『あなた……起きて、あなた…………』
誰かの声が、聞こえる。声の主がオレの体を揺すっているのがわかる。
誰だ?
『あなた……いいかげん起きてください、あなたってば…………』
うるさいな。わかったよ、起きるよ。起きればいいんだろう?
寝ぼけ眼にそんなことを口にし、オレは上半身をむくりと起こした。
しゃっと、カーテンの開く音。朝日が目に染みて眩しい。
「ほんっとに、あなたってば朝が弱いのね。ほら、しゃきっとして」
「………わかってる」
涙でにじむ視界で、オレは答えた。
「もうすぐご飯ですから、ちゃんと顔洗って下りてきてくださいよ」
言い捨てて、階下に下りていくルシオラ。
………………………………ルシオラ!?
意識は一気に覚醒した。
ルシオラ。死んだはずの彼女が、なぜ……?
…………………………………………
………………………………
……………………
……………
………
はっ。
なにを寝ぼけているんだ、オレは。
ルシオラがここにいる? 当たり前じゃないか。大戦の後、ルシオラはちゃんと生き返った。そしてオレたちは結婚したんだ、二年前に。
まったく、どうかしている。いくらルシオラが死んだ夢を見たからといって。
オレは横島忠夫。今年で21になる、もうすぐ結婚三年目の若手GS。
よし、目が覚めた。
「あなた! 早くしないと愛子さんが迎えに来てしまいますよ!?」
「と、いけね。もうそんな時間か」
オレは急いで身だしなみを整え、階段を降りた。
食卓では、ルシオラが待ちくたびれた様子で立っている。
ルシオラ、か……
「……あなた?」
「え?」
ぼうっとしていたオレに、ルシオラがいぶかしむ。
「どうしたの、ぼうっとして。調子でも悪いの?」
途端に涙目になるルシオラ。
「お医者様いきますか? ああ、人医じゃだめだわ、小竜姫様のとこじゃないと……」
…………そうだったな。
一年前、オレの中のルシオラの霊基構造が暴走して、オレは死の淵をさ迷った。
それ以来、ルシオラはオレの調子が悪いといつもこんな感じで心配する。
「今日はお仕事休みます? 愛子さんにはアタシから連絡入れときますから」
「大丈夫だよ、ルシオラ。心配するなって」
「でも……」
「まだちょっと目が覚めきってないだけさ。心配する事ないって」
笑いかけるオレに、ようやくルシオラも落ち着いたようだ。
「もう…………心配かけさせないでください」
「わりぃわりぃ。そういや、まだ言ってなかったな。
おはよう、ルシオラ」
オレの一ドルの価値もなかろう笑顔に、ルシオラの百万ドルの笑顔が返ってくる。
「おはようございます、あなた」
その笑顔をみるだけで、表現し難い幸福感に包まれる。
幸せな朝の、始まりだった。
人魔 第13幕
自分ヨリモ大切ナ
一、
今から戦いを開始しようというのに、リュックは動かない。相変わらず岩に腰掛け、広げた本に目を落としている。
「…………」
美神はなにも言わない。なにも言わないまま、神通棍を握る。
振るう。鞭の先端がリュックの頭を砕かんと荒れ狂い、
「!!」
パピリオの腕に、掴まれた。
霊波を放つパピリオ。かわす美神たち。
リュックは紅茶を飲み、本に目を通す。
もう一度、鞭を振るう。屈んでかわすパピリオ。
神楽が精神攻撃を放つ。一瞬、パピリオの動きが止まる。すぐに行動を再開するも、鏡華の触角が接続され、さらに動きが鈍る。
