昼飯を食った後、オレはタクシーで現場へと向かっていた。
隣には、一児の父となった雪之丞が、娘の写真を見つめてニヤニヤと笑っている。
……本人にしては可愛い娘を想う父の心境なのだろうが、周りから見るとそれはもう、
「―――不気味だぞ、雪之丞」
さっきから運ちゃんも冷や汗をかいているぞ。
「失敬な。俺のどこが不気味だというんだ」
「黒いコートに身を包んで写真見つめてニヤニヤ笑ってるところ」
言われにゃわからんのか、お前は。……わからねぇんだろうなぁ。
まさかあの雪之丞がここまで親バカになるとはな。世の中、わからないもんだ。
「ふ。娘のことを気にかける父親の気持ちなど、おまえにはわかるまい!」
………痛いとこ突かれた。もうすぐ結婚3年目になるというのに、オレとルシオラはまだ、子宝に恵まれてはいないのだ。
「参りましたよ、お父様」
軽口を叩き、小さな溜息。雪之丞が写真を収め、
「お前も早くつくれよ」
なんてのたまってくれた。
「別にお前、不能ってわけじゃあるまい? つーか、お前からスケベを取ったらなにも残らねえもんな」
………言ってくれるじゃないか、雪之丞。
「なんだ、その目は? なにか反論があるのか?」
勝ち誇った笑みを浮かべ、雪之丞は言う。今までの――とくに高校生時分の行状を知っているだけに、こいつは始末に終えない。
負け犬のオレは、おとなしく尻尾を巻いて窓の外を眺めるしかなかった。
「―――オレも子供欲しいなぁ」
「だからつくれって」
「………結構、がんばってんだけどなぁ」
なにをがんばるかって、そりゃ、まあ、ナニってやつだ。
「じゃ、時間の問題だよ。今日あたり帰ったら、オメデタかもしんねぇぜ?」
「はは。そういうこともあるかもな」
「よし。じゃ、これを見な」
言われ、オレは振り返る。
眼前に、雪之丞の娘の写真が突きつけられていた。
「子供はいいぜぇ。うちの娘はもうすぐ二つになるけどよ、これがまた可愛いんだ。最初に喋る言葉はパパかママかでかおりと言い争ってな、まあその勝負は結局はかおりに軍配が挙がったわけだがそのすぐあとにパパを覚えたからよしとしてだ、ハイハイはじめたときなんかすごかったぜ、いきなり行動範囲が広がるんだこちとら目が離せやしねぇ。ああ、そういえばこんなこともあったな―――」
………そうして、オレは現場に着くまで延々とのろけ話を聞かされるハメになった。
親友の幸せな顔が、なんだかとても羨ましかった。
人魔 第十六幕
気ニ入ラナイノヨ
一、
どうすればいい? と、ベスパは大竜姫に尋ねようとした。
それができなかったのは、口を開くまえに、『横島』が襲ってきたから。
『横島』の拳を、一撃目は受け流し、二撃目は後方に跳んで避ける。
追撃しようとする『横島』。その背後に回り、大竜姫が神剣を振るった。
前進することで避け、『横島』は間合いを詰める。大竜姫が追う。
ベスパへと振り上げられる拳。その後ろで振り上げられる剣。
背中から放たれた霊波が、大竜姫の神剣と打ち合った。その余波で吹き飛ぶ大竜姫。
「大竜姫!?」
大竜姫のほうへ回りこむベスパ。『横島』と、距離が開ける。
「大丈夫かい?」
「ああ、大した事はない」
立ちあがり、大竜姫は裾の埃を払った。
「あやつがどの部位からでも霊波を放てること、忘れておった。迂闊じゃな」
「ああ。攻撃力も、半端じゃない。見てみな」
ベスパは、自分の右手を見せた。先ほど、『横島』の一撃を受けた右腕を。
「痺れて震える。感覚もない。たった一撃で、しかも受け流しただけでこのざまだ。まともに食らったらと思うと、ぞっとするよ」
「なら、食らわなければよい。幸いというべきか、動き自体は単調じゃ。霊波攻撃にさえ気をつければ、倒せないわけではない」
