時の道化たち
第一部ゴーストスイーパー武藤玄也
舞えよ竜〜ボーイ・ミーツ・ドラゴンガール〜
歯ブラシ、自分の服、お気に入りの本、家族と友達の写真に今ではもう遊ばないけどなんとなく捨てるに捨てられなかった人形、エトセトラ、エトセトラ。要は自分の持ち物のほぼ全て、一切合財を小竜姫はかばんに詰め込んだ。
「よしっ、荷造り完了!」
不安を吹き飛ばすためにわざと大声を上げる。その時、コンコンと自分の部屋のドアをたたく音がした。
「開いてますよ」
扉を開けて出てきたのは彼女の父親だった。
「お父様……」
「小竜姫、もう荷造りは終えたのか」
「ええ。ちょうど今」
「……なあ、小竜姫。別にいやならいやで今からでも十分に間に合うんだぞ。おまえはまだ1226歳じゃないか」
「お父様……私は1225です」
「そ、そうだったけか」
父親は明らかな狼狽の色を見せた。
「うふふ……うそですよ。私はお父様の行ったとおり1226です」
「そ、そうか……まあ、それはともかくとして、まだ考え直す時間はあるぞ、小竜姫」
「いえ、お父様、私はもう決めたのです。それにここで私が駄々をこねることはできたとしてもまた全てがもとの木阿弥になってしまうではございませんか」
「………」
「お父様。このことはお父様の長年の夢だったんでしょう。そしてそれはそのまま私の夢でもあるんです。このくらいのこと……平気です。それに絶対に一生逢えないとも決まったわけでもないではないですか」
「……小竜姫、おまえには迷惑ばかりかけてしまっているな」
「お気になさらないでください。言ったでしょうあれは私の夢でもあるんですってば」
「すまない……すまない……」
突然彼女の父親は、その場にがくりとひざまずいた。
「お父様ったら人の話を聞いてます?」
小竜姫もつられる様に腰を落として、父親の背中をぽんぽんとたたいた。
「しかしなぁ、それでも……」
実際は自分より一回りも二回りも大きい父親がその時何故か自分より小さく見えた。小竜姫はそっと自分の父親の首に両腕を回した。
「大丈夫ですよお父様。小竜姫は何があってもずっとあなたの娘です。そう、たとえ……」
そこで小竜姫は一回言葉を切った。
「たとえ、私が神族になったとしても……」
夏の浜辺というのはそれこそいやになるほど人がいるものだが、冬になると状況は一変する。ましてやそれが本土から遠く離れた離島ともなるとなおさらだった。ただでさえ人口が少ない海辺には人どころか無生物の影さえほとんど見当たらない。白っぽい砂地が風でむなしくざわめいているだけだ。
ところがその日、小笠原諸島のひとつであるその島の海岸に例外的な光景が見られた。二人の男がそこにいた。一人は初老の男性でがっちりした体つきをしている。雰囲気から察するに、どうやら地元の人間らしかった。
もう一人の男はそれと対照的だった。若い男で全体的にもう一人の男に比べると華奢な輪郭をしている。もっともそのしっかりした動きから察するに、見た目ほど非力でもないようだった。背は少し低めで顔にも幼さが残っている。少し無理をすれば中学生といっても通用しそうだった。こちらはおそらく地元の人間ではないだろう。どことなく垢抜けてる感じがする。手には少し大きめの黒いドラムバックが垂れ下がっていた。
不意に初老の男のほうが首から下げていた双眼鏡を海のほうにむけて覗き込み、ピントを調節したあと、若い男に手渡した。もう一人の男はどうも、といいながら手にしていたドラムバッグを砂地に下ろし、そして覗き込んだ。
「あれが、え──と」
「嫁姑島です」
言いよどんだ若い男に初老の男性はそう補足した。
「ああ、そうでしたね。なんか名前からして近寄りたくなくなるような島ですね。特に男性には」
「まあ、問題は男どころか何であろうと、あそこに近寄れなくなったってことなんだけどな」
そんな会話を交わしたあと、若い男はドラムバッグを開けるとそこから人形のようなものを取り出した。
発見及び補足型霊体感知器。通称『見鬼くん』。
主にGSとよばれるエクソシストが使用する。高価なものなので関係のない一般人が道楽で購入するものではない。男はそれを先程双眼鏡を向けていた方向にむけた。