左を、弓が。右を、魔理が。上を、雪之丞が。
それぞれ通りすぎた。
狙いは一つ。パピリオを操っているリュック。
標的に迫る三人。ワルキューレとジークが、精霊石銃で援護射撃を行う。
リュックは動かない。紅茶を飲み、本に目を通している。
結論から言おう。
誰一人、彼に触れることはできなかった。
その攻防は、時間にして十秒にも満たなかったが。
その十にも満たない時の間に、誰一人。
12人は誰一人とて、その、紅茶を飲んで優雅に読書をしている少年に、指先一本、触れることは出来なかった。
パピリオが、守護者として立ちはだかったがために。
パピリオが、死神として彼女らを狩ったがために。
一瞬。
パピリオは、自身の霊力を爆発的に解放した。その刺激をもろにくらい、鏡華の脳がパンクする。
接続が外れ、神楽の精神波が打ち消される。
後ろに、跳ぶ。
雪之丞の頭頂に膝を入れ、弓の方向へ飛ばす。勢い、魔理に踵を食らわせ、銃弾を霊波で気化させた。
パピリオは止まらない。
魔理を掴み、美神たちへ投げつける。同時に、霊波を放った。
離脱する美神たち。
爆炎が、砂を巻き上げる。
視界が、塞ぐ。
「みんな、無事か!?」
上空に逃れたワルキューレ。他の安否を確認しようと、周囲を見渡す。
魔理をかばったゆえであろう、足をやられた弟を見つけ、
「! ジ」
砂の中から、腕が伸びた。
腕はワルキューレの顔を掴み、目に親指を入れて視界を潰した。
膝が顔面に叩きこまれる。顎へと蹴りが続く。浮かんだ顔面に、さらに踵が落とされた。
地面に叩きつけられるワルキューレ。その腹に二つの膝が落ち、無防備な喉に手刀が突き刺さる。
「あ、姉上……!?」
叫ぶ方向に、パピリオは霊波を放つ。
足は動かない。魔理は気絶している。ジークは魔理をかばった。
全霊力を防御に回し、その攻撃をなんとか耐える。
顔を上げた。姉の姿が目に入る。パピリオはいない。
背後に気配。後頭部へ衝撃が走る。
ジークの意識は途絶えた。
パピリオは止まらない。
「ちょ、ちょっと待ってよ、一体な」
展開に付いていけずにおろおろしていた神楽を潰す。
パピリオは止まらない。
「雪之丞? ちょっと、しっかりしなさいよ、雪之丞!!」
恋人の安否を気遣う弓。その背後に回り止めを刺すなど、容易すぎた。
後、一人。
パピリオは、まだ、止まらない。
煙は、まだ、晴れない。
背後に回り、拳を繰り出す。
勘だけで、それを避ける美神。
鞭を振るう。止められる。
パピリオの五指が、美神の顔を圧壊すべく伸びる。
衝撃。
予定外のベクトルに、パピリオの身体は吹き飛ばされた。
空中で体制を立て直し、着地するパピリオ。
動かない。予定外の攻撃、その正体を分析する。
「やれやれ。ワシが出張ることになろうとはのう」
煙が、晴れる。
「まあ、あれじゃ。可愛い弟子どもが死闘を演じとるのに、茶をすすっとるわけにもいくまいて」
衝撃の正体は、棍だった。
美神の神通棍ではない。もっと巨大で、もっと強力な、棍。
初めて、リュックが顔を上げた。
「びっくりした。まさか、あなたが出てくるなんて」
「意外か、小僧?」
「まさか。予測の内だよ」
現われたのは、猿神。
妙神山の主、斉天大聖であった。
二、
「なによ、今の……?」
呆然と。
離れた場所で、タマモは戦闘の一部始終を見ていた。
