リュウに軽くあしらわれたえみは、その背中にあかんべをした。
「後ろ、見るなよー」
「見ないよー」
そう言うとリュウは、からかう様に右手をひらひら振って返す。
リュウに、ことごとく女扱いされていないえみは、再び口を尖らせた。
「バ〜カ!」
着替えている途中、えみは上着のポケットに財布を見つけた。
現金が数万円と小銭の他に、身元が明らかになるものはなかった。
えみは、少しホッとした。
まだしばらく、ここにいる大義名分が出来たからだ。
えみは、自分がそんな事を思っているは露とも知らないリュウに微笑む。
「・・・絶対、振り向かせてやるワケ・・・」
「あ?何か言ったか?」
「いやっ、何でもないよ! 着替え終わったよ」
「じゃ、行くか、雨も止んだしな」
「うん!」
リュウとえみが連れ立って部屋のドアを開けようとした。
その時だった。
ドン、ドン!
強く激しいノック音がドアを震わせた。
リュウとえみの表情が強ばる。
「誰だ!」
リュウの誰可に、返事はない。
リュウは、そのただならぬ気配に、えみを背後に庇う。
「誰だ!」
もう一度、リュウが問う。
カチャリ。
ドアのノブが、ゆっくりと回る。
静かに開いたドアの向こうに、男がいた。
青白い能面の様な表情をした、不気味な風体の小柄な男が。
「よぉ、久しぶりだな、兄弟」
「貴様っ!李っ!」
李と呼ばれた男のくぐもった声に、リュウは身構える。
事情が分からないえみは、ただ立ち尽くすだけ。
「探したぜ、兄弟よ、こんな所に隠れていたとはね」
李が一歩、踏み出してきた。
リュウが叫ぶ。
「逃げろっ!えみっ!」
リュウは、背後のえみを李の脇から外に押し出そうとした。
「う、うん・・・」
訳も分からず走り出そうとしたえみだが、すぐに何かにぶつかった。
「きゃっ!」
弾き飛ばされかけたえみは、冷たく固い腕に捕まえられていた。
ふと、見上げたえみは、その大男の異様な表情に全身が強ばった。
「ゴォッ」
大男が吠えた。
「きゃあっ!」
「えみっ!」
「だめだね、逃がさないよ」
李が、リュウを遮る。
李はゆっくり振り向き、大男の腕の中で怯えるえみを見やる
「兄弟、おまえも変わったな・・・大角咀では大きなツラしてたくせに」
そうつぶやいた李の形相がゆがんだ。
「日本じゃ、こんなガキをイロにしているなんてなぁっ!」
「やめろっ!その娘は関係ないっ!」
リュウが叫んだその時、李の手にジャックナイフが光った。
「関係ないだと? それがどうした」
リュウにナイフを突きつけ、李はほくそ笑む。
「ここにいたのが運の尽きさ、おまえ共々切り刻んであげるよ・・・」
チッ。
ナイフが空を切る。
リュウの鼻先をかすめ、瞬時に首筋に刃先が疾る。
紙一重で避けたリュウは身を沈め、李の喉元を打つ。
手応えはない。
二人の間合いが、外れた。
「くっ、得物がないくせに・・・度胸だけはそのままだな」
李が床に唾を吐く。
「・・・」
無言のまま、リュウは李を睨む。
「ほう、いい目だ、獣の様だな・・・」
李は舌なめずりをした。
「だが、おまえの虚勢もここまでさ・・・やれ、張、喬、陳!」
「ゴウッ!」
えみを抱えた大男の背後から、二人の男が現れ、部屋の明りにさらされた。
その男たちを見た、リュウの全身が逆立った。
「き、貴様らっ!」
リュウは男たちに見覚えがあった、数ヵ月前、目前で屠った李の部下だった。
「ふふ、覚えていてくれたか・・・そう、こいつらは蘇ってきたのさ・・・」
李の目が狂気に光る。
「おまえを殺すために、地獄からなあっ!」
「ゴウッ!」
「きゃああっ!」
