美神 令子・その人生・その愛

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96/ 8/ 3

 お久しぶり。更新が遅れてゴメンね。

 で、現在連載中の「バッド・ガールズ!」編も、ストーリーの主軸がおキヌに収束して来ており、話にまとまりと言うか、テーマみたいなものが見えてきた。前回の「サバイバルの館」に続く格闘大会モードになった頃にはどうなることかとハラハラしていたのだが、もう大丈夫だろう。
 この調子でおキヌがレギュラーとして安定すれば、一部で心配されている、魔族が空から降ってくるような展開になる(=ファイナルチャプター突入)のはまだもうちょっと先になりそうだ。


 そういう訳で、もう今年も半分以上過ぎたことだし、この辺で極めて主観的な Conventional Wizdom 上半期結果発表をしたいと思う(何故かは聞くな)。



96/ 8/ 3

 8/ 3 から有明ビッグサイトで「コミケット」が開かれているが、行かれた方も多いだろう。なんかクソ暑そうなんだけど、みんなハッピーに参加できただろうか。
 私は諸般の事情で今回は参加できず、結局同人誌を買う代わりに NUTSHELL の Java 本を購入して喜んでいたりする。オレってハイテクー


 で、コミケ(および同類の同人誌即売会)に行く最大の理由はもちろん「同人誌をゲットする」事だが、最近は同人誌販売専門店などが出現していることもあり、メジャーな同人誌はコミケに行かずとも比較的容易に入手できる時代になった。
 また、藤宮ケイさんのように同人誌を Web 上で紹介・通販するようなサイトも、今後は増加するのではないかと思われる。何にしろ、入手手段が増えるのは良いことだ。

 「たかが同人誌じゃん」と思われている方もいるかと思われるが、しかし同人誌のマーケット市場を侮ってはいけない。
 同人誌市場のマーケット規模は今や20億円産業に発達していると見られており、メジャーな同人誌作家クラスともなれば、定職に就いたりプロの漫画家や作家になったりしなくとも、コミケなどの即売会の収入だけで十分に生活できる程の市場規模がある。「インディーズな同人誌の世界だけで生きていく」ことすら、現在のコミケ市場では可能だ。
 こういう話は、コミケに参加した人間であれば、どこかしらで聞いたことがあると思う。


 さらにこの市場がすごいのは、同人誌というコンテンツを供給する側の数が膨大であることだ。
 現在コミケが開かれているバカっ広い有明ビッグサイトですら、供給希望者の半数程度しか入ることができない程度のスペースしかない。今の日本には、同人誌の供給者の全てを受け入れるだけの物理的なスペースを持った展示場その他は、もはや存在しない。それくらい供給者の数は多いのだ。

 この前出たアエラの増刊「会社を棄てよう」に、脱サラして同人誌即売会ビジネスに転向した人のインタビュー記事が載っていたが、ビジネスの舞台として同人誌即売会業界を選ぶのは、なかなかいい狙い目だと思う。供給者は、自らの創作作品を供給できる場所を、常に求めている。

 今後、エレクトロニック・コマースが普及すれば、同人誌即売会を Web で開くような事も、当たり前に行われるようになるだろう。
 日本が世界に誇るおたく文化は、まだまだ様々な可能性を秘めているのだ(笑)。


 だが、おたくな人々(まだ言うか)がコミケに向かうもう一つの理由は、「コミュニティーの形成」のためなのではないのだろうか。

 同人誌は普通、サークル単位で作って売ったりしているのだが、このサークルは雑誌やパソコン通信で仲間募集をして結成するようなケースも多く、サークル誌なんかで同じ活動をしていても仲間の顔は知らない、とかいうケースもよくある。昔の私がそうだった(笑)。
 こういう仲間たちとの接点として、コミケは実に有効だ。コミケが近くなると、誰かがこう言う――「xxで@@さんが本を出してるから、コミケで集まろうよ」

 また、実際に同人誌を作っていない人でも、知人にそういう人がいれば、知人に誘われてコミケに行く、とかいうケースも多い。それに、一度コミケに参加した後、参加者側から供給者側に移る人だって多いと思う。供給者と参加者の境目が希薄なのも、同人誌業界の一つの特徴だ。
 実際、コミケはこんな形でどんどん参加者が増加して行ったのだ。

 そんな訳で、コミケというのは、同人サークルのコミュニティー形成の核となる存在である、と言っても過言ではないのではないのだろうか。コミュニティー形成の場としてのコミケが、現在の巨大市場を築き上げたと言えるだろう。


 Web 上でも今後、いろんな同人活動が活発になって行くと思うが、やっぱこの市場が成熟するかどうかは、同好の士同士のコミュニティーをうまく作れるかどうかなのかも知れないな、と思う今日この頃。

 なので皆さん、今後ともつきあって下さいね(笑)。
 長くなったけど、今日は以上。



96/ 8/14

 今回は、これも前からやりたかった「ショートカットツアー」ページを追加してみた。

 今までコンテンツを適当に追加してきた割には、この類の内容紹介ページがなかったので、これで少しは初めての方も内容を把握できるようになったのではないのだろうか(希望的予測)。