遠方に霊体の反応あり。
それだけ確認すると、男はおもむろに来ているジャンパーを脱いだ。ジャンパーの下にはポケットのたくさんついたベストを羽織っており、そこにドラムバックの中身の内、いくつかを選択してポケットに詰め込む。マフラーをはずし、代わりに手のひらだけを覆うぴっちりとした手袋を装着する。それから再び黒いジャンパーを羽織った。
「クサナギ」
歌うように言葉を紡ぐと、突如彼の右手首にある腕輪が光り、銀色の鈍く光る球体が姿を現した。昨晩すでに見ているので、もう一方の男は別に驚かない。
「それじゃあ、行ってきます。一応今夜には戻ってくるつもりですが──三日たっても戻ってこないようでしたら、昨日言ったとおり、警察と協会のほうに連絡をお願いします」
「承知した」
「ありがとうございます。クサナギ、飛行モードに移行」
「了解」
銀色の球体の形が崩れ、帯のようになると、それは男の下半身にまとわりついた。すると、男の体がふわりと浮き上がり、一瞬後、空に舞い上がった。
男の名前は武藤玄也。GSである。
話は数日前にさかのぼる。その日、武藤は唐巣神父に呼ばれて彼の教会を訪れていた。
ノックはせずにドアを開ける。神父は礼拝堂の中にいた。
「やあ、待ちわびていたよ。とりあえず適当に座ってくれたまえ。お茶を入れてあげたいのだが、先日ついに電気もガスも止められてしまってね……」
まあ、いつものことなんだがね、と唐巣は付け足した。顔に哀愁が表現できないほど漂っている。
「それは、まあ、そのなんというか──と、とにかく、何のようです?」
「うむ、それなんだがね……」
唐巣はきりっとした顔に戻るとだいたい次のように語った。
一週間ほど前に彼のところに依頼が来た。内容はごくありきたりなもので妖怪を退治してほしいとのことだったのだが……
「それが問題の場所というのが実は──小笠原諸島は知ってるだろう、あそこでね、しかも問題の妖怪は海の中に住んでるらしいんだ、それで……」
「それで?」
「実は…………私は泳げないんだ」
「………」
結局、唐巣は代わりにピートを行かせたのである。ちょうど週末で学校もなかったし、並のGSよりあるかに高い腕を持つ彼ならやすやすと解決できるだろう、そう判断してのことだった。おまけに彼は去年の夏にGSの資格試験にも受かっている。何ら問題は無いかと思われた。が……
「昨日連絡がきてね、彼が大怪我を負ったっていうんだよ」
幸い、命に別状はないがさりとてすぐに動けるものでもないらしい。おまけにちょうど月が新月だったので魔力が得にくく彼の再生能力も低下していた。
「で?」
武藤は先を促した。
「君に行ってもらえないかと思ってね」
「不満はありませんが、なぜです?」
「ピート君が怪我をするほどの相手ならば、それなりの人を行かせなくちゃいけないからさ。とはいえ、依頼料金がそんなに高くないから美神君は引き受けてくれないだろうし、エミ君は話し始めたとたんピート君のいる病院にすっ飛んでいってしまったし……」
「六道さんや、ドクター・カオスは?」
「冥子君は先日、連続暴走記録を更新してね、ついに免停だ。まあ、そう遠くないうちに復活すると思うがね。ドクター・カオスはそもそも免許を持ってないからね」
かくて、武藤玄也の派遣は決定した。
そして、現在。
「なるほど、ピートはこれにやられたのか」
ポツリと武藤は呟いた。彼は今、海面から7、8メートル上空で静かに真下を見下ろしていた。そこには鮫のような妖怪がいた。『ような』というのはそれらは現実の鮫たちよりも一回り大きい。歯もどちらかといえば犬歯のように長く、一列しかない。またその異常に肥大化したひれは亀の手足のようだった。今回の直接のターゲットはこの『鮫』なのだが……
「まあ、それはともかくとして……さ」
武藤は一人ごちると手を遠くにある島のほうに伸ばした。感触。本来、大気しかないはずの空間に見えない壁のようなものがある。結界だ。
「あからさまに怪しいよなぁ、これ。大体こんな大規模な結界そこら辺にいるような妖怪じゃはれないよ。神族か魔族……多分、魔族かな? 人間に被害出てるし……」
