GS横島/BREAK THROUGH


 美神除霊事務所の朝は早い。
 いや、より表現に正確を期すならば、美神除霊事務所の屋根裏部屋の朝は早い、と言うべきであろう。
 二人の少女が居候として同居するそこには、夜が明けんとする前から活動している一つの影があった。
 居候の一人――犬塚シロである。
 別に血圧が高いわけでもないだろうが、彼女は早起きであった。一月のぴんと張った冷気もどこ吹く風で、今日もシロはきっかり六時には毛布をはねのけていた。
「……ちょっとバカ犬ー? アンタ早起きすぎーうるさいー」
 もう一人の居候であるタマモはまだベッドの中だ。眠そうな声でシロに文句をたれる。
「あ、起こしてしまったでござるか? すまんすまん、寝てていいでござるよ」
「もう起きちゃったわよっ。また今日も朝の散歩なのー?」
 寝ぼけ眼をこすりこすり、タマモも身を起こす。
「もちろん! 今日も先生を家まで迎えに行くんでござる♪」
 シロは言いながら窓のよろい戸を開け放った。外の空気が流れ込む。
 窓から下を見下ろすと、少しばかり霧が出ていた。湿った、しかし清々しいにおいがシロの鼻をくすぐる。
「あのバカが待ってるんでしょー。早く行ってきたら?」
 振り返ると、タマモは掛け布団を肩に引っかけてベッドの上に座っていた。まだ完全に目が覚めきっていないのだろう、声が裏返っている。
「うん、そうするでござる。じゃ、行ってくるでござる♪」
 シロは開けた窓をきちんと閉め、タマモの頭をぽんぽんと叩いてから階段を駆け下りた。
「……横島なんかのどこが気に入って引っ付いてるんだろう、あのバカ犬? ま、どうでもいいけどー」
 タマモはしかめ面で中空を睨んでいたが、すぐにまた布団を引っかぶって寝転んでしまった。


「このアパートは……いつ見てもなんとも言えん建物でござるなあ」
 シロは横島の住むアパートを見上げ、ため息とともに苦笑いを漏らした。
 ウン十年の歳月を風雨に耐えてきた、古木のような趣のある木造モルタルの二階建てである。
 これはこれで味があるとは思うが、間違っても世界屈指のゴーストスイーパーの住む家ではないだろう。
「ま、いいか。とりあえず先生を起こしてー」
 鉄作りの階段を軽やかに駆け上り、シロは横島の部屋のドアをノックする。
「先生ー? 起きてるでござるかー?」
「……シロか。開いてるから入って来い」
 ややあって、室内から返事が返ってくる。
(あれ? 起き抜けの声って感じじゃないでござるな?)
 シロが五分ほどノックを続けてやっと目覚めるのが普段の横島である。この時間にもう起きているなんてかつてなかったことだ。
 いぶかしく思いながらシロはドアノブに手をかけた。乾いたきしみ音をたてて扉が開く。
「失礼するでござる」
 シロは狭い玄関にスニーカーを脱ぎ捨て、勝手知ったるはきだめ――いや、六畳間に足を踏み入れた。
 食べ終わったラーメンのどんぶりや読みかけの雑誌などがいつものように雑然と散らかっている中、横島は一冊の本を一心不乱に読んでいた。
「先生?」
「よっ。おはよう」
 横島は本から顔を上げて言った。
「何を読んでるでござるか?」
「ん? ああ、これだ」
 横島が見せた本の表紙には、「世界神獣妖怪体系・巻之参」と書かれていた。
「せかいしんじゅうようかいたいけい? 先生、勉強してたんでござるか?」
「うん、ゴーストスイーパーにはやっぱり知識も必要だしな。今までそういうところは美神さんとかに頼ってたけど、いつまでもそれじゃ進歩がないだろう?」
 横島は照れたように笑った。
「……さ」
「?」
「さすがでござるー! 現状の自分に満足せずに常に上を目指すなんてなかなか出来ることではないでござるよッ!! 拙者ますます先生を尊敬したでござるー!」