えみが大男に首を締め上げられたまま、部屋の奥まで連れ込まれる。
「えみっ!」
助けようとしたリュウを、別の男たちが虚ろな目で阻む。
「李っ! 貴様、外道と化したかっ!」
怒りの形相で、リュウは叫ぶ。
「ふふ、よく出来ているだろう、とある道士に教わった術だよ・・・」
李が嘲う。
「普通の僵尸(キョンシー)とは違うぜ、身体も固くない、昼間も動ける・・・」
「狂って・・・やがる」
「何とでも言え、おまえを殺すためなら、鬼にもなろうぞ」
「きゃあっ!いやああっ!」
えみが叫んだ。
ベッドに押し倒され、大男に覆い被さられたえみがもがく。
大男の手が、えみの胸元にかかる。
「そうそう、こいつらは男の本能と機能は、まだ保っているんだっけ」
平然と、李が言い放つ。
「李ーっ!」
−−−
リュウの怒りが爆発した。
阻む男たちを突き飛ばそうとした、が、腹に衝撃がはしる。
「ぐふっ」
化け物めいた力で、逆に吹き飛ばされるリュウ。
その眼前にナイフが光る。
足を弾く。
ゴッ。
腕を蹴られた李がバランスを崩す。
その横っ面に拳をねじ込む。
ドッ。
「がはぁっ!」
リュウの背後の男が、背中を蹴った。
もんどり打って倒れかけたリュウの背に李がナイフを突き立てる。
「死ねェ!」
ガツッ。
床が削られた。
倒れながらリュウが、李の足元を払う。
「うおっ!」
李が思わず振り上げた肘を、リュウが蹴り上げた。
ドスッ。
飛んだナイフが、壁の一角に突き刺さる。
「おのれぁっ!」
声にならない叫びで、李はリュウに殴りかかる。
激しい格闘。
二人の僵尸は、その様子に手が出せずにいた。
そのうち、ふらふらとベッドの方へと歩き出した。
そのベッドの上で、えみはもがいていた。
大男の強い力で二の腕と喉を押さえ付けられ、動きがとれない。
えみは、この急な出来事に混乱していた。
( 何が起こったのか・・・
どうやら、リュウの過去が原因らしい・・・
だが、どうして私がこんな目に遭うのか・・・
それは、リュウのそばにいたから・・・
リュウの過去は知らない・・・
自分の過去も知らないのに・・・ )
「ゴオッ」
大男が吠えた。
悪臭がえみの鼻をつく。
自然、えみは顔をゆがめる。
「は・・・なせ・・・」
えみは呻く。
「ゴオッ」
吠えた大男は、えみの胸元に手をかけると上着を引き裂いた。
「い、やああっ!」
叫ぼうとしたえみの喉を、大男は再び締め上げた。
「ぐっ・・・」
息が詰まる。
えみの意識が薄れはじめた。
( リュウの過去は知らない・・・
自分の過去も知らないのに・・・
しかし、リュウは過去を持っている・・・
私も過去を持っている・・・
それを知らないなんて・・・
嫌だ・・・
私は私を知りたい・・・
私はそのために・・・生きる!!)
ドクン!!
薄れゆく意識の中、えみは胸の奥に激しく波打つ鼓動を感じた。
それは、自らの心、恐れていた本当の自分。
えみの全身が騒めく。
「ア・・ブドゥル・・ダムラァル・・・」
不思議な言葉が、えみの口から漏れた。
「グオッ!」
大男は、その異様な気配に身がたじろぐ。
次第にえみの全身が淡い光に包まれはじめた。
「オムニース・・・ノムニーク・・・」
格闘の末、リュウを壁に押し付けていた李が、その事態に気付く。
「なっ、なんだ・・・ありゃ・・・」
「・・・え、えみ・・・?」
リュウもまた、えみの変化に驚く。
「グギィ・・」
大男は既に上体を起こし、光を放つえみから離れようとしていた。
「ベリエース・・・」
えみは瞳を大きく見開き、大男に呪文を叩き付けた。
「ホリマークッ!!」
ドオン!!
