はっとした。
覚醒した意識は、自分が船の上にいることを認識する。
認識して、マリーは不可思議に思った。
船の上? 何故?
自分は死んだはず。兄の手によって殺されたはず。
兄の指が身体を突き、そこから急速に力が、生命が失われていく感覚を、彼女は覚えている。
今。
静寂の中、マリーは船に乗っている。
辺りを見まわす。
自分がいるのはデッキだった。備え付けのイスがいくつか。テーブルはない。
船内へと続くドアがあった。だが、その中には何もない。開いてみたわけではないが、不思議とそう思えた。
そう思う自分を、不思議には思わなかった。
船はそんなに大きくないようだ。小型の遊覧船といったものだろうか。隅々まで歩き回るのに、10分もかかるまい。
だが、マリーはデッキから動く気にはなれなかった。それが当然と思った。
船は河の流れとは逆に進んでいた。河をさかのぼっていた。
空は曇っていた。だが、隙間から光が覗いている。雨は降りそうになかった。
状態を把握したが、状況を理解できなかった。しかし、それを受け入れている自分がいた。
なにもする気にはなれなかった。
ただ、この船にのって、この河の景色を見ていたい。
そう思った。
船は河を遡る。
やがて、マリーの視界に動くものが見えた。
「!!」
その瞬間、マリーは目覚めて初めて、驚愕を感じた。
そこには、彼がいた。
人間でありながら人間を超えて、なおも人間であろうとして苦しむ、その身に魔を宿した少年。
横島忠夫。
マリーは思わず、デッキの手すりから身を乗り出した。
「横島さま!」
叫ぶ。
だが、横島は反応しない。マリーに気付かない。
横島は、イスに座り、紅茶を飲んでいた。
マリーは眉をひそめた。その光景が、なんだかとても懐かしかったから。
かすかな違和感。否、既視感。
マリーは呼びかけをやめ、動きをやめ、じっと、気付かない横島を見詰めた。
紅茶を飲んでいた横島が、マリーに目を向ける。
「あ、あの――――」
こちらに気付いたと思い、マリーは声を上げる。
『どうしたんだ、マリー?』
横島が言った。とくに優しい声ではない。優しくはないが、彼のその声はとても懐かしく、マリーの心に染み渡った。
「よ、横島さま。わたくし―――」
ふっと。
なんの前触れもなく、横島忠夫はその姿を消した。
「…………え?」
唖然とするマリー。
船は河を遡る。
わずかなときを経て、再び横島が現われた。
先程よりも、近い。いつもと違う真剣な顔。その不意打ちに、マリーはドキリとした。
横島が、自分に手を差し伸べる。
「え? あ―――」
その手を取ろうとして、マリーは手を伸ばした。
だが、横島はマリーの手を受けることなく、手をぐいと引いた。
「あ―――」
『バカ言うな!』
『きゃ!』
「………え?」
再び、唖然とするマリー。
なんだ、今のは?
