「美神さん!?」 小鳩は、叫びながら、後を追おうとしました。 でも、美神さんはすばやく自動車に乗ると、タイヤを鳴らして行ってしまいました。 小鳩はアパートの手すりを両手で握り締め、薄れていく排気ガスをぼんやり眺めて いました。 横島さんの身に何か有ったのでしょうか? 美神さんは、横島さんがアパートに居るのではないかと思っていたみたいです。 でも、朝出掛けに会った時は、いつものようにお仕事の支度をしていたのです。 一緒に居た目つきの鋭い男の人が、ちょっと気になったくらいでした。 それも横島さんが親しそうにしていたので、お仕事の仲間かと思っていたのです。 美神さんと行き違いになったのでしょうか。 いいえ、それくらいでは、ああまで慌てるはずが有りません。 もしかしたら横島さんは、美神さんに内緒で何処かへ行ったのではないでしょうか。 横島さんの話しでは、幽霊のおキヌちゃんが生き返って、遠い所で新しい生活をし ているそうですし、その上、横島さんまでいなくなったとしたら。 「小鳩、何か有ったのかい。」 部屋に入った小鳩に、母さんが声をかけました。 布団に起き上がり縫い物をしています。 「ううん、何でもないわ。それより母さん寝てなくちゃ駄目じゃないの。」 三つ編みもほどかず、制服のままの小鳩はサンダルを脱いで、部屋にあがりました。 母さんの側に行くと座りながら肩かけを直しました。 「今日は、ずいぶん気分がいいんだよ。もうすぐ起きられるようになるかねえ。」 60ワットの電球を中に入れた靴下を、小鳩は自分の手に移しました。 母さんは小鳩の靴下の繕いをしていたのです。 「こんなの自分でやるのに。」 小鳩は、靴下に目を落としながらつぶやきました。 でも、母さんがだんだんと元気になっていくのが嬉しくも有りました。 そう、横島さんと出会ってからの小鳩は、楽しいことが多くなったのです。 物心着いた時から貧乏神の「貧ちゃん」が側に居て、貧しいことが当たり前だと思 っていました。 些細なことにも前向きに、良い方にと、考えるようにしてきました。 それでも時には悲しくて、泣いたりしたこともあったのです。 それがこのアパートに引っ越して、横島さんにであってから、現実に良いことが起 こってきたのです。 貧ちゃんが、福の神になったのもそうです。 学校にもまた行けるようになりました。 それと、これを思い出すと顔が赤くなってしまうのですが、 小さい時からの夢だった、ウェディングドレスまで着たのです。 それも横島さんと、真似事とはいえ式まであげてしまったのですから。 「小鳩、何赤うなっとんのや。」 貧ちゃんが小鳩の顔を覗き込んでいいました。 「な、な、何でもないわ。」 思わず靴下で顔を覆ってしまいました。 福の神になったのに、いまだに貧乏神の衣装を大事にしている貧ちゃんは、根が貧 乏性なのかもしれません。 「隠さんでもええ。わいは何でもお見とおしや。相談ならいつでものったるでえ。」 貧ちゃんは意味ありげな含み笑いをしています。 確かに貧ちゃんは、小鳩が横島さんに抱いている気持ちに、気づいているようです。 でも、横島さんのことを相談するのはためらいがあるのです。 それは、貧ちゃんが福の神としてまだ駆け出しで、たいした力が無いからではあり ません。 たとえ母さんにでも相談できないのです。 横島さんにいったい何が有ったと言うのでしょう。 なぜそれに気づかなかったのでしょう。 もしかして、もう帰ってこなかったら・・・・・・ 母さんの寝息を聞きながら、小鳩の不安はますます強くなり、いつまでたっても寝 付かれませんでした。 横島さんが小鳩の側に居ます。 横島さんは小鳩より背が高く、並んで歩いている時にそっと目を動かしても、肩し か見えません。 それでもたまに手が触れ合ったりすると、小鳩はまるで電気に触ったみたいに手を 引っ込めるのです。 