――
その事自体には、何も前兆はなかった。ただ、静かに――そして、確実に、時が進んでいった。それだけの結果として、その事は発生したと言えた。
それは決して迅速であったとは言えなかった。
数日を要した。
その数日に、それは為した。
それは、巻き起こした。
それは、忌んだ。……否、忌まれた。全てから。
全てはそれを自然発生的に受け止めた。ただ黙して、それが自らに何も為さずに去るのを待った。それに全ての耳目が注がれ、その中でそれは荒れ狂った。
それは動いた。
それは明らかに動いた。
動くそれは、明らかに何かを求めているように見えた。
……前兆はなかった。
それは活動を開始した。
――2001年 3月27日 23時48分(ブリティッシュ標準時)グレートブリテン王国 キャンベルタウン グランドホテル――
アン・ヘルシングは空を眺めていた。
視界に映るのは、毒々しいまでに昏い陰鬱な闇夜――その暗闇の中には星一つない。無意識に明るさを求めたことを自覚し、アンは胸中で自らを戒めた。そんな事でどうする。自分はGSだ。
そこは、ホテルの前庭だった。噴水が滾々と水を吐き出し、暗闇を静寂と分離させている。闇の中に紛れているが――確か昼間はダヴィデ像をこの辺りに見た記憶がある。勿論イミテーションだろうが。
とあれ、考えるまでもなく超高級ホテルである。アン個人の財政状況のみでは、宿泊することはおろか、一食を摂る事さえ不可能であっただろう――それが出来るのは偏に、アンを含めたGSらがこの場所を待ち合わせに指定していたからであったりするのだが。
(それをあっさり受けちゃう相手も相手だけど、ね)
心中でのみ、呟く。
自分が未だそれほど高い評価を下されていないのは自覚していた。曽祖父が残したイージス・スーツ、『ダビデ』と『ゴリアテ』は、悪霊退治にも充分に役立ってはくれたが、それとて知識がなければ完璧には使いこなせるはずもない。ここ数年――日本から帰ってきてからだ――、それなりに勉強はしたつもりだったが、まだまだ実戦で教えられることは数多い。
闇夜に、影が射す。
夜空から前庭に眼を移し、過去へと思いを馳せる。
GS免許は昨年、手に入れた。グレートブリテン王国においては、GSには年令制限はなく、実力があれば七歳の子供がGSになる事すら可能である。それでも、十六で免許を取るのは早いと言われ、父にも随分反対された。基礎としての霊能力が低い自分が合格できたのは、偏に曽祖父のイージス・スーツのお陰だろう。
それでも、自分はGSになった。
GSとして。仕事はこなさねばならない。殆どの悪霊は『ダビデ』で瞬殺出来得るものであったが、稀に手強いものもいる。命の危険は、常にある。
当たり前の事だ。自分は、GSなのだから。フィールドワークに勤しむ、学者ではないのだから。
曽祖父――ヴァン・ヘルシング教授は、学者であり、GSでもあった。
父は学者だ。――だから、自分は……アン・ヘルシングはGSになった。理論で人々を救うよりも、現場においてそれを実行する方がいい――
(……当たり前よ)
暗闇が、広がっている。
椅子に座っていても、眼を閉じていても、暗闇は肌から忍び入ってくる。眼前の闇は、世界全てに――自分にとっての全ての世界に広がっている。何処を見ても、今は、闇しか見えない……
前途には、闇――
「ッ!」
不吉な考えに舌打ちして、アンは自らの頬を平手で叩いた。心地よい痺れが、頬から脳髄、そして、身体全体へと、満遍なく広がってゆく。その感触酔う自分に、彼女は再び舌打ちした。椅子に深く腰掛け直す。
それが、自分か。
再びの考えは、自ら否定することもしなかった。
