「ん……っと」
検査を終え、備え付けのベッドに横たわり、横島忠夫は大きく伸びをした。
深い枕に頭をのせて、この一日にあったことを頭の中で反すうする。
まっさきに思い返したのは、紅い修道女――マリーだった。
彼女は、横島にとってあらゆる意味で強烈な存在だった。
あんなキスは初めてだった。まだ、口内に彼女の舌の感覚が残っている。キスなど数えるほどしかしたことのない彼にとって、あれは刺激が強すぎた。
さらに、あの力。自分と同等、もしくはそれ以上の力を持っているのだ、彼女は。
気付けば人間の中では最強で、神魔を含んでもかなり強い力を持っていた彼にとって、その存在は貴重だった。身体の異常が治れば、一度本気でやりあってみたい。そう思わせた。
そしてなによりも、目だ。彼女の瞳が、気になった。
キスの後、おどけてみせた彼女の瞳にあったもの。あれは喜びと、そう――――
「……悲しみ?」
ばかげている。
横島は寝返りをうった。
自分はこのまま保護されるだろう。彼女が捕まるまで。殺されるまで。勝負する機会は、おそらくない。
「最強、か。道化だよな。守れなかったくせに……」
再び寝返りを打ち、横島は目を閉じた。
眠ってしまおう。明日からはまた、時間を潰すだけの毎日が続くのだから。考えるのは、その時でいい。今は眠ろう。そう、眠ろう。眠ってしまおう。
翌朝、横島は驚愕する。今夜の考えなど吹き飛ぶような事件が、彼の身に降りかかるのだった。
人魔 第三幕
揺れる心
小鳥たちのさえずりに、横島は目を覚ました。
眩しい光が窓から飛び込み、彼の視界を真っ白に照らす。
目を細めるなどして、太陽という大敵に必死に抗おうとするが、抵抗むなしく、意識は徐々に覚醒していった。
その、覚醒し始めた耳と脳に――一つの寝息が、届いた。
規則正しい息使いだ。小鳥のハーモニーも陽光もどこ吹く風で、いまだに目覚めの兆候はなさそうだった。
千春さんだろうか?
横島は思った。だが、彼女は昨日は泊まらなかったはずだ。
オレが眠ってから戻ってきた?
多分、そうだろう。
それにしても、寝息が近いような気がする。なんだか、すぐ隣りから聞こえるような――――
睡魔に下がるまぶたをこすりつつ、横島は首を回した。
…………………………………………硬直。
最初に目に入ったのは、赤だった。燃えるような紅。血のような緋。
そのまま、目線を下へとずらす。自分の腹のあたりで、赤いふくらみが上下している。寝息に合わせて。
上がり。下がり。上がり。下がり。
スゥー。ハァー。スゥー。ハァー。
どうやら、寝息の正体はこれのようだ。
「う……ん……」
それがもぞもぞと動き、横島に顔を見せた。
それは、昨日戦った相手。
昨夜、もう会うまいと思った者。
紅い修道服、逆十時のロザリオの女。
マリーだった。
「!!???!?!?!?!?!?!?!?」
思考が混乱し、停止する横島。
「うん……あなたぁ……」
「………………………」
停止中。
「あん、そんな……いやぁん……」
「………………………」
停止中。
「いや……まだ、日も高いですのに……」
「……………………………………ハッ!」
再起動。
「え? う? あ?」
…………どうやらまだ、混乱中のようだ。
「ん……ふぁ……」
目覚めたのか、のろのろと、マリーが顔を上げる。
二人の視線が、ばっちりと交錯した。
「あ、あの……?」
「…………………」
「え? あれ?」
「…………………」
「な、なんで……」
「…………………」
混乱中の横島。寝ぼけ眼のマリー。
回復は、マリーの方が早かった。
にっこりと、昨日見せ、横島を一瞬とりこにしたあの笑みを浮かべる。
そして、天使のような美声で、こう言った。
「おはようございます。よく眠れまして、あなた?」
横島の混乱にさらに拍車がかかったことは、言うまでもない。
今や通い慣れた道とはいえ、それでもやはり、上司の隣を歩くとなると緊張感はぬぐえない。特に、それが組織の頂点に立つ者ならば、なおのことだ。
Gメン署長。人類最強のGS。美神美智恵。
その肩書きにふさわしい……いや、それすらも小さいと思わせるような雰囲気を、目の前の人物は有していた。
「それで、彼の様子はどう?」