激しく辺りの気が爆発した。
「グギェェッ!」
瞬間、吹き飛ばされた大男が天井の鉄骨に叩き付けられた。
ゴオン、と鈍い音を残したまま、床に落ちる前に大男は消滅した。
「なっ、なんだあっ!?」
思いも依らない事態に、李は呆然となった。
リュウも、信じられないものを見て言葉を失う。
二人の僵尸は、ただ、その場に立ち尽くしていた。
気のゆらめきの向こう、ベッドの上にえみが立っていた。
「なんだっ、この小姐・・・!?」
驚愕する李に、えみはゆっくり面を上げた。
そして、炎に似た紅い瞳で、李を睨む。
「上等なワケね・・・」
「何だと!?」
「この小笠原エミに、オカルトでケンカ売るなんて・・・10年早いワケっ!」
「おのれっ!、やっちまえっ、喬、陳!」
「ウォォッ!」
李は、残った僵尸をエミにけしかけた。
「ふん」
エミが跳ぶ。
長い髪をなびかせ、しなやかな女豹のごとく。
瞬時に僵尸と李を飛び越え、リュウの元に駆け寄るエミ。
「うわ、痛そう」
エミが微笑む。
「痛いんだよ」
リュウは、苦笑ぎみにエミを小突く。
「額」
「え?」
「奴らの弱点、額を打てば消える」
「判った」
「この野郎っ!」
李が二人の間に割って入る。
リュウとエミが散る。
「グオッ!」
一人の僵尸がエミの後ろを取る。
素早い動作でエミの首筋を狙う。
エミが消えた。
僵尸は戸惑う。
「お馬鹿さん」
エミは笑う。
鉄骨の梁にぶら下がったエミを、僵尸が見上げた。
「おやすみなさい」
エミの、念のこもった拳が僵尸の額を打つ。
エミが、床に足をつく間に、僵尸は消え失せた。
「ガァァッ!」
勢いづけたもう一人の僵尸が、リュウを襲う。
リュウは避けずに、そのまま突っ込んだ。
僵尸の拳がリュウの肩口をかすめる。
リュウは僵尸の頭を押し下げ、背中を蹴って飛び上がった。
「破っ!」
そして、壁に刺さっていたジャックナイフを抜き取った。
リュウは、よろけていた僵尸をぐいと掴み、壁に押し当てた。
「失せな」
リュウは、ナイフを僵尸の額に突き立てる。
リュウが、壁に刺さるナイフの手応えを感じるまでに、僵尸は消え失せた。
「うおおっ!」
李が呻く。
目前の出来事に、激しく動揺する。
「李、もういいだろう、帰れ!」
肩で息をしながら、リュウが怒鳴る。
「もう、終わりにしよう・・・」
リュウは、頭を抱えてうずくまる李に近づく。
「ふ・・・ふはは・・・」
李が渇いた笑いを漏らす。
「おまえが・・・街を出た後・・・俺がどんな目に遭ったのか・・・」
李がゆらりと立ち上がる。
「おまえは、知らないはずだ」
李は血走った目でリュウを睨む。
「おまえを殺さなければ・・・俺が殺されるんだ!」
李が懐に手を入れた。
刹那。
リュウの蹴りが李の右手のベレッタを弾き飛ばした。
「げえっ!」
しびれる右手を押さえる李に、リュウが哀しそうにつぶやく。
「李・・・義兄さん・・・もう、やめてくれ」
「・・・・そうだな・・・兄弟・・・」
李は、うなだれる。
「これで・・・終わりだ・・・」
李は懐から、掌に収まるぐらいの小さな瓶を取り出した。
それを見たエミが、顔色を変えて叫んだ。
「リュウ! 離れてっ!!」
−−−
エミが叫ぶと同時に、リュウは後ろに飛んだ。
黒い影が、リュウの喉元を狙ったのだ。
ヒュッ!