彼女は闇の中、苦笑した。否定して何になるというのだ? 自分は自分。他の誰でもない代わりに、他の誰にもなれない。
苦笑ついでに、脇にあるはずのテーブル――ホテルの庭のチェアの脇には、セットでテーブルが置いてあるものだ――を手探りで見つけ、その上から一枚の紙片を拾い上げる。
闇の中、彼女は目を細め、数秒、それを見つめた。
そして――嘆息する。見えるはずもない。黒い壁に阻まれ、視線は数十センチ先にも届かなかった。
ただ、記憶はしていた。それに書いてあること――
――『Wolf Hunting(狼狩り)』――
無論、比喩だ。悪霊は獣。既に数個の街を壊滅させて、今、まさにここに向かってきている獣……
それを倒す。それが仕事。GSとして、自分がこなすべき仕事。今回は一人で戦うわけではない。大掛かりな武器を持つ自分は、基本的にフォワード――敵の足を止める事に専念することになるだろう。
やることをやる。それが、プロ。
自分は、GSなのだから。
――ノース海峡――
もし、そこに生物があれば、それは恐怖したかもしれない。たとえそれが意思なき昆虫の類であったとしても、本能がそれを怖れる。恐れる。畏れる。
それは疾っていた。文字通り、疾風の如く疾く。
それは唸っていた。余人の耳には聞き取れぬほど小さく――されど、本能がそれを感知する。慟哭の――そして、恫喝の叫び。
それは滑っていた。波の上……海上を疾く。
それは探していた。
それは求めていた。
それは…………
ヒトの敵。
太古の魔物。
超然の殺戮者。
そう、
それは獣だった。
――3月28日 9時03分(ブリティッシュ標準時)キャンベルタウングランドホテル――
一夜明けて、そこに既に闇はなかった。
――闇は心に潜む物。そう、祖母に教えられたのは何時の頃だっただろうか……少なくとも、自分に今の性格が形成されるよりも以前の事であるのは確かだ。自分でも捻くれていると思われる性格は、その様な与太話をマトモに取り合うとは思えなかった。
(それが、どんなに必要なことだったとしてもね)
アンは思わず漏れた場違いな苦笑を掌で隠し、それなりに広いホールの壇上で今回の除霊内容を詳しく説明する依頼人の声に意識を戻した。身振り手振り――更には図すら使って、集ったGSたちにこの悪霊がどれ程危険なモノであるかを説明しようとする肥満体質の男は、この肌寒さにも関わらず顔中に脂汗を滲ませている。緊張の所為か――
はたまた、今回の除霊に対する感情であるのかは、解らない。
危険な仕事であるという事はポスターにもしつこく三重丸で囲まれて描いてあった。――ついでに、たとえ怪我……場合によっては命を落とすことになろうとも、当方は何の責任も負わないとも。
集まっているのは、年齢も性別も……はたまた格好もバラバラであるGSの集団。この広いホールがそれなりに埋まっているということは、結構な数の応募者があったという事か。みな、それぞれに自身のありそうな表情をしている……
アンは肩にかかる金髪――二年の間に伸びたソレ――を払いのけ、自らの左胸に手をあてた。――柔かい乳房の感触の下に、明らかに普段よりも緊張の度を増していると分かる心臓の鼓動が覆い被さる。自分は興奮している。
(……それがどうしたの)
当たり前だ。コレは、自分にとって――GSアン・ヘルシングにとって初めての大きな仕事である。これまでの雑魚悪霊退治とは訳が違う。この興奮は当然の事だ。
……そう、当たり前の――
(そうよ……これは当たり前。私は駆け出し、今はこれくらい――)
――なのに、
――――なのにどうして、
(私は…………震えているの?)
