平和な日常なんて、私には関係ない事だと思っていた。

「まだ動ける者は何人いるんだ!」
「結界完成まであと2分です!」
「西区画で霊波関知、目標のものと一致しました!」

だけどいつのまにか、日常は私の側にもいた。

「上空も注意しろ、奴はどこからでも現れるぞ!」
「目標発見しました! だいぶ傷ついている様子です!」
「よし、道具の出し惜しみはするな、ここで終わらせるぞ!」

そして、日常が永遠じゃないなんて、考えることすらなくなった。

「全人員西区画へ回れ、結界も西区画を中心に展開!」
「結界完成しました! 最大出力で展開開始!」
「よし、いけるぞ! 破魔札隊は目標に接近、封印せよ!」

変わっていくものは、知らなかっただけだと思うようになった。

「うわーっ! 巨大な炎が……!」
「なんだここは……き、恐竜!? わーっ!」
「どうした? 結界は目標の動きを封じているはずだ! 応答しろ!」

だけど、それはあっという間だった。

「駄目です、どの部隊尾からも応答有りません!」
「何故だ、結界は完成しているのだろう!」
「はい……いえ、駄目です! すでに結界が限界に達しています!」

日常が、音を立てて崩れていくなんて。

「結界持ちません! ああっ……消滅しました!」
「誰か、奴の姿をまだ追っている者はいないのか!」
「……目標喪失。動ける者も、もはや我々だけのようです……」






ゴーストスイーパー美神 極楽大作戦
アナザーストーリー
〜 リフレインが叫んでる 〜



「おキヌちゃん、おかわり」
「はい、ちょっと待って下さいね」
 横島が三杯目の茶碗を差し出したときには、他の皆はもう食事を終えていた。
「美神さん、テレビ付けてもいい?」
 すでにリモコンを手にしているタマモが、美神の方を向いた。そろそろ毎日見ている夜のニュースが始まる時間なのだ。
 美神が頷いたのを確認してから、タマモは超が付くくらい大型のワイドテレビの電源を入れた。
『――こんばんは、CSUニュースの時間です』
 まるで待ちかまえていたように、ニュースが始まった。皆の意識がテレビの方に向く。特にシロは興味津々だ。逆にタマモはテレビは付けるのだが、あまりニュースを見ているようには見えない。
 トップニュースは大物政治家の汚職事件に関する続報だった。次に大手銀行の不良債権問題、大病院の不手際発覚事件などが続いた。いずれも、シロにとってはあまり興味を引かないニュースだ。
「ごっそさん」
「おそまつさま」
 横島が満腹げに箸を置いたときには、もうテーブルの上には紅茶が並び始めていた。
 テレビでは、一家心中のニュースが流れているところだった。
「先生、一家心中ってなんでござるか?」
 思ったことをすぐに口にしてしまうシロが、ようやく食事の終わった横島に尋ねた。ちなみに一番に食べ終わったのはシロだ。
「家族そろって自殺すんだよ」
 口の中に残ったご飯をお茶で流し込みながら、横島はそう答えた。乱暴な言い方ではあるが、間違ってはいない。
「そ、そうなんでござるか」
「心中する羽目になるようなことをするのがいけないのよねぇ」
 一歩引くシロに対し、美神がさらに追い打ちをかけるように言った。だが本人は心の底からそう思っているのだ、よけいたちが悪いと言える。
「でも、子供まで巻き込むなんて……」
 唯一の良識派であるおキヌが、人数分のケーキをのせたトレイを手に現れた。唯一の良識であると同時に、唯一の家事担当でもあるのだ。
「そりゃそうかもしれないけど、一家心中とかって悪霊になりやすいのよねー。ウチとしては下手に堪え忍ばれちゃうより商売繁盛していいじゃない」
 知らない人が聞けば驚くような台詞を、美神はいとも当たり前のように口にした。もう慣れているのか、おキヌと横島はそれを苦笑いでごまかした。
 テレビ画面ではもう一家心中のニュースは終わっていて、次のニュースに移っていた。
「あれ?」
 その時、ケーキを配っていたおキヌが声をあげた。いつのまにか、タマモの席が空になっていたのだ。
「タマモちゃんは……」
 最後の一皿を手にしながら辺りを見回したが、室内にタマモの姿はない。どうやら、紅茶にもまだ手を付けていないようだ。
「ああ、そういえばさっき出ていったでござるよ。用でも足しに行ったんじゃないでござるか」
 タマモに関する話題をシロが意識的に突き放して言うのは、いつものことだ。だがその言葉とは裏腹に、タマモはいつまで経っても食堂に戻ってこなかった。
「タマモちゃん……具合でも悪いのかしら?」
 様子を見に行こうとおキヌが立ち上がったとき、部屋の電話が鳴り響いた。慌てておキヌが取りに行く。
「はい、美神令子除霊……」
『西条だ、令子ちゃんは!』
「は、はい!」
 電話の向こうの声に驚き、おキヌは慌てて受話器を美神に手渡した。横島とシロは何事かと、驚いた顔をしている。
「西条さん、どうしたの?」
『令子ちゃんか、よく聞いてくれ。今、警察がそちらに向かっている』
「警察!?」
 美神は慌てて記憶の紐をたぐり寄せた。法に触れるようなことは山ほどしているが、証拠となるようなものは何一つ残していないはずだ。
 それとも、まだ何かあっただろうか? と思った途端、後から後から心当たりがわいてくる。
 無限回路に迷い込んでしまいそうな美神を現実に引き戻したのは、西条の次の一言だった。
『九尾の狐が生きているのが、警察の知るところとなった』
「タマモが?」
 言われて美神は思いだした。九尾の狐の生まれ変わりであるタマモは、美神によって退治されたことになっているのだ。
『ああ、令子ちゃんの事務所にいることまでは知らないはずだが、警察が向かっているのは事実だ』
「そう……わかったわ、後は何とかする。ありがとう、西条さん」
 美神は受話器を置くと、横島たちの方を向いた。電話の受け答えから察したのか、皆緊張した面もちだ。
「タマモが生きているのが警察にバレたんですって。とりあえずは、逃げてもらった方が都合がいいわね」
「生きてるのがバレた?」
 シロがわけのわからない顔をする。事情を知らないのだから仕方がないだろう。
「タマモは? まだお手洗い?」
「わ、私見てきます!」
 おキヌが慌てて部屋を飛び出していった。その間に美神は事務室に行くと、残しておくとあまり良い結果にならない書類を処分し始めた。横島とシロが手伝いに駆り出される。
「タマモちゃん!」
 おキヌの声が、虚しく屋敷内に響きわたった。タマモの姿は、どこにも見えなかった。
「人工幽霊一号、タマモちゃんはどこ!?」
『……先ほど、慌てたように屋敷を出て行かれましたが』
 その返事と重なるように、屋敷の外からパトカーのサイレンが聞こえ始めた。
 おキヌは一瞬どうしようか考えたが、すぐにきびすを返して食堂に戻った。が、テーブルの上に紅茶とケーキが残されているだけで、そこには誰もいなかった。声は、隣の事務所から聞こえてきている。
 その途端扉が開いて、書類の処分を終えた美神たちが姿を現した。おキヌと美神の視線が合った。
「美神さん……!」
 だがおキヌが言葉を続けるよりも早く、美神が口を開いた。
「横島クンはタマモを連れて地下の車で一時的に逃げて」
「お、俺、運転なんてできないッスよ」
 いきなり名指しで呼ばれ、驚いたように横島が言った。美神は思わず額を押さえた。
「もぅ、人工幽霊一号に任せればいいでしょ。タマモ、よく聞いて。……ってあれ? タマモは?」
 美神はきょろきょろと辺りを見回した。おキヌがいたので、てっきりタマモもいるのだと思いこんでいたのだ。
 やっと発言権を与えられたおキヌが、慌てて口を開いた。
「タマモちゃん、外に出て行っちゃったんですって!」
「え……そ、そーなの?」
 美神は驚いた顔をして止まってしまった。地下に向かおうとしていた横島が、その背中に声をかけた。
「美神さん、どーすんすか」
「どうするって……ま、いいんじゃない。逃がす手間が省けたし」
 一種冷たいような美神の言葉に、おキヌは見放されたような気持ちになった。
「大丈夫よ、タマモだってきっとこれを察知して逃げたんだろうし。そうだ、シロ、遠吠えで交信できるでしょ?」
「それは大丈夫でござるが……」
 シロはそこまで言って語尾を濁すと、両開きの窓を開けた。いつのまにか屋敷はパトカーのサイレンで包まれていて、それがやむまでは交信はできそうもなかった。

「美神令子所長はいらっしゃるかね」
「はい、こちらです」
 おキヌ、シロ、横島の三人に出迎えられて、刑事らしい人物が屋敷の中へ足を踏み入れてきた。続いて数人の警察官が後に続く。屋敷の外には、対魔仕様の施されたジュラルミンの楯を構えた機動隊員が、壁をつくっていた。
「横島先生、こんな狼藉を許していいのでござるかっ!」
「シロ、いいから今は押さえてくれっ! じゃないと俺まで犯罪者になってしまう……」
 すでに美神は犯罪者であるといわんばかりの物言いだったが、今はそれにつっこんでくれる人はいない。肝心の美神は、事務所の椅子に座って冷めてしまった紅茶に口を付けていた。
 何人もの足音が扉の前で止まり、ノックが聞こえる。
「美神さん、警察の方をお連れしました」
「……お通しして頂戴」
 おキヌが開けた扉から、ゆっくりとした歩調で刑事が入ってきた。コートの内側に手を入れ、取り出した警察手帳をそっぽを向いている美神に向ける。
「警視庁のものですが……これはこれはご立派なお部屋で」
 優雅な動作で紅茶を一口すすると、美神は視線を向けないままで口を開いた。
「その刑事さんが、何の用かしら」
 すでに臨戦態勢だ。おキヌが冷や汗を流しているが、美神はおかまいない。
 そして部屋の外では、シロと警察官が対峙していた。
「大将同士の一騎打ち、邪魔はさせんでござるよ……」
「やめろシロっ、公務執行妨害になってしまうだろっ!」
 必死にシロをなだめながらも、横島は考えを巡らせていた。それはタマモに関してのことだ。
 確かに以前、タマモを退治するという依頼を美神たちは警察から受けた。そして、実際には捕獲した後逃がしてしまい、すったもんだの末、今はかくまっているのも事実だ。
 だが、なぜ今更なんだろうとも思う。すでにタマモの存在は警察に顔の利く美智恵は知っているし、警察と繋がりのあるICPOの西条も知っている。ましてや、警察からICPOに捜査権の移った事件の手伝いをして、解決したことさえあるのだ。表向きはともかく、実際には黙認という状態になっているはずだった。
「……! シロっ!」
 気が付くと、シロが敵意むき出しで横島の手の中から抜け出そうとしていた。慌てて押さえつける。
 その途端、横島は突然開いた扉にはねとばされた。
「み、美神どの!」
 シロが驚きの声を上げた。その手には――手錠がかけられていたからだ。
「美神さん……」
 さすがに横島も驚いた表情を見せた。だが、美神はこともなげに言った。
「あんまりしつこいから、ちょっと行ってくるわ」
「本当に……気を付けて下さいね」
 おキヌが少しずれた台詞を、心配そうな表情で口にした。
 シロは呆然としており、横島は下を向いて震えている。
「そんな……」
 横島の反応に、美神は少しだけほっとしたような気持ちになった。
「大丈夫よ、すぐに――」
 だが横島は一瞬にして服を脱ぐと、トランクス一枚で美神に襲いかかった。
「……せめて、俺を男にしてからっ!」
「ふざけるなっ!」
 次の瞬間、手錠の根本部分でしたたかに頭を殴られた横島は、血を流しながら地面にうずくまっていた。
「兄ちゃん、軽犯罪法違反と強姦未遂で一緒に来るか?」
 さらに警察官の一人が追い打ちをかける。
「ほらほら、刑事さん、こんなバカほっといてさっさと行きましょ」
「あ、ああ……。行くぞ」
 血を流している横島をほっておいたまま、美神は玄関に向かって歩き出した。刑事の言葉に従い、警察官も後に続く。
「そうそう」
 だが玄関を出ようと言うところで、美神は振り向いて言った。
「おキヌちゃん、シロ、私がいない間、後のことよろしくね。横島クンもわかってるでしょうね……」
「は……はいっ」
 心臓をハラハラさせているおキヌが、慌てて返事をした。横島はというと、えもいわれぬ恐怖を感じていた。
「後のこと……とは?」
「おかげさまで営業停止になりましたので、それに関する事務所の処理ですわ」
 不審そうな刑事に質問に、美神はとびきりの作り笑顔で返事をした。
 刑事は一瞬悩んだような表情を見せたが、納得したのかすぐにもとの顔に戻った。
「それは失敬」
 それだけを言うと、刑事は美神を連れて屋敷を出た。何も起こらなかったと、残念そうな機動隊員の顔が見える。
 そしてすぐに美神をパトカーに乗せ、来たときと同じように、あっという間にパトカーは去っていった。
 後に残された三人は、呆然と見ていることしかできなかった。

