高松君の青春
著者:山屋
「うーん」
「あ、良かった。気がついたのね」
高松が意識を取り戻すと、目の前には一人の美少女がいた。
少女は、黒い髪を背中のあたりまで長くのばし、ごく普通のセーラー服を着ている。
少女は掌を胸の前で合わせ、嬉しそうに笑いながら聞いてきた。
「私の名前は愛子。あなたは何というの?」
高松は、身体を起こしながら答えた。
「僕は高松秀作、高校は……あれ? 思い出せない」
愛子と名乗った少女は、真剣な眼差しになり、高松に言った。
「無理しない方が良いわ。ここは普通じゃないの」
「普通じゃない?」
「そう、高松君。意識を失う前のことを何か覚えている?」
「いや、そうだ。何かに飲み込まれた事だけは覚えている」
「あなたを飲み込んだのは学校妖怪の一種なのよ。ここは、その妖怪が作った一種の亜空間なの」
「亜空間だって!」
高松は跳ね起きて周囲を見渡した。
整然と並んだ木の机と椅子、ありふれた黒板と教卓、どこにでもある普通の教室だった。
高松は、髪の毛に手をやり笑いながら言った。
「愛子クンといったね。君も冗談がきついよ。ここのどこが亜空間だというのかい」
愛子は寂しげに笑って首をふった。黙ったまま窓際に歩み寄り窓枠に手をかけながら振り向いて言った。
「いい、何を見ても驚かないでね」
「あ、あぁ」
高松は気圧されたようにうなずいた。
愛子はゆっくりと窓を開いた。
窓の外には、何もなかった。
空もなかった。
地面もなかった。
雲も、太陽も、夜も、町も、人も、何一つとして存在していなかった。
形容のしようもない混沌が、窓の外に渦巻いていた。
高松は、窓に駆け寄り食い入るように外を見つめて叫んだ。
「な! 何だこれは!」
「驚かないって約束したのに」
高松は、ピシャリと音をたてて窓を閉め、その場に崩れ落ちた。
ぜーぜーと荒い息をつき、滝のような汗をかいていた。
ようやく人心地がついたとき、一つの疑問が高松の心に湧き起こった。
「愛子クン、きみは一体誰だ? こんな所で何をしている?」
「私も、1年前に妖怪に飲み込まれてしまったのよ。それ以前のことは良く覚えていないわ」
「1年も前だって。誰か他の人はいないのか」
「そう、ずっと一人っきりだったの。高松クンには悪いけど、来てくれてうれしいわ」
愛子は高松の手をとり、にっこりと微笑んだ。
こんな状況にも関わらず、高松の心臓が高鳴った。
最初は二人だけだった亜空間にも、年に一度くらいのペースで仲間が増えていった。
高松と愛子は、新しいクラスメートをとりまとめて奇妙な高校生活を続けた。
この学校しかない世界では、何も食べなくても空腹を感じなかった。
水さえ飲まずにいられた。
高松達も変化しない。
成長はもちろん、髪や爪も伸びなかった。
そうして30年の月日が過ぎていった。
高松は、不思議と焦りを感じなかった。
外の世界がどうなっているのか、誰にもわからない。
新しく入って来たクラスメート達も、飲み込まれる以前の事をよく覚えていなかった。
ある日、高松は愛子に尋ねた。
「愛子クン」
「なぁに、高松クン」
「君は、もしこの世界から帰ることが出来たらどうする」
愛子は寂しそうに笑った。
「考えた事もないわ。外の事も良く覚えていないし。なんとなくこのままでも良いかもしれないと思っているの。
高松クンはどうなの?」
聞き返されて、高松は腕を組んで考え込んだ。
何もできないとはいえ、このままでいいのだろうか?