「そのことなんだけど…………やっぱり、戦わなきゃならないのかい?」
「言いたいことはわかる。オマエには戦いづらい相手じゃろう。だが、四の五の言っても始まらん」
「それは、そうだけど…………」
踏ん切りがつかないベスパ。彼女の任務は、横島を守ることだ。決して、『横島』と戦うことではなかったはずだ。
「……手が、ないわけではない」
「ホントかい!?」
俯いていたベスパは、はじかれたように顔を上げた。
「ホントに、ヨコシマを戻すことができるのかい!?」
「今は無理じゃ。失敗する公算が高い。戦って、弱らせなければ」
「そういうことなら、任しときな」
拳を胸のまえで打ち合わせ、ベスパは言った。
戻すことができる。そのための戦いならば、俄然、やる気が出るというもの。
「頼もしいな。ならば、いくぞ」
「おうさ!」
二人は、同時に動き出した。
ベスパが、『横島』の右から跳びかかる。
大竜姫が、『横島』の左から攻めこむ。
上へ跳ぶ横島。即座に追う二人。
剣撃と打撃。両の手で受ける『横島』。
大竜姫の反応は速い。左手でもう一本の剣を持ち、居合抜きで斬り上げる。
剣は眼前で、霊気の壁によって止められた。
左に注意が行った瞬間、ベスパが腹を蹴り上げる。
足は、壁を破って突き刺さった。
くの字に曲がる『横島』は、両手を振り払う。
二人と『横島』の距離が開く。追撃は適わなかった。
「ふん。アタシらの攻撃力なら、結構効くみたいだね」
腹を押さえ咳き込む『横島』を見て、ベスパは分析する。
「やはり、戦闘技術は低い。これならば倒せる」
「油断は禁物だよ。Gメンからの報告、忘れたのかい?」
「学習能力がある、じゃろう。覚えておるよ」
落ち着いた『横島』は、下へと降りた。
「時間は与えん! 一気に倒すぞ!」
「おう!」
着地の瞬間を狙い、急降下する二人。
それに向かい、『横島』は霊波を放った。
その霊波は巨大だった。いつかの戦いで見せたときよりも、さらに大きい。
「「くっ!」」
態勢を崩しながら、二人は避ける。
その視界に、互いが見えた。そして、互いに迫るソレが見えた。
二人は、叫んだ。
「「行ったぞ、大竜姫(ベスパ)!!」」
灼熱感。
なにかが腹を貫いたのを、大竜姫は感じた。
目線を、自分の腹に持っていく。手刀が、朱を引いて突き出ていた。
後ろを振り向く。
ベスパに向かっていたはずの『横島』が、そこにいた。
強い衝撃が、ベスパを打ち据えた。
何かが右からあたり、爆発したのだ。
それがなにかはわからなかった。自分に攻撃が来るなど、思いもしなかったからだ。なぜなら『横島』は、まっすぐに、大竜姫へと向かっていたのだから。
平衡感覚を失って落ちていく視界に、腹を貫かれた大竜姫が映った。
二、
崩れ落ち、積もった瓦礫が、がたごとと揺れる。
やがて、衝撃と共に、いくつかの瓦礫が吹き飛んだ。
「ふう。大丈夫ですか、陽蘭さん?」
「ええ、大丈夫。守ってくれてありがと」
マリーに礼を言い、辺りを見まわして陽蘭は嘆息した。
「しっかし、すごいわねえ。あれだけで道場半壊だなんて。すさまじいというか、小竜姫が可哀想というか」
この数年で、公的に二回、真実三回目の道場崩壊である。小竜姫の青白い顔が、目に浮かぶようだった。
「ごめんなさい、わたしが迂闊なばっかりに。本当は、すごく優しい子なんですけど」
「優しい子、ねえ……」
目を細め、陽欄は問う。
「あんた、全部知ってるの?」
「……はい」
「初めから?」
「いえ。気付いたのは途中からです」
「ふぅん。話してはくれないんだ?」
「話せないわけではありませんが、話したくはありません。これは、わたしがやるべきことですから」