「で、結局どーゆーコトなワケ?」
「そうですね、人数も増えたことですし、もう一度お話しします」
 美神が連行されてから2時間ほどが過ぎていた。事務所には宿命のライバルである小笠原エミ、師匠である唐巣、その弟子のピート、そしてマッドサイエンティストのカオスとアンドロイドのマリアが集まっていた。横島とシロはタマモの捜索に出かけてしまっている。おキヌは一呼吸置いて、事件をもう一度包み隠さず話し始めた。
「九尾の狐? 知ってるわよ」
 それが刑事に対する美神の第一声だった。その点に関しては、今となっては隠した方が分が悪い。
「お話が早くて助かる。それで、今はどちらに?」
「知らないわ」
 これもまるっきりの嘘ではない。今現在どこにいるかは知らないという意味でならばだが。
「それよりも、どうして今更九尾の狐を追っているのかしら?」
「質問をしているのは私です」
 色々な思惑を絡めた質問だったが、刑事はそれを受け止めようともしなかった。
「あっ……そ」
 カチンときて、美神は座ったまま椅子を回転させて背を向けた。
「それで、九尾の狐の居場所は?」
 抑揚のない刑事の言葉に、美神は再びカチンときた。思わず怒鳴りかけたが、なんとかそれを押しとどめる。
「あのさぁ、何で今更九尾の狐を追ってるのかは知らないけど、もういいじゃない。あんな仔狐一匹で国家転覆させようなんてできっこないし、第一しないわよ」
 あえて張りつめた雰囲気を崩しながら美神は言った。だが、相変わらず刑事は態度を崩そうとしなかった。それどころか、まだ余裕があるようにすら見える。
「それはあなたの決めることじゃない」
 あくまで友好的ではない刑事の答えに、美神は再び語気を荒くした。
「……私はあのアシュタロスをも倒した美神令子よ。あんた、わかってモノ言ってんでしょうね」
 並の悪霊ならそれだけでたじろぐような迫力だ。刑事も心なしか動揺しているように見える。
「それは、私個人としては感謝している。だが、今の私は命令に従っている一刑事に過ぎない」
 その返事を聞いて、美神は肩をすくめた。これ以上は無駄だと悟ったからだ。
「あなたじゃ話にならないわ。命令を出している奴の名前を教えなさい」
 アシュタロス事件の時の功績と、美智恵の口添えが有れば、絶対負けることはない。美神はそう思っていた。事実、その点については勝ちはしなかったが負けもしなかった。
「いや、現場の判断は私に一任されている。それよりも美神令子、本当に九尾の狐の居場所は知らないんだな?」
 霊的な干渉を何も受けていないことを確認してから、美神は口を開いた。
「……知らないわ」
「そうか。それなら仕方がない」
 そう言って刑事はトレンチコートの内側に手を入れると、今度は一枚の紙を取り出した。
「もう一つの用件を片づけさせてもらおう。美神令子、逮捕状だ。九尾の狐退治の契約不履行及び詐欺の容疑で逮捕する」
「なっ……!」
「ええっ!」
 逮捕状を突き出されて、思わず美神は止まってしまった。ずっと静観していたおキヌも思わず声を上げてしまう。
「……さぁ、おとなしく署まで来てもらおう」
 そう言いながら、刑事が美神に一歩近づいた。トレンチコートの内側から今度は手錠を取り出す。美神は一瞬考えたような顔をしてから、うろたえているおキヌに視線を向けた。それに気づき、慌てておキヌが机の引き出しから霊視ゴーグルを取り出し、刑事を覗き見る。
 だが、刑事の精神からはなんの霊的反応も検出されなかった。操られたりしているわけではないと言うことだ。おキヌは美神に向かって首を振った。
 美神はため息を付くと、仕方無しに口を開いた。
「わかったわ、とりあえず行ってあげる。でも、この借りは大きいわよ……!」
 刑事はその迫力に思わずたじろいだが、何とか職務を遂行して美神を連行していった。
 これが、美神逮捕までの一部始終だった。
 その後美神からは、まだ何の連絡もない。横島がタマモを探しに行くときかないシロに付いて外に行ってしまったので、留守番をしていたおキヌが唐巣に連絡をしたのだ。その話が伝わって、今はこれだけのメンバーが事務所に集まっている。さすがに美智恵と西条は動けなかったようだったが。
「ふーん……ま、冥子がこの場にいなくてよかったワケ」
「冥子さんがいたら今頃この部屋ボロボロでしょうね……」
 話を聞き終えたエミのつぶやきに、ピートが苦笑いをしながら答えた。
「私一人じゃもうどうしていいかわからなくて……」
 泣き出しそうなおキヌの頭を、マリアが優しくなでた。
「ノープロブレム・ミス・おキヌ」
「でも……罪人って首まで埋められて横にノコギリ置かれたりするんですよね? 私、美神さんの首なんて引けないっ……」
 微妙に時代考証が違っているようなおキヌの天然ボケで場が和みかけたとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「美神くんか?」
 唐巣が廊下に出て玄関の方を見た。だが、そこにいたのはタマモ捜索に向かっていたはずの横島だった。
 ぞろぞろと部屋を出てくる人影を見て、まさか皆が集まっているとは思わなかったのだろう、横島は驚いて言った。
「みんな! 美神さんは……!」
「何の連絡もナシ。それに、相手が警察じゃあ迂闊な手出しもできないワケ」
 後ろから姿を現したエミが、唐巣の代わりに答えた。今度は逆におキヌが質問する。
「タマモちゃんは……」
 一緒にいないのが全てを物語っていると言うように、横島は首を振った。
「シロの奴も、まだ探すって聞かなくて、どっか行っちまった」
「そう……ですか」
 頭が冷えれば、シロは戻ってくるだろう。それよりも問題はタマモだ。逃げるにしても、どこに逃げたのかがわからなければ助けようもない。
「それじゃあ悪いケド、あたしはもう帰るワケ。相手が警察じゃあどうしようもないわ。あの女も年貢の……」
 帰ろうと荷物を手にしたエミは、そこまで言っておキヌの視線に気付いた。
「……ま、まぁこの程度でくたばるようなタマじゃないとは思うけどね」
「マリア、わしらも帰るぞ」
 続いてカオスが立ち上がる。
「カオスさんも……」
「わしらがおってもそれこそ警察相手じゃどうしようもないじゃろ。警察相手に悶着起こす覚悟があの嬢ちゃんにあるのなら別じゃがな」
 まったくの正論なので、おキヌはそれ以上返す言葉を失った。
 その時、突然電話が鳴りだした。皆の表情が緊張したものに変わる。
 横島に目配せされ、おキヌは電話に近づいた。受話器に手をかけ、一度大きく深呼吸をしてから、そっと耳にあてた。
「はい、美神令子除霊事務所ですが……」
『おキヌちゃん?』
「み、美神さんですか?!」
 電話の声があまりに美神に似ていたので、思わずおキヌはそう叫んでしまった。
『いえ、美智恵です』
「え……あ、美神さんのお母さん! ご、ごめんなさい!」
 見えもしないのに電話の向こうに向かっておキヌは何度も頭を下げた。だが、美神からであろうと美智恵からであろうと、このよどんだ状況を打破する可能性を持っているのは同じだ。皆の期待がおキヌの受け答えに集中する。
『いえ、いいわ。それよりも令子のことなんだけど、よく聞いて。……正直、考えが甘かったのよ』
 美智恵の話をまとめるとこうだ。
 タマモの件に関しては、美神が思っていたとおり、確かに黙認と言うことで話が付いていた。ICPOに協力したことや、その後の捜査の結果、あまりに表だってこない限り警視庁は知らぬ存ぜぬで済ませるつもりだったのだ。
 だが、ここで大物が動いた。呪術大国ニッポンを影で操っている、20世紀最高の占術師、葛西十蔵が、全てを知った上で改めて九尾の狐の駆除を指示したというのだ。
 このことを知るものは限られているが、戦後の日本を支えてきたのは葛西十蔵の占術のおかげと言って過言ではなかった。葛西の言うことを大日本帝国軍将校は聞かなかったため、太平洋戦争は敗北で終わった。だが、朝鮮半島のように南北に分けず、アメリカ一国による統治を決めたのも、朝鮮戦争に対する日本の態度の取り方も、すべて彼の占術を通しての結果であったのだ。日本という国を色々な方面に置いて発展させた功績は偉大すぎるものであり、その結果、彼に口出しできる者は誰もいなくなったのだという。
 近年は病に伏せり、バブル経済の崩壊などをくいとめることはできなかったが、近頃、数十年ぶりに占術を行った。そして得た結果が、タマモを駆除するというものだったのだそうだ。
「そういえば100年ほど前、そんな名前の極東から来たという占術師に会ったことがあったな……」
 話を聞いて、カオスが懐かしそうに口を開いた。
「若いがなかなか腕は立つやつでな、もう一度会ってみたいとは思っておったが、まさかそんなに偉くなっていようとはな」
 おキヌはその台詞を聞いて、はっとして電話口に怒鳴った。
「わ、私もその人に会わせて欲しいです! そんな勝手な一言でタマモちゃんを……」
 だが、美智恵の返事は冷たかった。
『それは無理なの。……残念ながら、葛西十蔵はその占術の直後に死んでいるのよ』
「そ、そんな……」
 おキヌはその一言を最後に黙り込んでしまった。すでに命令を出した人が死んでいるのでは、命令の撤回を求めるどころか文句すら言うことができない。
「そ、そんな大物がいるなんて聞いたことねーぞ」
 横島が冷や汗を流しながらつぶやいた。その横では唐巣が、納得したように頷いていた。
「私だって初耳だ。だが、歴史上裏にそういった人物がいておかしくない状況は何度となくあった。それがその男だというのなら、納得はできる……」
「まあ、確かに……」
 エミもしぶしぶながらその話を否定することはできなかった。ピートはというと、唐巣の言葉に感心したようにこくこくと頷いている。
『とにかく……』
 それ以上質問がないことを確認してから、美智恵が口を開いた。
『令子の身柄だけは絶対に保証します。でも……タマモのことはもう、観念した方がいいわ。私としても辛いのだけど……。それじゃあ、また何かあったら連絡します。できれば、なるべく動かずにそこにいて』
 その言葉を最後に、電話は切れた。おキヌはしばらくその格好で固まっていたが、やがてあきらめたかのように受話器を置いた。
「余計手が出せなくなっちゃったワケね」
「うむ、これでは警察も全力で妖狐退治に乗り出すだろうからな……」
 唐巣はそこまで言って時計を見ると、椅子にかけてあった上着を手に取った。
「とりあえず今日の所は我々は失礼しよう。もう時間も時間だしな」
「は、はい先生」
 ピートがそれに続く。唐巣の言葉を聞いて、カオスも慌てたように口を開いた。
「おっと、わしらもこんなことしとる場合じゃないんじゃ。マリア、バイトに行くぞ」
「イエス・ドクターカオス・家賃明日まで……」
 すでに帰り支度を済ませていたエミも、それに続いて言った。
「それじゃあ改めて、あたしも帰るワケ」
「あ……じゃあ玄関まで」
 慌てておキヌと横島が、玄関まで彼らを見送りに出た。
「我々も協力は惜しまない。何かあったらすぐ連絡してくれ。タマモくんが悪い妖怪だとはとても思えないからな」
 唐巣の言葉に、おキヌは少しだけ救われたような気になった。
「それじゃあ……」
 そう言いながらピートが扉を開けたとき、外から何か物音が聞こえてきた。誰かが叫んでいるようにも聞こえる。
「こ、この声はまさか……」
 エミは思わず後ずさった。ここにいる全員が知っている声だ。
「令子ちゃ〜〜〜〜〜ん!!!!!」
「冥子なワケ! なんで今更!」
 それは、すでに式神を暴走させまくっている冥子だった。美神が捕まったと聞いて、すぐにやってきたのだろう。
「冥子ちゃん!」
「冥子!」
「冥子さん!」
「令子ちゃ〜〜〜〜〜ん!!!!!」
 懸命の呼びかけも通用せず、結局エミたちが力を使い果たして気絶した冥子を連れて帰ったのは、それから三十分以上経ってからであった……。