今の言葉。今の口調。今の語気。
覚えが、あった。
『ほら、シャワー浴びろ。ったく。こんなにずぶ濡れになって、風邪ひいたらどうするんだ』
言う横島の手は、誰かの手を掴んでいた。誰かはわからない。ただ、その手はひどく見覚えがあり、映る真紅の袖は、これまたひどく見慣れたものだった。
「これ……は…………」
映像が、切り替わる。
驚愕の横島が映った。
『……お前、なに自棄になってんだ?』
『…………………………え?』
「これは……」
画面が変わる。
『……ったく。ちゃんと拭かないから、湯冷めしちまうんだよ』
「これは……!」
画面が、変わる。
『心配しないわけ、ないだろ』
「これは!」
理解した。
この空間。この河。この景色。その意味。その正体。
思い出す。彼と過ごした、四つの夜。彼を思った七日間。
これは……この映像は――――
「わたくしの、記憶………」
ボソリと、マリーは呟いた。
人魔 第十五幕
お母様
自分の記憶を見ながら、マリーは状況を理解し、整理していた。
自分は今、自分の記憶を見ている。河の流れは時間で、それを自分――すなわちこの船は遡っているのだ。だから、新しい記憶から古いそれへと映像が変化するのは、なるほど納得のいく理屈ではある。
映像は、ほとんどがこちらを向いたものだった。それも当然だ。これは自分の記憶で、自分が見てきた光景なのだから。向き合って会話していたのなら、向こうがこちらを見つめているのは当然のことだ。
そうやって、状況と事態を整理し、消化していく。
記憶は続く。映像は変わりつづける。
彼と過ごした最初の夜が終わった。
次に映ったのは、その前の晩だった。疲れて眠る横島のベッドにもぐりこんだ夜だ。彼の魂に付着させた霊基片を定着させるために。
くすりと、笑いがこぼれる。この翌朝は大騒動になったものだ。彼との追いかけっこは、不謹慎だが、とても楽しかった。
画面が変わった。
舞台は、六道女学院闘技場だった。そこで、自分と横島が対峙している。互いを敵として。
戦闘が開始された。自分の攻撃を、横島は防戦一方で、しかし確実に避けていた。
戦いの中、横島は笑っている。自分と戦えたことに、心底喜びを感じている顔。自分という存在がそれを与えれたことに、マリーは今更ながらに嬉しくなった。
場面は変わる。舞台は上空。月明かりに照らされた夜。眼下には、深い森が広がる。
前方の森から、ちかりと、何かが光った。
迫り来る霊波。防御壁を張り、それを四散させる。
お返しとばかりに、彼女は霊波を放つ。それは先ほど光った地点――――自分を攻撃した人物のいる場所を薙いだ。
時は遡る。場面は変わらない。舞台も変わらない。ただ、時がわずかに遡った。
『文珠で戦えばいいんですのよ』
『……誰だ?』
それは、今では思い出深い刻だった。
そう、今では忘れもしない出来事。
彼女と彼の、初めての、けれども一方的な邂逅。
横島と、初めて意思を交わした夜だった。
「……懐かしいな。二年も経ってないのに」
ぽつりと、マリーは呟く。
場面は変わる。見覚えのある顔が、目の前でかしこまっていた。
『そんな……ウソでしょう?』
震える声で、彼女は呟く。だが、目の前の顔は、彼女の部下は、苦渋の面を変えはしない。
『アシュタロス様が滅んでしまわれたなどと……そんな、バカな――――』
彼女が、自身の主の死を知った瞬間。
それは、彼女の心を、悲しみが支配した日。
船は、流れを遡る。
次に現われた映像には、地面しか映っていなかった。
だが、マリーには、それがいつのどこであるか、即座にわかった。
なぜならそれは、彼女が初めて受け入れられた瞬間だったから。
彼女がはじめて、いても良いと言われたときだったから。
彼女がはじめて、自分の存在を肯定された日だったから。
じゃり、と砂を踏む音がし、何者かの足が、視界の端に移った。
『すごいな。これをすべて、お前がやったというのか?』
その人物は、そう尋ねた。低い、よく通った声だった。
『さあ。そうかもしれませんわね』
対する自分の声は疲れ果て、覇気も生気も感じられなかった。
『自分でわからないのか?』
『時々、記憶がなくなるんです。その後は決まって、身体はひどく疲れて、あたりには血の海が広がっている』
『ふむ。制御できぬ力、か…………』