「そっか」
「申し訳ありません」
「構わないさ。どうせ私は大竜姫に連れられてきただけで、端っこだしね。聞いても役には立てないよ」
言って、陽蘭は大きく伸びた。
「そう言っていただけると助かります。
わたしは、これからあの子を追いかけます。あなたは、どうします?」
「ん。私も行くよ。ここにいても、やることないし」
「わかりました。では、行きましょう」
「うん。ところでさ、マリー」
「なんですか?」
「なんて言うか……あんた、変わったよね。前に比べて。雰囲気が落ち着いてる」
その言葉に、マリーはにこりと笑った。
「いい夢を見れましたから」
笑顔のまま、そう言った。
三、
ばかな。
それが、大竜姫とベスパに共通する思いだった。
人間界での『横島』の戦いは、委細漏らさず聞いたはずだ。そのなかに、このような攻撃方法は、確かになかった。
霊波での目隠し。そして奇襲。しかも、注意を逸らすために、自分と同じ形をした霊波をベスパに放った。
そんな攻撃を『横島』はやったことはないし、受けたこともないはずだった。
理論的には、確かに可能だ。拳型の霊力を放てるのだから、それを応用すれば、自分と同形の霊波を放つことなど造作もない。ましてや『横島』には彼女の霊基片が組みこまれているのだ。幻影を創る要領でやれば、簡単ではあっただろう。
しかし、それは学習で得られる能力ではない。
過去の経験を元に、未経験の問題に対して解決策を作り出す。
これは、学習ではない。
これは、知能行動だ!
その考えに至り、大竜姫は驚愕する。
(本能でやったというのか? それとも、こいつには知能があるというのか!?)
この瞬間、『横島』は遥かな強敵と化した。
不可能を知らず、理屈を知らず、常識を知らず、限界を知らず、そして新たに作り出せる魔物。
それはつまり、攻撃が予測できないということ。自分たちの予想だにしない攻撃が来るということ。
恐ろしかった。
『横島』の左手が、大竜姫の頭部を掴む。
「が! ……ああ…………!」
みしみしと、『横島』の指が、大竜姫の頭にめり込んでいく。
「ぐ…………が、ぎ…………!」
震える手で、柄を握る。
「この……大竜姫、を…………」
逆手に、剣先を『横島』に向ける。
「嘗、め、るなぁ!!」
自分の脇をすり抜け、剣は『横島』に突き刺さった。
頭部にかかる力が弱まる。左手を振り払い、右手を引きぬいた。
距離をとる。
剣は、霊力も集中できなかったためだろう、あまり深い傷を与えてはいなかった。
「ぐ………」
霞む視界で、大竜姫はベスパの姿を探した。
視界の端に、道場の入り口に人間たちが何人かいるのが見えたが、関係ないと、すぐに脳裏から押し出した。
『横島』への警戒を緩めず、しかし懸命に、ベスパを探す。
いた。見つけた。どうやら死んではいないようだ。だが、ダメージが大きかったのか、なかなか立てないでいる。
『横島』に、向き直る。
大竜姫は一つ、発見していた。
『横島』は、痛みに対する堪え性がない。目覚めたばかりで経験が足りないせいだろう、少しの痛みで、すぐに攻撃の手を緩める。
そうでなければ、あれしきの傷で手を離すことも、自分にベスパを探す余裕を与えることもしないだろう。
経験や訓練が不足している兵士は、痛みに過度に反応する。『横島』は目覚めたばかりだ。しかも先の戦闘では、ほとんどの攻撃を通さなかった。痛みを伴う戦闘は、これが初めてのはず。
そこに、付け入る隙はあるだろう。
だが、その発見の代償は高い。その発見すらも割に合わないほどに。
自分もベスパも、戦力の大半を削がれた。あれほどに食らうまいと思っていた攻撃を、まともに食らってしまったのだ。
