遠くこの妙神山まで響いていた霊気が終息したのを感じ、彼女――魔族・ワルキューレは安堵の溜息をついた。
「これで終わったわけではないが――まあ、ひとまずは安心だな」
人間たちはよくやったと思う。まだ完全に覚醒していなかったとはいえ、あの『人魔』を封じこめたのだから。
そしてこれからは、疲弊した人間に代わり、神族・魔族が、ここ妙神山で横島を保護する。そのために、各界から強力な戦士が一名ずつやって来る。
戦士は両者ともワルキューレの知る人物だった。と言っても、親しいわけではない。片方は会ったこともなく、もう片方は、20ヶ月前には敵同士ですらあったのだ。
(だが、あの二人は強い。掛け値なく)
自分がここにいるのも、その二人を出迎えるためだ。『人魔』覚醒に小竜姫とパピリオがあわてて飛び出していったが、さすがにここを空けるわけにもいかない。わざわざ急な指令で駆け付けてくれるというのに無人では、あまりにも無礼だ。
(心象を悪くしてしまっては、後の作戦にも影響を及ぼしかねん。小竜姫やパピリオと違って、私は二人をよく知らぬし……っと、来たか)
生じた気配に、ワルキューレは振りかえる。踵をつけ、足は60℃に開き、中指まで伸ばした左手は腰の横。完っ璧な敬礼である。
「ありゃりゃ。ほんとに復興してるよ」
「ほほう。昔とはずいぶんと趣が違うのう」
だが、それに対する反応はあまりにも砕けた物言いだった。緊張感のかけらもない。それよりなにより、答礼しないばかりか無視するというのが生粋の軍人であるワルキューレには許せなかった。
これが魔族側の戦士だけなら叱りつけるのだが――実力は劣っていても、階級はこちらが上だ――のだが、神族に悪い印象を与えたくはなかった。
ここは軍ではないのだ。砕けた物言いであろうとも、多少だらけていてもよいのだ。
ワルキューレは、自分を律することに努めた。
「久しぶりだな、べスパ」
まず、自分の部下に語りかける。
「よう、大尉さん。確かに、久しぶりだね。――ああ、忘れないうちに、これ。アンタの弟さんからだよ」
「ジークから?」
受け取った封を空け、中の書類にざっと目を通す。
内容は、武闘派魔族たちの情報だった。各派閥の構成やその行動までが記されている。
だが。
「……ここ最近に動いた組織はないようだな」
「多分、あたしらが生まれる前にアシュ様の直属だった奴らがやってるんだろ。どの派閥にも属してない奴だっていたしな」
「お前は知らんのか?」
「生まれてすぐ逆天号に乗ってたんだよ。判るわけないじゃん」
「そうか。まあ、それは後でゆっくり話そう」
書類を収めると、ワルキューレはもうひとりの方に視線を移した。
「失礼しました。ご挨拶が遅れました、私は魔界正規軍大尉・ワルキューレです。あなたのお噂はかねがね――」
「堅苦しい挨拶はよい、ワルキューレ殿」
低く冷たい声が、ワルキューレの言葉をさえぎった。
「事は緊急を要する。お主に一つ尋ねたいんじゃが――」
その声は、真剣そのもの。なにより緊急という言葉が、ワルキューレを軍人へと引き戻した。
「なんでしょうか?」
先を促すワルキューレ。自然、表情も引き締まる。
それに応えて、彼女は言った。ことさらに低く、冷たい声で。真剣そのものに。
「温泉はどこじゃ?」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
沈黙。バカらしいほどに、アホなほどに、マヌケにも続く沈黙。
背後で、いるはずのないカラスが「アホー」と鳴いたのを、ワルキューレは聞いた気がした。
「……お、温泉…………ですか…………?」
「うむ。あやつがここの温泉はすごくよいというものじゃからの。人間界に降りる機会は滅多にないので、一度入ってみようかと思ってのう」
嬉々として、彼女は語る。どうやら本気で楽しみにしているようだ。
「へえ、そんなにいいのかい?」
「うむ。お主も入るか、べスパ?」
「当然」
「と言うわけじゃ。ワルキューレ殿、はよう、案内してたもれ」
「はい………………こちらです、大竜姫どの」
げんなりとして、ワルキューレは観光地のガイド役を務めた。
(もしかしたら、小竜姫が出ていったのは、顔を合わせたくないからかもしれない)
ふとそんなことを思った。真実はわからないが。
ワルキューレの中で、軍人のなんたるかが、ガラガラと音を立てて崩れていった。