男はなにやら考え始め、しばし、会話が途絶えた。
『女。この世界が憎いか?』
しばらくして、男はそう言った。
瞬間、映像は激しくぶれた。はじかれたように、視界の持ち主――――当時のマリーが、顔を上げたのだ。
ぶれの治まった映像には、彼女の主が映っていた。
『この世界を壊したいか?』
視界が揺れる。それは頷きの返答だった。
『ならば――――』
男は、手を差し伸べた。
このとき、いかに嬉しかったか、マリーはよく覚えている。
あっちに行けと、手を振られたことはあった。来るなと追い払われたことはあった。だけど、来いと手を差し伸べられたことはなかった。
「アシュさま……」
『ならば、わたしの元に来い』
映像がぼやけた。そう言えば、このとき泣いてしまったんだっけ。マリーは懐かしそうに笑った。
喜びでも涙を流せると、このとき初めて、マリーは知った。
それは、彼女の心を、喜びが支配した日。
いつしか、画像は現われなくなった。
船は、自分に景色を見せたまま、遡る。
空は、晴れていた。
マリーは法則を理解していた。河――――すなわち時間を遡り、記憶を見る。だが、映像化される記憶は、自分にとって重要なものだけ。
横島という、自分が愛する人に関連した記憶。
アシュタロスという、自分を受け入れてくれた人の記憶。
それらは確かに、彼女にとってはとても大切なものだ。
そして、アシュタロスと出会う以前の記憶に、重要なものなど何もない。
だから、記憶は現われない。
マリーはデッキで、風に吹かれていた。
「……走馬灯、というやつかしらね」
デッキの手すりに背を預け、マリーは呟いた。
それ以外に思いつかなかった。死にかけの自分が、こんなものを見る理由としては。
「それとも、もう、死んじゃったのかしら?」
だとすれば、これは死出の旅だろう。
そのどちらであろうとも、マリーはよかった。どうでもよかった。
横島忠夫を守れなかったことに、変わりはない。
「…………………潮時、かな」
ただ、がむしゃらに生きてきた。戦いつづけてきた。
そうしなければ、自分を保てなかった。そうすることで、すべてを忘れ去ろうとしていた。
自分が産まれてきたこと。神界での生活。そして――――
「…………そして?」
マリーは眉を寄せた。
そして、なんだろう?
なにかが、マリーの心をよぎった。
なにかを忘れている。自分は、なにかを。
神族を見限り、魔界に堕ちて戦いにおぼれた。その過程で、自分は数多くのものを削ぎ落としている。
その一つとして、それまでの記憶の一部が欠落しているのも知っている。
「…………思い出せというの?」
誰かが、そう、語りかけた。思い出せと、語りかけた。自分の心に。
マリーは、虚空に視線を向けた。
一つの記憶が、現われた。
「これが?」
自分の、忘れていた記憶?
食い入るように、マリーはその画像を見つめた。
見終わってみれば、なるほど、それはとても重要な記憶だろう。
何故ならそれは、マリーがマリーとなった記憶だから。
だが、ならば何故、彼女は覚えていないのか。
それすらも、当然と思える。
忘れ去ろうとして、そして年月の元に忘れ去った記憶。自身が捨てた、忌まわしい過去。
船は、それすらも見せつける。
映像の中、羽振りのいい服を着た小太りの男は、驚愕の表情で自分を見ていた。
『初めまして』
警戒をあらわにする男に、彼女は言う。
『このような夜分に失礼いたします。わたくしの名はマリー。先日、あなたの息子たちに犯された、半神半魔の女です』
彼女は丁寧にお辞儀して見せた。
自分の名を聞いて、男は不快感をあらわにした。
なんの用だ、と聞いてきた。貴様などに構ってる暇はない。私は忙しいんだ、消えろ。そう言ってきた。
『ご心配なさらずに。用事は、すぐに済みますわ』
このとき、自分はどんな表情をしていただろうか。マリーはふと、思い出した。
ああ、そうだ。笑っていたんだ、自分は。
心の中では泣き叫び呪詛の声を放ちながら、でも心が壊れて、身体も壊れて、心と身体が乖離して。純白の修道服に身を包んで、ただただ、笑顔を保っていたんだ。
ただ、身体に別な血が流れている。それだけで迫害されつづけ、挙句の果てにその身を蹂躙された。犯され、嬲られた。
それは今までのなによりも屈辱的で、今までのなによりも絶望的だった。