 あと、ここのトップページ(cirklo さん側のホームページ)の内容がここ最近変わっていない事に気付いている人もいるかも知れないが、この理由は――なんか、ここ最近 cirklo さんと全然電子メールで連絡が取れなくなっているので、何らかの理由でネットワークにアクセスしていないのではないかと思われる。

 という訳で、cirklo さん、ここ見ていたらマジで連絡下さい。



96/ 8/14

 今日は、前回好評だった「私が彼女達にせめてニックネームをつけて上げよう」企画を決勝戦の相手でもやろうとしたのだが、なんかサンデー35号 P.109 で対戦相手の名前がちゃんと書かれているではないか。
 これではニックネームをつける必要もないので、これで今回の企画は打ち切り。なんか先を越されたみたいで悔しい(笑)。

 仕方がないので、今回は久しぶりに「GS美神でボケてみよう」をやることにする。ネタは一つしかないから、よく見るように:


ゲソ美神


 以上。



96/ 8/27

 「バッド・ガールズ」編が終了した。

 今回のバッド・ガールズ編のストーリー上での特徴としては、「学園ドラマしている前半」と「格闘大会モードの後半」で、途中でノリがすっぱり変わった点にある。


 前半の学園ドラマモードの時は、「霊能科」という学科が出てきたり、弓が典型的でレトロな女子校的ないじめっ子だったりとか、今までのGS美神では見られなかったようなエッセンスが溢れており、かなり楽しませてもらった。
 椎名高志氏は、この手のレトロなパターンの物語のパロディを作るセンスに関しては卓越したものを持っているので(「ヨコシマン」なんかが良い例だ)、今回はかなり期待できるな、と思っていた。
 ……だが、途中から校内対抗戦という「格闘大会モード」に移行。途端に興味が薄れてしまった。

 予め言っておくけど、今回のバッド・ガールズ編は、話としては「弓と一文字の確執の解消に思い悩むおキヌ」という物語の核がテーマとして終始存在していたため、最終的にはキレイにまとまったいいお話に仕上がったと思っている。
 同じ格闘メインの展開でも行き当たりばったりさが目立った「サバイバルの館」よりは、はるかに面白い。その点については満足できる内容だった。

 ただ、前回の「サバイバルの館」は典型的な「格闘大会モード」な話だった(かつ、あんまり面白くは感じられなかった)だけに、まさか連続して格闘大会をするとは思わなかったのも確かだ。今回興味が薄らいだ原因も、ここにある。
 何故今、そんなにGS美神は格闘大会モードなのか?


 長期連載マンガがいわゆる「格闘大会」を行う最大の利点は、ある程度「紙面」と「時間」と「アイデア」が稼げる点だろう。製作者側は、毎週毎週新しいキャラクターを出して主人公と戦わせている間に、次の展開を考える余裕ができる。また、格闘メインの展開だと、次週への「引き」も作りやすいように思える(何となく)。要するに、「格闘大会モード」は話の長さを作者がコントロールしやすいのだろう。

 しかも「格闘大会」は、一度始めるとなかなか止められない事でも有名だ。さらに、一度格闘大会してしまうと、ちょっと間にインターバルを置いてから再度格闘大会に手を出してしまうという「習慣性」があることでも知られている。「格闘大会」モードに入ったマンガを「XXもついにシャブに手を出したか」と揶揄する読者がいるのは、このためだ。
 作者の側は格闘大会を盛り上げるために色々苦労しているのかも知れないが、読者の側から見ると「格闘大会モード」に突入したマンガは、何か制作者が楽をしているように見えてしまうという欠点がある。悲しい格闘大会モードの宿命である。

 もちろん、格闘大会ばっかりやっているマンガが全てつまらないという訳ではない。「グラップラー刃牙」や「修羅の門」のように、格闘大会ばっかりやっていてもちゃんと面白く読めるマンガも、もちろん存在する。
 だがしかし、「GS美神」は、基本的に格闘大会を中心として成り立つタイプのマンガではないと思う。では何故、「GS美神」が今、格闘大会モードに入らなくてはいけないのか。


 その理由だが、私の想像では、単に「最近は長丁場の話を編集サイドから要求されているからではないか」、と思っている。
 GS美神が、現在のような全10話程度の長編を繰り返す展開が顕著になってきたのは19巻からだろう。コミックスの収録構成を観てもらえば判るが、19巻以降は、大抵「1つの巻だけではエピソードが完結せず、次の巻に話が継続する」作りになっている(20巻を除く)。つまりは、連載中に、既にコミックスの構成を意識した話を作ることを要求されているのだ。
 連載中にコミックス化されたことを考えた構成にするのは、もちろんどの雑誌でもやっている事だろうが、でもここまで「1巻で完結しない」構成に拘っているのを見せられると、何らかの意図が編集者の側にあるように見えてしまうのだ。

 要するに、最近のGS美神は、話の長さを調節しやすい「格闘大会」を使って、各エピソードの話数をある程度稼いでいるのではないのだろうか? ……と、私は最近、そう思うようになっている。
 こういう要求に応じながら作品を描き続けていくのも、またプロのマンガ家の仕事の一つなのかもしれない。


 その昔、「誰が為に鐘は鳴る!」編が始まった時、Nifty-Serve では「ついにGS美神もシャブに手を出したか」という声が聞かれた。
 GS美神は、今再びそう呼ばれることになるのだろうか?