だが、答えは出なかった。
考え込んだままふと目を上げると、愛子が微笑みながら高松を見つめていた。
その目を見ると、答えが理解できた。
高松はうなずいて答えた。
「そうだな、このままでも良いのかもしれない」
「うれしい」
高松は、胸のなかでつぶやいた。
愛子クン、君がいるから僕はこのままでも良いんだ。
だが、永遠だと思った日常も、終わりを告げる時が来た。
はじめてこの亜空間に来た教師はGSだった。
そして、そのGS=美神令子が倒した学校妖怪の正体は、愛子だった。
愛子は泣き崩れた。
「私は、机が変化した妖怪で……学校にあこがれていたんですうー。
ただ……ただちょっと青春を味わってみたくて……
ごめんなさい!! しょせん妖怪がそんなもの味わえるわけないのに……!!」
高松は、愛子が妖怪だったという事実に衝撃をうけて立ちすくんでいた。
しかし、愛子の告白を聞き、自分でも意識しないで言葉をかけていた。
「愛子クン、君は考え違いをしている」
「え?」
愛子は涙を拭いながら高松を見上げた。
高松は、ぼとぼと涙を流しながら言った。
「君が今、味わっているもの……それが青春なのさ。
青春とは、夢を追い、夢に傷つき、そして終わったとき、それが夢だったと気づくもの……
その涙が青春の証さ」
「高松クン」
「操られていたとはいえ、君との学園生活は楽しかったよ」
高松の背後では、クラスメート達が泣きながらうなずいていた。
愛子は、ふるえる声で尋ねた。
「みんな……!? みんな私を許してくれるの……!?」
高松は叫んだ。
「みんなクラスメイトじゃないか!!」
愛子は泣きじゃくった。
「ごめんなさい…!! ごめんなさい…!! 私…私…」
改心した愛子の手で元の時代に帰される間際、高松は愛子と久しぶりに二人きりになった。
「ごめんなさいね、高松クン。長い間あなたをだましていた、私を許して」
「いいさ、僕も楽しかった」
「そう言ってもらえると助かるわ」
高松は、まっすぐ愛子を見てごくりと唾を飲み込み、絞り出すような声で言った。
「あ、愛子クン」
「なぁに高松クン」
愛子は無邪気な笑顔で聞き返した。
高松は、顔を赤くして何かを言おうとしたのだが、どうしても言葉が出なかった。
愛子は不思議そうな顔で高松を見ていた。
高松は、ようやく咳をすると、手を差し出して言った。
「い、いや。なんでもない。愛子クンも元気でいてくれ」
「うん、高松クンも元気でね」
二人は握手をして別れた。
高松が目覚めると、そこは彼が通っている高校の保健室だった。
壁にかかるカレンダーには昭和43年と書いてある。
いがくり頭の教師が、高松に声をかけてきた。
「高松、気がついたか」
「先生、僕はどうしたのですか?」
「それは、こっちが聞きたい。お前は3時限目の英語の授業中に姿を消した。
そのすぐ後に校舎の裏で倒れているところ発見されて保健室に運び込まれたんだ。一体何があった?」
高松は、頭を押さえて考え込んだが、何も思い出せない。
何か大切な事を忘れているような気がした。
高松は、力無く首をふって教師に答えた。
「すいません、わからないんです。なにか長い夢でも見ていた気がするんですが、どんな夢だったのかも思い出せないんです」
教師は、高松の肩をたたき、いたわるように言った。
「まぁいい、お前は長髪のくせに勉強しすぎなんだ」
高松は、普通の高校生活に戻った。
あの行方不明事件は、しばらく級友達の話題となったが、受験勉強が始まると忘れられた。
高松は、法律家志望を変更し教師を目指した。
なぜ教師を目指す気になったのか、自分でも理由はわからなかった。
それでも彼は、首尾良く志望校に合格し、優秀な成績で卒業した。
卒業後は、真面目な勤務態度で順調に昇進し、40代である高校の校長となった。
ただ、結婚はしていない。
学生時代から、あまり女性に興味を示さない男だった。
周囲の勧めもあって見合いもしたが、どうしても心を動かされる女性には巡り会えなかったのだ。
彼が校長になった次の年、少々変わった生徒が入学してきた。
教師にあるまじき事だが、高松はその生徒の顔を見たとたん激しい嫌悪感を覚えた。
別に、不良少年と言うわけではない。
どこにでもいるスケベで貧弱な少年だった。
高松は、自分がなぜ、あの少年に対してこんなにも嫌悪感を覚えるのか見当がつかなかった。
その生徒は、2年進級と共に急に出席が悪くなった。
両親が海外に赴任し、同行を拒否して最低限の仕送りで生活するためにアルバイトに精を出しているのだという。
困ったものだと思ったが、その生徒は最低限の出席と学業成績は維持している。
学校としても、家庭の事情には干渉できない。
そして、事件が起きた。
学校妖怪がその生徒を飲み込み、生徒のアルバイト先の雇い主が妖怪を退治した。
妖怪の姿を見たとき、高松は封じられた記憶を取り戻した。
亜空間で過ごした31年間の青春と、いつもそばにいた最愛の女性の笑顔を。
今、あの頃のままの愛子が、高松の見ている前で悄然と話していた。
「すみませんでした。ほかの皆さんにも元いた時代の学校に戻っていただきました」
あの問題児、横島忠夫の雇い主だという、やたら挑発的な格好をしたGSが取りなすように言った。