真っ赤になってうつむいてしまうのです。 横島さんは、そんな小鳩を見て、ちょっと困った顔をして、でもすぐに優しい笑顔 をしているに違い有りません。 あれは、二人でデジャブーランドに行った時のことでした。 ほかに誘う当ての無い小鳩の、無理なお願いを快く聞いてくれました。 お金が無いと何にも乗れないと解って落ち込んでいる小鳩を笑わせようと、わざと おどけて見せたりしたのです。 本当にいい人です。 横島さんがさわやかな笑顔で言いました。 「小鳩!」 「小鳩ったら!」 もうろうとした意識の中で、隣の席の星野さんが小鳩の腕を突付いているのに気づ きました。 慌てて顔を上げると、国語の金子先生がにやにやしながらこちらを見ているでは有 りませんか。 あちこちでみんなの忍び笑いも聞こえます。 「あっ!すっ、すみませんでした!」 思わず立ち上がり叫んでしまいました。弾みで椅子まで倒してしまいました。 とたんに教室中が爆笑の渦に包まれて、小鳩はますます動転してしまいました。 「あっ、あの、わ、私・・・・・・。」 真っ赤になって言いかける小鳩に先生は、手の平を振りながらおっしゃいました。 「いいから、いいから、もう座りなさい。珍しく花戸が居眠りしとるから、ちょっと からかっただけだ。 夕べも遅かったのかね? おうちも大変だろうが、体には気をつけんといかんぞ。」 小鳩は小さくハイと言って、起こした椅子にそっと座りました。 先生は誤解していらっしゃるようです。でも、それを言う訳にはいきません。 隣の星野さんがぽんと肩をたたいて、片目をつぶりました。 小鳩は、なぜか、また真っ赤になってしまいました。 5時間目の授業の間中、小鳩は先生の声が耳に入りませんでした。 掃除が終わり帰りの支度を済ませると、小鳩は教室を出て行きました。 当番の時は、いつも小鳩が最後になります。 シューズ・ロッカーから靴を出して履き替えると、外に出ました。 校庭からは、クラブのみんなの掛け声や、音楽室のブラスバンド、 コーラス部の発声練習などが聞こえます。 校舎を回り込んで正門に向かうと、星野さんがいました。 両手を後ろに回し、かばんを門柱と背中のあいだに挟んでいます。 ショートカットの頭を時々後ろにぶつけて、 まるで音楽でも聴きながらリズムを取っているように体を揺らしていました。 小鳩はためらいながら、そっと声をかけました。 「あの、星野さん。さっきはどうもありがとう。すっかりお礼も忘れてしまって。」 星野さんは小鳩の方に顔を向けると、かばんを右手で肩の後ろに担ぎ直していいま した。 「待ってたんだ。一緒に帰ろ。」 小鳩は驚きました。 転校してきてまだ日が浅いのに、小鳩を待っててくれる人がいたなんて。 小鳩は成績が良くて、先生方に贔屓にされているように見えるのを、面白く思って いない人も始めの頃はいたのです。 でも、小鳩の性格を知るにつけ、次第にみんな声をかけてくれるようになったので す。 見かけによらず面白い子。 そう言われても、小鳩には何処が面白いのかは解りませんでした。 星野さんも隣の席なので、挨拶したり、いろいろ学校のことを聞いたりしたことは 有りましたが、日ごろからおしゃべりしたりするほどでは有りませんでした。 「あたしさあ、小鳩のこと興味あんのよね。」 並んで歩き出した星野さんは、いきなりそう言いました。 小鳩より少し背が高く、少しスマートな星野さん。 小鳩は胸がずきんとしました。 「興味があるって、それどういうこと?」 「う〜ん。いろいろとね。」 そう言うと星野さんは立ち止まりました。 「あんたさあ、あの横島先輩と付き合ってるんだって?」 小鳩は言葉に詰まりました。横島さんと付き合っているだなんて、何処からそうい う噂が出たのでしょうか。 何か言おうとしたのに、言葉が出てきません。