7人だ。わずかの一瞬、ほんの数秒の間に、パピリオは7人を仕留めていた。後一瞬猿神の参入が遅ければ、それは数を一つ増やしていただろうことは想像に難くない。
ぶるりと、震えが来る。その、惚れ惚れとする非情さと、恍惚な残虐さ。
ここ数日、雪之丞をからかって遊んでいたときとは別人だった。シロと手合わせをしていたときとは、まったく違う動きだった。
機械のように精密。人形のように冷徹。
キヌとシロは、ヒャクメの指示の元、小竜姫にヒーリングをかけている。
この戦闘を見たのは、自分一人。
悪寒。
自分では絶対に勝てないという、確信があった。
美神と、新しく出てきた猿神が二言三言を交わす。
美神が首を振り、こちらへと向かってきた。
「……みんなは?」
放っておくの? と、タマモは問うた。
「下手に動かさないほうがいいって。頭打ってる奴もいるから」
俯いて、美神は答える。
慰めをかける気には、タマモはなれなかった。そんなことに意味がないと知っているから。
「タマモ、あんたも手伝って。霊力を注入して、ヒーリングの効果を高めるの。
…………向こうは、老師に任せましょう」
静かな声で言う美神の、しかし顔は激しい。屈辱と、怒りが現われている。
「――――このままじゃ、終わらせないわ」
小さなその呟きを、タマモは聞き逃さなかった。
その言葉が、とても彼女らしく思えて、クスリと、タマモは笑った。
「了解。小竜姫を快復させれば、こっちにも勝機が見えてくるしね」
少し軽くなった心で、タマモは軽口を叩いた。
三、
「お初にお目にかかれて光栄です、斉天大聖さん。ボクはリュックと申します。以後、よろしくお見知り置きを」
優雅に。
本を閉じ、紅茶を置き、リュックは一礼してみせた。
「これはまたご丁寧に。こちらこそ、丁重におもてなしさせていただこう」
「それは楽しみです」
体を起こし、構える。
「あなたを殺したとあらば、ボクの名声も上がるというもの」
「若い頃は、痛い目を見んとわからんことも多々あるものじゃて」
棍を握る手に、力がこもる。
「それでは、参ります」
「いつでも来い」
戦いが始まった。
最速で、リュックは間合いを詰める。
眼前で巨大化する斉天大聖。
広がった間合いの、ぎりぎり外でリュックは停止した。
片腕を振るう。パピリオが動く。
斉天大聖の間合いの中、パピリオは距離を詰める。
斉天大聖は動かない。リュックも、距離を縮めた。
斉天大聖は動かない。
パピリオの間合い。拳を繰り出す。わずかな動きで避ける斉天大聖。
続く、リュックの拳。わずかな動きで、
「!!」
否、大きく跳び退き、斉天大聖は避けた。
攻撃はまだ続く。
パピリオの攻撃。わずかに避ける。
リュックの攻撃。大きくかわす。
パピリオの攻撃。わずかに避ける。
リュックの攻撃。棍で迎え撃つ。
棍はかわされ、リュックの足刀が頬を打った。
霊力差ゆえ、大きなダメージはない。
さらに攻撃は続く。
リュックの攻撃。避ける。
パピリオの攻撃。避けきれず、胸をかすった。
容赦はしない。したらやられる。
渾身の力をこめて、斉天大聖は棍を振るう。
パピリオの身体が、リュックの方向へと薙ぎ払われる。
凶弾と化したパピリオの身体を受けとめることなく、リュックは脇へ退いた。
パピリオの身体で、一瞬、視界が塞ぐ。
開けた視界の目前に、斉天大聖が迫っていた。
素手で。
なぜ? リュックは瞬間、思考した。何故、棍を持っていない?
