84メートル。
その数字それ自体にはなんら意味はない。
なんでもない距離。走れば十数秒で過ぎる距離。
だが、今宵だけは特別な意味を持つ。
命がけの距離。死にもの狂いに駆ける距離。
今夜、世界でもっとも長い距離。
以下に記す物語はすべて、この84メートルの間に起こった事柄である。
人魔 第六幕
84メートル
一、
アジラの炎が視界をふさぎ、シンダラの飛行が体勢を崩す。足元に忍び寄ったサンチラが放電し、アンチラの耳が足首を切り裂こうと唸る。ビカラの怪力が押さえつけ、インダラが時速三百キロでくし刺しにするべく体当たりをかます。
それらすべてを、『横島』はかわしていった。
アジラの炎を打ち消し、シンダラを避ける。捲きつくサンチラを振り払い、アンチラの耳をかわす。ビカラの怪力と拮抗し、インダラの体当たりから飛び退く。
そんな六対一の好勝負を背景に、美神美智恵は己の作戦を説明していた。
「結界の中心は六道女学院校舎入口。ここから約百メートルと少し、『人魔』からは八十数メートルの距離を誘導します。以上」
「以上って……それだけか、隊長さん?」
「ええ。本来後一、二年は余裕があったため、Gメンの準備は全く進んでいません。『人魔』のデータも皆無。細かい作戦の立てようもないの。やり方はあなた方に任せます。どんな手を使ってもいいから、奴を校舎入口まで引きずって来てください」
作戦など、そんなものだろう。目的があり、そこに向かう意志があれば、それだけで作戦と呼べる。
「おキヌちゃん、タイガーくんは待機。服装からして神野さん、あなたも精神攻撃が得意な類でしょう?」
「鏡華も得意よ」
「そう。なら、二人とも待機。力を蓄えておいて」
「きゃああ!」
冥子の悲鳴。式神が攻撃を受け、冥子の意識が途絶える。力が消え、式神がすべて影の中へ還える。
「各自散開!」
美智恵が叫んだ。最後の戦いが始まった。
『横島』は学習していた。
確かにこの六体は強い。だが、後ろに控えている女は弱い。この六体はあの女の従者のようだ。ならば――
『横島』は冥子に向かって霊波を放った。攻撃それ自体はメキラのテレポートで避けられる。目的は、その瞬間だった。主への攻撃に動揺するその瞬間。わずかに動きの止まるその一瞬。
ビカラとアンチラに霊波を放ち、サンチラを踏み潰す。シンダラを切り裂き、アジラとアンチラを吹き飛ばす。
力を失った式神は、主の影へと還っていく。
止めを刺そうとするが、それは入れ替わりに攻めてきたシロ達によって妨げられた。
気に入らない。とっても、気に入らない。
なぜそう何度も向かってくるのか。勝てもしない戦いに挑むのか。
よほどあいつが大切とみえる。よほど自分が邪魔とみえる。
気に入らない。すっごく、気に入らない。
なぜそんな目で見る。なぜそうまで否定する。
よほどあいつを救いたいとみえる。よほど自分を押し戻したいとみえる。
だが、そんなことはさせない。そんなことは許さない。
二度と戻りたくないんだ、あそこには。あんな所には戻りたくないんだ。それをするおまえ達なんか、全部いなくなっちゃえばいいんだ!
明確な――殺意という意識にて統一された『横島』は、自分を否定する者の排除を始めた。
二、
「くそ!」
切りつける刀をいなされ、返され、犬塚シロは舌打ちした。
強い。純粋に、そう思える。強くなってきている。つけいる隙がなくなってきている。
霊波刀の横薙ぎをしゃがんで避ける。そこに来る前蹴り。大きく後ろに跳びすさる。
彼女の師匠は強い。だが、それを決して誇示することはない。いつもバカみたいに笑って、自分を優しく包み込んでいてくれた。
今の『横島』に、それはない。あるのは殺気。冷たく、鋭い、殺すという意識だけ。
愛する師匠と殺し合いを演じている。その自覚が、彼女の胸を締め上げる。
「くそぉ!」
吼え、犬塚シロは再び霊波刀を切りつける。
あと――78メートル。
三、
自分のバカさ加減に、タマモは唇を噛んだ。
霊力がほとんど残っていない。当たり前だ。先程、怒りに任せてすべてを使いきってしまったのだから。式神で体力は回復しても、霊力までは戻らない。
これではろくな狐火が作れない。形だけで威力が伴わない。これではせいぜい、相手を驚かせて隙を生み出すくらいだ。向こうもそれは心得ているようで、こちらにまったく注意を払っていない。目の前に炎が現われても、かまわず突っ込んでいく。
(バカバカバカ! アタシのバカ! 役立たず!)