風を切る音。
異様な気配。
黒い影。
「な、何だっ!」
「リュウ!こっちに!」
エミが気を放ち、リュウを援護した。
それでも、影はリュウを襲う。
「く、くくくくくっ!」
李の嘲笑が、嫌に耳につく。
「切り札ってのは、最後まで取っておくもんだぜ」
李は、掌の瓶を振り、何かを撒き散らす。
「俺が教わったのは、僵尸の術だけじゃないんだぜぇっ!」
狂った様に叫ぶ李。
リュウは、エミが招く部屋の片隅に飛び込んだ。
「ナウマク・サラバダダーギャティビヤク・サラバボッケイビヤク・・・」
エミが一心に呪文を唱え、空に字を切る。
「天魔外道皆仏性・四魔三障成道来・魔界仏界同如理・一相平等無差別」
再び魔界偈が唱えられると、エミとリュウが淡い光の結界に囲まれた。
「こりゃあ・・・いったい・・・?」
「修験道の魔除けの呪文だから、どれほど効くかは分からないけど・・・」
エミは軽く息をつく。
「時間かせぎにはなるワケよ」
「詳しいんだな」
リュウは感心した様にエミを見やる。
「まぁ、ね・・・」
しかし、エミは何故か表情が冴えない。
「じゃ、もう一つ教えてくれ、あいつは何を使っているんだ?」
結界の向こうで狂乱する李に、リュウは眉をひそめる。
「・・・多分、蟲毒の一種『蟲鬼』だと思う・・・」
「何が、どうなるんだ?」
「呪いをかけた相手を喰い尽くす、くだ狐の様にあの瓶の中で飼っているワケね」
「くだ狐が何かは知らないが・・・なるほど、で俺は何をすればいい?」
エミは口をつぐむ。
「どうした?」
「あの術は、完成させるには相当の呪力が必要なワケ」
「で?」
「あの男、リュウの仲間だったんでしょ? それなのに・・・どうして・・・」
リュウは、もう一度、李を見やる。
蟲鬼の黒い影が部屋中を飛び回る中、高らかに笑う李。
「・・・いいんだ、もう、いいんだ・・・」
リュウは頭を振る。
「一つ、方法があるワケ」
「何だ?」
「私が蟲鬼を縛るから、リュウはあいつから瓶を奪って」
「その後は?」
「蟲鬼には、リュウの式形を喰わせる、そして蟲鬼を瓶に戻すワケ」
「・・・判った、任せる」
「一つ、注意して欲しいワケ」
「何を?」
「瓶は、絶対に割っちゃダメ、でないと蟲鬼はあいつに取り憑いてしまう」
「よし、そうしよう」
リュウはエミの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「もうっ!」
むっとするエミに、リュウは微笑んだ。
「ありがとう」
「え?」
エミが戸惑ったその時、チリチリと蟲鬼の霊圧に結界が軋みはじめた。
「時間がないワケ、リュウ、上着を貸して」
「おう」
エミはリュウの上着で式形を完成させ、リュウには目くらましの術をかけた。
「GO!」
合図と共に、リュウとエミが弾けた。
「アブドールダムラール、オムニースノムニーク、ベリエースホリマーク!」
エミの手から、霊波が放射されてゆく。
「汝の自由を束縛せりっ!」
しかし、蟲鬼は素早く霊波の網をかいくぐり、エミに襲いかかる。
黒い影の中に、赤黒く開く大きな口が見えた。
だが、エミは引き下がらずに腕を突き出す。
その腕に、蟲鬼が喰らいつく。
エミは耐えた、そしてニヤリと笑う。
「外からダメなら、中から縛ってあげるワケよっ!」
バチッ!
エミの腕から、強力な霊波がほとばしった。
霊波は蟲鬼を覆い、その動きを止めた。
「あんまり、良い格好じゃないワケね・・・」
腕に喰らいついたままの蟲鬼に、エミは苦笑した。
「李ーっ!」
リュウは狂い笑う李に飛びついた。
「おのれぇっ!」
李はリュウの顔面を掴み、必死に抵抗する。
「目・・・を覚ませっ!」
リュウは李の腹を殴る。
身悶える李の手を押さえ、リュウは小瓶を奪い取った。
「ぐがあっ!」
李は唸ると、そのまま床に崩れ落ちた。
「早くっ!」
リュウが叫ぶ。
エミは、リュウの式形に蟲鬼を投げつけた。
途中で呪縛が解けた蟲鬼が、リュウの式形をむさぼり喰らう。