斉天大聖が拳を振るう。わずかな動きで避けようとし、
「!!」
気付き、リュックは大きく跳んだ。
斉天大聖の手の内から伸びた棍は、リュックを捉えることはできなかった。
お互いに、距離をとる。
「……なるほど。そう言えば、あなたは人間界では、孫悟空としても慕われていましたね」
伸びた棍――如意棒――が、通常の長さへと縮んだ。
「ふむ。隠し手の一つだったがな。なるほど、鋭い反射速度じゃ」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
「じゃが、それだけではパピリオは倒せまいて。
あの娘は、そんな中途半端な技術などものともしないパワーがある。本気で死合えば、小竜姫とて超加速なしでは勝てまい。ましてや、お主のような雑魚と呼べるほどの霊力では」
「しかしボクは、現実にパピリオを倒してますよ」
「そう。すなわち、お前は半端でない技術をもっていることになる。いや、技術というより、能力かの」
「能力、ですか? そうですね、ボクは体術を極めていると自負してますから」
そこで、斉天大聖は小さく笑った。
「体術を極めた如きで勝てる相手ではない。力の差とは、そう言うものじゃ。お前の能力は、別にある」
「…………」
「お前の能力は体術ではない。
では、なにか? パピリオをも捉える傀儡術か。正解のような気もするが、何か違う気もする。
年を取るとな、そういった勘が働くんじゃ。
それがなんであるか見極めるのに、数合交えた。そして、結論を得た」
「へえ。なんです?」
「お前の能力。そうじゃな、一言で言うならば、『糸』、じゃろう?」
四、
『ここはワシにまかせろ』
斉天大聖にそう言われたとき、美神は理解しつつも、納得が出来なかった。否、納得もしていたが、認めたくなかったのだ。
こんなガキに良いようにやられたと、認めることが。
『…………わかった』
しかし、認めるしかない。でなければ、即、死に繋がることは、想像に難くなかった。
素直に敗者として、戦場を離れようとした時、斉天大聖に呼びとめられた。
『なに?』
斉天大聖は言った。協力して欲しいと。
美神は我が耳を疑った。自分の霊力など、この老人にしてみれば足手まとい以外の何物でもなかろうに。
『どういうこと?』
だから、美神はそう問うた。
『パピリオを、解放する』
自分にしか聞こえないように、斉天大聖は耳元で囁く。
『ワシが戦う。あの少年とて、ワシが相手となれば、お主らに注意を向ける余裕はなかろうて。
その隙に、お主らはパピリオが操られている原因を突きとめ、それを排除しろ』
美神は一二もなく頷いた。
自分はまだ、完全な負け犬にはなっていない。
パピリオを目覚めさせることが出来る。まだ自分の役割が残っている。
そしてなにより。
あのスカしたクソガキに、一矢報いることが出来るのだ。
だから美神は戦列を離れ、小竜姫の治療を手伝った。
キヌのヒーリング効果を自分の霊力で高めながら、目はひたすらに戦闘を追う。
(見てなさいよ。この美神令子をコケにしたことを、絶対に後悔させてやるんだから!)
クソガキの弱点を、決して見逃すまいとするように。
五、
『糸』という単語を耳にしたとき、リュックの心はびくりと震えた。
しかし、顔には終始笑みが張り付いている。
「糸、ですか」
「そう、糸じゃ」
確信気味た声色で言う斉天大聖に、リュックは正直、舌を巻いた。
「それは、どういうことですか?」
リュックの問いに、斉天大聖は応える。
「どういう原理かはわからぬが、お主は身体から、他人を操る糸を出せる。
それはほんのわずかな間の放出にすぎぬし、お主程度の霊力ではワシを操るなど、普通は出来ぬ。
が、お主は己の体術と組み合わせて、それを可能にした」
心の中で、冷や汗が流れる。まったく、大した洞察眼だ。セザールにさえ、こんなに早くは見破られなかったというのに。
「攻撃の瞬間。どうしても、意識は攻撃に傾く。防御はおろそかになってしまう。
お前はその一瞬に『糸』を接続する。しかも、すべてを乗っ取るのではなく、攻撃個所のみを操る。
結果、攻撃の軌道は甘くなり、お前の体術の前には通用しない」
リュックはなにも言わない。言うべきことがないからだ。斉天大聖の言葉は、的確に自分の能力を解説している。
「まったく。大した能力じゃよ。
やられた側は気付かんじゃろうな。気付かなければ、お前の体術を過大評価してしまう。
気付いたとしても、打つ手がない。『糸』に意識を取られれば、お前の体術を避けられなくなるし、攻撃それ自体も甘いものになってしまう。
そうすれば、後はお前の思う壺。体術にばかり目がいって『糸』に気付かない敵も、『糸』にばかり目がいって体術に屈する敵も、どちら共に中途半端に対応する敵も、もはや敵ではなかろうて。
そうして、隙あらば操る……パピリオのようにな」
リュックは微笑んだ。やっと、自分が補足できる事項が見つかった。
「確かにボクの能力はあなたの言う通りです。でも、パピリオを操ったくだりは、少し違います」
「ほう?」
「いくら体術に目を行かせたからといって、パピリオほどのものをそうそう操れはしない。力の差とは、そういうものです」
皮肉を言う。が、斉天大聖は取り合わない。
「もっとも、戦うだけならば充分だった。
ボクはじわりじわりと彼女を痛めつけ、抵抗の力を削いだ。身体も心も弱り、勝てないと思わせるまで。
そうして敗北を受け入れた心には、『糸』に抗する力はない。あなたの言った通り、操り放題なんですよ。
このように、ね!」
パピリオが走った。
一気に斉天大聖の間合いに入り、しかしパピリオはなにも防御しない。
攻撃のみに特化させた霊力を、斉天大聖に叩きつける。
リュックは動かない。パピリオの第二撃。斉天大聖が棍を振るう。
棍は、パピリオの腹部にまともにめり込んだ。
吐血するパピリオ。しかし、攻撃の手は緩まない。パピリオの拳が、斉天大聖の顔面に放たれる。
「どうです? これがボクの能力!