 少し前まで、美神除霊事務所は常に三人だった。最近は居候も増え、五人いるのが当たり前になってきていた。
 だが今は、たった二人だった。普段でも広い部屋が、よりいっそう広く感じられる。
「美神さんは捕まっちゃって、タマモちゃんはいなくなっちゃって、シロちゃんは帰ってこなくて……。どうしたらいいんでしょう……」
 ぽつりとおキヌがつぶやいた。時間は夜の11時をまわっている。
「じゃあおキヌちゃん、俺も……」
「よ、横島さん!」
 横島まで帰り支度を始めたのを見て、おキヌは慌てて駆け寄った。これではこの広い屋敷に独りぼっちになってしまう。
 おキヌは不安そうに横島の服を掴むと、消え入りそうな声で言った。
「今日は帰らないで、一緒にいて下さい……」
(こ、これは!)
 状況的に燃えるシチェーションとは違うはずだったが、その一言だけで横島の妄想パワーは最大値を超えた。
(今日は帰らないで一緒にいて! この台詞を聞いて帰れる男がこの世の中にいるだろうか? いや、いない! 世界中が帰ると言っても俺は帰らんぞっ!)
 だが妄想に突っ走っていた横島の頭が、突然思いっきりどつかれた。瞬時に妄想の世界から現実へと引き戻される。
「まったく、私がいない隙に何しようとしているのよ」
「み、美神さん!」
 その姿を認めた途端、おキヌは横島から離れると、美神に抱きついた。うれし涙まで流している。
「ど、どーして……」
 ドクドクと血を流しながら、横島は不思議そうに訪ねた。すでに横島の煩悩の中では、美神は刑務所暮らしが決まっていたのだ。
「何よ、まるで帰ってきちゃ悪いみたいじゃない」
「良かった……無事で……」
 美神の胸にうずくまりながら、おキヌは本当に嬉しそうに言った。だが、美神の表情はさえない。
「それがあんまり無事じゃないのよね……」
「え?」
 おキヌは涙で濡れた顔で、不思議そうに美神を見上げた。
「九尾の狐退治失敗の違約金を払わされたあげく、今度はタダ働きの契約書……。いくら前科者にならないためだからって、あ、腸が切れそう……」
 どこからともなく取り出した書類の束を机の上に置き、美神は腹部を押さえてうずくまった。その様子を見て、おキヌは苦笑いをしている。横島はというと、書類に書かれた違約金の額に目を回していた。
「この再契約って……!」
 続いて書類に目を走らせていた横島が、あることに気付いた。それは、契約書の内容だ。横からそれを覗き見たおキヌも、目を丸くする。
 それは、今度こそ間違いなく九尾の狐を退治するという契約書だった。
「美神さん、これっ!」
 その反応は予想していたのか、美神は目を合わせようとせずに答えた。
「し、仕方ないじゃない、このままじゃ私犯罪者になっちゃうのよっ」
 美神に提示された条件はこうだった。まず、前回の違約金を払うこと。もう一つが、九尾の狐を今度こそ退治するということ。この二つの条件を成し遂げた場合にのみ、告訴をしないというのだ。美神としては、受諾するしかない。
「でも、それじゃあタマモちゃんがあんまりじゃあ……、せっかく人間界にも慣れてきたと思うのに……」
「美神さん……本当にタマモを退治しようってんですか?」
 二人に問いつめられて、美神は泣きそうな顔をした。
「ちょっとやめてよ、まるで私一人が悪者みたいじゃないっ!」
 だが、二人の視線は変わらない。美神がやるときはやると言うことを、良い意味でも悪い意味でも知っているからだ。
「もう……ここを見なさい」
 美神は契約書を奪うと、ぺらぺらとめくってある一文を指し示した。
「えっと、対象が日本国内にいる場合は、全力をあげてこれを退治する。日本国外に逃亡した場合は、現地警察と協力した上で新たな指示を……?」
 読んではみたものの、おキヌには意味がよくわからなかった。どうなろうと結局は退治するというふうにしか読みとれない。
「ようするに、国外に逃げたらその国と協力するってことよ」
「結局は退治するんじゃないんすか?」
 横島もおキヌと同じ結論に達していたようだ。美神は人差し指を口の前で振った。
「どこの国に逃げたのかわからなければ、それ以上どうしようもないでしょ」
 美神はそう言うと、おほほほほと声を上げて笑った。やっと美神らしくなってきたと思ったのか、横島も引きつった笑いを見せる。
「でも……」
 だが、おキヌだけはまだ納得できないと言った表情だった。
「もうタマモちゃん、日本にはいられない……ってことですか」
 美神の言葉は、確かに契約書の抜け道ではある。だが、おキヌの言ったことを指しているのもまた事実だ。
「それは……仕方ないわよ。タマモが実際に騒ぎを起こしているのは、本当みたいだし」
「えっ?」
 思わずおキヌと横島は同時に声を上げてしまった。聞き間違えたのかと思ったのだ。
「そんな、嘘ですよ! だって、毎日……」
 そこまで言って、おキヌははっとして言葉を止めた。実質的にタマモとシロの面倒を見ているおキヌとはいえ、日中は学校に通っている。横島も同様だし、美神も仕事があれば事務所を留守にする。結果、昼間の事務所にはシロとタマモしかいなくなるのだ。人工幽霊一号がいるとはいえ、外に出てしまえばその足取りはつかめない。おキヌにタマモの行動の保証など、まったくと言っていいほどできないのだ。
「でも……」
 それでもおキヌはタマモが騒ぎを起こしているなど信じられず、言葉を濁した。美神は困ったような顔をしながら、再びどこからか書類を取り出した。
「証拠も残念ながらあるのよね。今はまだ報道管制が敷かれてるみたいだから、表沙汰にはなってないけど」
 書類に添付されている写真を見て、おキヌと横島は驚いた。そこにはまぎれもなく九尾の狐の姿が写っていたからだ。
「最近、大手銀行の破綻問題が深刻になっているじゃない。突き詰めていったら、とある男がほとんどの事件に関わっているのがわかったのよ。でも、その男に関する証言を集めても、キツネにつままれたような内容ばかりで要領を得ない。それでオカルトGメンに話が行って、霊視ファインダー付きの監視カメラを設置したら大当たり、ってわけ」
 美神は話しながら、おキヌがちゃんと聞いているのかどうか疑わしく感じていた。それほどまでに写真に見入ってしまっているのだ。
「理由はわからないけど、証拠が――」
「美神さん、これ、違います!」
 あきらめたような美神の言葉は、おキヌの声によって遮られた。その表情は確信したものだ。
「この写真、タマモちゃんじゃありません! 他の……他の、九尾の狐です!」
 たとえ美神にわからなくても、ヒャクメから授けられた心眼を持っているおキヌにならわかる。毎日を一緒に暮らしてきたおキヌなら、ほんのわずかな違いですら見分けられることができる。
 写っているのは間違いなく九尾の狐だが、タマモではない。おキヌの口調と表情は、それを確信していた。
「ほ、他のって……」
 九尾の狐が過去に二匹以上いたなどと聞いたことがない。だが苦笑いをした美神がそう口にしようと思ったとき、突然屋敷全体が轟音に震えた。
「きゃあっ!」
「な、何!」
 おキヌは床に投げ出され、美神と横島はかろうじて机にしがみついた。壁がきしみ、ガラスというガラスがすべて割れる。
『美神オーナー、結界に……穴が開けられました!』
「なんですって!」
 人工幽霊一号の結界を破るなど、普通の人間や妖怪には到底できることではない。それが破られたと言うことは、今が通常の事態ではないと言うことだ。それも、最大級に。
「み、美神さん、あれ……!」
 地面にへたりこんだ横島が、驚愕の表情で窓の方を指さした。おキヌも信じられないような表情で目を見開いている。
「タ……マモ?」
 そこに身構えていたのは、九本の尾を持つ一匹の狐だった。まぎれもなく九尾の狐だ。だが、タマモではない。外見はそっくりだが、雰囲気がまるで違っていたのだ。そして首からぶらさげられている精霊石、それは今まで美神が見たどんなものよりも大きかった。
「俺の……分身は……どこだ……」
 九尾の狐は、低く、そしてよく通る声で言葉を紡いだ。
「精霊石よ!」
 突如、九尾の狐を中心に爆発が起こった。美神が放った精霊石だ。あからさまな敵意。それが、今目の前にいる九尾の狐とタマモの違いだった。
「おキヌちゃんは隠れて! 横島クンは防御結界を!」
 九尾の狐がひるんでいる隙に、美神が素早く指示を出した。自分は神通棍を手にする。もしこれが本当に九尾の狐ならば、幻術や狐火などと言った攻撃が間違いなくあるはずだ。
「が……がぁっ!」
 だが、爆煙の中から現れたのは、黒いスーツを着た一人の男だった。長い爪を持つ腕を振るい、横島とおキヌに襲いかかる。
「あ、あぶねぇっ!」
 間一髪、“護”と念を込められた横島の文殊が発動した。男の攻撃は結界に阻まれたが、その一撃だけでびりびりと振動が走る。次の瞬間、今度は男の瞳がきらりと光った。
「幻術? まずい!」
 美神が男の背中に斬りかかる。攻撃は当たったかに見えたが、ギリギリのところで避けられてダメージは行ってないようだった。
「み、美神さんっ!」
 防御結界の中で腰を抜かしている横島が、泣きそうな声を上げた。おキヌも正気のようだ。
「美神さん、左脇腹を……!」
 心眼を使ったのだろう、結界に護られているおキヌが弱点を言い当てた。男は苦しそうにしているように見える。身体がぶれ、変化が解けそうな状態だ。
(こいつ、初めから怪我をして……)
 そう思ったものの手を抜くはずもなく、美神は神通棍で斬りかかった。一撃目はかわされたものの、衝撃で男の身体が宙に浮く。
「事務所を襲うなんていい根性してるわ! 極楽へ――」
 だが次の瞬間、美神の視界が光であふれた。もとの姿に戻った九尾の狐の、九本の尾のうちの一本が激しく輝いたのだ。
「目眩まし……!」
 美神は咄嗟に腕で目を覆ったが、その程度で防ぎきれるような光ではない。身体を低く伏せ、九尾の狐の気配を探る。
 同様におキヌも目が眩んでいたが、心眼が物理的な光に負けようはずがない。おキヌは九尾の狐の動きを完全に捕らえていた。
「美神さん、上!」
 その声を頼りに、美神は神通棍をまっすぐ上に突き出した。
「が……ああっ!」
 九尾の狐はその攻撃をまともに受け、床に倒れ込んだ。だがすぐに立ち上がり、苦しそうにしながらもあたりを見回している。
「な……まだ倒れないの!」
 わずかながらに視力の回復してきた美神が、驚きの声を上げた。だが、すでに相手に戦闘の意志は無いようだ。九尾の狐は入ってきた窓に向かって行くと、そのまま夜の闇に飛び込んでいった。
「くっ……人工幽霊一号、結界を解いて!」
『わかりました、美神オーナー……』
 美神たちにはわからないが、すぐに事務所全体を覆っていた結界が解かれた。横島が慌てて窓際に駆け寄る。
 もう夜中だというのに、窓からは高層ビルやマンションの明かりが星のように瞬いるのが見えた。空には唯一月が出ているのみで、本物の星など見えはしない。
 当然、九尾の狐の姿も、どこにも見えなかった。
「逃げたようですね……でも、いいんすか、逃がしちゃって」
 横島の報告を聞いて、美神はほっと息を付いて立ち上がった。神通棍を納め、服に付いた汚れを払う。
「仕方ないわ。人工幽霊一号の結界じゃあ、いくら弱ってても奴を閉じこめることは不可能よ。入ってきたときと同じように強引に突破されるのがオチ」
「ど、どーゆーことすか?」
 まったく話が理解できていない横島に向かって、美神は頭を抱えた。
「それは今度教えて上げるから、とりあえず今は部屋を片づけるのが先よ……。くっそーっ、あの精霊石、あれさえ奪えれば元がとれたのに……」
 美神は九尾の狐がぶらさげていた精霊石を思い出し、大きなため息を付いた。
 室内はほんの五分ほどの戦いで、すさまじいまでの惨状と化していた。