偽物とはいえ、自分が喰われる様にリュウは気分が悪くなった。
エミが駆け寄ってきた。
万が一、瓶に戻る時に本当のリュウが襲われるかも知れない。
エミはそれが怖かったのだ。
蟲鬼は、リュウの式形を喰い尽くすと身をよじり、瓶を目指して突っ込んで来た。
「来るよ!」
リュウとエミの手の中の瓶に、衝撃と共に蟲鬼が吸い込まれた。
辺りが静まった。
ふう、と、どちらともなく息をつくリュウとエミ。
無様にせき込む李が、床にへたり込む。
リュウは、そんな李を黙って見やる。
「・・・終わった・・・のか・・・」
李が息荒くつぶやく。
「・・・ああ、終わったよ・・・」
リュウは、静かに答える。
「・・・そうか、終わったのか・・・」
李がゆっくり立ち上がり、エミを見やる。
「小姐・・・そうか、おまえが奥の手だったのか・・・」
「違う、この娘は・・・」
何か言おうとしたリュウを、李は制する。
「俺が間違っていた、奥の手ってのは最後まで見せないものなんだな・・・」
李は、その手をリュウに突き出した。
「瓶を、返してくれ、もう終わったんだろ?」
「あ? ああ・・・」
リュウが李に瓶を手渡した。
李は瓶を眺めまわす。
「道士が言ってたが・・・用の済んだ瓶は焼き捨てるんだってな・・・」
「ええ、そうしないと呪いがおたくの元に・・・」
エミの一言に、李が静かに目を閉じる。
「・・・俺の呪いか・・・なら、まだ終わってないって事だな・・・」
見開かれた李の目に狂気が走る。
「俺はおまえ、唐青龍を殺せなかった、このままでは俺も殺される」
「李、やめろっ!」
「ならば、俺の呪いの力でおまえを殺してやる、小姐、おまえもなっ!」
李が大きく振りかぶった。
「これがっ、俺の奥の手だっ!」
エミが叫ぶ。
「ダメッ!それはっ!」
パァン!
李の足元に瓶が砕け散った。
淀んだ、黒い影が李の身体にまとわりつき、口から全身に取り憑いた。
「ゲヘェッ!」
李の目が魔物のそれに変わった。
「李っ、義兄さんっ!」
一歩踏み出して来た李に、リュウはエミを庇おうとした。
しかし、エミは辛そうに李を見やり、首を横に振った。
「どうした・・・?」
「あいつは、もうダメ・・・」
リュウの背中に寄り添い、エミは小さくつぶやく。
「どういう・・・事だ?」
「呪いの力に、自我が呑み込まれている・・・、もう人間じゃなくなっている」
リュウは李を見やる。
李は、動きが止まっている。
全身が震え、白眼を剥いたまま、じっと立ち尽くしている。
「・・・助けられないのか?」
エミは、頷く。
「もう、生きるものの世界と死んだものの世界の狭間を、永遠に彷徨うだけ」
「なんてこった・・・」
リュウは悲痛な面持ちで李を見つめる。
「なんとか・・・してやれないか・・・」
リュウの問いに、エミはペンと紙を探し出し、何かを描きはじめた。
その奇妙な図形に、リュウは首を傾げる。
「何だ、それは?」
「呪符、せめて人目につかない様に、これを貼ると人間には見えなくなるワケ」
呪符を完成させたエミは、李の額にそれを貼り、小さく呪文を唱えた。
「オン・ロケイ・ジンバラ・アランジヤ・キリク」
そして、エミは李をゆっくりと部屋の外へと連れ出した。
リュウは、その様子を静かに見守る。
「もう、ここにはこなくていいからね・・・」
エミは、李の背中を押した。
コッ。
コッ。
コッ。
暗がりの廊下に、李が歩く靴音だけが妙に響く。
「呪いに食われて自滅なんかして・・・馬鹿な奴・・・」
彷徨う李を見送るエミの肩に、リュウがそっと手を置いた。
「無駄かも知れないけど、観自在王如来真言を唱えておいたわ・・・」
「すまない・・・」
リュウのその言葉に安心したのか、エミの膝が急に崩れた。
「おいっ、大丈夫か!?」
あわててリュウはエミを支える。
「ちょっと・・・急に動いたから・・・」
エミは、そう苦笑うと、そっとリュウに身体を預けた。
−−−