それは、彼女にそのような凶行を為させるには、あまりにも充分すぎる悲劇だった。
『死んでくださいな』
そうして、彼女は男を殺した。
そのあと、しばらくして初老の男が入ってきた。館の執事だった。
彼女は、その男も殺した。
止まらなかった。
すべてを殺し、破壊した。笑いながら壊し、泣きながら殺した。叫びながら走った。
廊下にいた侍女を背中から切り裂いた。居間でカードに興じている賓客の首を刎ねた。料理を作っている給仕の腹を裂いた。枝を切っている庭師を両断した。番犬に餌をあげている調教師をミンチにした。庭で遊んでいた幼子の頭を握りつぶした。
すべて、殺した。すべて、破壊した。すべての命を嬲り、すべての魂を犯した。自分がそう、されたように。
いつしか、純白だった修道服は、返り血によって真っ赤に染まっていた。
最後の一室。無造作に、扉を破る。中には男が一人、怯え震えていた。
自分を犯した男だった。
男は腰を抜かし、後ずさり、頼む、助けてくれ、なんでもする、と悲鳴を上げ、小便を漏らした。
それを、彼女は冷たい目で見つめる。
その男の小ささが、彼女は腹立たしかった。こんな男に犯された自分を、彼女はどうしようもなく哀れに感じた。
うるさいので、舌を引っこ抜いた。
声も出なくなった男は、しかし、喉に血が詰まってすぐに絶命した。
彼女は物足りなかった。こんなに楽に死なせるつもりではなかったのに。自分の受けた絶望を教えぬままに、死なせてしまった。
だが、まあ、いい。
彼女はすぐに気を取りなおし、その館を後にした。
まだ、他にもいる。殺すべき奴らは。殺したい奴らは。自分を陵辱した屑どもは。
その日、三つの屋敷を、彼女は死と恐怖で蹂躙した。
口を押さえ、マリーはうずくまった。
気持ち悪い。吐き気がする。
男たちの男根が自分の中に残っている気がして、マリーは腹を裂きたくなった。
男たちの下卑た笑い声が聞こえる気がして、マリーは鼓膜を破りたくなった。
男たちの忌まわしい顔が見えるような気がして、マリーは眼球を潰したくなった。
忘れていたのに。せっかく、忘れられていたのに。
何故、思い出させるのか。魔界での激しい争いで、血で血を洗う戦いのなかで、いつしか追い出せた忌まわしい過去を。
何故、今になって蘇らせようというのか。
空は雲に覆われ、太陽を隠していた。
船は、遡る。
目をそらすことを、それは許さない。
シャワーを浴びていた。
彼女は一人、シャワーを浴びていた。温かい水も、彼女の心を暖めてはくれなかった。
『……う……』
涙で、視界がぼやける。
うずくまり、自分を抱きしめる。
男たちの忌まわしい顔が見える。男たちの下卑た笑い声が聞こえる。
目を閉じ、耳を塞ぐ。
けれども、変わらない。
男たちの忌まわしい顔が見えた。男たちの下卑た笑い声が聞こえた。
『うっ……うえっ…………えっく………………』
彼女は一人、泣きじゃくる。
母も父もいない彼女には、それしかなかった。
誰からも受け入れられない彼女には、すがるものがなかった。
慰めてくれるものは、癒してくれるものはいなかった。
どれだけの時間、そうしたのだろうか。
シャワールームでうずくまり、声を押し殺して泣く。
そんなことしか、彼女にはできなかった。
股間から、なにかがこぼれた。それが、男たちが自分の中に残していった精液だと知り、
『うえ……うあ……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
たまらず、彼女は悲鳴を上げた。
誰も拾ってくれない、救われない叫び。
助けを求め、手を伸ばしても、その先には、誰もいない。
ただ、シャワーの水が、ひたすらに掌を打つ。
たまらず、マリーは吐いた。
なんで忘れていたんだろう。こんなにも屈辱的なことを。
なんで思い出したんだろう。こんなにも耐え難いことを。
二つの相反した思いが、マリーの中を駆け巡る。
忘れなければよかった。思い出さなければよかった。
覚えていれば、こんな思いをせずにすんだのに。
忘れていれば、こんな思いをせずにすんだのに。
「……気持ち悪い」
デッキを自分の吐瀉物で汚し、マリーは呟いた。
風が髪を揺らす。爽やかだったそれも、今では不快感を増大させる。
いつのまにか、雨が降っていた。