『令子ちゃんか? 僕だ、西条だよ』
「西条さん!」
 翌朝、ベッドの中で受話器を受け取った美神だったが、その電話の内容は目を覚ますには十分なものだった。
「……もう一匹の九尾の狐?!」
『ああ、その可能性がかなり高い。群馬の殺生石、あの下からあれよりより一回り大きな石が発見されてね、調べてみたら成分が同じらしい。タマモちゃんだったか、あの妖弧は表に出ていた殺生石から生まれたわけだろ。どうやらその下にあった同じ石から、もう一匹生まれているみたいなんだ』
 美神はベッドの中で考え込んだ。その話が本当なら、昨晩襲ってきた九尾の狐がそれなのだろうと予想できる。だが、腑に落ちない点もあった。
「西条さん、警察の方はもう九尾の狐の居場所を突き止めているの?」
『……これはまだ口外してはいけないんだが、昨晩、初の戦闘を行った。ちょうど令子ちゃんの事務所に警察が行った頃だ』
「ははぁ……」
 言われて美神は思いだした。取り調べの途中、微妙に刑事の態度が変わったのだ。逮捕しない代わりに、と条件を持ち出してきたのもその頃だ。美神がかくまっていたわけではないと確認できたからの措置だったのだろう。
『ダメージを与えることには成功したんだが、……警察側はほぼ全滅状態だ。幸いにも死者は出ていないが、大やけどを負うか、重度の幻覚症状に陥るかで、皆入院中だよ』
 おそらくは九尾の狐がその妖力を使ったのだろう。昨夜の光も、万全な状態での力だったら失明していたに違いない。
 そう言えば、と美神は記憶の紐をたぐりよせた。昨晩の九尾の狐は、本当に尾が九本あっただろうか? 警察との戦闘、そして事務所での戦闘で霊力を大幅に使ってしまい、霊力の源である尾の数が減っていたような気もする。だが、今考えるべきことはそのことではない。
「でも、それなら……」
 美神は一つの可能性に思い当たり、婉曲的に電話口に向かって質問してみた。
「九尾の狐が二匹いるということはほぼ間違いないんでしょ? なら、タマモの方は見逃してくれても……」
『それは……残念ながら無理だ。すでに実害は出ているし、何より葛西十蔵は九尾の狐が何匹かは言及していない。九尾の狐だったら、人間に害があろうが無かろうが関係はない……』
 それは、予想できる答えだった。だが、事後報告とする余地は十分に残っているとも言えた。
「そう……うん、ありがとう、西条さん」
『あ、ああ。この事件に関しては、オカルトGメンに捜査権が移ることが決定した。だから、僕も先生ももう迂闊にうごけないと思う。なんとか道は探してみるが……期待はしないでくれ』
 その言葉を最後に、慌ただしく電話は切れた。
 美神は考え込んでいる様子だったが、おキヌが横ではらはらしながら視線を向けているのを感じ、慌てて笑顔を向けた。
「よーし、おキヌちゃん、行動開始よ。タマモを助け出すためにね」
「は、はいっ!」
 その一言は、もう一匹の九尾の狐に対する、宣戦布告であるとも言えた。
 まず美神は、ゴーストスイーパーの仲間たちに連絡を取った。とにもかくにも、警察よりも早くタマモともう一匹の九尾の狐を発見しなければならないからだ。
「唐巣神父はピートさんと一緒に協力して下さるそうです。ただ、カオスさんは連絡が取れなくて……」
 おキヌが、困ったように美神の方を向いた。手にした受話器からは、『この番号はお客様の都合で……』と繰り返されていた。
「カオスめ、何してるのよ! カオスはともかくマリアは役に立つって言うのに……」
 その頃カオスは家賃のためのバイトをしていたのだが、当然美神にそれがわかろうはずもない。
「まぁいいわ。冥子とエミも連絡済み。ただ、後で高くつきそうだけどね……」
 エミの押しつけがましい態度を思い出して、思わず美神は頼まなければ良かったと思った。だが、エミの黒魔術を利用した占いは、他の占いで見つからないものが見つかったりするので、はずせないのも本当だ。
「ところで、シロは?」
 昨晩から帰ってこない顔を思い出して、美神は屋根裏に行ってみた。だが、二つのベッドは両方とももぬけの空だった。夜を徹して探しているのだろうか。
 用意を終えた美神は、おキヌと共に寝室を出て事務所に向かった。昨晩の戦闘の痕跡は残っているものの、人工幽霊一号の自己修復能力でそれはたいぶ目立たなくなっている。
「横島クン?」
 だが、昨晩この部屋に泊まっていったはずの横島の姿はどこにも見えなかった。
「あれ? 昨日は帰ったんだっけ?」
「あの、美神さん……」
 おキヌが遠慮がちに隅の戸棚を指さした。それはがたがたと震え、中に誰かがいることを物語っている。
「あ、そっか」
「ンフーッ! ンフーッ!」
 戸棚の中で血だらけで動けないように縛られて猿ぐつわをされて転がされていたのは、当然のごとく横島であった。昨晩しっかりと夜這いをかけに来たので、容赦なく美神がしばいたのだ。
「ひ、ひどい……青少年の純粋でそれでいてちょっとだけ軽はずみな行動だったのに……」
「うるさいわね、行かないんなら置いていくわよ」
 美神にそんな言い訳が通用するはずもなく、容赦なく荷物のリュックが横島の上に落とされた。
「ぐ……不眠不休でこれでは死んでしまう……」
 だが疲労困憊だった横島の手を、おキヌがそっと握った。
「横島さん、タマモちゃんを助けに……行きましょう」
「あ……ああ」
 おキヌの真剣な眼差しに、横島はそれ以上ギャグをやっていられずに立ち上がった、おキヌのヒーリングのおかげで、少し体力が回復したというのもあるのだろう。
 だが美神はその様子を見ながら、こう思った。
「横島クンって……なんか生かさず殺さずの貧乏百姓みたいね」
 それはほぼ真実であったが、二人が認識する必要のないことでもあった。



 その頃、皆が心配し、探し求めているタマモは、夢を見ていた。
 玉藻前と呼ばれた前世から転生して、すでに数年が経っていた。未だ人間は許せない奴らばかりだが、ごくわずかながら、わかってくれる者たちもいる。
 そして、率先して彼女を受け入れようとしてくれた人間もいた。
 真友康則。
 それが、彼の名前である――。
「……いたか!?」
 近くで人間の声がして、タマモははっとして我に返った。ほんの一瞬だが、眠ってしまっていたらしい。
 路地の向こうに、霊波迷彩服を着込んだ追っ手が現れた。
「くっ!」
 何故追ってくるのか確信は持てていないが、おそらく自分が九尾の狐であることが原因なのだろう。
 狐状態に戻っていたタマモは、慌ててきびすを返して逃げ出した。あの服装をしている人間どもには、狐火や幻術があまり効果がないのは実践済みだ。ましてや今は体力を消耗していて、何人も来られたら勝ち目は薄い。いやすでに、滅ぼされるのも時間の問題だといえた。
 だが、すでにこの世に未練はなかった。にっくき人間のはびこっているこの世になど、タマモは生きる価値を見いだせなかった。そして、どうせ滅びるなら、自分が滅びる場所は自分で選びたい。それがタマモの結論だった。
 復讐という心を包んでなお余りある感情……。それだけがタマモを突き動かしていた。
「真友くん……」
 茂みの中を駆け抜けながら、タマモは一筋の涙を流した。
 それは、まだ生まれたばかりに等しいタマモにとっては、非情すぎる出来事であった。