廊下の一歩先を歩きながら、美智恵は彼女にそう問うた。
「は、はい。現状では、特に変化は見られません。本日0030時における検診では、体温、脈拍、血圧等に異常は見られませんでした。高位魔族と粘膜的接触があったとのことですので、通常よりも波長検査は長めに行いましたが、脳波共々、それも問題ありません」
粘膜的接触。キスのことだ。
緊張ゆえか、彼女の言葉は必要以上に事務的で、声も無機質だった。
「千春さん。そんなに肩肘はらなくていいわよ。今回の訪問は個人的なもの。ただのお見舞いなんだから」
「了解しました」
どうやら、全然わかっていないようだ。
がちがちの緊張状態というのは、望ましくない。
美智恵は、横島をいつも見ている者から、いつもの精神状態で会話したかった。その中に重要なことが含まれている可能性もあり得るのだ。
美智恵は病室に着く前に、千春の精神をほぐすことにした。
「それにしても、大変ねぇ、あなたも」
「いえ。任務ですから」
「そう? 私ならそこまで割り切れないなあ。
よく知りもしない男性の身の回りの世話。洗濯したり、ご飯つくったり、掃除したり。まるで通い妻か姐さん女房じゃない」
ちらりと背後を見てみると、顔を真っ赤にした千春があった。『通い妻』と『姐さん女房』のせいだろうか。
「もしかして、それが狙い?」
「いえ!わ、私は任務に私情は……」
「一日中仕事させといて、任務もなにもないわよ。なんなら、命令書作ってあげましょうか? 『本日これより、横島忠男と同棲すること』ってね」
「どっ…………」
耳先まで赤くなる千春。
娘と大して違わない年齢なのに、かわいいものだ。
(もっとも、あの子も似たようなもんだけどね)
美智恵は笑い声をこらえ、続けた。
「冗談よ、冗談。でも、本当のところ、千春ちゃんは彼のことどう思ってるの。好きなの?」
さんではなく、ちゃん。緊張させないため、親しみを増すためだ。
「…………多分」
「どこが?」
「どこといわれても…………よくわかりません」
「気付いたら好きになってた?」
「…………はい」
そんなものだろう。
美智恵は思う。
恋愛において、劇的な出会いなど存在しない。多くの場合、その人物と何気なく付き合い、人となりを知るにつれて、共有の時間を積み重ねるにつれて、当の本人も気付かぬうちに、恋に陥る。
運命的なカップルというのは存在するかもしれない。彼女の娘とその想い人などは、その典型といえるだろう。成就すればだが。
しかしながら、運命的な出会いなどはない。美智恵はそう考えている。自分と主人のなれそめを話すと、人は必ず『運命的だ』と言うが、そんな事はない。あった瞬間に恋におちたわけでもないし、一月程度で結婚までこぎつけたのも、霊体の直結によって、積み上げる時間全てを省略しただけにすぎないのだ。
そんな事を考えながら、美智恵はさらに千春をたきつける。
「でも、彼は競争率高いからねえ。やるなら気合い入れないとだめよ!」
「は、はい!」
「彼はそういうとこ意外と鈍感だからね。きっちり捕まえとかないと!」
「は、はい!」
「で、どうなの、実際。彼はあなたをどう思ってそう?」
「え? えっと、あの、それは…………」
どうやら思惑は成功したようだ。果たして、美智恵が欲しがる情報は、その中に含まれていた。一つだけだが、重要な事だった。
(シーシュポス、か。あれから一年。だいぶ精神的にまいってるようね)
それはすなわち、彼の限界が近い事を示している。抑圧された環境に耐えられなくなってきているのだ。
「忠夫クン、入るわよ」
病室の前につき、千春は扉を開ける。
その向こうの景色は、意外以外のなにものでもなかった。
扉の向こうのその惨状は、美智恵の予想だにしないものだった。夢にも思っていない光景だった。それを見た瞬間、脳の機能が停止したほどの光景だった。
その光景とは…………
「寄るんじゃねえー!」
「そんなつれないこと言わないで下さいな。あなたと私の仲じゃありませんか」
「どんな仲だ、どんな!」
「愛し合う、ふ・た・り(はぁと)」
「愛してねえ! 愛してねえぇぇ!」
「何を言うんですか。昨日、めくるめく一夜を過ごしたというのに!」