自らに意識を戻してみれば、左胸にあてたままになっている左手が細かく震えているのが分かる。先ほどから耳に障るカチカチという音――これは、考えれば自分の歯の根が当たる音であった。そういえばあの男が繰り返し説明する事柄すら耳に入ってこない。脚が震え、立ち上がる事も出来ない――
(……私は、死にたくない――死ぬのは嫌……怖い……)
この仕事……
死の危険は……
高い。
「ピート、兄さま……」
(私を……護って……)
呟きは、周りにいるGSたちの耳には届かなかった。
――キンタイア半島南部の海沿い――
死を撒き散らし、疾る。
獣は、疾る。
蒼の上を……疾る。
その日、ひとつの町が地図から消えた。
GSM MTH6
Travelers Blues
――別離と邂逅――
――2001年 3月28日 7時02分(アメリカ西海岸標準時)アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス UCLA敷地内――
目覚めと同時に横島が感じたのは、激しい寒気と耐え難い空腹だった。……その明らかに不快な感覚に歯軋りし、起き上がる。
周りを見渡す。
見渡す限り、視界に入るのは緑の丘ばかりであった。敷地内で夜を過ごすことができるからと、着いて早々雪之丞に連れてこられたここUCLA(カリフォルニア大学)には、確かに部外者の闖入にも気づかないだろうと思わせるだけの広さがあった。
(……にしても、着いて早々野宿ってのがそもそも間違ってんだよなー、雪之丞の奴)
そもそも自分が何故ここまで連れてこられたのかを考え直す。
自分は、地球の反対側まで何をしに来たのか……
金魚の糞のように、ただただ雪之丞にくっついて来た訳ではない。……ないはずだ。
側らで、いまだシュラフにくるまって鼾をかいている小柄な塊――伊達雪之丞を見下ろす。コイツにも、何か理由があるというような事を言っていたが――
(まぁ、いいか……)
立ち入るべきではない。
その代わりに、横島は雪之丞がくるまっている毛布の端を掴み、思いっきり引き剥がした。
「雪之丞、いーかげん起きろ! 守衛が廻って来るぞ!」
実際は分からない。横島がここに来たのは初めてであり、そもそもの守衛というものが存在しているのかどうかすら知らない。――それでも、夜間に塀を乗り越えて入ってこなければならなかった以上、自分達がこの場所にとって闖入者である事には変わりない。
「なに、守衛!?」
反射的に飛び起き、慌てて散らばった毛布や缶詰(二人でひとつ)の空き缶を掻き集め始める雪之丞。そのまま寝ていた為、元々よれよれであったワイシャツは滑稽なまでに破茶滅茶になっており、さらに元々はねている髪の毛も、普段より少なくとも二割増しでくしゃくしゃになっている。
「何やってんだ横島、お前も早く荷物纏めるんだよ!」
「……やっぱり不法侵入だったわけだな」
寝る事が出来る、というのは、単純にそれだけの意味。この言葉に雪之丞が指した事は、『寝ても良い場所』ではなく、『寝られる場所』であったようだ。
「……って横島、何処に守衛がいるんだ?」
逃げる泥棒そのままの格好で走りかけながら、今更ながらに問うてくる雪之丞に、横島は深い深い嘆息を返した。手際よく毛布や焚き火の跡(違法)を片付け――無論、この手際の良さは経験からだ――、まだ洗いたての匂いがしないでもない黒コートを放ってやる。
「方便だよ。起きたんならとっとと出ようぜ。急がないとマジで守衛が来るかも知れん」
「横島ぁぁ……」
情けない顔で座り込む雪之丞を尻目に、横島はすぐ近くの塀に向かい歩き出した。
――7時34分(西海岸標準時)――
これでいいのだろうか。
塀を軽く乗り越え、雪之丞は今更ながらに懊悩を深めていた。
少なくとも、これで横島が自分と同じ道を歩む可能性は少なくなった――が、ここで自分はいてもいいのだろうか。……そして、自分の目的を果たすコトに……横島を巻き込んでいいのだろうか……
恐らく自分は監視されているだろう。空港では気をつけて横島と別行動を取るようにしたし、街に入ってからも気をつけてはいた……まだ発見されてはいない自信はある。
……だが、
いつまでも発見されないでいられるわけもない。あちらには恐らくマフィアがついている。アメリカ黒社会の情報収集能力には、時として侮れないものがあった。
それに……横島を――
(くそッ!!)