下のほうでまた『鮫』がこちらに飛び掛ろうと無駄な努力をしていた。2、3メートル跳ね上がるものの武藤に届かず水面に落ちる。
「どうしようかなあ……いったん帰ったほうがいいと思う、クサナギ」
「一つの手ではありますが……それでは事態は何も進展しないでしょう」
「でもなぁ──うん?」
最初、武藤はそれが眼の錯覚かと思った。空中、そう遠くないところに何かが浮いている。
「クサナギ、ちょっとあれに近づいてみて」
「了解」
近づいてみるとそれは現実には浮いていないことがわかった。今問題となっているこの結界に張り付くように設置されている。黒い10センチ四方の薄い直方体で真ん中には『〇〇一五』と赤く表記されている。その数字はしばらくすると『〇〇一四』という表記に変わった。そして、一三、一二……と減り続けている。
「なんだろこれ? クサナギ、わかる?」
「存じません。ですが、まあ雰囲気から察するに……」
一一、一〇、九……
「察するに?」
「爆弾とかでしょうな」
「ふーん」
八、七、六……
「………」
「………」
五、四、三……
「ぼさっとしてる場合じゃないだろ! 速く逃げないと……」
「そうですなー」
二、一、〇。閃光、轟音、熱風、衝撃。
「時間ピッタリね……」
ポツリとそういってからその人影は加速した。
十数メートルほど見事に吹っ飛ばされた後武藤は空中で静止した。
「やれやれ、危なかった……にしても一体なんだってんだろうね」
「玄也さま……」
「なに?」
「結界の霊基構造がものすごい勢いで書き換えられています」
「え、本当?」
武藤は慌ててベストのポケットから霊視ゴーグルを出して確認した。確かに結界の霊基構造が急速に書き換えられて無効化されている。
「なるほどね……さっきの装置はこのためのものだったのか……ってちょっと待って」
武藤はしばらく考え込んでから言った。
「そういう場合ってあんなに派手に爆発させる必要性があるの?」
「ありませんな」
「──ちょっと待ってよ……まず、魔族の拠点らしきものがあってそこを覆ってる結界が無効化された。でも実際にここから侵入していくものはおらず代わりに不必要なこの爆発があって……」
再び武藤は沈黙した。
「──まずい、逃げるよ!!」
「え、何故です」
「わかんないの、これは陽動なんだよ。誰か、多分これだけ大掛かりな結界を無効化できるってことは神族なんだろうけど、あの島にいる魔族たちにこっちに注意を向けさせてその間にたぶん島の反対側から入ろうっていう算段なんだ。でもこのままじゃ、そうとはわからず、単に僕が犯人だと勘違いされる!」
殺気。
「クサナギ、上昇して!!」
「了解!」
間一髪、武藤がいた空間を巨大なあざとがかすめた。それは先程の『鮫』だった。トビウオのように自分の体長の何倍もの距離を跳躍してきた……否、そうではない。『鮫』は攻撃が失敗した後も相変わらず空中にとどまり続けていた。浮いていたのだ。
「ただの人間の霊能力者、とばかり思っていたが……まさか結界が壊せるとは……な。それならば無能な妖怪であるふりをする必要もない」
「──やっぱりこうなっちゃうか。一応否定させてもらうよ」
「問答無用!!」
レーザーのような細い霊弾が数発まとめて飛んでくる。武藤は右に避けてかわした。が、すぐに頭上から鋭い牙が襲い掛かってくる。
(速い!)
それでもどうにかすれば避けられる程度の速さだった。相手の鼻先を蹴り飛ばし、その反動と重力を利用して下に落ちるように飛ぶ。だが、突如下で水しぶきが上がった。
「なっ!」
二匹目がそこにいた。あざとが、迫る。
(避けきれない!)
二の腕に激痛。距離をとって改めて見ると、そこが浅く食いちぎられていた。続いて更に三匹目、斜め下の海中から飛び出しこちらに体当たりを仕掛けてくる。激痛を無視し、武藤は腕を上げた。霊力を練る。魔法陣展開。
「其は大地、其は力、其は無謀、宿れよ巨人!」
体内の全霊力を物理的、肉体的な力に変換。武藤は三匹目の突撃をかわし、下の空間にもぐりこんだ。そして、
「おおおおおっっっ!!」
吠える。腕を突き出し現実の魚であれば内臓のある辺りを貫く。すると中から金属の細かい破片がぱらぱらと落ちてきた。
(機械!?)