他者を操り、自分の手足として扱う『糸』!
これがボクの能力! 『繰り人形の糸』! マリオネット・バインド!」
リュックが動く。
パピリオを操りながら、斉天大聖に自らも攻撃し、『糸』を繋げようとする。
斉天大聖は苦戦する。パピリオの攻撃は苛烈で、しかしパピリオはできるだけ傷付けたくなく、リュックの攻撃は執拗で、しかし『糸』には触れたくない。
あまりにも、条件の悪すぎる戦いであった。
だが。
リュックは気付かない。
すでにそれが、斉天大聖の策略の内であったということに。
斉天大聖が、ご丁寧に敵の能力を解説してやった目的は、二つあった。
一つ。リュックの注意を自分に向かせるため。能力が見破られたとあらば、今まで以上に必死にならざるを得ない。
そしてもう一つ。美神に能力を知らせるため。
そして美神は、その意思を受け取った。
「シロ、タマモ、ちょっと来て」
ヒーリング中のシロタマを強引に引っ張る。
「ちょ、ちょっと美神さん!?」
「ごめん、ヒャクメ、おキヌちゃん。しばらく小竜姫をお願い。二人とも、あれを見て」
シロとタマモの顔を、戦闘に向かせる。
「ガキの腕から先。なにが見える?」
問う。リュックのカモフラージュは巧妙だった。自分では存在を感じ取れるものの、視覚としては見れてない。だが、この二人ならば――――
「糸……かな? なんか、細いものがあいつの腕から伸びてる」
「でござるな。パピリオに数本。後、猿神殿の腕に着こうと動いてるやつが数本」
予想通り、二人には見えた。
「そう。いい、よく聞いて。あんたたちの働きが、この戦いの行方を決定付けるんだからね」
美神の真剣な声に、二人は臆することなく頷いた。
六、
幾度目かの交錯。
数合交え、リュックとパピリオの蹴りが、斉天大聖を捉えた。
「ぐ……おお!」
斉天大聖は棍を振るう。
リュックは左に。パピリオは右に。それぞれ、跳んで避けた。
二人の距離が広がる。『糸』が伸びる。
またとない、チャンスだった。
突然、リュックが後方へ跳んだ。先ほどまでリュックの居た場所が、炎に包まれた。
「ち! 狐が!」
リュックにダメージを与えられるかどうかは問題ではない。リュックの注意を逸らせれば、それでよかった。
注意の逸れたその一瞬。
「おおおおおおお!」
シロの霊波刀が、渾身の力をこめて。
ザン!