『……今入りましたニュースです。今夜6時頃、東京湾アクアライン木更津側人工島、うみほたるにて、親子が海に飛び込むのが目撃されました。今日の東京湾は荒れており、現在も捜索が続けられておりますが、依然生死は不明です。現場に残されていた遺書と思われるものから、飛び降りたのは住所不定無職、元貴金属販売会社社長の加納良子さんと、一人息子の康則くんと見られています。警視庁は親子心中事件と見ており、現在も必死の捜索活動が……』
 テレビを付けていてもあまり注意を向けていないタマモが、その時だけはちゃんとニュースを見ていたのは、いわゆる虫の知らせでもあったのだろうか。
 心中という言葉の意味は分からなかったが、雰囲気だけでそれが何を示しているのかはわかった。そして、出会ったときと名字は違うし顔写真も写っていないというのに、飛び込んだ少年というのが誰なのかわかってしまった。
 血の気が引く音がした。世界が急に狭くなった。
 だが、何をすべきなのかは本能的に察知した。そして、いつのまにかタマモは狐の姿に戻り、一人夜の街を疾走していた。
 まだ生まれたばかりの時。山奥でひっそり暮らしていた頃は、空は毎晩満天の星で包まれていた。
 木々や草花は生い茂り、全ての命あるものがただ純粋に「生きて」いた。
 それが、いったいどういう理由なのだろう。この場所ではタマモの霊力を持ってしても星は数えるほどしか見えないし、木々や草花は申し訳程度にしか存在していない。そして、一部を除いては生きてすらいない。生かされているだけだ。それは、人間に至っても。
 だが、いつのころからかタマモはこの空も好きになっていた。いや、好きというと言い過ぎかもしれないが、少なくとも嫌いではなくなっていた。人間を憎んでいたのが、徐々にそうではなくなってきたかのように。
 憎むべき人間とそうでない人間が、同じ人間であるように。星の見えない空と、満天の星の空が、同じ空であるように。
 そしてタマモは、世界で一番憎くない人間を求めて、星のほとんどない夜の街を駆け抜けていた。目指すは、東京湾横断道路木更津人工島、うみほたるである。
 事務所からなら川崎側入口の方が近いのだが、タマモはいつの間にか房総半島を南下して、木更津側入口へ向かっていた。真友の気を感じながら走っていたら、いつのまにか東京湾を大回りしてしまったのだ。うみほたるが東京湾の真ん中にあることを知らなかったのだから、誰も彼女を責めることはできないだろう。
 やがて、タマモの眼前に陸地から海に向かって伸びた一本の道路があらわれた。たった二ヶ所しかないうみほたるへの道の一つだ。
 なんの迷いもなくその道路に入り込んだタマモだったが、しばらく進んだとき、ふと気付いたように立ち止まって空を見上げた。そこには、都会の空とは明らかに違う、神秘的な美しさが広がっていた。
 デジャヴーランドで一緒に見たプラネタリウムの映像も、確かに綺麗だった。だがあれは、つくりものの美しさだ。そうと理解して見るからこそ、一層本物の星空が美しく感じられる。
 この空を、一緒に座って見たい。タマモは心の底からそう思った。
 だがその時、タマモは自身を現実へ引き戻すものを発見してしまった。視界の先、洋上にひときわ大きく存在する人工の島、そこから空に向かって伸びる一本の細い紐。
「……真友くん!」
 それは、今まさに切れようとしている真友の命の紐であった。
 立ち止まってしまっていた時間を少しでも取り戻そうと、再びタマモは全速力で走り出した。
 目指すうみほたるはもう目前だ。ニュースを見てからすでに2時間、タマモが地理に詳しくないとはいえ、けして早いとは言えない。
「向こうの方……!」
 中央分離帯を飛び越え、ついにタマモがうみほたるにたどり着いたその瞬間。
「き、きゃああああっ!」
「かかったぞ!」
 突如現れた結界に、タマモは身体をからめ取られてしまった。あたりからわらわらと姿を現した人間たちは、みな霊波迷彩服を着ている。
「九尾の狐を結界に閉じこめるのに成功! 本部、連絡求む!」
「油断するな! 今度こそ完全に退治しろ!」
 人間たちが何を言っているのかは、タマモはわからなかった。いや、わかろうとしていなかった。今タマモが理解しているのは、早く真友の所へ行かなければならないこと。そして、回りの人間たちがそれを邪魔しようとしていることだけだ。
「邪魔を……しないでっ!」
 動くことすらままならないはずの結界の中で、タマモは人の姿に変化した。破魔札を手に近づこうとしていた人間たちが、驚いた様子を見せる。
 だが、それ以上タマモは動くことができなかった。霊波の網が身体を締め付け、指一つ動かすだけで激しい苦痛が体中を駆けめぐった。
 真友の命の紐は、さらに細くなっているような気がした。早くしなければ、九尾の狐の力を持ってしても、助けることができなくなってしまう。タマモは誰に教えられたわけでもないのに、それを本能的に察していた。
「ま……とも……くんっ!」
 タマモを封じようと、一斉に破魔札が突き出されたとき、すさまじい突風がタマモとその周辺を襲った。
「な、なんだっ!」
 それ以上声を出せずに、人間たちはタマモの回りから吹き飛ばされた。そして次にタマモを見たとき……彼女の姿は、狐でもなく、人間でもなく、光り輝く妖弧となっていた。
「こ、金毛九尾、白面の妖弧……」
 驚いたのはタマモも同様だった。自分が自分でないような感覚、尻尾の1本1本から溢れ出てくる力が、今ならどんなことでもできるという確信をタマモに与えていた。
 まだ霊波の網に身体を縛られているはずなのに、タマモは優雅な動作で右腕を引き構えた。そして普通の人間なら正気を失ってしまうほどの言霊を備えた言葉を放つと同時に、右腕を振り払った。
「そこを……どけっ!」
 空気中に生まれた爪の跡に沿って、狐火が燃えた。つむじ風に乗った火は一瞬であたりに広がり、事態を見つめていた人間たちを包み込んだ。
「わあああっ!」
「た、助けてくれっ!」
 たったそれだけで、人間たちはパニックに陥った。近くにいた者も、遠くにいた者も、タマモに注目していた者たちはすべてだ。
 混乱に陥った人間たちを一瞥した後、タマモは黄金色に光る自分の身体を、星空高く跳躍させた。
「真友くん……あそこ!」
 うみほたるを一望にできる高さまで飛び上がってしまえば、真友の本体がどこにあるのかなど一瞬にしてわかってしまう。勢いをつけてその場所に向かおうとしたとき、突然タマモは体中の力が抜けていくのを感じた。
「な、何? もう少し待ってよ!」
 妖弧の姿どころか人間の姿も維持できず、狐状態に戻ってしまったタマモは、目的地より少し離れた場所に着地した。脱力感が身体を襲うが、それでもすぐに真友のもとに向かおうとする。
 だが、四本足で走っているにもかかわらず、タマモはバランスを崩して転んでしまった。そんなにも体力を消耗してしまっていたのだろうかと思うと同時に、体の重心に違和感を感じた。
「あ……あれ?」
 違和感の原因は、タマモが九尾の狐であることを示すはずの尾の数だった。九本ではなくなっていたのだ。
 タマモの尾は、魔力の塊が尾に姿を変えたものだ。尾の1本1本に通常では考えられないほどの魔力が詰められている。先代の九尾の狐は、その魔力を持って自らの身を守ろうとしていたのだ。だが、それは使い道を変えれば恐るべき力にもなりうる。
 真友を助ける力は、この尾から生まれるのだろう。そのことを察知したタマモは、目的を果たすべく真友のもとへと向かった。
 そこは、海に面した公園になっていた。ニュースで見た光景が広がっているが、ただ一つ違うのは人の姿がないことだ。九尾の狐接近の為、避難命令が出ていることをタマモが知るはずもない。
「真友くんは……」
 脱力感が抜けてある程度霊力が回復していることを確認してから、タマモは人の姿に変化して真友の姿を探した。だが、その姿はどこにも見つからなかった。ふと空を見上げてみると、おかしいことに真友の命の紐まで見あたらない。
「どこ……どこに……」
 徐々に心を焦らせながら歩き回っていたタマモは、コンクリートの地面に置かれていた白い包みにつまづいてしまった。重量感のある包みを飛び越え、地面に膝をついてしまう。
「え……、う……嘘……」
 その時、風が吹いた。空の彼方に、真友の命と身体を繋いでいた紐が消え去ってしまったような感じがした。
 タマモは知り、泣いた。白い包みに覆い被さり、溢れ出る大粒の涙をぬぐおうともせずただひたすらに泣いた。想いは言葉にならず、ただ嗚咽となって夜の闇に響いた。
 夜空には、満天の星が瞬いていた。

