彼女は波間を漂っていた。
別に溺れているわけではない。遭難したわけでもない。ただ、波に揺られることを楽しんでいるにすぎない。誰でもよくやる事だ。確かに、太平洋のど真ん中というのはいささか非常識な気もするが。
思い返すのは、昼間の事だった。
出だしは順調だった。彼の魂に植え込んだ自分の霊気片は、確実に彼の心を自分へと向けはじめている。
このまま彼が心を開けば、それだけ事も運びやすくなる。
漂うにはいささか激しすぎる波に、彼女は揺られる。揺られることで、頭を冷やす。冷静になる。
あの言葉は、本当に頭に来た。芝居とか仕事ではなく、本当に、心の底から怒りを感じた。
『彼の意志は関係ありません』
一体、あの女は何様のつもりなのか。本人の意思を無視するなど。なんの権限なのか。
なんと傲慢な。身の程知らずが。
あんな女が、許されるはずがない。
「横島さんは、なぜ――」
あのような場所にとどまるのかしら?
自分なら、そんな事はしない。
自分なら出て行く。あの女を殺して。
自分という存在を受け入れない者など、必要ない。
今までもそうしてきたのだ。自分を受け入れない者、敵対する者、傷付ける者。
すべて殺した。すべて。それが、彼女が生き残るための手段だった。自分を保つための手段だった。
だが、彼はそうしない。自分とほとんど同じ境遇であるはすなのに。
自分と同じ、不安定な存在。自分と同じ、不安定な心。
なのに、自分と相反する行動。
なぜ?
最初は、彼には憎悪しか感じなかった。主を殺した憎悪。敵。
観察した。つぶさに観察した。確実に殺すために、観察した。見つめつづけた。
そのうちに、憎悪は薄れていった。代わりに、この奇妙な人物に対する好奇心が湧きあがっていった。興味が出てきた。
今も、そうだ。
彼は手段だ。自分たちの目的を達成するための、手段。最低限の接触で十分なはずだ。それ以上接する必要はない。知る必要はない。
だが、そうしようとしない自分がいる。知りたいと思う自分がいる。
こんな事は初めてだ。この感覚は、一体なんだ?
「横島さん――」
波の流れに身を任せ、彼女はその感覚に戸惑う。
「あなたは一体――――誰?」
本人が自問したのと同じ言葉を、彼女――マリーは、呟いた。