激しい、激しい、雨が。
「………いや」
景色がかすれる雨の中でも、それははっきりと見えた。
「いや。やめて………」
彼女の、また別の記憶。
「やめてえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」
マリーは目を閉じ、耳を押さえ、うずくまった。
見たくなかった。そんなもの、見たくなかった。これ以上、見たくなかった。
だが、それは鮮やかに蘇る。
目を閉じても。耳を塞いでも。
それは彼女の記憶。マリーの記録。
脳裏に直接、それは映し出される。
否定することを、それは許さない。
画面の向こう。再現された記憶。
犯されていた。
雨は降る。
雨は降る。
雨は降る。
全てを洗い流そうと。
全てを覆い隠そうと。
全てを打ち消そうと。
雨は降る。何も見えないほどに。
雨は降る。何も聞こえないほどに。
雨は降る。何もかもを打ち砕くほどに。
マリーはうずくまる。マリーは泣きじゃくる。
それは、重要な記憶。大切な記憶。
マリーがマリーとなった記憶。
魔界へ堕ち、戦いに明け暮れ、荒れ狂い、そしてアシュタロスに拾われることとなった、その大元の事件。
背負って歩くには、あまりにも哀しい悲劇。
マリーは悲しみに嗚咽する。マリーは苦しみに嘔吐する。
雨は、降りつづける。
雨は降りつづける。
胎児のように丸まったマリー。嗚咽が、漏れて聞こえる。
「いや……こんなのいや……やぁ…………」
呟きは、あまりにも弱々しい。
雨は降りつづける。
マリーの身体を、雨は冷たく打ち据える。
「たすけて……アシュさま………」
助けを求め、手を伸ばしても、その先には、誰もいない。
「…………横島、さま……………………」
誰も、いない。
ただ、雨が降りつづける。
雨は降りつづける。
船は、ゆったりと、遡る。
この豪雨にも、荒れ狂う水面にも、なんら影響を受けずに。
澄ました顔で、ゆっくりと、船は遡る。
そしてまた、記憶は現われる。
「いや! もういや! もういい、知りたくない! もうやめてぇ!!」
悲鳴を上げるマリー。
だが、それは逃げることを許さない。
閉じた目に、それは映る。
塞いだ耳に、それは聞こえる。
『マリー』
暖かな、声だった。
暖かな、声だった。しかし、覚えのない声だった。それは、自分の記憶には――――意識できる記憶には、どこにもない声だった。
しかしその声は、自分の中の何よりも、自分のおぼえている何よりも、暖かだった。
閉じた目に、それは映る。
塞いだ耳に、それは聞こえる。
『マリー』
ただ、自分の名前を呼ばれるだけなのに、マリーはなぜか、安らげた。
脳裏に映るその顔は、やはり見覚えのないものだった。
だが、マリーはわかった。この人が。この人こそが。
「……おかあ……さま……………………」
この人が、自分の母親なのだと。
わかると、マリーはその女を睨んだ。その女を呪った。
「なぜ、お母様? なぜ、わたしを生んだりしたの? どうして、わたしのような子を、半神半魔の子供を産んだりしたの!?
あなたのせいで! わたしがあなたのせいで、どれだけ苦しんだと思っているの!? わたしが一番苦しかったときに傍に居てくれなくて、なにが母親よ!!」
マリーは、呪詛を続ける。
「満足? ねえ、満足? あなたが愛した人と身体を重ねて、それでわたしが生まれた。
愛の結晶とでもいうの? そんなの自己満足よ。何も考えずにわたしを生んで。こんな呪われた身体に産んで。
わたしは……わたしはずっと、否定されつづけて。誰からも認められないで。挙句に、あんな男たちに弄ばれた。魔界に身を堕として、そして血の繋がった兄に殺された。
満足ですか、お母様? あなたの娘は、こんなに悲惨な生を送りました。これで満足ですか!?」
今まで心のうちに秘めてきた想いを、マリーは母にぶちまける。誰にもいえなかった不満を、母親に。母親だからこそ。
『マリー。あのね………』
その呪詛が、届いたわけでもあるまい。
だが、母の声は、哀しそうだった。
『マリー。きっとね、あなたの人生は、とても悲しいものとなる。とても苦しいものになると、お母さんは思うの。あなたは、魔族の血を引いているから』
歯軋りした。そこまでわかっているのなら、なんでわたしなんかを産んだ!?