その事実はとりあえず横においておき、武藤は三匹目の尻尾を掴み残りの二匹に居る方向に向かって投げつけた。敵は一瞬反応を遅らせはしたものの、難なく避けた。更にこちらに向かって霊弾を撃つ。もう一匹は突っ込んできた。
「其は神鎗、其は狂気、其は閃光、今、汝、我の力を代償にその大いなる力を再びこの世界に現出させ、我が眼前の敵を一握りの灰燼へと帰せ、轟けよ雷鳴!!」
紫電がきらめき、飛び込んできた『鮫』を一瞬で粉々にした。同時に先程投げた三匹目が遠くで海中に落ちる音がする。だが敵の打ち出した霊弾はこちらに接近していた。
(くそっ!)
左手に霊力を込め、打ち払うようにして軌道をそらす。全てはかわしきれず、すねの辺りを一発がかすめた。左手もじんじんと痛い。
「穿てよ魔弾!」
お返しとばかりに武藤は術を発動させる。霊気の細かな粒子が敵めがけて発射される。敵は避けようとするが尾ひれの辺りに何発か当たった。それでも敵はひるまずにこちらに向かう。二人は同時に霊弾を発射した。霊弾はお互いに空中で干渉しあい掻き消える。武藤の視界が一瞬、爆発に占拠される。その中心から敵が突っ込んできた。開いた口。鋭い歯。逆立ちをするように相手の上あごに手を置き足を振り上げる。そしてそのまま回転して、かかとを相手の体の中心に振り下ろした。鈍い衝撃。
(このまま地面にたたきつける!)
瞬時にその考えを編み出し咀嚼する。が……
(しまった……)
そこは海の上なので地面などはなかった。
(なら海面に……!)
ドパン! と音がして彼の急場しのぎの試みは一応成功した。が、それで敵はたいしたダメージを負ったわけではないらしい。だが、体勢を整えるためだろう、海中に潜って出てこない。武藤は自分でも警戒しすぎかな、と思う位置まで高度を上げた。
三つの影が一つの影に襲い掛かり、剣閃が三つ舞った。三つの影は分断されて六つとなり次の瞬間ゼロになる。残った一つの影は更に疾走を続けた。岩石を吹き飛ばし、木々を切断する。やがて、その行く手に影が四つ現れた。
「はああっ!」
今度は剣を一閃させただけ。衝撃は剣閃の軌跡からほとばしり影とさらにその後ろにある風景を粉々にした。影と風景の屍を両方とも踏み越えるようにして更にそれは疾走を続ける。
影の名前は小竜姫。
遠くに見える島で武藤は何かが爆発するような音を聞いた。目を向けると実際にそこは爆発していた。大木が根っこから空中に吹き飛んでいる。しばし、その光景に目を奪われてから武藤はすぐに眼下の海を見下ろした。最後の一匹が海中に入ってから十秒ほどが経過していた。
(どうする……逃げるか……?)
何者かに見つかる前ならば逃げるのが最善手だったが見つかってしまった以上はそうはいかなかった。逃げた結果として敵が追いかけてこないならば問題ないが、万が一追いかけられてくると大変なことになる。
逃げるのなら、とりあえずいったん依頼人達のいる島に戻らなくてはならないが、その際に島に襲ってこられると周りに被害を及ぼさずに戦うのはかなりつらい。
それにどちらにせよ、このあたりに巣くう妖怪──実際に魔族のようだったが──を排除するのが彼の仕事であるし、先程の戦闘から考えて、あの『鮫』はそんなに手ごわくはなさそうだった。さらに、魔族の一部は神族と交戦している(これは先ほどの爆発でほぼ決定的となった)。
考えようによってはこれはむしろチャンスだった。一体どこのどんな神族かは知らないが、利用できる以上、利用しない手はない。
不意に海面が盛り上がった。敵だ。海中からあがってくる。だがどうにも様子がおかしい。その盛り上がっている面積が明らかに大きすぎるし、それに何だか生物としてはひどく不自然な形だ。それが何を意味するのか理解するのにそんなに時間は必要なかった。実際に正体が姿を現したからである。
それは紛れもなく先程の『鮫』だった。ただし、数え切れないほどの。武藤は冷や汗をたらしながらも必死に頭を回転させ、そして結論づけた。
(クサナギ、聞こえる?)
(聞こえます)
(逃げるよ、ただし、嫁姑島に向かって)
(は?)
(行くよ!)