一瞬の隙さえも作れない。
はがゆさに、タマモは唇を噛みつづけた。
あと――76メートル。
四、
くりだされる拳を、ピエトロ・ド・ブラドーは霧になってかわした。
今のは避けられるタイミングではなかった。霧になる以外は。
そして霧になった自分を、『横島』は見逃さない。常に目をやり、決して間合いの中で実体化させないようにしている。結果、ピートは離れて実体化せざるを得ない。
「主よ! 聖霊よ!」
実体化と同時に攻撃に移るが、この距離では余裕ではじかれる。
「くっ―――強い」
わかっていたことだが、改めて実感した。実力の違いというものを。
あと――73メートル。
五、
自分の連続攻撃をしのがれ、しかし伊達雪之丞は、不適にも笑った。
自分のライバルがこんなにも強いことが嬉しかった。
こんなにも強い奴がライバルであることが嬉しかった。
だが――それだけでは、だめなのだ。
(オメェは強いよ。認めてやるぜ、横島)
心の中で、雪之丞は語りかける。
(でもよ、人間やめて手に入れた力なんざ、ろくでもねえもんだ。たかが知れてる)
そうなった人間を一人、彼は知っている。一時は仲間だった人間を。
(お前はオレのライバルだ。いつかちゃんと決着つけたいんだよ、あの時のケリをな。
でも、それは今のお前とじゃない。人としてのお前とだ。だから――)
「さっさと目ぇ覚ましやがれ、バカヤロウが!!」
渾身の一撃が、『横島』の頬に食い込んだ。
あと――64メートル。
六、
(冗談じゃねえぞ、チクショー!)
木刀から伝わる衝撃に手をしびれさせながら、一文字魔理は心の中で吐き捨てた。
自分の強さがどれほどのものかは把握しているつもりだった。その強さに絶対ではないにしろ、多少の自信はある。その自信が、もろくも崩れ去ろうとしていた。
いくら『横島』が強力だとはいえ、五人がかりで攻めても倒せないとは。
「冗談じゃねえぞ、チクショー!」
冗談ではない。紛れもなく現実の事象なのだ。分かってはいるが、一文字魔理は叫ばずにはいられなかった。
あと――61メートル。
七、
(まったく。うそつきだわ、雪之丞は)
薙刀を振り回しながら、弓かおりは一人溜息した。
(横島は俺のライバルだ、なんて。こんな奴と互角なわけないじゃない。今日――と、もう昨日か――もいつかケリをつけるって言ってたけど、力の差ってのがわかんないのかしら)
『横島』の霊波を横に飛んでかわす。完全にはかわしきれず、水晶観音の腕が一本、消失した。
(でも――そうね。横島さんのことを話すときの雪之丞ったら、なんだか子供みたいで)
気にせず懐にもぐりこみ、掌打を放つ。
(ライバルって言うよりもむしろ――親友ってカンジかしらね)
同時に水晶観音の腕が、薙刀を振るう。
(彼氏の親友は、ちゃんと助けてあげないとね)
クスリと、かおりは笑った。こんな状況で笑える自分がおかしかった。
あと――57メートル。
八、
美神令子は、入り口に移動してきた四人を見て、告げた。
「私が結界で動きを封じるから。あとはあんた達が全力で精神波を叩きつけて」
四人が頷いたのを確認し、再び戦いに目を向ける。
発動のタイミングを、決して逃さないために。
あと――55メートル。
九、
「草よ、木よ、花よ、虫よ。我が友なる精霊たちよ。邪をくだく力をわけ与えたまえ」
この世に満ちる魂の力を借りながら、しかし唐巣神父はさらに力を欲した。
この程度ではまだ、出力が足りない。まだ、霊力が必要だ。
「美神くん、西条くん。君達の力、貸してくれないか」
後方の二人に、唐巣は言う。
「三人の霊力をあわせて放つつもりですか? 確かに威力は上がりますが、『人魔』に通用するとは……」
「私に考えがある、任せてくれたまえ。それに、どのみちこのままでは負ける」
前線の五人は入れ替わり立ち代わりして、着実に『横島』を押している。だが、『横島』を移動させきるのと、彼らが限界に達するのとどちらが早いか。唐巣は、後者と見ている。