「私、自分の事、全部思い出した・・・」
「良かったじゃないか・・・」
エミとリュウは部屋のソファーで、一枚の毛布にくるまり、寄り添い合っていた。
先の騒ぎで散らかった部屋を見ない様に、電気も消していた。
薄明りの中、お互いの息づかいと鼓動だけが、静かに続く。
服を着たままであったが、その温もりもちゃんと伝わっていた。
「で、おまえさんの本当の名も・・・」
「・・・エミ」
「俺がつけた名と同じだな」
「うん、だからそう呼んでくれた時、嬉しかった・・・」
エミは、リュウの胸元に顔を押し付けてみた。
「さっきは・・・助かったよ・・・」
「・・・そう?」
「おまえさんがいなかったら・・・」
「エミって呼んで・・・」
エミがリュウを見上げ、唇を尖らせる。
「ああ・・・エミがいなかったら、俺は死んでいたよ、きっと」
「命拾い、したワケね」
「そうだな・・・エミは、ゴースト・スイーパーなのか?」
「・・・違う、そうじゃない・・・」
「ああいう事には、慣れた風だったが?」
「・・・殺し屋・・・」
「え?」
「・・・私は殺し屋だった、オカルトと魔術で何人も殺した」
エミの言葉を、リュウは驚いた風でもなく静かに聞く。
「・・・そうか、なら修羅場に強いわけだ」
リュウはエミの肩を引き寄せた。
「驚かないの?」
「俺も、修羅場は何度も潜っているさ」
リュウは、物悲しい微笑みを浮かべる。
「で、その殺し屋さんが、昨日はどうして行き倒れてたんだ?」
「・・・契約・・・」
「ん?」
「私は悪魔と契約していた、魔術の師匠から受け継いだ悪魔と・・・」
「俺には、分からない世界だな・・・」
「そいつは呪縛してる間は低級悪魔だけど、解放すれば超強力な奴で・・・」
エミが身じろいだ。
「そいつとの契約が一昨日、切れたワケ」
「ほう・・・」
「そいつは私を襲った、99年間、呪縛され続けた恨みを晴らすかの様に」
エミは、40時間にも及ぶ激闘を思い出していた。
何度、死を覚悟したか、何度、諦めようと思ったか。
途切れ途切れの記憶の中、悪魔ベリアルの恐ろしい眼光だけが強烈に残っている。
「頑張ったんだな・・・」
「え?」
「今、こうしてエミが生きているんだ、それで充分さ」
「うん、ありがとう・・・」
エミはリュウの手を握った。
「でも、頑張りすぎてフラフラになって、記憶も飛んでしまったワケ」
「なるほどな・・・」
リュウは、エミの手を握り返す。
「もう少し、ゆっくり休めれば良かったのにな」
「そうね・・・」
「すまなかったな、騒動に巻き込んでしまって」
「ううん、いい、リュウも無事だったから」
しばらく経って、リュウが静かに語りはじめた。
「奴は、俺の妹の旦那だったんだ・・・俺がいた組織の紅棍だった・・・」
「紅棍って、何?」
「ああ、要するに幹部格の地位だ・・・香港の黒社會のな」
「ふぅん・・・」
「奴は義理に厚い漢だったんだが、ある時、香主、ボスが病気になってな・・・」
リュウが、その身体を少し震わせた。
「肝臓の移植が必要になった時、奴は妹をドナーに仕立てやがったんだ!」
「酷い・・・」
「妹は数日後、その手術のずさんな後処理が原因で死んだ」
リュウの激しい怒りがエミにも伝わる。
「奴は香主に取り立てられ、ナンバー2の二路元帥になって、すぐに再婚した」
しばらく、リュウは黙り込む。
エミは、そんなリュウの横顔を見つめる。
「茶番だったんだよ、奴は妹と別れたかったんだ、再婚したのは愛人とだった」
「なんて・・・奴」
「俺は殺した、香主と主治医と、その場にいた他の幹部達を」
リュウの脳裏に、深く刻まれた一つの情景が浮かぶ。
それはまるで、スローモーションの様に。
マシンガンを二挺抱え、病院に突入してゆく自分がいる。
豪華な専用の病室は、阿鼻叫喚と化した。
飛び散るガラス、引き裂かれる肉片、舞い散る血染めの羽毛。
わずか数分の復讐劇。
「リュウ、リュウ・・・どうしたの?」
エミに揺さぶられ、リュウは我に返る。