 昨晩そんなことがあったということなど当然知らず、美神たちはタマモを探して街を走り回っていた。
「美神さん、あっちに反応が」
 見鬼くんを手にした横島が、オフィス街の方向を指さした。昼間と言うこともあり、人通りは多い。その中を車で走り抜けているのだ。
「わかったわ」
『美神さんダメ、そっちは警察の人がいます!』
 見鬼くんの反応を見て美神がアクセルを踏み込んだとき、今度はトランシーバーを通じて上空にいるおキヌから声が届いた。雨が降りそうな天気だったが、今は幽体のおキヌには関係がない。
 とにかく、警察より先にタマモを保護しなければならなかった。捕まってしまったら、もう美神には手が出せないからだ。
 探しているのは、美神たちだけではない。冥子やエミ、唐巣なども、美神の要請を受けて駆けずり回っているはずだ。
 美智恵と西条は、やはり動きが取れないらしい。だが、有益かどうかは判断できないが、情報だけは送ってくれた。それは、タマモではないもう一匹の九尾の狐に関する情報だ。
 タマモは、前世から恨みや怨念を引き継ぐことなく生まれた。その後人間から追われ、滅ぼされそうになったことも含めて人間不信に陥ってしまっていたが、今はそれほどでもなくなっているはずだ。
 それに対し、もう一匹の九尾の狐は違った。タマモが引き継がなかったもの、恨みや怨念を糧として、この現世に生まれてきたのだ。そしてその恨みや怨念をはらすため、日本国内を跋扈していた。
 と言っても、表だって動いているわけではなかった。このあたりが、なかなか表沙汰にならなかった理由だ。人に変化し、経済界の大物に取り入り、甘い言葉と幻術で判断を誤らせ、最終的に日本経済を破綻させる。このところの銀行や証券の倒産ラッシュは、もう九尾の狐が原因の一つだったといえるのだろう。日本という国がどんどん病に冒されていくことで、九尾の狐は恨みや怨念をはらしていたのだ。
 だが、なぜそんなまだるっこしいやり方をしていたのだろうか。答は簡単だ、前世である玉藻前の霊力が、タマモと九尾の狐に二分されていたからだ。生命にあふれた母性を引き継いだタマモ、破壊を願いとした父性を引き継いだ九尾の狐。霊力は半分に分けられ、さらに二匹とも覚醒していないとなれば、いかに金毛白面九尾の狐の力を受け継いでいるといえども、日本という国を相手にして戦うのは難しいのだろう。
 だがそれは、二匹が覚醒し、そして同化したときは、日本という国の危機を意味していた。
『令子ちゃ〜ん、タマモちゃんらしい気配を察知したわよ〜』
 冥子の間延びした声が、美神の耳に聞こえた。式神の力を使うことで飛行も霊視もできる彼女は、これで性格さえまともであれば万能であるといえた。
「でかしたわ冥子、今行くから!」
 素早く皆に連絡し、美神たちは冥子のもとへと向かった。位置関係上、美神たちが最初にたどり着くはずだ。
「ところで美神さん」
 現場に急行しながら、助手席の横島が話しかけてきた。
「昨日言ってた、九尾の狐には事務所の結界が無駄ってのはどういうことですか?」
「ああ、あの話ね……」
 美神はたくみにハンドルを回しながら、その時のことを思い出した。昨晩の襲撃時に、あっさり逃がしたことを言っているのだ。
「簡単に言えば、霊波の質が全然違うのよ。人工幽霊一号の結界はほぼ最強クラスに近いものだけど、それは現代での話。仮に霊力が小さくても、霊波の質が今のものと違えば防げないのよ」
 横島は納得したようなしてないような顔をした。
「じゃあ……だから今回の装備はいつもと違うんすか?」
「その通り。全部、特注品よ。タマモ退治の時に厄珍から仕入れた余りを隠しておいたのよ。全部経費として請求できるんだもん、買わなきゃ損でしょ?」
 さらっと言ってのける美神だったが、相手は税金で動く警察だ。やはり美神は捕まった方がいいんじゃないかと横島は思った。
「令子ちゃ〜ん」
 再び間延びした冥子の声が聞こえたが、今度はトランシーバーごしではなかった。シンダラに乗った冥子が、美神の前に降りてきたのだ。慌てて美神はブレーキを踏んだ。
「冥子! タマモは?」
「あそこの公園の中なんだけど〜、もう警察の人が〜」
 見ると、公園の周囲にはすでに何台ものパトカーが到着しているらしかった。まごまごしている時間はない。
「まずいわ、行くわよ!」
 そう言って美神は車から降りると、警察に見つからない場所から公園内に飛び込んでいった。横島と身体に戻ってきたおキヌもそれに続く。
「タマモは……」
 公園は、ごく普通の住宅地の角にあるような公園だった。だが、以外に広い。
 見鬼くんはすでに最大値の警報を鳴らしていた。おキヌが心眼を使って居場所を確かめようとした時、視界の隅を白い物体が動いた。
「タマモちゃん?」
 慌てて茂みの方に三人が向かう。果たしてそこには、傷ついた狐状態のタマモがいた。
「良かった……」
 そう言いながらおキヌが手を差したが、タマモは近づこうとはしなかった。うなり声を上げながら、じりじりと下がっていく。
「大丈夫よ、私たちはタマモちゃんを助けに来たの」
 傷ついているのは、おそらく人間に追われたからだろう。そして再び、人間不信の念が大きくなってしまったに違いない。おキヌはそう判断して、タマモの説得を始めた。
「大丈夫よ、悪い九尾の狐は他にいるの。私たちはタマモちゃんの潔癖を証明するためにタマモちゃんを探してたのよ」
 その様子を見ていた美神だったが、ふと違和感を感じた。それは、タマモの容姿だ。傷ついてはいるが、何かが根本的に違う。そんな気がしたのだ。
「み、美神さん、あれ……」
 横島に耳打ちされ、美神はその違和感の原因に気付いた。タマモの尾が九本ではなくなっているのだ。それが何を意味するのか。
「まずいわ……タマモのやつ、もう覚醒してるのかも」
 その言葉を聞いて、横島は先ほどの話を思い出した。
「え、そ、それじゃあ……」
 だが、それ以上言葉は続かなかった。突然、美神たちの周辺に結界が張られたのだ。
「な、何?」
 慌てて美神は周囲を見回した。その視界の隅に、公園内に飛び込んでくる霊波迷彩服を着た男たちの姿があった。
「あっちゃー……」
 最悪だ。警察を前にしてしまっては、タマモを逃がすことすらできなくなってしまう。こうなってしまっては、残る手段はただ一つだ。
「タマモ、ごめん!」
 美神はおキヌを横にどけ、破魔札をタマモに向かって広げた。
「美神さん!」
 おキヌの悲鳴が上がるが、躊躇する余裕はない。タマモを助けるには、警察より早くタマモを破魔札に吸い込み、そして別の破魔札を燃やして誤魔化すしかないからだ。美神は知らなかったが、それは偶然にも横島たちが最初にタマモを助けたときとほぼ同じ手段だった。
「吸引っ!」
 美神のかけ声と共に、破魔札に周囲の霊気が吸い込まれていく。だが、タマモはそれに抵抗しようとた。身体を地面に押さえつけ、吸い込まれるのを防ごうとしている。
「いいからタマモ、悪いようにはしないから!」
 だが、それすらも遅かった。タマモが抵抗している隙に、霊波迷彩服の男が美神たちの前に姿を現したのだ。
「九尾の狐、覚悟しろっ!」
 そう言って男は神通警棒を振りかぶった。タマモは吸い込まれないようにするので精一杯で、避ける余裕はない。
「貴様、やめるでござるっ!」
 美神も横島も動けない中、その一撃からタマモを救ったのは、昨晩から姿を消していたシロだった。ずっとタマモを探していたのだろう。だが、なんとかその一撃は防いだものの、動きが鈍い。
「邪魔をするなっ!」
 容赦ない神通警棒の一撃をくらい、シロは地面に倒れ落ちた。変化を維持することができず、狼の姿に戻ってしまう。
「シロッ!」
 タマモが吼えた。怒りの炎が大きく燃え上がるのが、おキヌには見えてしまった。
 そして次の瞬間、黄金色の光がタマモを包み込んだ。破魔札は過負荷を起こして消滅し、美神たちはあまりのまぶしさにその場にうずくまってしまう。
 そして次の瞬間、美神たちが見たものは、狐の姿でもなく、人間の姿でもなく、妖弧状態のタマモだった。
「金毛白面、九尾の狐……」
 美神は息を呑んだ。これこそが、タマモが覚醒した姿だったからだ。
「しょ、正体を現したな!」
 霊波迷彩服の男が、神通警棒で殴りかかった。だがタマモはそれを素手で受けると、片手で簡単に握りつぶして地面に捨てた。
「ひ……ひぃっ」
 そして視線を倒れているシロに向けた後、腰を抜かしている男の方に歩み寄った。
「駄目、タマモちゃん! 憎しみの心に捕らわれちゃ駄目っ!」
 おキヌが必死に叫んだ。
「私は……憎しみの心になんか捕らわれていない」
 その時、初めてタマモが口を開いた。やっと心を開いてくれたと、おキヌは少しだけほっとして言葉を続けようとした。だが、それがかなうことはなかった。
「でも……もう、人間は信じられない!」
「え……」
 タマモの叫びを聞いて、おキヌは固まってしまった。その一言は、今までのタマモのどんな一言よりも重かったからだ。
 タマモは言葉を続けた。
「……真友くんを死なせた人間なんて、絶対に信じられない! これ以上私の邪魔をするのなら、誰であろうと絶対に許さない!」
 そう言ってタマモは両手を上げた。霊力がぐんと上がり、6本の尻尾が風に乗って舞う。
 いつのまにやら美神たちを取り囲んでいた霊波迷彩服の男たちが、破魔札を構えて立ち上がった状態のまま動きを止めた。タマモの一にらみで動きを封じられたのだ。
「まずいわ、簡易結界を!」
「は、はい!」
 横島が慌ててリュックから簡易結界を取り出した。これも対九尾の狐用の特別製だったが、この状態ではどれだけ防げるかもわかったものではない。
「タマモちゃん……」
「おキヌちゃんもこっちへ! シロは……!」
 美神が慌てておキヌとシロを結界内に引きずり込んだ。ずっと倒れていたシロだったが、死んではいないようだ。かすかに息をしている。
 すでにタマモは我を失っていた。霊力は最高レベルまで高まっている。あとは腕を振るいさえすれば、周囲の人間は皆息絶えるだろう。それには美神たちも含まれていたが、タマモにはもうそんなことはわかっていない。
 わかっているのはただ一つ、人間はもう許せないと言うことだけだ。
「消えろっ!」
 腕を振るおうとしたその時、タマモの耳に何かが聞こえた。
「ウォーーーーーーン……」
「え?」
 腕を振りかぶった体勢のまま、タマモの動きが止まった。
「ウォーーン、ウォーーーーーーン……」
「シロ……」
 それは、息も絶え絶えのシロの遠吠えであった。美神の膝の上に抱きかかえられ、人間の姿も維持できなくなっていて、それでもタマモに向かって精一杯吠えていたのだ。
 タマモは構えていた手を下ろした。そしてシロの方を一瞥した後、霊波迷彩服の男たちの方を向いた。
「……次は、絶対に容赦しない」
 そう言ってタマモは大きく跳躍すると、オフィス街の方に消えていった。
「タマモちゃん……」
 呆然とタマモが消えた方を見送っていたおキヌの頬に、冷たいものが当たった。手を差し出すと、それは雨のようであった。空がどんどん暗くなってくる。
「美神くん!」
 やっと公園までたどり着いた唐巣やエミが、美神の姿を認めて駆けつけてきた。呆然としている美神たちを見て、何かがあったのだと感づいたのだろう。
 すぐに、雨は大降りになってきた。それはいったい、誰の涙だったのだろうか。



 真友くんを、救うことができなかった。
 タマモの心をずっと支配しているのは、その事実だけだった。
 小降りになった雨の中を、狐の姿に戻っていたタマモは、ある場所へと向かっていた。
 人間が憎いという気持ちは、やはりタマモの中から消えそうにはなかった。あの時うみほたるで、人間さえ邪魔をしなければ……。その想いが、タマモの心の中を駆けめぐる。
 それでも、今はもう人間に復讐するという気持ちは収まっていた。美神やシロたちに出会ったことも原因の一つではあるだろうが、もし生きていれば、真友がそれを望むとは思えなかったからだ。
 やがて、目的地までもう少しと言うところで、タマモは自分に向かっている気配を感じた。慌てて出所を探るが、どうやら人間のものではない。だが、自分に向かってきているのは確かだ。
「誰……」
 タマモは立ち止まって人の姿に変化すると、気配の方を見た。そこに現れたのは、自分と同じもう一匹の九尾の狐だった。
 警察と戦い、美神たちと戦い、そして傷ついた九尾の狐は、タマモの匂いを追ってここまでやってきたのだ。
「お前……私と同類?」
「やっと……見つけた……」
 そう言うと、九尾の狐はかがみ込んだタマモの膝の上に倒れ込んだ。それ以上動けないようで、苦しそうにうめいている。九尾の狐の思考が、直接タマモの中に流れ込んできた。
『人間が憎い人間が憎い人間が憎い憎い憎い憎い憎い憎い……』
 そのあまりに強い憎しみに、タマモは思わずたじろいだ。だが次の瞬間、すぐにあることに気付いた。
「私も……お前と同じだよ」
 人間が憎いという感情。それは、タマモが持っているものと全く変わらなかったのだ。だが、タマモには真友という存在がいた。きっと、それだけの違いなのだろう。
 タマモは膝の上で横たわる九尾の狐に顔を近づけると、傷口をそっと舌でなめた。どうしてかはわからないが、そうすることで傷が癒せると思ったのだ。事実、九尾の狐の傷は少しずつではあるが、回復していった。
 タマモは一心不乱に九尾の狐の傷をなめた。口の回りが血だらけになったが、そんなことは関係がなかった。
 いつのまにか、九尾の狐は安らかな表情で寝息を立てていた。タマモにはよくわからなかったが、とりあえずすぐに死んでしまうことだけは無くなっただろう。だが九尾の狐を芝生の上に寝かせ、立ち上がろうとした瞬間、タマモは思わず身体をふらつかせた。霊力を使ってしまったからだ。
「じゃあ、私……」
 苦笑しながらそこまで言ったとき、タマモは九尾の狐の尻尾が5本しかないのに気付いた。ふと思って自分の髪を調べてみると、やはり6本しか無くなっている。尾が弾けるような感触と共に強大な霊力を何度か手に入れていたが、その代償がこれなのだろう。だが、すでに滅びるつもりのタマモにとっては、それすらどうでもいいことのように思えた。
 地面に膝をつき、タマモは両手を九尾の狐に添えた。そして、霊力を解放する。
「ん……」
 先ほどのヒーリングとはまた違う、身体から霊力が抜けていくような感触。端から見ているものがいれば、タマモの身体が光り輝いているのに驚いたことだろう。
 やがて、タマモは九尾の狐から手を離し、荒い息を付いてその場に手をついた。見ると、九尾の狐の尾は、再び9本に戻っていた。……タマモのそれが、2本に減るのと引き替えに。
 タマモはそのことを確認すると、立ち上がって今度こそ九尾の狐のもとから去っていった。目的地は、もうすぐだ。
 いつのまにか雨は上がり、雲間から覗く夕焼けが空を赤く染めていた。その夕焼けに向かって、タマモは一歩ずつ歩いていった。