「反省して心入れかえたみたいだし、このまま机として使ってやってもらえないかしら」
「……生徒にはなれなくても、せめて備品として授業を聞いていたいんですう……」
横島忠夫が、愛子の願いを遮り怒鳴った。
「冗談じゃないっすよ!! こんな机…」
高松は横島を押しのけて叫んだ。
「我々はみな、こーゆー生徒を夢見て教師になったんだー!!」
「なのに今日びは可愛げのないガキっばかり!!」
「妖怪でもかまわん!! 君は我々の生徒だー!!」
こうして愛子は、高松の生徒となった。
もちろん、高松が本当に言いたかったことは違う。
しかし、今の自分に何が言えるだろう。
愛子は高松に気づきもしなかった。
長かった髪は見事に消え失せ、やせ衰えた貧相な中年男の自分には。
高松には、愛子を見守ることしかできなかった。
そんな高松の前で、あろう事か愛子はあの横島忠夫に思いを寄せていた。
幸か不幸か、愛子の思いは実らなかったのだが。
卒業式が終わり、横島忠夫は学校を去っていった。
高松は、春休みで人気のない校舎を歩いていた。
ふと、横島忠夫のクラスだった教室の前で立ち止まる。
教室の窓際で、愛子が物憂げな表情で校庭を見下ろしていた。
高松は、しばらくそのまま愛子を見つめた。
意を決して静かに教室に入り、愛子に声をかけた。
「愛子クン」
「あ、校長先生」
愛子はにこやかに微笑んでお辞儀をした。
高松はゆっくりと窓際に歩み寄り、咳をしてたずねた。
「あー、こほん。愛子クン、君はこれからどうするつもりかね」
「これからですか」
「そうだ、君は優秀な成績で高校の学業を終えた。
1年半だったが、高校生活を共にした君の級友達もそれぞれが選んだ道へ進んでいる。
君はもう、この高校の生徒ではいられない。君にもわかっている筈だ」
「先生、私は学校妖怪なんですよ」
「だが君も私たちの生徒だ。我々教師の役割は、君たち生徒を未来へと歩ませる手助けをすることだ。
進路指導を君は拒絶したが、私たちに君の手助けを出来ることはないのかね」
愛子はうつむいて黙り込んだ。
高松は、拳を握りしめた。
「僕と一緒に来てくれ」そう言おうとした時、愛子が顔を上げて答えた。
「先生、私、本当は学校の教師になりたいんです」
「教師に?」
「私、学校が好きです。もともとが生徒達の情熱や劣等感が凝縮して生まれた妖怪です。
生徒でいられないのなら、教師、いえ、職員でもかまいません。このまま学校にいさせて下さい」
愛子は真剣な顔で、高松に訴えた。
高松は、言うべき言葉を失って呆然と愛子を見つめた。
そんな高松の様子をみて、落胆した愛子はつぶやいた。
「いえ、いいんです。やっぱり、おかしいですよね。妖怪が教師になんてなれるわけがないのに。
変な事を言ってすみませんでした」
愛子の悲しみに満ちた瞳を見たとき、高松の心に、最前の自分の言葉が突き刺さった。
−我々教師の役割は、君たち生徒を未来へと歩ませる手助けをすることだ−
高松は一瞬だけ目を閉じて唇を噛んだ。
目を開くと、穏やかな笑顔と口調で愛子に話しかけた。
「いや、そうじゃない。急に言われたから方針を検討していただけだ。
愛子クン、ちゃんと進路希望があるのなら早く言ってくれなければ困る。
とにかく君の希望はわかった。
私の恩師が学長をしている教育大学に4月から進学できるように手配しよう。君の成績ならば問題はない」
「本当ですか! 校長先生」
愛子は、輝くような笑顔で嬉しそうに言った。
高松は、本当に言いたかった言葉を飲み込んで、教師としての笑顔を浮かべてうなずき返した。
校長室に戻った高松は、恩師に電話をかけた。
実を言うと高松は、恩師が人には言えない秘密を持っているのを知っている。
問題の恩師は、『椎名百貨店』に出ている、あの校長先生だった。
表向きは高名な教育学者として知られていたあの校長は、『椎名百貨店』の後に乞われて教育大学の学長をしていたのである。
秘密の事以外にもいろいろと高松に借りのある学長は、愛子の入学を奨学金付き特待生として泣く泣く快く承諾してくれた。
長く生きていれば、青春小僧の高松にだってこれくらいの裏技は使えるのだ。
愛子が人間だったならもっと良い大学に進学できる筈だから、高松にも罪悪感はなかった。
恩師だって、愛子の人柄を知れば、本心から快く受け入れてくれるだろう。
そういう人だと知っているから、高松も安心して愛子を任せられるのだ。
まぁ、あの趣味にだけは同意できないが、女子生徒を預ける分には問題ないだろう。
教師としての努めを果たした高松は、自分でお茶をいれて自席に座った。
窓外の春景色を無言で眺め、お茶をすする。
高松は、心の中で、愛する女性に呼びかけた。
これでいいんだ。
だって、僕は教師なんだから。
高松は、田舎の母親が懸命に勧めてくれる縁談を受ける気になっていた。
今にして思えば、高松は年老いた母親に必要以上の心配をかけてしまっていた。
「青春とは、夢を追い、夢に傷つき、そして終わったとき、それが夢だったと気づくもの……
その涙が青春の証さ」
随分と青臭いことを言ったものだ。
今の自分は涙なんか流してはいないじゃないか。
高松は、長過ぎた青春がようやく終わった事を実感していた。
一抹の悲しみと、教師としての誇りと共に。