「それで?」
 受け取った体温計の目盛りを見ながら、姫坂千春は言った。
 36.7℃。体温に異常は見られない。
「大変だったんすよ、その後。美神さんもおキヌちゃんも、シロまでオレを睨みつけて。神通棍に、他の生徒から奪ったキョンシーに、霊波刀に囲まれて」
「ふ〜ん」
 血圧計を腕に捲きつつ、相槌を打つ。
 先ほどまでは自分の唯一の担当患者の話をちゃんと聞いていたのだが、『キス』の件で、その余裕は失せた。平静を装うのがやっとだ。
「ぼこぼこにされて。美神さんに続けとばかりに他の生徒たちまでやって来るし」
「ふ〜ん」
 計測終了。血圧も通常通りだ。
「やっと包囲網をぬけたと思ったら、ひのめの炎で焼かれるし」
「ふ〜ん」
 次は霊波長の測定だ。今回は魔族と接触したのだから、念入りに行なわねばならない。
「まったく。発火能力者のツープラトンすよ。タマモが制御して」
「災難だったわねえ」
 言いつつ、特にそうは思っていない。すでに毎度の事だからだ。
 どうやら彼を殴るのは、彼女らにとって一種のコミュニケーションのようだ。初めての外出から帰ってきた時は、その血まみれな姿を見てそれはもうびっくりしたが。どうやら慣れてしまったらしい。
「はい。それじゃ横になって。そう、目を閉じて、リラックスして。同時に脳波も見るから。眠たければ眠っても構わないわよ」
 脳波は後で記録したものを見るとして、霊波長からは目を離せない。精度が悪いからだ。ディスプレイに表示される波と共に、霊力者としての自分の感覚も総動員しなくてはならない。さもないと、異常を見逃してしまう。
 今回は、特に注意して画面を見つめる。
(なんたって、今回は魔族――それも、話を聞く限りじゃかなりの高位魔族と霊的格闘したみたいだし。忠夫クンの霊波に影響が出てる可能性は否定できない。
 そのうえ――――)
 そこまで考えて、なぜか続きが出てこなかった。
 ふと、自分の唇をなぞる。
 そのクールな要望と背の高さゆえに、彼女は男性とまともに付き合ったことがない。キスの経験もなかった。
(キス、かぁ……)
 横島と魔族のキスシーンを思い浮かべ、その片方を自分と入れ替えてみる。

 ボンッ!

 顔が耳まで赤くなる。頬に手をあて、いやいやと首を左右に振る。
 どうやら、なにか妄想しているようだ。
「――――ハッ! いけない、いけない。私ったら」
 現実の世界に回帰し、再び画面を食い入るように見つめる。
(集中、集中、集中――――)
 だが。
(……今、二人きりなのよね)
 ちらりと横島を見ると、またもや邪な考えが頭をよぎる。
(ダメ、ダメ! ダメよ、千春、職務怠慢よ! 今は霊波計に集中なさい!)
 三度、画面に向き直る。
 何を想像したのか、顔がにやけ――
 首を勢いよく振って、画面に目を戻し――
 顔を真っ赤にしてうつむいて――
 ピシッと気持ちを切り替えて顔を上げ――
 かと思えば、横島の寝顔を盗み見たり――
 この日、普段は三十分ほどで済むこの検査は、延々と三時間続いたのだった。

「それで?」
 優雅にレモンティーを口に運びながら、美神美智恵は言った。
 顔をしかめる。砂糖を忘れていた。
「あいつ、顔を真っ赤にして、デレデレしちゃってさ。さっきまで命のやり取りしていた相手によ? まったく、ばっかみたい!」
「あのコは物の怪の類にモてるからね」
 自分の娘の物言いに苦笑するしかない美智恵。砂糖を一さじ、紅茶に加える。
「そうなのよね。世界七不思議の一つよね」
(そこまで言う?)
 心の中でつっこむ美智恵。今度の味わいは上々だ。やはり、レモンティーはこうでなければ。
「ま、七不思議かどうかはさておいて、彼が魅力的だっていうのは確かね」
「あいつが? なに言ってんのよ、ママ」
「あら、本当のことよ?
 いいコじゃない。素直で、かわいらしくて。霊能力も強いし。ちょっとスケベだけど。
 私があと二十年若ければ、ほっとかないわねぇ」
「冗談きついって、ママ」
「私は本気よ。今はまだ発展途上だけど、あのコは将来絶対いい男になるわ。その時後悔しても遅いのよ。今のうちにツバつけとかなきゃ。
 でないと、おキヌちゃんやシロちゃんにとられたって知らないわよ」
「な!? わ、私は、別に、あいつにそんな――――」
「ま、あなたがなんと言おうと、私には関係ないことだけど。
 でも、出来れば私は、横島クンを自分の息子にしたいわ」
 言ってる意味を理解し、顔を真っ赤にする娘。それを見て、美知恵は立ちあがる。
「どこか行くの、ママ?」
「ちょっと買い物にね。横島クンのところにも寄ってみようかしら。ちょうど、からかう材料もできたことだし」
 テキパキと準備をし、部屋の扉を開ける。
「令子、ひのめをお願いね。そろそろ起きる頃だろうから。ちゃんとお昼食べさせてよ」
「え? あ、ちょっと、ママ!」
 扉を閉めるのと、次女の泣き声が聞こえるのはほぼ同時だった。
「やっぱり、娘をからかうのは母親の特権よね」
 苦笑しながら、事務所の外に出る。
 そこで急に、美智恵の纏う空気が変わった。
 ケータイを取りだし、番号をプッシュする。
 その顔に先ほどまでののほほんとした表情はなく、戦士としての力強さに満ちていた。
「もしもし、西条クン? 至急、妙神山に連絡、マリーという名の魔族について調べて。ええ、そう。まだ介入はできないでしょうけど、情報くらいなら可能でしょう。でないと、こちらも動きようがないわ。そう、可及的速やかにね。少しでも対策を練らないと。ええ……ええ、そうよ。じゃ、ヨロシクね」
 美智恵は、ケータイを切った。

「それで?」
「それでって……それだけですわ」
「それだけ? そのまま帰ってきたのか?」
「ええ、そうですわよ」
「……ハァ。まったく、お前には呆れるよ」
「あら、心外ですわ。わたくし、とてもマジメにやっていてよ」
「『人魔』とキスすることがか?」
「早々に覚醒させてはつまりませんわ」
「悠長なことを言うでない。我らの存在を知られてしまったではないか」
「別にいいじゃん。神族はそう簡単に動けないし、魔族軍で僕らより強いのは、あのユダ一人だろう。あいつは人間界駐留要員じゃないんだし」
「パピリオを忘れるでない」
「奴は小竜姫の庇護下にある。問題ない」
「ほら、やっぱりいいじゃんか。別段不利になってないんだから」
「そうだが、そうなる可能性を含む要素を作るなと言っているのだ、私は」
「いいじゃありませんか。あの人、とっても可愛いんですのよ。また会ってお話したいわ」
「お主、我らの目的をわかっておろうの?」
「彼のことをわたくしに一任された事も、お忘れなく」
「結果が出れば文句は言わん。過程がどうだろうとな」
「なら、過程で口出ししないで、結果を待ってくださる?」
「そうだな。『血まみれの聖母』の実力、見させてもらうとしよう」
「頭にのるでないぞ、小娘」
「それじゃ、またね。マイ・ラヴァー!」
「ごきげんよう」

「――――さて、横島さん? あなたは御自分を、どこまで理解していて?」


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