『ルシオラにおけるエロス(ルシオラの存在領域に関する考察)』
北白川 玉砕(北白川心霊心理研究所)
【ルシオラ、その発生】
生きる者としてりルシオラの発生は、いわばその生命としての源を他の個体、昆虫たる蛍に求め、心霊的な融合を基としたヒューマノイド形態により確定されている。
それに一般的な知的意識のすり合せが加わった事で、異種族たる人間との生体的な存在領域が一致した。
これにより、改めてルシオラという個体の認識が完了したのである。
ルシオラは、人間にとって脅威の存在である。
その持ちうる能力のほとんどが人間のそれより優れ、強力なものとなっている。
しかし、知識と経験に伴う歴史的心象構成のバランスは、酷く崩れているのだ。
その、強くもあり弱くもある微妙な感覚が、ルシオラの個性を際立たせている。
そして、そのルシオラにまつわる概念について、フロイト的に考察してみよう。
【ルシオラとエロス】
生きる者としてのルシオラが持つ「生きる本能」、それがすなわちエロスである。
ルシオラの精神活動における生きる本能とは、本来の動物学的な目的である「種の継続・繁栄」とは全く事なる側面を持つ。
ルシオラの遺伝子・ゲノムには、種としての意味はない。
人工生命体として、すでに完結しているからである。
では、ルシオラがその心に求める「生きる本能」とは如何なるものであろうか?
それはすなわち「寿命を全うする事」に他ならない。
その、決して長くはない生命の脈動を、思う存分に堪能する事である。
子孫を作る細胞を支配する性的な生の本能が抑圧されているかわり、その身体的な能力を最大限に発揮出来る様になっているのだ。
創造主たる悪魔アシュタロスへの忠誠を保ち、その世界革命の道を開く為に。
そのためだけに創られたのがルシオラなのである。
しかし、ある一点の時を越えてからルシオラの「生きる本能」は別の方向になる。
人間の男・横島との出会いがきっかけとなったのだ。
純然たる人間・横島と、ルシオラとの間には、本来深い溝があるべきなのである。
それは、支配層と非支配層との階層意識による、譲れぬ溝と同じものであった。
しかし、その溝は突然にして埋った。
それはルシオラの感傷なのか、横島の同情なのか。
一気に狭まり埋ったその溝は互いに激突し、精神の大地をゆるがした。
その結果、意識の中に巨大な盛り上がりが生まれたのだ。
いわば、愛という名の「峰」である。
その峰は、暮れ行く夕日を眺めるのに、丁度良い高さとなった。
ルシオラが求めたもの。安らぎと生きる喜び。
自分の命は、生きる為にあったと気付いたのである。
ルシオラが、始めてエロスを認識した瞬間であった。
【ルシオラとタナトス】
ルシオラがエロスを感じたと同時に(それは本当に同時であったが)もう一つの本能、いわゆる「死の本能・タナトス」も勢い良く噴出してきた。
ルシオラにとって、創造主への反逆は、それすなわち死を意味していたのである。
横島と築いた意識の峰を、自らの手で崩さなければ本懐は遂げられない。
その事実に気付いたルシオラは、その心の流れを遡る。
横島の心に残る為には・・・
横島の胸に抱かれる為に・・・
そして、死ぬ為に・・・
生きる者の宿命として、ルシオラは死ぬ。それは確実に。
しかし、どのような死でも良いわけではない。
生きる者の死は「ただひとつの特別な死」においてのみ成就される。
ルシオラにとって以前までは、アシュタロスの従属者としての死がその特別な死であったが、今は横島との愛の最終形としての死が特別な死となった。
人は、特別な死に当てはまらない死の脅威から身を守る。
その意味でタナトスは逆に命を守る為の「死の本能」となりうるのだ。
ここでルシオラはエロスとタナトス、二つの本能を手に入れた。
一見、相反するこれらの本能は、ルシオラの意識の中で複雑に絡み合い、融合してルシオラの個性に溶け込んでいく事になる。
そして、タナトスは時に形を変えて表われる。
何か障害にぶつかった時、その障害と戦うべく防衛の力となるのである。
しかし、それが「自分が障害である」と認知された場合、自己破壊の行動をもたらす可能性があるのだ。
ルシオラは、横島と自分に関わる事象が発生した時など、「終焉」や「自己犠牲」を匂わせる口ぶりを示す場合がある。これが何よりの証拠であろう。
ルシオラは人間に近くなればなるほど、その人間的な脆さに晒される事になった。
【ルシオラとリビドー】
エロスに気付き、タナトスを得たルシオラは強固であり脆弱でもある
人間・横島との共存共栄を求め、創造主と袂を分かったルシオラがその手にしたものとは、すなわち「愛」という名の感情である。
だが、それは安らぎをもたらす前に、常に脅威に晒されてもいるのだ。
外的要因だけでなく、内的要因においても、それは同じである。
例えば、ルシオラの過去と横島の歴史。
思い出ひとつ取っても、ルシオラと横島との間では、その占有領域に格差がある。
そのギャップに耐えるには、ルシオラの経験はあまりにも乏しい。
しかし、ルシオラは自ら選んだこの運命に立ち向かわなければならないのだ。
そして現在。
ルシオラは現実原則によって、衝動のエネルギーを生きる喜びに昇華させている途上にあるのだろう。 それによってルシオラは急激に環境に順応しつつある。
そして、横島が自分に向けるリビドーは、ルシオラ自身のリビドーをも喚起させる役目を担っている。
しかし、このリビドーによる快感原則は一次的であり、すなわち願望の充足のみに向けられている。
それに、ルシオラにとって優先すべき事象はそれではないのだ。
ルシオラは、リビドーのエネルギー全てを現実適応に注いでいるのである。
やがてルシオラは、エロスによるリビドーで自意識を発見し、タナトスを通じて人間、すなわち横島とのリビドー的な完結を求めるであろう。
ルシオラのみならず、人間が生まれついて持っている行為への生物学的欲求とは、抑圧による源泉を得て、昇華によってエネルギーを供給し、自らを見つめ意識する事と同時に対象への満足を求め、その満足を遂げる事を目的としているのだ。
それが、すなわち「本能」である。
以上、拙いながらフロイトを基にしたルシオラ的存在への私なりの考察である。
最後に、この一言を捧げる。
『ルシオラは、その命に悔いなく生きる為に、そこにいるのだ』
厄珍堂出版・刊行:季刊「ブラフマン」(98・夏号)より転載。
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