呼吸がつらい。視界が霞む。耳鳴りがする。
弱っていく体を叱咤し、大竜姫は剣を構えた。
『横島』が、その視線を捉える。
霊波の放出。先ほどとは違い、小さい。
大竜姫は油断しない。戦場では、それは死に繋がる。嫌というほど、彼女はそれを知っている。
小さな霊波は、大竜姫の数メートル前で、破裂した。
威力を伴わない爆発。それは閃光。強烈な、目くらましだった。
「く……!」
視界を奪われ、しかし大竜姫は冷静だった。
形は違えど、先ほどと同じだ。視界を狭窄させ、あるいは奪い、そして、死角からの攻撃。
左に、気配が生じる。
「同じ手、二度とは食わぬ!」
白い世界で、大竜姫は剣を薙いだ。
手応えがあった。とても肉とは思えない、異様な手応えが。
世界が、晴れる。
そこに、『横島』はいた。
大竜姫の間合いの、わずかな外。剣を振るっても届かない、ぎりぎりの距離。
気配はあった。確かに、間合いの中にあった。読み違えるはずがなかった。
間違うはずのないそれを間違わせたのは、『横島』が繰り出した霊波。自身の目の前に現した、自身と同形の霊力。それの、気配。
そして、同じ攻撃だと判断した、大竜姫の、ほんの小さな、しかし確かな油断。
振りきった神剣。崩れた態勢。
放たれる霊波。
避けきれるはずは、なかった。
勢い、地に叩きつけられる大竜姫。右手に握った神剣は、中ほどから折れていた。
(つよ……い………)
朦朧とする意識で、大竜姫は思う。
(これほどとは……………これほどまでに、圧倒されるとは…………………)
アシュタロスには及ばないものの、大竜姫は神界でも強い部類に入る。その大竜姫を手玉に取るとは。『横島』の強さは、尋常ではない。
その強さは、大竜姫にも計算外だった。自分よりも強いと予想はついていたが、その予想を、現実は越えていた。
(これほどなら、訪れるのも、早いだろうに。それまでの時間稼ぎも、できぬというのか…………)
『横島』が、大竜姫の眼前に降り立つ。
殺されると、大竜姫は思った。
自分は殺される。確実に殺される。完全に殺される。絶対に殺される。完膚なきまでに殺される。欠片も残さず殺される。
目前の死に、大竜姫は満足して目を閉じた。
拳を振り上げる『横島』。
その姿が、横へと吹き飛んだ。
ベスパが、体当たりをかましたのだった。
「ベス、パ………」
「大丈夫かい、大竜姫?」
「だいじょうぶ、な、ものか。おまえ、は………?」
「あんたほどじゃないさ」
「そうか……」
ベスパの視線の先で、ゆっくりと、『横島』は立ちあがる。
「……すまん………すこし、まかせる…………」
「ああ。ゆっくり寝てな」
言い捨て、ベスパは『横島』へと駆けていった。
四、
美神は、妙神山入り口から、その戦闘を眺めていた。
「…………………………………………」
動かない。一歩でも足を踏み入れれば、殺される。理由もなく、そう思えた。目の前の戦いは、それほどまでに次元が違った。
「…………すごい」
呆然と呟いた。
キヌたちを置いてきて良かった。霊的感受性の強い彼女たちを連れてきたら、この余波にアテられていただろう。
現在、キヌたちはパピリオにやられた者たちに治療を施している。特に、小竜姫とパピリオと、そしてワルキューレだ。唯一パピリオに徹底的にやられた彼女は、他の連中よりもダメージがひどいのだ。
戦闘に、思考を戻す。
戦いは、一方的で、拮抗すらしていなかった。
攻める者と、避ける者。追う者と、逃げる者。
あのベスパが、善戦すらできていない。手を抜いているのではないかと思えるほどだが、彼女の必死の形相が、その邪推を否定している。