リュックとパピリオを繋ぐ『糸』を、断ち切った。
「き、貴様ら……!」
言いかけ、リュックは背後の気配に気付いた。
振り返りながら、接続のため『糸』を出す。
「ぶ!?」
リュックの顔に、飛んできたヒールの踵がめり込んだ。
「この美神令子を――――」
その眼前で、美神は神通棍を振り下ろす。
「ナめんじゃないわよ!!」
霊力の鞭は、リュックの顔を薙ぎ払った。
七、
「気に食わんな」
「なにがだい?」
不機嫌に言う目の前の少年に、彼――リュックは尋ねた。
「全部だ」
不機嫌なまま、少年はシンプルに答える。
「たかだか人間の、しかも女一人を殺す依頼も気に食わんが、部下がニ鬼つくというのもそれ以上に気に食わん。
私をなんだと思っている?」
「フリーの殺し屋」
少年の愚痴に、リュックはおどけて肩をすくめた。
「君の性格からして怒るのはわかるけどさ。ボクもしがない使いっ走りなんだよね。先方に文句を言われたので内容変えました、なんてことはできないよ」
「使い走り? よく言う」
嘲笑の後、少年は冷ややかに鋭い視線を、リュックへ投げかける。
「……お前のボスは、一体何を考えている?」
「あの方の考えを推し量るなんてこと、恐れ多すぎてとてもとても。 ボクはただ、君にこの仕事を受けさせろと命令されただけ」
「受けさせろ、か」
少年の目が細められる。
「断れば?」
「気が進まないけど、まあ、力ずくってことになるかな」
「私と戦うか」
「そうなるね、不本意ながら」
組んでいた足を解き、リュックは立ちあがった。
「で、どうする? やる?」
座ったまま、少年は首を横に振った。
「まさか。そんな不毛なこと、私はせんよ」
「不毛か。確かにそうだね。人形同士が戦っても、意味がないや」
笑い、リュックは再び、古ぼけたイスに腰掛ける。
「じゃ、受けてくれるんだね、依頼?」
「そうなるな、不本意ながら」
「そう、よかった。じゃ、よろしくね」
「私は殺すと決めたら必ず殺す。信用してくれていいさ」
「信用してないわけじゃない。でも、気を付けなよ。美神令子は、世界でも1、2を争うGSなんだから」
再び、少年の顔が不機嫌にくもった。
「私が人間如きにやられるとでも?」
「そうは思わないけど。でも、万が一ということもある」
「侮辱だな。いくらお前でも、許さんぞ」
「気に障ったのなら謝るよ。悪かった。
―――さて、もう行かなきゃ。バイバイ、デミアン。部下は追って送るよ」
「期待せずに待ってるよ」
そして少年を残し、リュックは廃墟と化したゲームセンターから消え去った。
八、
ゆっくりと、まるでスローモーションのように。
パピリオは、地面に倒れ伏した。
「パピリオ!?」
即座に駆け寄り、美神は少女の体を抱き起こす。
「パピリオ! しっかりしなさい、パピリオ!」
身体を揺さぶり、呼びかける。
しばらくして、パピリオの瞼が、ゆっくりと開かれた。
「……………………美神、さん?」
「パピリオ。よかった――――」
「美神さん、逃げて!」
その声がなければ。
背後から響いてきたヒャクメの叫び声を聞いていなければ。
美神令子はそれで、命を落としていただろう。
彼女が繰り出した手刀によって。
「な! パ、パピリオ!?」
すんでのところで攻撃をかわした美神は、驚きの目で彼女を見つめ、名を叫んだ。
「ち。そういえばヒャクメがいたか。全身に100の感覚器官を持った、すべてを見渡す下っ端神族」
舌打ちをし、彼女はゆっくりと起きあがる。
「惜しかったな。もう少しで殺れたものを。
でもまあ、一瞬で殺しちゃつまらないし。そういう意味では、運がよかったのかもね」
立ちあがり、裾についた埃をはたき、
「なに鳩が豆鉄砲食らったような顔してるのさ。
ボクだよ。さっきまで戦ってたってのに、まさか忘れたわけじゃないだろう?」
そして彼女――リュックは、ニヤリと笑ってみせた。
九、
「……ピリオ。パピリオ」
身体が揺れる感触で、パピリオは眠りの底から浮かび上がった。
重い瞼をなんとか上げる。ぼやけた視界には、彼女の姉が自分を覗きこんでいた。
「こ