心中で叫び、雪之丞は前を歩く横島を追った。
――7時57分(西海岸標準時)――
「――で、結局俺らは何処に向かってんだ?」
当てもなく早朝の街を歩きながら――
横島は隣を同じように歩いている雪之丞に訊いてみた。
ロサンゼルスの町は車が多い。一応歩道は申し訳程度にあるのだが、少し裏道を歩けばそれもなくなり、それでも容赦なく突き進んでくる車両に轢き潰されない為には、建物に身体を密着させるようにして歩くほかない。
それを実行しながら――である。当然二人横に並んで歩く事は出来ないので、雪之丞は横島の前を同じように歩いていた。
「さーな、別段考えちゃいねーよ……が、飯は喰いたいだろ?」
予想通りと言えば予想通りの返事。
コイツは一体何を考えているんだろーか。一度頭をこじ開けて隅々まで入念に調べてみたいという欲求を懸命に押し殺しながら、横島は空を見上げた。視界の隅に雀が映る。そうか、アメリカにも雀はいるんだ。
「おい雪之丞。ヒトをこんなトコまで連れ出しといてそりゃあないんじゃあないか?」
「付いて来たのはお前だ」
「誘ったのはお前だろうが」
「む……」
黙りこむ雪之丞。痛いところを疲れたような表情が全てを物語る。横島は勝利の笑みを浮かべ、取り敢えずそれ以上の追求は控える事にした。自分とて、地雷は踏みたくはない。
ついでに考える。俺は何でコイツに付いて来たのだろうか……
当たり前ながら、答えは出ない。当たり前ながら、答えは既に解っている。
相矛盾する、二つの回答。
「……んで、指し当たっては朝飯だが、どーすんだ?」
訊き方を変えてみる。飯を喰えるのならばそれに越した事はないのだが、これによって自分達が何処へ向かって歩んでいるのかを知りたい。わざわざこのような裏道を通ってゆくくらいなのだから、指し当たっての目的地は明確であるはずだ。
「ん、リトル・トーキョーだ」
「リトル……東京?」
聞いた事はない。
「おう。ロス中心街にあるんだがな、日系人が多く住んでいる地域なんだ。だから蕎麦屋もあるし日本食を出すレストランなんかもある。ついでに日本語が通じるから情報も集めやすい……ってコトだ」
「なるほど」
伊達に世界中を旅行してまわっていたわけではないらしい。首肯し、納得する。確かにことこの場において、コミュニケーションスキルが足りない事は致命的である。少なくとも、アメリカに来て英語を話せない自分では――
「――って待て」
「ん、どした?」
立ち止まり、冷静に考えてみる。入国手続きのときはどうしたか?――親切な係員だったので、簡単な英単語で質問してくれた。更にその後便乗させて貰ったトラックのアンちゃんも、『プリーズ、UCLA』『UCLA?』『オゥ、イエース。サンキュー』だけで会話が通じてしまった……
「雪之丞」
「オウ」
自分の直感が外れていることを祈る。
「お前、英語……話せるよな?」
「いや、全く話せんぞ」
横島の直感は、直球ど真ん中ストレートで核心を貫いていた。その暗い感触に、しばし落ち込む。おい、お前どーやって世界中を旅行してまわってたんだよ。
「なぁ」
「ああ」
「お前、香港にいたんじゃなかったっけ?」
「広東語なら話せるぞ?」
「じゃなくて、英語」
「広東語話せりゃ必要ないからな」
「……そーか」
「そーだぞ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……何か問題が?」
「…………」
「…………」
「……大ありだ」
「……ふむ」
「ちなみに俺も英語はこれっぽっちも話せん」
「安心しろ、俺は高校すら行ってねぇんだから。俺より下という事はないはずだ」
「俺も高校には三年間で半分くらいしか行ってねぇ」