「はぜよ閃光!」
「なっ!」
目をつぶりながら武藤は術を発動させた。敵のうち、何匹かは目を焼かれたようだが決して全てではない。実際に逃げる武藤に対し、何匹かが追いかけてくる。追いつかれそうになって、武藤は自由落下に身を任し、高度を瞬時に下げて避けた。海面をかすめるようにして飛ぶ。霊弾が肉体の付近をかすめ、水柱が上がる。島がぐんぐん大きくなってくる。またも水柱。敵も完全に視界が復活したらしく、次々に襲い掛かってくる。速度は相手のほうが少し速い。打ち込まれる霊弾の数も増えてきた。何発かが武藤の体を直撃したが彼はその痛みを無視しして逃げた。
「クサナギ、とりあえず腕輪の中に隠れてて!!」
「了解!」
こういうときだけやたらと返答が速いと思うのは考えすぎだろうか、そう思いながら武藤は飛び込むように島の上に着陸し、その砂地の上をごろごろと転がり、着地の衝撃を完全に殺した。立ち上がってちらりと後ろを振り返るとまだしつこく追いかけてきている。しかも、その距離は大分詰まっていた。だが、
「はぜよ閃光!」
武藤はもう一度同じ術を唱えた。あれだけ高速で動いている最中に目をつぶるのは自殺行為だ。つまり、奴らは目を閉じ、体の動きも止めるか、目を焼かれるかしかない。どちらにせよその一瞬があれば武藤には十分だった。武藤は急いで砂地を駆け上がると鬱蒼とした原生林の中に身を躍らせた。
しばらくして目を開けた『鮫』のうちの一匹が心でしたうちをした。
(くそっ、逃げられたか)
自分に与えられたこの大きな体ではあの林の中で行動するのはひどく具合が悪かった。
(ヌル様……聞こえますか、ヌル様……)
もとはといえばこの拠点は彼──プロフェッサー・ヌル──の研究室だった。禿げ上がった頭とそれとは対照的に豊かな口ひげ。頭部の一部、具体的には右目の辺りには700年前より、機械が埋め込まれており、そのせいで更に『マッド・サイエンティスト』の印象を濃くしている。
彼がここに居を構えたのは1500年ほど前にアシュタロスに拾われたときからだ。ところが、この場所は複数の神族の拠点からそう遠くなく、しかも発見されにくい(実際、アシュタロスがここを自らの拠点として指定した300年ほど前からつい最近までここは神族には発見されていなかった)ということで、武闘派の魔族の拠点となっていた。
その彼の庭ともいうべきこの場所に侵入者がいる。ヌルは島内の各所に置かれている霊波感知器から温度計まで、その他もろもろの観測機から送られてくる情報を彼はつぶさに調べた。島の南部から北上してくる神族の数はごくわずか。多くても5人程度だろう。但し、高い戦闘力を保持しているのは疑いようのない事実でいくつか戦闘用のユニットを放つも、それらはことごとく撃破されていた。
だが幸いにして地下にあるこの基地の入り口を奴らはまだ発見できてないようだった。動き方が明らかにどこか一箇所を一直線に目指す動き方ではない。ヌルがそこまでの結論を下したそのときだ。
(ヌル様……聞こえますか、ヌル様……)
警備探査ユニットから通信が入った。
(何事です?)
(申し訳ありません、侵入者を一人、逃がしてしまいました)
(侵入者? ……詳しく説明しなさい)
(了解しました。例の爆発の直後にBの7区域で霊能力者と思われる人間を発見しこれを排除しようと努めました。最初は一チーム、つまり三人で事に当たったのですが、二人がやられ、私が他の警備探査ユニットに呼びかけて一気に倒そうとしたのですが、失敗しました。敵はDの6区域の森に入ったようです。知っての通りわれわれの大きな体ではあそこで動くのは面倒ですし……。姿を偽ってなければ敵は若い男です)
(わかりました。あなた達は通常任務に戻りなさい)
(承知しました)
通信は途絶えた。
ヌルは少し深めにいすに腰掛けると大きく息を吐いた。
(人間だと……?)
警備探査ユニットの戦闘力はそれほど高くない。つまり、人間であっても倒せるレベルであるということだ。そういった観点からは彼等の報告に不自然なところはなかった。問題はその人間の上陸地点である。島の北側。ちょうど島の南側から上陸した神族達の反対側だ。そして最初に起こった爆発も北側。陽動作戦というならば少々中途半端である。こういった場合ならば陽動に使う戦力は最小限でいい。爆弾を持っているのならそれ一つで十分である。わざわざ人間をそこに配置する理由がわからない。
(無関係の二組か?)