 シロは感極まって横島に飛びつき、横島が止めるのも聞かずに顔中をぺろぺろと舐めまわしたのであった。


「それは……おかしいわね」
「うん、天変地異の前触れかもね」
 その日の夜。横島が帰った後の事務所のダイニングで、美神たち四人はテーブルに座って食後のお茶としゃれ込んでいた。
 シロが今朝の横島の話を持ち出したとたん、美神とタマモは同じような反応を示したのだった。
「そんな……横島さんもあれで結構いいところも……」
「そうでござる! 先生はいい人で真面目なんでござるよッ」
 おキヌが横島の弁護に回ったので、勢いを得てシロもたたみかける。
「いい奴かどうかは置いとくとして、じゃあおキヌちゃん、あいつが勉強熱心な性格だと思う? シロが起こしに来るより早く起きて本を読んでるような」
 しかし、タマモはあくまでも冷静に話の本質をつく。
「う……あは、あはははは……」
 笑ってごまかそうとするおキヌ。
「どう?」
「お……思わない……かな?」
「おキヌどの〜」
 あっさり唯一の味方が折れてしまい、シロは情けない声を上げる。
「大体シロは横島のことになるとひいきの引き倒しになるんだから。言うことなんか当てにならないわよ」
「うぅ〜!」
 さらにつっこみを入れられ、シロは文字通り言葉も出ない。もともと口が達者なほうではないシロは、言い返す言葉をさがすことも出来ず歯噛みするのみであった。
「……」
「? どうかしましたか、美神さん?」
 おかしいわね、と呟いてから急に押し黙ってしまった美神に、おキヌが心配そうに声をかける。
「あ、うん、大丈夫。ただちょっとね……」
「ちょっと、何です?」
 言い渋る美神をおキヌがもう一度促す。
「……横島クン、もしかしたら転職を考えてるのかも知れないと思ってさ」
「転職!?」
「マジで!?」
「そんな話が出てるんでござるか?」
 美神の科白に場が騒然となる。
「ううん、もちろん直接聞いたわけじゃないけどね。ま、まあ彼もそんなことを考えてもおかしくないんじゃない? 男の子なんだし」
「そりゃおかしくないかも知れませんけどっ……だって……美神さん、もしそうだったらどうするんです!?」
「ど、どうするも何もないじゃない。もしここを辞めたいって言うなら辞めてもらうだけよッ」
 言葉は潔いが、美神がそれを望んでいないことは、あらためて観察するまでもなく態度でありありとわかる。おキヌはもっとわかりやすくうろたえているし、タマモでさえ大きな目をさらに見開いて驚いた表情だ。
(先生……)
 もちろんシロも横島にここを辞めて欲しいと思っているわけでは決してない。が、三人ほど動揺していたわけでもなかった。
 シロの心の中には一つの確固たる決意があった。
(先生がどこに行こうと、拙者は先生に付いて行くでござる)
 それは横島の頭をその胸に抱いた時、己自身に誓った約束。
 心に深い傷を負いながら、しかし普段はそんなことをおくびにも出さずに悪霊と戦う横島。その傍にいて彼を助けることが自分の役目だ、と。
 横島の過去に何があったのか、シロは知らない。
 聞いてみたいと思ったこともあったがやめておいた。いつか横島自身が話したいと思ったときに話してくれればいいと思っている。
 シロにとっては今の横島こそが大事であり、愛する師匠であったから。


「横島クン!」
「横島さん!」
 翌朝いつものように事務所に出勤してきた横島を、美神とおキヌの二人が物凄い形相で出迎えた。
「んな、なんですか美神さん! おキヌちゃんまで! 俺今日は別になんもしてないっすよッ!?」
 横島はその剣幕に冷や汗をたらしつつ、いやいやをするように大きく両手をふった。
「いやマジっ、マジで! ふ、二人とも何怒ってるんです!?」
「お、怒ってなんかないわよッ! バカッ!」
「怒ってるじゃないですかっ。……おキヌちゃん、一体これはなんの騒ぎなんだ……って、おいおい、何で泣いてんの!? なんだこりゃ、どうなってんだ?」