「美神さん、どうしたらいいんでしょう……」
 タマモに逃げられ、事務所に戻ってきた美神たちは、作戦会議と称して食堂に集まっていた。
「どうしようもないわね、もうあきらめた方がいいかも」
 おキヌのつぶやきに対し、美神はきっぱりとそう言いきった。もちろん、それには理由がある。
 タマモの潔癖を証明し、九尾の狐を倒すことができれば、事件は解決するはずだった。そして、美神はそれを狙っていた。契約を交わしてしまっている以上、タマモを助けるにはそれしか手段がないからだ。
 だが、事は思い通りには進まなかった。潔癖でなければならないはずのタマモが、人間に牙を向けてしまったのだ。シロのおかげで事なきを得たが、昼間の公園では間違いなくタマモは人間を殺そうとしていた。もはや、弁解の余地はない。
「そ、そんな!」
 美神の言葉を聞き、おキヌが信じられないと言うような表情で美神を見た。
「し、仕方ないじゃない。タマモは間違いなく人間を殺そうとしていたわ。人間の敵になってしまった以上、ゴーストスイーパーである私たちには倒すことしかできないのよ。……それが九尾の狐であるなら、なおさらだわ」
 だがどんな理屈を聞いても、おキヌの気持ちは収まりそうにはなかった。
「でも、きっと何か事情があったんだと思います! タマモちゃんは……タマモちゃんは、そんなことするような子じゃありません!」
 そう言っておキヌは泣き崩れた。その言葉にシロも同意する。
「拙者もそう思う出ござるよ……。あのバカ狐、プライドは高いくせにやることはチンケなことばかりでござる。とても人間を殺せるようなやつではござらんよ……」
 まだ神通警棒のダメージが残っているシロが、ソファーに横になりながらそれだけを言った。
「美神さん、なんとかなんないんすかね」
 横島も困ったような顔で言う。だがやや遠慮がちな声になっている所から、美神の立場を一番理解しているのは、おそらく横島なのだろうということがわかる。
 すでに九尾の狐を退治するという契約書にサインしてしまっている美神としては、日本でGSを続けようとする以上、他に選択の余地はないと言うのが本当のところだった。契約を破った結果、海外へ逃げるという手もあるにはあるが、悪霊を倒して小金を稼ぐには、日本こそが最も適した場所なのだ。
 それらを踏まえた上で、最良の手段は九尾の狐を倒してタマモの潔癖を証明することだった。しかし肝心のタマモが潔癖でなくなってしまっては、もはやその手段も取りようがない。
 美神には、タマモを切り捨てて日本でGSを続けるか、契約を破ってタマモを助け、日本にいられなくなるかの二択しか残されていなかった。そしてそれは、選択のしようのない二択のはずであった。
 一年前に雑居ビルの五階に事務所をかまえた時、まだ一人の時だったならば、美神は間違いなくそうしていただろう。
 しかし、横島とおキヌが助手となり、新しい事務所に移り、そしてシロとタマモが居候となった。言葉に出して言ったことはないが、もはや美神にとっても彼らはかけがえのない仲間となっていたのだ。
 そしてその仲間に白い目で見られることが、耐えられるはずがなかった。何よりタマモがこのまま滅ぼされてしまえば、寝覚めが悪い。
「わかったわよ、まったく……」
 そう言って美神は契約書を取り出すと、皆の見ている前でそれをビリビリに引き裂いた。
「美神さん……!」
 驚いた顔をしたおキヌだったが、すぐに笑顔がこぼれた。この笑顔だけで、美神には今の行動が間違いでなかったと実感できた。
「さ、こうなったからには絶対にタマモは助けるわよ。美神令子の名にかけてねっ!」
「はいっ!」
 おキヌが美神に駆け寄った。シロも上体を起こし、床に立ち上がる。まだ若干苦しそうではあるが、動けるくらいには回復したようだ。気持ちの問題もあったのかもしれない。
「そうと決まったら準備急ぐわよ。横島クン、ありったけの装備用意して」
「は、はいっ」
 その一言を合図に、各々が準備に屋敷内を駆け回った。
 全ての準備を追え、皆が地下の駐車場に集まったのは、それから30分ほど経ってからだった。
「……あれ、行かないんすか?」
 後部座席の横島が不思議そうに言った。すでに皆車に乗り込んでいるというのに、美神が出発しようとしないからだ。
「ごめん、ちょっと忘れ物」
「美神さん……?」
 おキヌが呼び止めるのも聞かずに、美神は建物の中へと戻っていった。
 片づけられた事務所は、まるで今日の業務が始まるのを待っているようであった。だが、美神がこの事務所へ再び戻ってくる可能性が低いことを知っているのは、本人だけだ。横島は少しだけ感づいているようだが、事態がどこまで深刻なのかは判断できていないだろう。
「人工幽霊一号」
『はい、美神オーナー』
 館の主から霊力を吸い取り、それを糧として生きる人工幽霊一号との会話も、これが最後になるかもしれなかった。そう思うと、不意に感傷が美神を襲う。
 ばからしくなって、美神は上着を取ると部屋を出ようとした。だが振り返って、もう一度口を開いた。
「……私が帰ってくるまで、しっかり留守番しててね」
『もちろんです。私のオーナーはあなただけですから』
 美神は今度こそ部屋から出ると、その後は一度も振り返ることなく地下駐車場へ行き、車のキーを回した。
「美神さん、忘れ物って?」
「ううん、もういいの」
 美神の足の動きに会わせて、車は事務所の外へと滑り出していった。
 雨上がりの空は、夕焼けで赤く染まっていた。

 オカルトGメン特殊部隊から、九尾の狐を再発見した直後に再び見失ったとの報告があってから、だいぶ時間が経った。すでに時間は夜の十時を回ろうとしている。
「なんだって! それは本当か?」
 そんな切羽詰まった九尾の狐対策本部室の中で怒鳴ったのは、オカルトGメンの西条だった。その顔には、濃い疲労の色が浮かんでいる。
「……もういい!」
 なおも続く電話の向こうの声にしびれを切らし、西条は電話を置いた。すぐにまた受話器を取り、短縮ダイアルを押す。
「……もしもし、先生ですか?」
『西条クン? ……どうやら、聞いてしまったようね』
 電話の向こうの美智恵も、どうやら西条の焦っている理由を知っているようだった。
「どういうことなんですか? まさか令子ちゃんが契約を破棄するなんて……!」
『ええ、困ったことになったわね……』
 美神が契約を破棄したことは、すぐさま警察内部の知るところとなった。契約の神エンゲージがそのことを伝えてきたのだ。もっともその事実がオカルトGメンに伝わるまで、五時間以上が経過しているわけだが。
 だが困ったといいながらも、この状況は美智恵には予想できたことだった。最初に九尾の狐捕獲作戦が展開されたときも、結局美神は契約を実行してはいなかったのだから。だからといって、容認できるわけではないのだが。
「このままだと最悪、日本にはいられなくなるかもしれません……」
『いいえ、事態はもっと深刻よ』
 美智恵は言った。それは、美神ですら考えの及んでいない事態だった。
『もし令子が九尾の狐を海外に逃がしたりしたら、国際GS協会に指名手配される可能性まであるわ』
 傾国の妖怪と言われている九尾の狐をわざと他国に逃がしたりすれば、その国が黙っているはずがない。美智恵が言っているのは、そのことだ。
「そんな……! すでに、タマモ――いや、二匹の九尾の狐が、双方人間に対し牙を向けているのがはっきりしているのに、何故今更!」
 ここまで状況がそろっているのに、それをふまえた上で美神がなぜ契約を破棄したのかがまったく理解できないのだろう。西条は頭を抱えた。
『西条クン、少し落ち着きなさい』
「あ、す……すいません。でも、唐巣神父や他のゴーストスイーパーの人たちも、我々の方に着いてくれたというのに……」
 それも美神の判断が間違っていると思わせる理由の一つであった。九尾の狐に関してはICPOが捜査権を委任されたため、民間からも協力を得ようと警察に関わりの深いゴーストスイーパーには協力依頼がよせられた。当然アシュタロス事件の際に戦った唐巣やエミ、冥子たちにも要請がいき、彼らはそれを承知したのだった。
『そうね、それは西条クンの力のおかげです。感謝しているわ』
「そうではなくて……!」
 だが西条の言葉を遮るように、今度は美智恵が口を開いた。
『とにかく、私には令子が今何を考えているのかはわかりません。この上は、私たちにできることを精一杯やりましょう』
「は、はい……」
 その言葉を最後に、電話は切れた。だが、はいと返事はしたものの、西条はまだ迷っていた。
 美智恵の言葉に従うなら、できることというのは九尾の狐を二匹とも退治することだ。それも、美神が接触するよりも早く。そうしなければ、美神をかばいようが無くなってしまう。
 だが、美神はその九尾の狐を助けるために契約を破棄したのだ。もし西条が九尾の狐を退治してしまえば、それは美神を裏切ったとも言えるだろう。どちらにせよ、西条にとっては好ましくない結果だった。
「令子ちゃん……」
 すぐ目の前の電話が鳴った。無意識のうちに受話器を取る。
「はい、九尾の狐対策本部室……なんだと!」
 それは、千葉県西部で九尾の狐を発見したという知らせだった。
「よしわかった、警視総監の命令で呪場発生機を送る。僕もすぐさま行く!」
 それだけを言い捨て、西条は慌てて部屋から出ていった。
 結局何一つ結論は出ていない。だが美智恵の言うことを信じ、いまはとりあえずやれることをやろうと心に決めて。