『あなたを産まないことも、あるいはできた』
そうすればよかったのに。
『産まれたあなたを殺すことも、あるいはできたかもしれない』
そうすればよかったのに!
『あなたのこれからを考えるとね、マリー。不安になるの。お母さん、間違ってたのかな、って』
そう、間違っていた。あなたは間違っていた。わたしなんかを産んではいけなかったんだ!
『でもね、マリー。お母さん、それでも、あなたに生まれて欲しかった』
愛の結晶だから? そんな自己満足を――――
『あなたに、この世界を見て欲しかったから』
「―――――――――――!!」
『この世界に、あなたが生まれて欲しかった。わたしの子が、産まれて欲しかった。
上はね、あなたをデタントへの橋渡しにしようとかいっているわ。神族と魔族がわかりあえる象徴だ、とか。
でもね、私はそんなことのためにあなたを産んだんじゃない。そんなくだらないことのために、あなたを望んだんじゃない。
私は、ただ、あなたに会いたかったの。ほんとに、ただ、それだけなの』
「…………………………………」
マリーは何も言わない。何も言わずに、母の語りを聞く。
『マリー』
言葉と共に、抱きしめられる感触があった。
心なしか、雨足が弱まった気がした。
『負けないで、マリー。周りに負けずに、強く生きてちょうだい。そして、笑顔を忘れないで。大きくなっても、そうやって笑っていて。ね?』
ああ〜、と、間の抜けた声が響く。赤ん坊の彼女が、母に返事をしたのだ。母の言ったことなど、欠片もわからぬだろうに。
母は笑い、もう一度、彼女を抱きしめた。
『マリー。私の、愛しい子――――』
船は、動きつづける。
「笑えるはず、ないじゃないですか……あんなことがあったのに…………」
うずくまり、マリーは呟く。
「ねえ、お母様。どうして死んだの? どうして、私の傍にいてくれないの?」
呪詛は続く。否、それは最初から、呪詛ではなかった。ただ、マリーは母親に、
気にかけて、欲しかったのだ。
「お母様なんて…………大っ嫌いなんだから」
涙声で呟くマリー。雨は弱まり、しとしとと降る。
船は、河を、遡る。
脳裏に映る画像は、光だった。
闇ではない。闇ではないが、光に満ちて、しかしそれが眩しすぎて、闇と同様に、何も見えないでいた。
おぎゃあ、おぎゃあと、甲高い声が聞こえる。
体を持ち上げられて、温かい水に包まれた。
再び、身体が持ち上げられ、どこかに寝かされる。
頬に、何か温かいものが触れた。
誰かの手が、頬を撫でる。
目が光に慣れ始め、うっすらと、その光景が浮かんできた。
彼女を撫でているのは、女性だった。憔悴しきった女性。疲れ果てた、しかし満足そうな笑顔で、女性は彼女の頬を撫でていた。
『初めまして』
女性は、目に涙を浮かべながら、心底嬉しそうに言った。
『私が、お母さんよ』
閉じた目を、開いた。
塞いだ耳を、開いた。
マリーは立ち上がる。
「お母様!」
叫んだ。
母が、にこりと笑っていた。
船は遡る。母の顔が、後方に流れていく。
「待って! お母様、待って!」
マリーは駆けた。母を追って、後部デッキまで駆け、なおも身を乗り出した。デッキを飛び越えようともしたが、何かの力が働いて、それはできなかった。
「お母様!」
たまらずに、叫ぶ。
「ごめんなさい、お母様! ウソです! あなたが嫌いだなんて、そんなの、ウソですから!」
否定されていると思っていた、自分。認められないと思っていた、生。
だけど、違った。
「お母様! わたしは! ごめんなさい、お母様、わたしは――――!!」
自分は、望まれて産まれたのだ。
自分の生は、祝福されていたのだ。
自分の誕生は、喜びで迎えられていたのだ!