ベスパは、これ以上ないほどに本気でやっている。
それでも、ここまでの開き。ここまでの差。
ぶるりと、身体が震えた。問答無用で、怖かった。
やがて、その戦いにも決着が訪れた。
誰の目にも勝敗が明らかだった戦いは、あまりにも意外な結末を迎えた。
『横島』の、敗けだった。
五、
そのあまりにも意外な結末は、あまりにもあっさりと訪れた。
ベスパと『横島』が戦い始めて、五分とたっていない。
しかし、決着は訪れた。
地面に叩きつけられるベスパ。彼女の命を刈り取ろうと『横島』がその拳を振り下ろ
腕が破裂した。
ぱん、と、小気味よい音が鳴って、『横島』の右腕が破裂した。
動かなかった。誰も、動かなかった。『横島』も、ベスパも、大竜姫も。美神も。
呆然と、右腕を見つめる『横島』。右腕は、皮が千切れ、筋肉が裂けて垂れ下がり、血管が破れ、緋色の噴水で小さな虹を作っていた。
「…………………………………え……………………?」
『横島』の口から漏れる声。自身、起こった事柄を理解できていなかった。
「ヨ、ヨコシマ?」
先ほどまで死闘を演じていたことも忘れ、ベスパは横島の身を案じ、手を伸ばした。
それが、『横島』の目には攻撃と映った。
左足で大地を蹴り、距離をとる。右足で地面に降り立ち
両足が破裂した。
右腕と同じく、皮が千切れ、筋肉が裂けて垂れ下がり、血管が破れていた。
立つことも叶わず、『横島』は無様に地に伏せる。
「だ、大丈夫か、ヨコシマ!?」
駆け寄るベスパ。立てない『横島』は飛んで逃げようと
全身が破裂した。
皮が千切れ、筋肉が裂けて垂れ下がり、血管が破れた。
「…………………………」
声も出せずに、『横島』は悶えた。ぴくぴくと震える身体。そこに、先ほどまでの恐ろしさは微塵もなかった。
「な、なにが…………」
「限界よ」
呟くベスパに、大竜姫が答えた。
「どういうことだい?」
ベスパは問い返す。
「霊力と比較して、器が小さすぎたということじゃ。強大な霊力に、人間の身体が付いていけなかったのよ。
覚醒が、早すぎたんじゃろうな。本来なら、もっと時間をかけて相応の肉体に創りかえるはずじゃったろうに。
こうなってしまっては、もう、なんの抵抗もできまいて」
「じゃあ!?」
ベスパの声に、喜色が混ざる。
方法はあると、大竜姫は言った。そのためには、弱らせねばならないとも。
これ以上、弱りようがない。
こくりと、大竜姫は頷く。
「後は、わしに任せろ」
立ち上がろうとする大竜姫。だが、まだ先刻のダメージが抜けきっていないのか、その動きは頼りなかった。
「すまん、ベスパ。肩を貸してくれんか。力は、少しでも取っておきたいんじゃ」
「あ、ああ」
自身も弱っているだろうに、ベスパは大竜姫を支えた。『横島』を、戻すために。
「………すまんな」
「気にするなよ」
「そういうわけにも、いかぬよ」
「え?」
どういうことだい? と尋ねようとしたベスパの動きが、止まった。
「な――――!?」
身体が、ピクリとも動かなかった。
「暫く、そうしておれ」
驚くベスパに告げ、大竜姫はベスパの肩を離れた。
「大竜姫………アタシに何をしたんだい!?」
怒りと戸惑いの中、ベスパは言った。
「局所結界じゃ。弱ったお前には破れまいて」
「な、なんでそんなこと――――!?」
「お前が、邪魔になるからじゃ」
「邪魔? なんの!?」
「決まっておる」
神剣を持ち、大竜姫は『横島』へと歩を進める。
悪寒がした。猛烈に嫌な予感が、ベスパの中を駆け巡った。
「お、おい。あんた、まさか――――」
震える声で、ベスパは尋ねた。確信にも近い予感。やめてくれ。気のせいであってくれ。勘違いであってくれ。アタシの杞憂であってくれ!