「ばか言うな! おまえが勝手に潜り込んできたんだろうが!」
「照れることないですわ。初夜の営みは、新婚夫婦にとって当然のことですのよ」
「いつ結婚した! いつ!?」
「そんなの、事後承諾で構いませんわ!」
「アホかーーーーー!!!」
ダッシュで病室を出ていく横島。
「逃がしませんわよ、あなたーーーーー!!!!」
紅い修道服を着た女性が、その後を追う。
「………………」
女の格好が、昨夜娘から聞いた魔族のそれと合致することに美智恵が気付くのは、たっぷり三十秒を回った後のことだった。
「説明してもらいましょうか?」
「説明と言われましても……その、なんと申しますか……」
腕組みをし、横島を見下ろす美智恵。その背後では、千春が無表情ながらも瞳に激しい怒りの炎をたたえて控えている。マンガなら、『ゴゴゴゴゴ』といった擬音が聞こえそうだ。
ベッドの上で正座をし、美智恵を見上げる横島。その隣りでは、マリーが横島の首に両腕を回し、この上なく幸せそうにくっついている。擬音は『ゴロニャン』といったところか。
ちなみに、この状態に落ち着くまでの捕り物張で、病棟の窓ガラスはすべて割れ、中庭のベンチと遊具が全壊、木が6本倒壊するなど、被害は計り知れなかったりする。それもまた、美智恵の機嫌が悪い一因だろう。死傷者がいないのがせめてもの救いだが、美智恵の機嫌の緩衝材としては役不足のようだ。
「まず、その修道女さんはどなた?」
確信しながらも、美智恵は問うた。
答えは、横島の隣りから返ってきた。
「わたくし、マリーと申します。はじめまして、お義母さま」
「「「お義母さま!?」」」
異口同音の他三人。
「? あなたの母親じゃないんですの?」
「いや、隊長は美神さんの母親で、Gメンの署長だ」
横島が勘違いを訂正する。
「と言うことは、あなたの上司?」
「……まあ、そんなもんかな」
辞めたとはいえ、かつてのバイト先の上司の母親だ。そう言っても差し支えはないだろう。
そう思って横島は答えたに過ぎないのだが――
「改めて、はじめまして。いつもハズがお世話になって――――」
「ちょっと待て! 誰がハズだ!?」
「なに言ってるんですの。あなたに決まってるじゃないですか」
「いつ決まった? いつ!?」
「とぼけちゃって。あなたったら、て・れ・や・さん!」
「ちがう〜〜〜〜!!」
などといった夫婦(?)漫才が約10分。
その間、千春が必死に自制し爆発しなかったのは、特筆に値するだろう。
そしてその間、美智恵はひたすらにマリーの言動を見つめていた。
なにか、凶器を隠し持ってはいないか?
横島クンに危害を加えようとしていないか?
どこか、不審な点はないか?
得られる情報はないか?
それをつぶさに観察した結果、答えはすべて『否』だった。
(本当に横島クンの事が好き? そんなこと……ないとは言いきれないけど)
なぜかこの少年は物の怪の類にもてるのだ。
観察をあきらめ、美智恵は目の前の漫才を止めることにした。横島の周りには霊的存在は極力近づけないようにしている。横島の霊波に変化をきたす可能性があるからだ。この女も早く追い出さねばならない。
ちなみに現在、どこから持ち出したかパンフレットをめくりながら、マリーが式の日取りと様式について一人で話を進めていたりする。
「はいはい。日取りは後で決めてちょうだい。――ところで、マリーさん」
「はい?」
「この病室は、許可を得た者以外の入室を禁じています。あなたは、許可証をお持ちで?」
「許可証……ですか?」
「ええ。持っていないのなら、即刻退室していただきます」
「愛しい人に会うのに、そんなものは必要ありませんわ」
「規則です」
「愛はすべてを超越しましてよ」
「規則です。あるのか、ないのか。答えなさい」
持っていないことは明白だ。許可証の決定権は、他でもない美智恵が有しているのだから。そして彼女は、千春と西条を除いて誰にも許可を与えていない。娘にさえも。
目の前の女が、持っているはずがない。
「あなた……」
悲しげに横島を見るマリー。が、美智恵は容赦しない。
「彼の意志は関係ありません。持っているのか、ないのか、それだけよ」
「…………………………」