ありえない可能性ではなかったが、それだと今度はその人間が爆発の現場に居合わせたことがあまりにも不自然だった。
背後で誰かがドアを開ける音がした。
「ヌル……一体何が起こっているんだ」
ドアを開けた人物は不機嫌そうに言った。無理もない、つい一時間ほど前に久しぶりの仮眠に入ったばかりだというのだから。
「起きていたのか、メドーサ」
「あれだけ大騒ぎしてりゃね。で、何が起こってる?」
「侵入者だ。一つは人間。もう一方は神族。関連性はわからん。どんな相手かもな」
「……ここにはあたし達のほかには誰かいないのか?」
「いない。ほとんどの連中が例の『究極の魔体』をここに搬入する作業に追われて南米の方に出払っている。私達二人だけだ」
「……わかった。とりあえず、ビッグ・イーターを出そう。何かつかめるかもしれない」
一瞬後、彼女の髪の毛が使い魔へと変化。ドアから廊下に出ていった。その光景を見たあとヌルは再び操作盤のほうを向き、そして言った。
「……メドーサ、悪いが、ビッグ・イーターは呼び戻していい。たった今、侵入者の映像を手に入れた」
「本当かい」
「うそを言ってどうする」
そして二人は画面に映し出された光景に見入った。その間にメドーサの使い魔はするするとドアの隙間から張ってきて再びメドーサの髪の毛へと変化した。
「これはこれは……」
映像を見てメドーサはにやりと笑った。
「知り合いか?」
「ちょっとした……な。そいつの名は小竜姫。あたしと同じ竜族だ」
「小竜姫……あの神剣の達人が何故こんなところに?」
「……そうだね。──ああ、わかった、私が出よう。小竜姫と人間、両方片付けてくる」
「平気か?」
「小竜姫のほうは無理なら帰ってくるさ、私達二人でやればいい。とりあえず、人間のほうから始末するがな。小竜姫の目的はおおよそ読めてる。万が一、私がやられても、情報管理室の前に陣取っておけばむこうがそこにやってくる」
「情報管理室?」
「そうだ」
「……わかった。任せることにしよう」
「そうさせてくれ、竜族のことは竜族で片付けるのがわれわれの流儀だ」
そういいながらメドーサはくるりときびすを返し、部屋から出て行こうとした。
「ところで、その小竜姫の目的というのを教えてくれないか?」
ヌルがそうメドーサの背中に問いかけると、メドーサは進むのをピタリととめた後、ヌルをにらみつけながら言った。
「悪いが、これはわれわれ竜族の問題だ。立ち入らないでもらいたい」
竜──特に魔界の竜は概してプライドが高く、自立心が強い。彼らは基本的には群れない。群れたとしても決してよほどのことがない限り自分をさらけ出さない。ヌルはそういったことを思い出し、口をつぐんだ。メドーサはヌルが何も言わないのを確認したあと部屋から出て、後ろ手にドアを閉めた。
小竜姫はあせり始めていた。この島のどこかに地下に通ずる出入り口があるのはわかっている。だがその肝心の入り口が見つからないのだ。無論来る前に、何箇所かめぼしいところはチェックしていた。だがそれらはことごとく外れてしまった。
(鬼門も連れてくればよかったかしら……)
一瞬だけそう考えた後、すぐにその考えを打ち消す。今回のことは半分以上は私事だ。部下であり、鬼である彼等の力を借りるわけにはいかない。
(落ち着いて考えるのよ……)
小竜姫は大きく二回、深呼吸をした。
(さあ、どうする?)
そっと自分に問いかける。逃げるという選択肢はもとからない。理由はわからないがここにいる魔族の大半が出払っている今は絶好のチャンスだった。
(島の中をしらみつぶしに探す? それじゃああまりにも効率が悪いわ)
今更ながらヒャクメにでも相談すればよかったと後悔する。彼女なら神界からでも入り口を発見しようと思えばできていたろう。だが、今回の件に関しては小竜姫は極力他人の助けを借りたくなかった。
(でも、こんなことになるんなら頼めばよかったわ……)
ふとそこまで考えたとき、考えが閃いた。そうだ。思いついてみればそれはひどく簡単なことだった。
精神を集中させ、目のピントを霊波に合わせる。……いた。距離にして約百メートル。小竜姫は林の中を掻き分けるようにして目標に接近した。全部で三人。どれも筋骨隆々とした大男だ。
「はっ!」
瞬く間に二人を切り伏せ、残り一人の後ろに回りこむと小竜姫は剣の切っ先を男ののど元に突きつけた。
「地下への入り口を教えなさい。簡潔にね。あまり手間をかけさせないでくれる」
小竜姫は手短に用件だけを伝えた。
切り裂かれた皮膚がビデオの巻き戻しのように修復され、傷口がふさがった。
「ふう、これで一応出血は防げたけど……」
出血は防げたとしても体力や疲労は回復できない。武藤は大木の根元に体をすえ、しばし休憩を取った。先程の『鮫』は追ってくる様子がない。これは予想通りだったので、正直気分が良かった。
島の中では今のところ、全く魔族の姿は見られない。
(侵入した神族が全部やっつけちゃったのかな?)