しかし大竜姫は、振りかえらず、ベスパの予感を肯定する。
「横島忠夫を殺す、その邪魔じゃ」
「や、やめろ!!」
たまらず、ベスパは叫んだ。悲鳴にも似た、悲痛な叫び声だった。
「なんでそんなことする!? ヨコシマがなにしたって言うんだい!!」
「わしらの任務はこの事件を終わらせること。横島忠夫の力は強大で、それを沈める方法は皆無。あとは肉体を死なせて、転生の過程で魂を分離させる以外にあるまい」
「そりゃ、そうかもしれないけど! でも!」
「くどいぞ、ベスパ。わしらの任務は、この件を解決すること。そのための方法も一任されておる。
今回の戦いも、神魔族両上層部の特別許可の元にあるのじゃ。ただでさえ情勢が悪くなるというのに、解決すらできぬようでは、」
「そうかもしれないけど!! でも、でも!!」
「……お前が割りきれぬこと、わかっておる。だからそうしたのじゃ。そこで見ておれ」
会話は終わりだとばかりに、歩みを再開する大竜姫。
その道に、美神が立っていた。
ベスパは叫ぶ。
「美神令子! そいつを止めて! 大竜姫を止めてくれ! アイツまで、ヨコシマまで死んだら、パピリオは! ルシオラも、――――!」
ベスパの懇願には答えず、美神は神通棍に霊波を送る。光の鞭が、柄の先に現われた。
「…………お主、正気か?」
大竜姫は、そう問うた。本気か? ではなく、正気か? と。
この人間の女に、自分が倒せるはずはないと思っているから。
そして、その判断は正しい。弱っているとはいえ、美神の力では、大竜姫には到底敵いはしない。
それでも、美神は下がらない。
「――――気に入らないのよ、あんた」
それが、引けない理由。気に入らない。それだけで、充分だった。
「アシュタロスのときは、なんの役にも立たなかったくせに。横島クンに礼の一つもなかったくせして。
あの時、横島クンがどれだけ苦しんだと思うの。どれだけ傷ついたと思うの。あれだけがんばって。あれだけ必死で。あれだけ戦って。あれだけ悲しい選択をして。
それを……それを……………!
邪魔になったら殺すって言うの!? アンタ一体何様なのよ!!」
それが、彼女の、そこに立つ理由。彼への理不尽な仕打ちに対する、それは身を焦がすほどの怒りだった。
その怒りを感じ取り、大竜姫はなにも言わない。なにも言わぬままに、剣を振り上げる。障害を排除しようとする。
振り下ろした斬撃は、斉天大聖の如意棒に阻まれた。
大竜姫と斉天大聖。二人の視線が、交錯する。
「老師。あなたも邪魔をするのですか?」
剣を押し付けたまま、大竜姫は問う。
「いや。正直、お主と剣を交えたくはない。ワシの元にも、お主の管理下に入るよう、命令は届いておるでな」
「なら、退いてください。これ以上は許しません」
「その前に、一つだけ聞きたい」
「なんです?」
「…………」
少し、斉天大聖は躊躇した。ためらい、悲しい目で、大竜姫に問う。
「いつまで、このようなことを続けるつもりじゃ?」
大竜姫の眉が、ピクリと動いた。
剣を引き、顔を押さえる。掌が顔面を隠し、左目だけが、斉天大聖を凝視していた。
肩が、震えていた。
「………いつまでもですよ、老師」
大竜姫が答える。その声は、とてつもない悲しみに満ちていた。
「私の中の時間は、あの瞬間より止まったまま。もう、動くことはない。
あとはただ、死ぬまで生きていくだけ。」
その目に、その声に、その身に。確かに、悲しみという名の、後悔という名の感情が宿っていた。
「死ぬことはできない。約束だから。でも、生きるのも、あまりにつらい。
だから私は、人形でいい。人形として、ただ、動くだけでいい……………………」
「…………大竜」
そこには、師弟という情があった。
その情が、斉天大聖に、大竜姫の拳を食らわせた。
不意打ちに吹き飛ぶ斉天大聖。
「縛!」
張られた局所結界が、斉天大聖を押さえつける。
大竜姫は、顔面から手を離した。そこに、表情はない。能面のような顔というパーツが、ただあるだけだった。
「これ以上は許さないといったはずじゃ。お前を障害と認め、排除する」
「ぐ…………大竜姫…………」
大竜姫は歩く。斉天大聖は動けない。