ただ、顔が真っ赤になってしまうだ けでした。 「ははあ、やっぱ、本当なんだ。」 星野さんは意地悪そうな顔で言いました。 「そ、そんなこと有りません。横島さんは隣に住んでて、 色々とお世話になっているけど付き合っているなんて・・・」 「隠さなくたっていいじゃん。みんな知ってることだしさ。」 小鳩は愕然としました。みんな知っている。 そんなに噂になっていたなんて、ああ横島さんに迷惑をかけていたなんて。 「みんなさあ、小鳩っていい根性してんなあって感心してんだよ。 よりにもよってあの横島先輩にってさ。」 小鳩は、最後の言葉が引っかかりました。 「星野さん。それどういう事?あの横島先輩にって。」 星野さんは意外そうな顔をしました。 「あれ?小鳩って横島先輩のこと、転入する前から知ってるんじゃないの?」 「それはそうだけど、そんなに前からじゃないわ。引っ越してまだそんなにならない し。」 「そっかあ、あんただまされてんだ。」 「星野さん!言っていいことと悪いことが有ります!横島さんはそんな人じゃ有りま せん!」 小鳩は思わず叫んでしまいました。 手がぶるぶると震えています。 まだ何か言おうとした時星野さんが左手を小鳩の肩に置いていいました。 「悪かった。言い方がまずかったなあ。謝るよ、このとおり。」 そう言って、ぺこりと頭を下げました。 「あんたってさあ、思い込み強いとこあるじゃない。 もしかすると、横島先輩の本当の姿知らないんじゃないの?」 小鳩は、ぎくりとしました。 そう言えば以前、美神さんにもそう言われたことが有りました。 「そうかもしれないわ。横島さんのことなんでも知っている訳じゃないもの。」 小さい声で言うと小鳩は顔を伏せました。 本当に理解していれば、昨日の朝、横島さんの異変に気づいたはずです。 「あっ、待ってよ、あたし別にあんたのこといじめてる訳じゃないのよ。」 星野さんは慌てて小鳩の顔を覗き込みました。 「泣いてないよね?」 小鳩は顔を上げました。 「うん、大丈夫。昨日から横島さんのことでちょっと心配してたから、つい。」 「何、喧嘩でもしたの?それとも何かされたの?」 とたんに好奇心旺盛に畳み掛ける星野さんに、小鳩はまた赤くなってしまいました。 でも、ふと思ったのです。この人なら相談してもいいかもしれない。 「実はね、昨日のことなんだけど・・・・・・。」 歩きながら小鳩は、昨日の美神さんのことや、横島さんのことなどを話しました。 自分でも驚くほどいろんな事を話してしまったのです。 冗談を言ったり、からかわれるかと思っていましたが、星野さんは、意外にも黙っ て聞いていました。 「ふーん。結構、真剣に悩んでんだ。それで夕べ眠れなかった訳?」 どうしてこの人は、ずばりと言ってしまうのでしょう。 小鳩は話しすぎたことを少し後悔しました。 「あの美神さんてさあ、いい女よねえ。横島先輩あの人に気があるんじゃない?」 いたずらっぽく小鳩をにらみながら続けました。 「でも、あの人が横島先輩になびくわけないもんね。あんた安心じゃない。」 小鳩はなぜか言い返しました。 「そんなこと無いわ。あの二人、とってもお似合いなんだもの。私なんかの入る隙間 も無いのよ。」 言ってしまってから慌てて口を押さえてしまいました。 星野さんはあきれていいました。 「やれやれ、あんたって本っ当に誤解してるなあ。どうしてそう思う訳? あのスケベで理性のかけらも無くて煩悩の固まりみたいな先輩に、あんないい女が なびくわけないじゃん。」 小鳩は言い返しました。 「違うわ、横島さんは決してそんな人じゃない! 優しくて、思いやりがあって、人を傷付けるより、自分が笑い者になる方を選ぶ人 よ!」 興奮した気持ちを少し落ち着けて続けました。 