だとすればありがたいのだが……そうそう上手くことが運ぶとも思えない。
唐突にそこに現れたのは圧倒的なプレッシャーだった。
(!?)
肺が締め付けられる。重圧で立ち上がれない。冷や汗がだらだらと流れる。震えが止まらない。破壊的なまでの不快感。
ボン、と目の前にある木が破裂した。その向こうからゆっくりと人影が現れる。
「動けないだろう」
弄ぶようにそいつは言った。徐々に姿も見えてくる。30代半ばから後半ぐらいの年で藤色の長い髪の持ち主だった。瞳は蛇のように毒々しく、竜のように猛々しい。破裂した木の上部が倒れた。
「人間のくせにちょっとおいたがすぎたねえ」
まとわりつくようなしゃべり方。手のひらに収束されていく霊気。霊弾が放たれた。
(くっ!)
渾身の力を振り絞って動き、避ける。直撃は免れたものの爆発の余波を受けて武藤は無様に地面の上を転がった。
(ほう……たいしたもんじゃないか。あたしのプレッシャーをはねのけて動くとは……)
「──っ……くぁっ」
人間はどうにかして立ち上がろうとしているようだった。メドーサはプレッシャーを与えながらゆっくりと目標に近づいた。
そう遠くないところで何かが爆発するのを小竜姫は確かに聞いた。同時に感知する覚えのある霊波。
(これは……メドーサ!)
その時、一瞬男ののどもとへと向けている剣への集中力がそれた。男はその一瞬を見逃さなかった。最小限の動きで自分の背後に立つ小竜姫の鳩尾にひじを叩き込む。
「っ!」
小竜姫は小さくうめいた。だがたいしたダメージではない。2、3歩後ろに下がると体勢を立て直す。それとほぼ同時に男も飛び掛ってきた。右のこぶしを振り上げ小柄な小竜姫に向かって打ち下ろす。小竜姫は慌てずに左のこぶしを相手のこぶしに合わせるように打ち出す。
二つのこぶしがぶつかり合い、男のこぶしが破壊された。
「ぐぁっ!」
「未熟もいいとこね。人間でさえ、あなたより強い人はたくさんいるわよ」
一閃。悲鳴を上げる暇さえない。
メドーサはゆっくりと歩を勧めた。たとえ、人間であろうと決して油断はしない。それが彼女が香港で得た教訓だった。両手のあいだに空間を作り自分の霊力をそこに注ぎ込んで具現化させる。直径15センチほどのボールが出来上がった。メドーサはそれを両手で掴むと思いっきりうえに振り上げた。
武藤が何事か叫ぶ。銀色の球体が彼の右腕から姿を現す。メドーサが両手を振り下ろす。銀色の球体が帯状になり、武藤の体に巻きつく。ボールが空間を走る。武藤が瞬時に別の座標へと移動。
地面にメドーサの霊力球が衝突し、エネルギーを撒き散らした。クサナギはその爆発の際の爆風と衝撃を受けて更に加速する。武藤はその間に仰向けになっていた体を反転させ、前方を見据えた。
(こーなったら、本州まででも逃げ切ってやる!!)
武藤は半ばやけっぱちな決意を胸に秘めてたまたま邪魔だった小枝を叩き落した。と、同時に頬を霊弾がかすめる。後ろをちらりと向くと先程の女魔族が上空から攻撃を仕掛けてきていた。
(反応が速いな……)
たいてい、魔族や神族というのは自分達の力に自信を持ってるから、不意をつかれるとパニックに陥ってしばらくのあいだ時間が稼げるのだが……。
武藤は今度は前方を見やった。大丈夫だ、しばらくのあいだ障害物は進行方向にない。それを確認すると完全に後ろを向きながら空中をすべる。霊弾が三つ飛んできた。武藤は素早くベストのポケットから破魔札をやはり三枚取り出すと、霊力を込めずに投げつけた。破魔札が霊弾にそれぞれぶち当たり爆発を三つ、立て続けに起こす。
(さあ、次はどう来る?)