「………………………………」
「基礎学力、全くないぞ」
ぷーっ。……ぶおぉん……
これは脇を車が通り過ぎた音。
「……横島」
「……なんだ?」
「残金は」
「23ドルと8セントだ」
「……俺は7ドル19セントだ」
びゅおぉーん…… かさ、かさかさかさっ かさ
不意に吹いた北風が、丸まった新聞紙を足元に転がしてくる。
「リトル・東京って、こっからどんくらいの距離なんだ?」
「……大体40キロってとこだ」
「………………………………」
「………………………………」
立ち尽くす横島の背後からクラクションが聞こえる。風が路上に落ちた新聞紙をはためかせ、それが脚にまとわりつく。眼前の雪之丞のコートがなびく。趣味の悪い黒い帽子が風に舞い、アスファルトに落ちる。
その帽子を拾うでもなく、また、あえて横島もそれを促すでもなく、二人はただただその場に立ち尽くしていた。
――8時12分(西海岸標準時)商店街――
これでは……駄目だ。
プラカードを持って、懸命に車を獲得しようとしている――要はヒッチハイクを試みている――横島を半眼で見つめながら、雪之丞は確信した。――そう、駄目なのだ。
これは金銭的な問題ではない。
コンビニエンスストアの前に座り込み、金髪碧眼の店員に、日本でのそれと同じ胡乱げな視線で見つめられながらもそれを意に介さず、雪之丞は音に出して嘆息した。
双方にとって。
(やっぱ……これじゃあ駄目だな……)
車が停まったらしい。
雪之丞は立ち上がった。
――9時40分(西海岸標準時)LA中心街 リトル・トーキョー――
人の情けが身にしみる。
あの後、なれない英語でヒッチハイクを敢行し、それに応え早朝にも関わらず軽トラックが一台停まってくれた。自分達を乗せてくれるばかりか、財布が殆ど空に近い事を知ると、ファーストフードではあるが朝飯まで奢ってくれたのだ。
溢れる涙が止められない。
横島は涙を染み込ませながらポテトをほおばり、隣で無表情にパックの豆乳を啜っている雪之丞を横目で睨んだ。
「やっぱ、アメリカ人っていい人種だよなぁ……」
「……一応、身振り手振りって役に立つモンなんだな」
先ほどの車内での会話からの教訓である。
横島と雪之丞が懸命に誠意を持って実行した『空腹』のジェスチャーと、拾った段ボールにマジックで殴り書きした『TO LITTLE TOKYO』の看板は、それなりの効果を発揮してくれたようであった。
今は日本とは比べ物にならないほど広い公園に腰を下ろし、好意の結晶であるハンバーガーをパクついているのだが、何とかなったという自覚は、徐々に安堵感へと変わりつつあった。
「で、次はどうする?」
隣の雪之丞にお伺いを立てる。一応自分は雪之丞に従って来ているという立場上、ここではどんなに頼りなくとも、コイツに頼るほかない。少なくとも自分ひとりここに放り出されたら確実に迷子になって雑踏の中で頬を濡らす自身はあった。
そもそも自分はどうしてコイツに――
「俺は人探しをする」
……俺は。
「――『俺』は?」
「お前はどうする?」
唐突に、叩きつけられた言葉。
「ちょい待て、一緒に行動するんじゃあないのか?」
「いいや……これからは別行動だ」
心持ち眼を伏せ、帽子の鍔で眼を隠すような格好になっている雪之丞に、横島は詰め寄った。発案者がここでいなくなってしまうなど……無責任にも程がある。
「雪之丞、お前――人をこんな所にまで連れ出しといてそれは無責任なんじゃないのか!? こんな、日本語も通じないし俺の事を愛してくれるオネーさんもいないようなところで、俺にどうやって生きていけというんだ!?」
肩を掴み、捲くし立てる。自分はコイツについてここまで来た。コイツがいなくなれば、自分は『ココ』で何処へ行けばいいのだ? 俺は、何をすれば――