「美神くんも、頼む」
「何をするつもりですか、神父? まさか――」
「私は君ほど霊力も高くないし、彼らほど体術に長けてもない。こんなことしか出来ないからね」
「……わかりました。西条クン、やるわよ」
「は、はい。先生がそう言われるのでしたら――」
二人の霊力が唐巣に流れ込む。その奔流を一つにまとめ、手の平に圧縮して形成する。
「聖なる父、全能の父、永遠の神よ――」
そして唐巣は、呪文を唱える。いや、呪文ではない。自分が信じる神への、祈りの言葉だ。
「ひとり子を与え、悩める我らを破滅と白昼の悪魔から放ちたもうた父! ぶどう畑を荒らす者に恐怖の稲妻を下し、この悪魔を地獄の炎に落としたまえ!」
手の平に霊力が圧縮されていく。彼ら三人と、精霊達の力が。
「すごい……」
呆然と、西条はつぶやく。自分たちの力すべてが一ヶ所に集まっている。形成された力は、タマモのように巨大なものではなく、せいぜいサッカーボールほどの大きさだった。
「さすが神父。霊波の扱いはピカ一だわ」
「あんな小さな霊球が、僕らの全霊力なんですか?」
「その分凝縮されてるのよ。これなら多分、『人魔』にも……」
唐巣は構えたまま、待った。
時は、意外と早く訪れた。
『横島』の攻撃に、全員がとびのくその瞬間。必然、『横島』と唐巣の間に、遮蔽物は皆無。
「殺害の王子よ、キリストに道をゆずれ! 主が汝を追放する!!」
極限までに圧縮した霊波が放たれ、『横島』に飛来する。
気付き、『横島』は六本の腕で受け止めた。だが、勢いを殺しきれず、そのまま後方へと下がっていく。
「――!?」
驚愕する『横島』。圧倒的に上なはずの自分の力が、押し負けている。
「グ……ウウウ……」
抗うが、押し返せない。
「ア……ガ、ガグ……」
『横島』は考えた。なぜ、自分が押し負けるのか。どうすれば、押し返せるのか。必死になって、考えた。
そして、気付いた。思いついた。
霊力で形作られていた四本の腕が消える。今までその形成、維持にまわしていた意識、霊力のすべてを、二本の腕に集中させる。
「ク……うウあ……」
霊力が拮抗し、体が止まる。
「が…………あ、あああアァァあアぁああぁアァあああ!」
ついに『横島』の霊力が、唐巣の霊球をはじき返した。
「ここまでか。だが、ずいぶんと距離をかせげた」
霊力の反発でぼろぼろになった腕を押さえながら、唐巣はそのさまを見て呟いた。力が抜け、地面に腰を下ろす。今ので霊力は底をついた。体のダメージも大きい。もう、戦えない。
「おつかれさまでした、神父。どうぞ、お休みになってください」
「ああ。すまないが、そうさせてもらうよ」
あと――32メートル。
十、
一切の合図はなかった。例えば誰かがなにか叫んだとか、特別な音があったとか。あるいは、照明弾が打ち上げられたとか。
そんな合図は一切なかった。ただ、なにかしら彼らの感覚に――彼らが今この場にいる理由でもあり資格でもある霊感に――引っかかるものがあった。不快感、爽快感。あるいは、そのどちらともつかない、かすかな違和感。
合図などなかった。とにかく彼らはそれを感じ取り、瞬間、大きく後ろに飛んだ。本能ではない。ましてや理性でも。ただ、体が反射で動いた。
シロ、雪之丞、ピート、かおり、魔理。
おしむらくは、『横島』だった。
『横島』は怒っていた。いちいち自分に細く脆弱な牙をむけてくるそいつらが、うっとうしかった。
『横島』は怒り、そいつらを消しにかかった。明確な殺意を持って、初めて目の前の敵に集中した。
おしむらくは、『横島』が成熟していなかったこと。
目前の敵に集中するあまり、『横島』は周囲への――例えば誰かが黒魔術で呪いをかけようとするような遠距離に対する――注意を怠っていた。
それゆえに『横島』は、他の誰もが感じたその