「大竜姫!」
「邪魔じゃ」
指先から放たれた結界で、美神は身体の自由を奪われた。
「ちくしょう。この、クソババア!」
悪態をつく美神。気にも止めず、大竜姫は歩く。
それを止める者はいない。障害を排除した大竜姫は、『横島』の前に立つ。
「許せとは言わぬ。恨んでくれて構わぬ。だが、結果は変わらない」
残った一本の剣。それを、頭上に高々と上げ、
「死ね」
振り下ろした。
「ぐ!」
止めを刺そうと振り下ろした剣。それは、横手から飛来してきた霊波によって防がれた。
その威力は大きく、防ぎきれず、大竜姫の剣がはじかれる。
剣は、横島を逸れて落ちた。
霊波の飛来した方向を、大竜姫は睨む。
「また邪魔者か。まったく、次から次へと。鬱陶しい」
「当然ではありますが――――わたしたちにとっては、あなたこそが邪魔者です」
マリーが、そこに、立っていた。
六、
「――――ふっ」
マリーの掌の上で紡がれたその霊波は、今までの彼女とは比べ物にならないほどに、強力で、強烈だった。
安定した。
その霊波は、マリーの波動が安定したことを示していた。
神族と魔族の間で、常に揺れつづけていた。天秤はどちらかに傾こうとし、どちらにも傾くまいとする。
崩壊の危険に身をさらしつづけ、マリーは生きてきた。
それが、安定した。天秤が止まったのだ。水平に、ぴったりと。
神族と魔族の両方の波動。それを混合し、融合させて紡いだ強力な霊波を弓のように引くマリー。
「本来ならば殺しても飽き足りませんが、今は時間がありません。見逃して差し上げますから、消え失せなさい」
冷たく告げる。
「陽蘭さん、横島さまの治療を」
「動くな、陽蘭」
マリーの指示に、大竜姫の脅しが続く。
鋭い視線を投げかけるマリー。
「十数えます。その間に失せなさい。でないと、本当に撃ちますわよ?」
「十と言わずに、今すぐ撃てばよい。いくら待たれても、わしは退かぬ」
言葉が終わるか終わらないか。
マリーが力を放ったのは、そんなタイミングだった。
霊波は突き進む。荒れ、狂い、食らい、飲みこみ、霊波は大竜姫へと襲いかかった。
避けられた。
低く、地面と平行に跳躍する大竜姫。距離が縮む。マリーは霊波を練りきれない。
下がるマリー。追う大竜姫。距離が狭まる。
大竜姫の間合いに入る。
「障害は、排除する」
マリーは応えた。
「あなたには無理です」
瞬間。大竜姫の背後に、気配が生じた。
攻撃を止め、とっさに横に飛ぶ大竜姫。
先ほどまで彼女がいた虚空を、ベスパの拳が薙いだ。
「な、ベスパ!?」
なぜ? 結界はどうした!?
真後ろにベスパが来たことに驚愕し疑問を持ち、
「…………そういうことか!」
真後ろにベスパが来たことがその答えであると大竜姫は理解し、納得した。
マリーと大竜姫の延長線上に、ベスパはいた。
マリーの霊波が、ベスパを捕らえていた結界を破壊した。
初めから、そう計算されていたのだ。
「おおおおおおおおおおおおお!!」
残った力を振り絞り、ベスパは大竜姫を攻めたてる。大竜姫を押し倒し、馬乗りになり、ベスパは拳を打ち下ろす。
「大竜姫ぃ!」
体重を乗せ、容赦なく、怒りを込めて拳を打ち下ろす。拳が顔面を打ち、地面が後頭部を殴打する。
「だいりゅうきぃ!」
何発目かの拳。それを掴み、大竜姫はベスパを投げ飛ばした。
転がり、立ちあがるベスパ。
睨み合う二人。
「ベスパさん。その人の足止め、お願いします」
「言われなくても!」
ベスパは許せなかった。自分を騙したことが。横島を殺そうとしたことが。
それは、パピリオを悲しませることだから。
だから、ベスパは許せなかった。任務など、もう、どうでもよかった。
ベスパはただ、姉として、妹の大切な者を守りたかった。
「では、お願いします」
大竜姫をベスパに任せ、マリーは『横島』の元へと歩み寄った。
「うわ」
一目『横島』を見、陽蘭はそのあまりの状態に声を上げた。
「陽蘭さん、このコの治療を。応急で構いません」
「言われなくてもやるわよ。ほっといたら確実に死ぬもの」
治療しようと手を伸ばす陽蘭。しかし『横島』は、その手から逃れようと身体をよじった。