「わたしは、あなたを恨んで――――あなたを、憎んで…………お母、様……」
母の笑顔は、もはや見えなくなっていた。
「あなたの言いつけも、守れなくて………………
ごめんなさい、お母様。マリーは、悪い娘です…………」
船は、遡る。
マリーは泣いた。嬉しさと悲しさで泣いた。
母の愛を知った嬉しさに。それを忘れていた悲しさに。
マリーはひたすらに、涙を流していた。
船はゆっくりと遡る。
いつしか、空は晴れていた。今までにないほどに、空は光り輝いていた。
船は、ゆっくりと、遡る。
止まらない船はない。
遡りつづけた船も、やがては止まる。
たどり着いた、河の麓。
小さな港が、そこにはあった。
船は止まる。
躊躇うことなく、マリーは船を降りた。
港を、出口へ向かい歩き始める。
背後の船は、消えてなくなっていた。
出口が近付いてくる。
出口は、門だった。こんな小さな港には不釣合いなほどに巨大な門。微に入り細に砕き、装飾を施してある門。
マリーは、歩みを止める。
門の脇には、二つの人影があった。
人影は、マリーだった。
純白の修道服に身を包んだマリーと、漆黒の修道服に身を包んだマリーが、真紅の修道服に身を包んだマリーと向かい合うようにして、立っていた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「ここが、あなたの旅の終点です」
純白のマリーが言葉を紡ぎ、漆黒のマリーがそれを継ぐ。
「これは、あなたたちの仕業だったのかしら?」
真紅のマリーが尋ねた。
「その質問は、意味を為しません」
「わたしたちもまた、あなた自身なのだから」
「そう」
風が、吹く。暖かな風だった。母の匂いがした。
「なぜ、わたしはこんなことを?」
「思い出して欲しかったから。あなたに、すべてを。嬉しいことも、悲しいことも」
「楽しいことも、苦しいことも。すべてを、思い出して欲しかった」
「どうして、そんなことをするの?」
真紅のマリーは、思っていた最大の疑問を口にした。
「私は、もう、死んでいるのでしょう?」
純白と漆黒のマリーは、無表情のまま、首を横に振った。
「あなたは死んでいない」
「あなたは生きている」
「……どういうことなの?」
「あなたは一度、確かに死んだ」
「霊的中枢が、完全に刺し貫かれた」
「でも、あなたは生き返る」
「チャクラの傷は、再生されたから」
すっと。
純白と漆黒のマリーは、真紅のマリーに手をさし伸ばした。
「選んでください」
純白のマリーが言った。
「……なんですって?」
真紅のマリーが問う。
「一度霊基構造を破壊され、再生された。だから、あなたは選択できる」
「あなたの歩む道を。あなたの生を。一度死に、そして生き返ったあなたは選択できる。だから」
「すべてを思い出したあなたならば、選択できる」
「それがどのような結果をもたらそうとも、あなたがすべてを思い出したならば」
「あなたには、その機会と資格がある。だから」
「さあ、選んでください」
純白と漆黒のマリーは言う。
「白のわたしか」
「黒のわたしか」
「光のわたしか」
「闇のわたしか」
「神たるわたしか」
「魔たるわたしか」
「「さあ、選んでください」」
マリーは動かなかった。それきり。ピクリとも。
純白のマリーも、漆黒のマリーも、真紅のマリーも。
見詰め合い、互い、微動だにしなかった。
「……どちらかを選べば、どうなるの?」
「選ばれたほうを元に、霊基構造が再生されます」
「選ばれなかったほうは?」
「消滅します」
「そう」
再び、沈黙と静寂。静謐な無動。彫像のように、三人は動かない。
やがて。
クスリと、真紅のマリーが笑った。
「あなた方に、お礼を言わねばなりません」
天を、仰ぐ。
「わたし、お母様に会いました」