その変化を見たのは、横島ただ一人だった。マリーと視線を合わせていた、彼一人だ。
彼女の瞳に、危険な色が浮かぶのを見たのは。
「持っていないようね。退室を命じます。出て行きなさい」
「………………………………」
「………………………………」
「たいちょ――――」
「…………わかりました、帰ります」
言いかけた横島を、マリーの言葉がさえぎる。彼女は首に回していた腕を解き、窓際へ寄り、浮いた。
そして――――押さえていた霊力を、解放した。
「「「………………………!!」」」
反射的に構えをとる美智恵と横島。千春はその霊気にあてられ、身動きできないでいた。
「貴女……名前は?」
「……美神美智恵」
自分を指していることに気付き、美智恵は答えた。
「美智恵さん。『彼』をここに閉じ込めるのはやめてください」
冷たい声だ。冷ややかな怒りをたたえ、マリーは言う。
「必要な処置よ」
「本人の意志を無視して、必要も何もないわ。『彼』は監獄の中の小鳥じゃなくてよ」
「好きでやっているわけではないわ。仕方のない事よ」
「『彼』の人生を奪う気?」
「治療法が見つかるまでの辛抱よ」
「欺瞞ね。自己満足に過ぎないわ。やりたくない、だけど、皆のためだから、その人のためだから、仕方なくやっている。そう言い聞かせて、罪悪感から逃れようとしているだけよ。
――――いいこと、美智恵さん」
マリーが振り向く。狂気の笑みをたたえて。
「これ以上『彼』の心を傷つけるようなら――私は貴女方を殺します」
そして、彼女は飛び去って行った。
その存在、霊圧がなくなりプレッシャーから解放される。
構えを解く二人。そして――倒れる、千春。
「「千春さん!」」
過負荷から解放されたせいだろう。気が緩んでしまったのだ。
美智恵は、彼女を運び出すことにした。
「横島クン」
千春を背負って入り口まで進んだところで、美智恵は振りかえった。
「今回は大目に見ます。以後、身勝手な真似はしないように」
「………………………」
「いいですね?」
「…………はい」
返事を聞いたことで、美智恵は歩みを再開した。
病室の扉が、閉じられた。
同時に、ベッドに身を投げ出す横島。
悔しかった。むしょうに腹が立った。どうしようもないくらいにいらついていた。
先ほどの、美智恵の言葉……
(身勝手な真似? 大目に見る? オレはアンタの奴隷でもなんでもないぞ!)
まるで道具として見られているような言葉。
命のない、人形として見られているような言葉。
そんなはずはない事など十分知っているのに、彼は怒りを感じずにはいられなかった。
初めの頃はまだマシだった。令子達が頻繁に訪れてきてくれた。
左手に異常をきたしてからは、それもままならなくなった。
来訪者が千春と美智恵、代理人の西条のみとなるのに、時間はかからなかった。
何もかもに現実感がなくなっていった。すべてが夢のような気がした。なぜここにいるのか、意味がわからなくなった。
最後に心から笑ったのはいつだろう。もう、覚えていない。
「監獄の中の小鳥、か」
先ほどのマリーの言葉を思い出す。
言い得て妙だった。
彼女の方が、自分を知っている。今まで付き合っていたほかの誰もが自分をここに閉じ込める。だと言うのに、昨日会ったばかりの彼女の方が、より自分を理解してくれている。
常識を超えれば、人は人でなくなる。『人魔』など、もう化け物以外のなにものでもないのかもしれない。
それは、わかっているつもりだったが――――
「……つらいよなぁ」
かつて笑いあった人達にものとして見られるのは、この上ない苦しみだった。
眠気を覚え、彼はそっと目を閉じる。
わかっている。わかっているのだ。そうではない事くらい。彼女たちがそんなことを思っていないくらい。
理解している。頭では現状を理解している。極めて冷静に。
だが、感情が納得できない。この処遇に対して。
なぜ、オレがこんな目に? なぜ?
人でないのなら、自分は一体なんだろう。人として生まれたのに。
人である事を否定されたのなら、自分はどうすればいいだろう。
化け物を理解するのは、同じ化け物のみなのだろうか。
わからない。
オレは、なんだ? 人間? 魔族?
わからない。
オレは――――一体、誰なんだ?