MISTER ZIPANGU > REVIEW 'LoveHINATA' > Vol. 4
以前は主人公の日吉をほったらかしてヒナタをネタにして騒いでいた私ではありますが、さすがにサンデー21号以降の展開を読んだら、もはやショートカット巫女娘にだけキャラ萌えしている場合じゃねぇと思いました。
何しろアンタ、日吉(=秀吉)対信長ですよ秀吉対信長! 日本の戦国史の二大ヒーローが夢の対決ですよアンタ! 人気キャラ同士が対決する面白さってのは「ルパン対ホームズ」や「X-MEN VS STREET-FIGHTER」などが証明しておりますが(偏った例え)、まさかこのマンガで斯様な対決が見られるとは!
確信犯的に「火薬庫で火遊びする
」バカをやっているが故にそう簡単には手を引いてくれそうにない信長に対して、信長という人物を知っているが故に事態を収拾することができる可能性がある唯一の人物になってしまった日吉。サンデー22号では、ついに日吉対信長の命を懸けたとんち勝負が! とんち勝負が始まってしまいましたよ! さぁ将軍様、その虎を屏風から追い出して下さい!(←誰?)
というか、私最近思うのですが、日吉が知恵を働かせ始めた時のカットって、なんか耳が必要以上に大きく描かれているという気がしてなりません。多分このマンガには、「日吉がとんちを働かせている時は耳が大きくなる」という不文律が制作者の側に存在しているに違いないのです(憶測だが断言)。
「日吉の耳が大きくなる」ってのは、一休さんにおける座禅や、とんち番長(「サルでも描けるマンガ教室」参照)における「とんちポーズ」に相当するものなのです。きっと、このマンガの本質は「とんち」にあるに違いないのですよ。とんち。
初回の「天下を狙え」、前回の「眠る忍者」の展開は、どちらも「放ったらかしにしておけば人が死ぬような事件に巻き込まれた日吉が、(周囲の人間の協力を得ながらも)その状況下で最善の選択をして事態を収拾する」という形式になっており、今回の「蜂須賀村の決闘」も基本的にはそのフォーマットに従った形に話が構成されています。Cns-BBS でイングラム氏が発言していましたが、このマンガの最大の目的は「ゲームのルール(=そのエピソードの状況設定)を日吉が把握し、そのルールに基づいた行動を行って状況を打開、勝利する」過程を描くことである点は、おそらく間違いないところでしょう。
以前、ここで『極端に限定された状況下での駆け引き』を描くマンガ家としてマガジン連載「無頼伝 涯」の福本信行氏の事を書きましたが、「MISTER ジパング」が目指している路線も、大ざっぱに言ってしまえば福本氏の作品のような知謀戦が話の主軸となる公算が大きくなって来た感じです。
そう考えてみると、このマンガが戦国時代を舞台としたのは、少年マンガとして判りやすいというのは勿論のこと、この手の「知恵の探り合い」というテーマに沿った舞台設定を作りやすい点から選ばれたのかも知れませんね。
戦国時代の大名達は、皆生き残るために常に知恵――即ちとんちを駆使していたのは歴史上の事実であり、即ち戦国時代とは「とんち」こそが世の習わしであり正義であった時代であり、その時代に登場するキャラクターはみんな「とんち」を使って勝負するという、正に「とんち番長」の如き世界であった、という事になる訳なのです。とんちが世の中を支配! ああ、なんて素晴らしい世界なのでしょうか!
MISTER ZIPANGU > REVIEW 'LoveHINATA' > Vol. 4