「第一、みんな横島さんのこといやらしいって言うけど、そんな事している所見たこ と無いもの。 そりゃ口ではそういう事も言うだろうけど、ほかの男子と一緒でしょ? それに女子のあいだだって、もっと凄い事言って喜んでる人一杯いるじゃない。」 小鳩の剣幕に押されたのか、星野さんは黙っていました。 「私が誤解しているのかも知れないけど、 でも、みんなだってもっと誤解しているのかもしれないでしょう?」 小鳩はそう言うと黙ってしまいました。 自転車に乗った子供が二人、凄い勢いですれ違っていきます。 しばらく二人は黙ったまま歩いていました。 交差点に差し掛かった時、星野さんが言いました。 「あたしこっちの方だけど小鳩は?」 星野さんは小鳩のうちとは反対の方を差していました。 「星野さん、私・・・・・・」 言いかける小鳩に、星野さんはにやっとしていいました。 「ごめんね、小鳩の本当の気持ち知りたかったんだ。 横島先輩、このごろちょっとかっこいいなあって思っていたもんだからさ。 いいかげんな奴なのよあたし。 でも、小鳩は本物だよね。頑張りなよ。」 ぽんと背中を叩いて歩道橋の方に歩いていきました。 階段の下で立ち止まると振り向いて言ったのです。 「また明日ねえ。」 思いっきり手を振ってくれました。 小鳩も手を振りながらふと思いました。 もしかすると星野さん、ずっと前から・・・・・・ 小鳩がそう思った時、星野さんが歩道橋の上から叫びました。 「ぱんつ干す時気い付けんだぞう。」 あたりを歩いていた中学生の女の子達が、肩を叩きあいながら笑いました。 もう、どうしてこうなのでしょうか。 真っ赤になりながら、でも小鳩はちょっぴり嬉しかったのです。 夕方になりました。 ささやかな夕ご飯の下拵えを終わり、小鳩は銭湯へ行こうとしていました。 「小鳩、学校でなんかあったんか?」 貧ちゃんが言いました。 そういえば帰ってからずっと、貧ちゃんが何か言いたそうにして見ていたのです。 「お前、何か辛いことでもあるのかい?」 母さんまでそう言うのです。 「やだな。辛いことなんか何にもないわ。」 そういいながらも小鳩は慌てていました。 「お前はほんまに隠し事の出来んやっちゃなあ。」 貧ちゃんがにやにやしながら言いました。 「今日はいい事があるでえ。」 小鳩は洗面器とタオルを取ると後ろも見ずに言いました。 「わ、私、銭湯に行ってくるから。」 左手に洗面器を抱え、右手でドアを開けました。 その時です。アパートの方に歩いてくる、大きな荷物を背負った人が目に入ったの です。 横島さんでした。とても疲れているのか下を向いたまま歩いているのです。 良かった、無事に帰ってきたんだわ。 嬉しいはずなのに、なぜか小鳩は急いでドアを閉めたのです。 いったいどうしたというのでしょう。 なぜこんなに胸がどきどきするのでしょう、なぜこんなに真っ赤になってしまうの でしょう。 涙まで滲んでくるのです。 こんな状態で横島さんに会える訳がありません。 泣きたくなってしまいました。 その時星野さんの顔が浮かびました。 頑張りなよ、といってくれた星野さん。 小鳩は右手を胸に当てると目をつぶり、大きく深呼吸をしました。 一回・・・二回・・・三回・・・ やがて胸の動悸が治まり、何か暖かいものが沸き上がってきたのです。 瞼を開いた小鳩の目には、もう涙は有りませんでした。 横島さんはとても疲れているようでした。 階段を登る音が聞こえてきます。 そうだ、私にも出来る事がある。 たとえ今は美神さんにかなわなくても、いつかきっと! 小鳩はドアを開けました。 鍵を開けようとしていた横島さんが振り向きます。 小鳩は笑顔で言いました。 「お帰りなさい、横島さん。」 「・・・・・・ただいま、小鳩ちゃん。」 横島さんは、さわやかな笑顔でそう言ったのです。 おわり 1996/8/9 by SINJIROy