皮がこすれ、筋肉が断裂し、血管がさらに血を吐き出した。
「ちょっと、動いちゃダメよ、ああ、ダメだったら!」
手当てしようとするたびに、『横島』は逃げた。
皮がこすれ、筋肉が断裂し、血管がさらに血を吐き出す。
その光景に、マリーは動いた。強引に『横島』の頭部を掴み、『横島』の瞳を覗きこむ。
「信じて」
強い意志を込め、それだけを呟いた。
「信じて」
疑惑の瞳と決意の瞳が交錯する。
「信じて!」
やがて。
マリーの言葉が通じたのか、それとも単に限界だったのか、『横島』は目を閉じ、その意識を手放した。
即座に、陽蘭が治療を始める。
「………美神令子さん」
顔を上げ、結界に捕われて動けぬ女に、マリーは言う。
「今からやることの邪魔を、決して、しないでください」
「…………信用する根拠は?」
「わたしは横島さまを愛している。この人を助けたい気持ちは、誰にも負けない。これじゃ不満かしら?」
「……やれやれ。ほんと、物の怪に好かれるやつねぇ」
呆れ顔で、美神は呟いた。
「やってみなさい。でも、何をするか知らないけど、失敗したら、許さないわよ」
「ありがとうございます。できれば、うまくいくよう、祈っていてください」
美神は頷く。
横島に向き直るマリー。その額と、自分のそれを重ね合わせる。
「横島さま。ここには、あなたを想う人たちがたくさんいます。あなたの帰りを心待ちにしている人が、たくさんいます」
語りかける。
「だから、戻ってきてください。これから、わたしが迎えに行きますから。あのコと一緒に、帰ってきてくださいな」
そして、マリーは飛んだ。
横島忠夫の、内なる世界へと。
七、
横島忠夫の意識を自分の望む方向へと誘導するために、マリーは己の霊基片を、横島忠夫の魂に付着させていた。
ゆえに、マリーという存在を、横島忠夫は自己とみなし、排除しなかった。
抵抗なく、マリーは深層へと到達する。
二つの扉。背中あわせの扉。決して出会わない、扉。
一つの扉からは闇が漏れている。弱々しく、息も絶え絶えに。しかし、決して絶えない扉。
一つの扉は、難く閉ざされていた。頑強な錠前に閉ざされた、開くことを自ら拒絶した扉。
閉ざされた扉に、マリーは手を添えた。
開け、と、意識を送る。
しかし、扉は開かない。
「………なるほど。この錠前、お兄様の仕業ですね」
錠前を掴み、引き千切った。
再度、開けと意識する。
それを自己からの指令と認識した横島忠夫は、その命に従い、扉を開け放った。
扉の内側には、闇が広がっていた。外と交わるまいとする、それは拒絶の闇だった。
マリーの顔が、悲哀に歪む。ここまで彼を追い込んだのは、他でもない、自分なのだから。
「横島さま。目を、覚まして差し上げます。そして、帰りましょう。みなさんのいる世界へ」
マリーは扉をくぐり、横島忠夫へと、潜っていった。
八、
仕事を終えたオレは、我が家への帰路へついていた。
今日は珍しく、夜の除霊がない。幽霊の活動時間は夜が本番なので、GSは夜中の仕事が多いのだが。
まだ、日は沈んではいない。こんなに早く帰れるのは久しぶりだ。仕事がないということなので、喜んでいいかどうか微妙ではあるが。
今夜の晩飯はなんだろう。そんなことを考えながら、オレは歩いていた。
その歩みが、止まる。
オレの進む先には、女がいた。真紅の服――――あれは、修道服だろうか――――を着た、女だ。
周りには、誰もいない。先ほどまで喧騒があったのに、人の多い時間帯のはずなのに、あたりには、人っ子一人、物音一つなくなっていた。
赤い女が、笑った。
不思議だった。
赤い女の笑顔。なぜそれに、こうまで心を揺さぶられるのだろうか。
なんだ? この違和感はなんだ? なにかを忘れているような、この感覚は……?
「………君は?」
意を決して、オレは赤い女に尋ねた。
赤い女は、その言葉に悲しそうに笑顔を歪めた。
「はじめまして。わたしは――――」
そこで、赤い女は首を振った。まるで、名乗りかけた自分を諌めるかのように。
顔を上げた女は、再び口を開き、
「あなたにお願いがあって、参りましたの」
泣いているとしか思えない声色で、言ってきた。
名乗りは、しなかった。