もう一度ワンパターンに同じ行動をしてくることは少し考えづらかった。敵はかなり戦いなれている。武藤も敵が考えそうな攻撃パターンを予測し、それに備える。
「クサナギ、止まっていい」
そういて地面に足を下ろす。クサナギはいつもの通り、腕輪に戻った。近くにある大木を背にし、神経を集中させる。
しばし静寂。
……………………………………………
……………………………………
……………………………来た!!
右。左。正面。上空。ありとあらゆる方向から、殺意が迫る。
「大口の化け物(ビッグ・イーター)!!?」
あれだけの数を防ぐのはかなり辛い。実際、さばききる自信もない。
(なら、先手必勝!)
「永遠なる者の使者よ、全てを捕らえる絶対の鎖よ、其は終末、其は不変、其は再生、今、汝、我の力を代償にその大いなる力を再びこの世界に現出させ、我が眼前の敵を原初へと変えよ……」
武藤の右手から生まれた魔法陣が広がり彼の体を包み込むように歪曲していく。いつしかその形は平面と言うより立体になり、完全な球となる。
「歌えよ破滅!」
一瞬は何も起こらない。だがその直後空気が乱暴にそして、細かく振動する。それは全方位に向かって同心円状に広がっていき、ビッグ・イーターがそれに触れるたびに彼らは粉々になった。木々や地面さえも破壊され、力によって蹂躙される。ビッグ・イーターは完全に消えた。
「うっ!」
武藤は一歩踏み出そうとしてその場にひざをついた。
「やっぱり、無茶だったかな……」
しばらくすれば回復するだろうが、今の状態で攻撃されるとかなりやばい。右のほうで足音がした。武藤は半ば絶望的な目でそちらを見やった。
突然だった。先程まで感じていたメドーサの気配がピタリと消えた。
「どういうことかしら?」
思わず声に出してそう呟く。小竜姫は一応それなりに注意しながら森の中を進んだ。いつ襲われてもいいように剣を抜き放ち、ちらちらと周囲に視線を飛ばす。
ふっと視界の片隅で何かが動いた。瞬時にそちらに目を向け……見た。
(ビッグ・イータ−!?)
小竜姫はすぐさま、身構えた。メドーサが近くから攻撃を仕掛けてくるのか、それともあのビッグ・イーターが襲ってくるのか。
結論から言えばそれはどちらでもなかった。メドーサは現れなかったし、ビッグ・イーターは彼女を無視するように木々のあいだをすり抜けるようにして去っていった。何か手がかりが見つかるかもしれない、そんな期待を込めて彼女はビッグ・イーターを追った。
「………!」
どこかで唐突に誰かが何かを叫んだ。小竜姫はいぶかりつつも追跡を続行した。だが、
(え?)
突如彼女の平衡感覚が狂った。倒れそうになるところを踏みとどまり、その場で立ち止まる。耳鳴りもしてひどく気分が悪い。
「な、何なの……」
地面に降り立ち、辺りを見回す。すると更に大変なことが起こっていた。先程、ビッグ・イーターが向かった方向では木がほとんどない。そこだけぽっかりと空が見えている。
いつの間にか耳鳴りはやんでいた。ビッグ・イーターが向かっていった方向には小高い丘がある。小竜姫はそっとその丘の頂上まで登ると眼下の光景を見下ろした。
そこにはジャンパーを羽織った赤い髪の少女がいた。
そこにはジャンパーを羽織った人間の少年がいた。
先程と同じように後ろでドアが開いた。
「随分と速く帰ってきたではないか、メドーサ。相変わらず仕事が速い」
「茶化すな」
「悪かった。それで何で戻ってきた」
「1対1なら負けんが、2対1だとそうでもなさそうだ、ということさ」
「君なら人間など物の数ではなかろう」
「そういう考え方はもう捨てたんだ。どの道、お前が参戦すれば2対2だ。有利な状況で戦えるならそれに越したことはない。小竜姫は私がやる。お前はもう一人の人間の方をやってくれ」
「タコ使いが荒いぞ」
ヌルは反射的に機械の右目を押さえながら言った。
「文句をたれるな」
しばらくのあいだ、二人はお互いの事をきょとんと見ていた。
「──ええ……と……」
とりあえず、先に口を開いたのは武藤だった。ぺこりと軽く頭を下げながら言う。
「はじめまして」
「あ、はあ、あの……は、はじめまして」
こんな風に武藤玄也と小竜姫の出会いは少々間の抜けたものだった。