 怒り狂う美神に、涙をこぼすおキヌ。
 感情的になっている二人をどうすることも出来ず、横島は途方にくれておろおろするばかりであった。
 と、そこへ屋根裏部屋からシロとタマモが降りてきた。
「おお、いいところへ来た! こりゃ一体どうなってんだ?」
 横島は助かったとばかりに二人に声をかけた。
「あ、先生でござるー♪」
 いち早く横島に気付いたシロが駆け寄って来た。タマモもその後に続く。
「……横島、この事務所辞めるの?」
 タマモが直截的な質問をぶつけた。美神とおキヌもそれにつられるように横島の方を見つめる。
 横島はそんな三人の顔を順番に見やった。最後にシロの顔を見てから大きくため息をついて、
「そうか、お前がなんか言ったんだな」
 そう言ってシロの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いえ、あの、拙者は……」
「いや、いいよ。どうせ近いうちに言おうと思ってたんだ」
 慌てて弁解しようとしたシロを制して横島は言った。
「実は、雪之丞から誘いがあったんです。あいつ独立して事務所を持つらしくって、俺にパートナーにならないかって」
「……で、なんて答えたのよ」
 まだ怒りがさめやらぬ様子の美神が横島をせかす。
「はい、とりあえずここを辞めるつもりはないんで一度は断ったんですよ。でもどうしてもっつーもんだから、じゃあこっち優先の掛け持ちでよければ、ってことになって。でもあいつも俺も全然敵の知識ないでしょ? だもんで、まあにわかじこみでもいいから詰め込めるだけ詰め込んでおこうとそういうわけで」
「え、じゃあ横島さん、ウチを辞めちゃうんじゃないんですね!」
「あ、ああ。もちろんじゃない」
「よかった……! 私、もし横島さんが辞めちゃったらどうしようって……」
 おキヌは安堵のため息をついた。
「まったく、どうせそんなことだろうと思ったわよ! ホント人騒がせなんだから」
 口は悪いが、美神の機嫌もどうやら直ったようだ。
「そんなこと言ってるわりには、一番うろたえてたのは美神さんだったような気もするけど」
「……あらタマモ。あんたそんなこと言うからには覚悟は出来てるんでしょうね? 今日は油揚げ抜きにするから」
 美神はそう高らかに宣言すると、意気揚揚とオフィスの奥へ引っ込んで行った。
「え、ちょっとそれはダメー! 油揚げ食べさせてよーっ!」
 タマモが美神の後を追う。涙を拭いたおキヌがそれを見て小さく笑った。
「あんなこと言ってますけど、ホントは美神さんすごく嬉しいんですよ。……もちろん、私も嬉しいんですけど」
「え?」
「私、戻って美神さんをなだめてきます。タマモちゃんが美神さんの照れ隠しのとばっちりを受けたらかわいそうですから」
 そう言うと、おキヌは少しほほを赤く染めて立ち去った。残されたのは事情をよく判っていない横島と、この騒動の発端を作ったシロのみである。
「じゃ、俺たちも中に入ろうぜ。寒くなっちまった」
「あ、先生」
 事務所に入ろうとした横島を呼び止める。
「何だ?」
「その……先生が向こうの仕事するときは……手伝いに行ってもいいでござるか?」
 シロはおずおずと申し出た。横島は何も言わない。ただ黙ってシロの目を見つめている。
「拙者は、先生の行くところならどこにでもついて行きたいのでござる……!」
 やはり横島は黙りこくっている。
「……ダメ、でござるか?」
「……いや、うれしいよ。よろしく頼む……!」
 横島は厳しい表情をにわかに崩し、優しいほほえみをたたえて言った。
 その笑顔は、シロに横島が自分を受け入れてくれたことをなによりも雄弁に伝えてくれていた。
 そしてシロは我知らず横島に飛びついていた。弾けるように、これ以上ないくらい華やかに微笑んで――。