「おキヌちゃん、どう?」
 その頃事務所を飛び出した美神たちは、再びタマモを探していた。だが昼間の時と違い、今は夜だ。視覚で物事を判断する人間には都合の悪い時間帯と言えた。
『駄目です、今15件目なんですが、やっぱり最近死んだ人なんていないそうです……。次、行きます』
 幽体離脱を活かし、おキヌは美神とは別アプローチでタマモを探しているのだが、結果は芳しくないようだった。がっかりした声がトランシーバーから聞こえる。
「早くタマモを見つけないと……」
 気ばかり焦っても見つからないのは事実だったが、それでも美神には早くタマモを見つけなければならない理由があった。
 すでにもう事務所には戻れない覚悟もしたのだが、もちろん万事うまくいくならそれにこしたことはない。そしてそうするためには、いかに人間を憎んでいようが、やはり警察より先にタマモを見つけなければならないのだ。それでも契約書を破っていなければ、警察の手によってタマモが退治されてしまえば美神は助かったのだが、そんな消極的な手段を取るつもりは美神にはもう残っていなかった。
「もう、タマモがいそうな場所に心当たりはないの?」
 タマモの目撃地点を中心にぐるぐる回っているだけでは埒があかないと感じたのか、美神が後部座席に向かって尋ねた。
「こ、心当たりっすか……シロ、お前何か知らないか?」
「タ、タマモがいそうなところでござるか? そうでござるな、……うどん屋とか」
 まったく使えない情報に美神は耳を傾けるのをやめると、まだ探していない方向へと車を走らせた。
 心当たりという点なら、まずはタマモの生まれた殺生石のある群馬という説が有力だろう。だがそこは警察の捜査によってすでにいないことが確認されている。現在でも厳戒態勢に置かれているはずなので、タマモが現れれば一発で発見されるだろう。本当は行くべきなのかも知れないが、美神はある理由を持って殺生石の可能性を捨てた。
 その可能性というのが、先ほど公園で遭遇したときにタマモが口走った、「真友くん」という名前だ。
 タマモは「真友くんを死なせた人間」と言っていた。名前からして真友というのは人間の名前のことだろう。そして昨日、事務所を飛び出す直前まではタマモは特におかしい点はなかったことから、昨日から今日にかけてその真友くんなる人物が死んだと見るのが正しいと思われる。
 だが、警視庁や病院のデータバンクをハッキングしても、昨日から今日にかけて死んだ「真友」なる人間は一人もいなかった。念のため行方不明者や捜索願が出されている人間もチェックしてみたが、結果は同様だ。比較的珍しい部類に入る名前だと思うので、見落としたと言うことはないだろう。
 今の所、その「真友くん」に関しては何一つわかってはいないのだが、タマモが「真友くん」に関連して人間を憎むようになってしまったのは間違いのないと思われる。それならば、その「真友くん」に関係した場所にいる可能性が高い。殺生石を見張るよりも、警察を出し抜くことができるはずだ。
 だが現実には、関係した場所どころか「真友くん」が何者かすらわからないのが現状であった。データバンクから関東圏に限ってリストアップした「まとも」という名字か名前の人物をおキヌがしらみつぶしに尋ねているのだが、成果は上がっていない。
 もう一つ、タマモを見つける手段として、シロの遠吠えがあった。昼間のタマモはシロの声を聞いて躊躇したように見えた。だから、シロの遠吠えにならば反応するかと思ったのだ。
「オォーーーーン……」
 だが霊力を消耗している上にこう何度も何度も遠吠えを使っていては、シロの咽も限界のようだった。そして残念ながら、タマモからの返事はない。シロの遠吠えが聞こえているのかいないのかすらもわからないので、判断のしようがないのが現状だ。
「こんな時に限って、エミも冥子も先生まで捕まらないんだから……」
 美神はいらいらしながら留守番電話ばかりの先ほどの電話を思い出した。昼間は皆手伝ってくれたのに、夜になったら誰一人として電話に出ないのだ。もちろん皆が警察側に付いて出動していることなど、美神にわかろうはずもない。
『美神さん、わかりました!』
 その時、突然トランシーバーからおキヌの声が聞こえた。
「真友くんが誰だかわかったの?」
 おキヌがわかったと言えば、そのこと以外にあり得ない。
『はい、タマモちゃんとの接点も多分わかりました。――え? きゃあああっ!』
 だが、トランシーバーからの声は、聞こえたときと同じように突然途切れてしまった。
「おキヌちゃん? どうしたの、おキヌちゃん!」
 まるで運転しているのを忘れているのではないかという反応に、横島とシロは生きた心地がしなかった。だが、美神にはそんなことは知ったことではない。
「おキヌちゃん!」
 その時おキヌは、警視庁特殊部隊のヘリコプターから攻撃を受けていた。

「きゃあああっ!」
 ヘリコプターから発射された霊波ネットのボールが、おキヌに当たったと同時に広がって幽体を縛り付ける。
 ようやく真友の手がかりを掴み、美神に連絡するのに夢中でヘリの接近に気が付かなかったのだ。
『美神令子の一味だな、美神令子が契約を破棄した以上、一味のものはこの事件が終わるまで拘束する!』
 だが拘束とは名ばかりだ。幽体のおキヌをこれだけ強い霊波ネットで縛ってしまえば、消滅してしまうのも時間の問題だろう。
「きゃあ、きゃああああっ!」
 だがそんなことはおかまいなしに、霊波ネットはおキヌを縛り付けた。さらにそのままの体勢で、ヘリコプターはおキヌを連行しようとする。
 もはや何も考えられず、指一本動かすことすらできない。おキヌはぼんやりと、自分が最後なのだと言うことを感じた。
 だが、最後は訪れなかった。気付いたときには、霊波ネットはおキヌの身体を縛り付けるのをやめていた。ヘリコプターは黒い煙を噴いて、ちょうど真下の隅田川に墜落していくところだった。
「あれ……、私……」
 思わずおキヌは自分の手を見た。強力な霊波を浴びたせいで薄くはなっているが、消えてはいない。
「大丈夫ですか・ミス・おキヌ」
「あぶないとこじゃったの、嬢ちゃん」
 空中だというのに真横から呼びかけられて、おキヌは慌てて声の方を向いた。そしてそこには、二人の見知った顔があった。
「マリア! それにカオスさんも!」
 横ではマリアが宙に浮き、片手でカオスを首根っこを掴んでいた。名前を呼ばれる順番にカオスはショックを受けているようだったが、それには気付かずおキヌはうれしさのあまりマリアに抱きついた。エミや冥子、唐巣と連絡が付かなかったことで、見捨てられたような気持ちが心の中に生まれていたのだ。
「どうして……」
 何故ここにいるのかの理由をおキヌは尋ねようとしたが、それはカオスに止められた。
「それよりも状況はどうなっとるんじゃ? 美神令子はどうした」
「いけないっ!」
 おキヌは慌ててトランシーバーを取り出したが、大量に霊波を浴びたせいか動かなくなっていた。仕方なしにカオスの方を向き、現状を説明する。
「タマモちゃんがいる場所が多分わかったんです。それを美神さんに伝えようとしたら、捕まってしまって……」
「ふむ……」
 カオスは一瞬考えた様子を見せたが、すぐに手を叩くと口を開いた。
「ようするにとりあえず美神令子の所へ行けばいいんじゃろ。なら急いだ方がいいじゃろ。マリアにつかまれ」
「は、はいっ!」
 おキヌが背中に抱きついて美神の位置を伝えたと同時に、マリアは高速で飛行を始めた。これならばすぐに美神の元へ付くはずだ。
「……あそこ!」
 地上に見覚えのある車を発見し、おキヌは指さした。すぐにマリアがスピードを緩め、必死でおキヌと連絡を取ろうとしている三人の横へと着地する。
「美神さん!」
「おキヌちゃんとマリア! それにカオスまで!」
 再び呼ばれる順番にショックを受けているカオスを置いて、おキヌは話を始めた。
「タマモちゃんのいる場所、多分ですがわかりました!」
「そこまでは聞いた、その場所は?」
 おキヌの幽体が薄くなっていることを気にしつつも、美神は言葉の続きを待った。
「東京……東京デジャヴーランドです!」
 言われて美神は東の方角を見た。ここからでは見えるはずもないが、視界の先にあるのは間違いない。
「わかったわ……行くわよ!」
「で、でも美神さん、もう一匹の九尾の狐はどうすんすか?」
 張りつめた雰囲気を、横島が止めた。美神がじろりと横島の方を向く。
「大丈夫、きっと奴もタマモの側にいるわ。……昨晩の襲撃の時、覚えていない? 奴は『俺の分身はどこだ』って言ってたのよ」
「そういえば……」
 言われて、おキヌと横島はぼんやりとそのことを思い出した。
「だから、デジャヴーランドに行けば全てが解決するって寸法なのよ!」
 そう言うと美神は、アクセルを思い切り踏み込んで車をスタートさせた。カオスをぶら下げているマリアがその横に並ぶ。
 目指す東京デジャヴーランドに、何が待っているかも知らずに……。



 昼間は雨が降っていたというのに、今は星が見えていた。昨日と同じ、満天の星空だ。
 都心からそんなに離れているわけではないのに、どうしてこんなに見えるのだろうと思う。コンクリートジャングルが不夜城とも呼ばれる理由を、タマモはまだ知らなかった。
 人の姿になっていたタマモは、一人草の上に膝を抱えて座っていた。いや、正確には一人ではなかった。
「ここにくれば、会えるような気がしてたんだ……」
 手を握ることもできない。肩を寄せ合って、体温を感じることもできない。
 それでも、彼はここにいた。真友康則の幽霊は、タマモが目指したこの場所にいた。
「私も……会えるって信じてた」
 嘘であった。だが、そんなことはどうでもいいことだ。タマモは、自らの死に場所をここと定めていたのだから。
「ここで会った日から、ずっと考えてたんだ。タマモちゃんのことを」
 タマモは横に並んで座っている真友の方を向くと、軽く首を傾げて笑顔を見せた。
「どうして?」
「どうしてって……それは……」
 顔を真っ赤にした真友を茶化すように、タマモが口を開いた。
「私もね、考えてたよ。もう一度会いたい。会って、真友くんとお話ししたいって」
「ぼ、僕もだよ……」
 そう言ってから二人は再び黙り込んだ。温かい時間がゆっくりと過ぎていくのを、タマモは感じていた。
 やがて、真友が再び口を開いた。それは悲しい内容だったが、真友は努めて明るく話をした。タマモに少しでも心配させまいと思って。
「……僕の両親、結局離婚したんだ」
「そうなんだ」
 タマモにはそれしか答えられなかった。離婚と言うのが何なのかよくわからなかったが、真友との会話からだいたいの所は掴んでいた。
「それで僕は、母さんと一緒に行くことになったんだ。母さんは宝石を売るお店の社長をしてるから、生活には困らないよって。……僕はそんなことはどうでも良かったんだけどね」
 タマモは黙って話を聞いていた。時間はもう夜の12時を過ぎていた。あたりには動くものは何もなかった。
「でもね、変な男が来て、……母さん、お店で一番高い宝石をその男にあげちゃったんだ。母さんには言わなかったけど、僕見ちゃったんだよ。それで何日かしたら、母さんだんだん変になってきちゃって……」
 様々なキーワードが、タマモの頭の中を通り過ぎた。だがそのほとんどがタマモにとっては日常的ではなく、ただ通り過ぎて行くだけだ。
「宝石って……こういうの?」
 タマモは胸元から精霊石を取り出して見せた。真友の話の中で唯一理解できた言葉だ。
「あ、うん、タマモちゃんも持ってるんだね。……でも母さんのは、もっと大きかったかな。このくらい」
 そう言って真友は握り拳を見せた。本当なら恐ろしい価値だ。
「母さんなんだかおかしくなっちゃって、結局お店もつぶれちゃって、僕に一緒に死のうって……。嫌だったけど、母さんを一人にするのも可哀相だったから……」
「そう……だったんだ……」
 タマモにはそれだけを言うのが精一杯だった。
 人間の複雑な思惑など、まだ人間界に出てきたばかりのタマモにはわかろうはずもなかった。今の真友の話だって、単に母親が子供と一緒に死んだだけとしか理解できない。
 二人は再び黙り込んだ。だが、すぐに真友が明るく口を開いた。
「で、でも、いいんだ。最後にこうやってタマモちゃんに会えたから。会って、話ができたから」
 必死に笑顔を作ろうとする真友を見て、タマモはあることを思い出した。ポケットから小