「・・・ああ、すまない、ちょっと・・・」
リュウは額の汗を拭った。
「でも、どうしてあいつを直接殺らなかったワケ?」
「たまたま、その場にいなかっただけ、奴は運が良かったのさ・・・」
「それで、日本に逃げてきたワケ?」
「しばらく、街に潜んでいたんだが、奴がつるし上げられた噂を聞いてね」
リュウは静かに天を仰ぐ。
「やむなく、ここに来た」
「そうなの・・・」
ふと、会話が止まる。
薄明りの中、お互いの息づかいと鼓動だけの、静かな時間。
「偶然なワケね・・・」
「何が?」
「私たちが、ここにいる事」
「そうかも・・・な」
「わたし、もっとリュウの事を知りたい・・・」
急にエミが身をよじり、リュウの耳元に囁いた。
「抱いても・・・いいよ・・・」
しばらくして、リュウが微笑んだ。
「言ったろ、俺はガキに興味はないんだぜ」
「意気地なし」
「そんなんじゃねぇよ」
リュウが身を起こそうとしたのを、エミが引き止めた。
「ダメ、離さない・・・」
「そういう所がガキなんだよな」
「じゃ、大人にして・・・」
リュウは、エミの瞳を優しく見つめた。
「次に逢った時、いい女になっていたら、抱いてやるよ」
「・・・本当?」
「ああ、約束してやるぜ」
「じゃ、指切りして・・・」
「まったく・・・ガキだな・・・」
「今はまだ・・・ね」
リュウは、それでもエミが差し出した指に指切りげんまんを結ぶ。
「絶対、いい女になっててやるワケ」
「そりゃ、楽しみだなぁ・・・」
夜が更けてきた。
街は静かに帳の中に沈んでいる。
いつの間にか、エミはリュウの腕の中で、安らかな寝息を立てていた。
リュウは、そんなエミの髪をそっと撫でる。
「おまえ、いい女になるぜ・・・」
リュウは、心からそう言った。
−−−
エミは、固く冷たい感触で目が覚めた。
「ニィ」
耳元で、白い猫が鳴いていた。
「ニィ」
もう一度鳴くと、猫は姿を消した。
エミはむっくりと起き上がった。
ソファーで寝ていたはずが、床に転げ落ちていたらしい。
猫は、殺風景な倉庫の様な部屋を横切る。
そして、部屋のドアの前にちょこんと座った。
「おはよう」
エミは、猫に声をかける。
が、猫は首を傾げた仕草のまま、動こうとはしない。
エミは、辺りを見回す。
晴れた朝でも妙に薄暗い、部屋の中を。
昨夜の騒ぎの為か、余計に散らかって見える。
しかし、リュウの気配はない。
「やっぱりな・・・」
エミは一人ごちると立ち上がって背伸びをする。
「ん〜〜〜っ!」
そして、ソファーに男物のジャケットが一着、掛かっているのを見つけた。
「破れた分の、代わりってワケ?」
エミは、ジャケットに腕を通すと、顔を洗いに洗面台に向かう。
猫は、その間もじっと座ったまま、エミの様子を眺めている。
さっぱりとしたエミは、鏡に映った自分をまじまじと見つめた。
「なによ、今でもいい女なワケじゃない!」
エミは、姿が見えないリュウに文句を言う。
「さて、帰ろうか・・・」
エミは、もう一度だけ部屋を見回す。
何故か、二度とリュウはこの部屋に帰ってこない。
そんな気がした。
そして、それは確信出来た。
それでも、エミは寂しくなかった。
指切りげんまんの、感触が残る右手をそっと包む。
「約束、なんだからね」
エミは微笑むと、猫に近づいた。
「おまたせ」
ノブを回してドアを開けると、猫は素早く走り出し、そのままどこかに消えた。
「ばいばい」
エミは、猫の後からリュウの部屋を出た。
後ろは振り向かない。
それは、意味のない事だから。
入り組んだ階段を降り、路地裏へ出る。
湿った細い路地裏をすり抜けると、表通りに出た。
車や人々が行き交い、喧騒に溢れた街があった。
エミは空を見上げる。
雲一つない、晴天。
「まだ、ちょっと眩しいかな・・・」
手をかざして、そう言いながらも、エミはしっかりと歩き出した。
<fin>
1999年11月期・小笠原エミ強化月間協賛作品 -2000-