天を見つめ、真紅のマリーは言う。
「お母様は、とても美人で、とても優しく、とても――――暖かかった」
視線を、二人に戻す。
「あなたたちのおかげです。ありがとう」
「わたしたちは何もしていません」
「あれは、ただの記憶です」
「でも、わたしが忘れていたことを、思い出させてくれた。一番大切なことを、思い出させてくれた」
マリーは、二人を見つめた。純白と、漆黒の自分。無表情を装い、無感動を装い、けれども自身の消滅に恐怖し、指先がかすかに震えている自分たち。
「お母様は、おっしゃったわ。『負けないで』と。『笑っていて』と。神族のお母様は、そうおっしゃった」
漆黒のマリーの手が、ビクリと震えた。神族という言葉に反応して。
優しく、マリーは笑う。
「だから、わたしの答えは、一つです」
マリーは動いた。
手を伸ばす。
差し出された、二つの手。神族と、魔族。
「「……え…………?」」
二人のマリーは、そんな声を発した。
マリーは、二人の手を取らなかった。
手を取らず、二人の肩に手を回し、きつく、抱きしめた。
「……どういうことですか?」
驚きからさめ、漆黒のマリーが問う。
「これが、答えよ」
真紅のマリーは、静かに答えた。
「どちらかを選べと、言ったはずですよ」
純白のマリーが言う。
「わたしは、どちらも選ばない。いえ、両方を選びます。だって、どちらも、大切なわたしだもの。
わたしは半神半魔。そのどちらかを否定することは、今までのわたしを否定することになる。
お母様の気持ちを、否定することになる」
「わかっているのですか? それは、つまり」
「今までと同じ、虐げられる生を送るということですよ?」
「だからって、わたしがわたしを否定することなどできない。そうすれば、わたしはわたしでなくなるもの。それに――――」
「「それに?」」
「あの人は、わたしを受け入れてくれたわ」
あの人。
それはアシュタロス。闇に閉ざされた自分の生に、光をもたらした存在。
あの人。
それは横島忠夫。孤独だった自分に愛を教え、安らぎを与えた存在。
「あの人が受け入れてくれたわたしを、わたしも好きになりたいの。だから、どちらかなんて、選びません」
それで、マリーの言うべきことは終わった。
……静かだった。ただひたすらに、静寂で、静謐で、静閑で、静穏だった。
誰も、何も言わない。誰も、何も動かない。ただただ、時間だけが過ぎ去っていく。
その静の中、純白と漆黒のマリーは、真紅のマリーを抱きしめ返した。
「「…………ありがとう」」
二人のマリーが、マリーの胸の中で呟く。涙に滲んだ声音で。
「「…………嬉しいです」」
三人は、互いの存在を確かめ合うように抱き合い、長い間、動かなかった。
港には不釣合いな、壮麗な門。
その前に立つ、真紅のマリー。後ろには、純白と漆黒の彼女自身が控えている。
「この門を開ければ、現実に還れるのね?」
「はい。その門が、外と内との境目」
「精神と現実を繋ぐ、出入り口です」
二人の言葉に頷き、マリーは門に手をかける。
そこで一度止まり、マリーは振りかえった。
「……また、会えるかしら?」
クスリと、二人のマリーは笑った。
「会えるも何も、わたしたちは、あなた自身なんですよ?」
くすくすと、純白のマリーが笑う。
「確かに、こうして他者として会うことはもうないでしょうけど」
にこりと、漆黒のマリーも笑う。
「でも、忘れないで。わたしたちは常に、あなたと共に在る」
「忘れないで。わたしたちはずうっと、あなたの傍に居るから」
笑顔で、二人は言葉を紡いだ。
その笑顔に頷き、マリーも笑った。
門が、開かれる。
「さようなら。わたしの大好きなわたしたち」
「「さようなら。わたしたちの大好きなわたし」」
そうして、彼女は目覚めた。