「おい――」
突如、左頬に衝撃。
身体が右側に吹っ飛び、勢い余って芝生の上を転がる。痛みは衝撃に遅れて脳髄に届き、転がって起き上がった後で漸く、横島は自分が殴られた事を認識した。
「……お前…………なに、しやがるんだよッ!」
殴られた際に唇が切れたらしい、口腔内に溜まった血液をその場に吐き棄てる。
「オイッ!!」
「――情けねぇぞ、横島」
伏せていた顔を上げ、そう言う雪之丞の顔に映っていたのはむしろ諦めの表情だった。横島を殴った右手を静かに開き……そして、何処か手持ち無沙汰に宙を彷徨わせた後、素直に下ろす。
諦観しきった、無表情――
「お前はそんなチンケなモンしか持ってなかったのか?」
「何を――!」
横島は拳を固めた。取り敢えず一発殴り返そうとして、息を吸う――
「――変わって見せろよ。お前、あの夏からは変ってるかも知れんが、一年前からは全く変わってねぇ……」
「――!」
拳が、緩む。
「……じゃあな」
その場に立ち尽くし、只呆然と殴られた左頬が腫れてゆくのを見て過ぎる……
雪之丞が踵をかえす…… 声が、出ない。
横島は立ち尽くした。雪之丞は去ってゆく。その風に揺れるコートの裾が、横島の記憶に鮮明に残った。まるで、血を塗り固めたかのような漆黒――
そして……横島はその場で膝をついた。
――9時47分(西海岸標準時)――
(これで……いいんだ)
殴った際の痛みがかすかに残る右腕をポケットにしまいこみ、雪之丞は洟をすすった。
実際、本当にこれで良いのか――それは雪之丞自身にも分からない。少なくとも金銭的な面においては、自分はこれから自殺行為をしようとしているのは分かる。
……が、
(ここで……俺はいちゃいけない)
そして……自分もアイツと一緒にいてはいけない。――少なくとも、自分自身がここまで来た目的を……果たすまでは。
朝の清涼な空気の中――むさ苦しい黒コートに包まれて、歩く。自然に、下がった視線は足元を指す。未だ完治せず、びっこを引いている左足を……
『奴』に、斬られた左足を……
歯噛みし、ポケットの中で右手を思い切り握り締める。いくつかの噛み跡がついた唇から再び血の筋が流れ、やや伸び気味になっていた爪は皮膚を食い破り、ポケットの中で液体を掴む感触がする。
……こんなコトには、意味がない。
分かっていた。分かっていたつもりだった。自分は既に、過去からは決別したつもりだった。
……だが、それはまた新たな禍根を生む――最悪の禍根を。
「……クソッ……タレ!」
心中の自分に向けて唾棄し、雪之丞は右手を開いた。
――12時28分(西海岸標準時)ロサンゼルス中央部 ダウンタウン――
歩く事は時間を無意味に引き延ばし、考える事は時間を更に無意味な物とする。……だが、考え、歩く事にすら疲れてしまった者は、無意味すら通り過ぎ社会の中で泥濘となる。(誰の……言葉だったっけな……)
下町――ダウンタウンの廃アパートの前に、歩き疲れ、考え疲れて座り込み、雲ひとつない昼の空を見上げながら横島の脳裏に浮かんだのは、そのシンプルな疑問だった。
疑問自体に意味はない。疑問を繰り返す事に意味があるのだ。
そうしていれば、少なくとも自分は泥濘ではない。少なくとも、自分はまだ考える事を放棄していない。その事実を以って、自分を納得させる事が出来る。
空虚だった。
自分が、何をしにここまで来たのか…… 雪之丞がいなくなってしまえば、自分は何も出来なくなってしまった。
殴られた左頬がジクリと痛む。
横島は左手で頬に触れ、顔を引きつらせた。完璧に腫れあがっている。湿布でも張っておかねば、数日は左半分が膨らんだ顔のまま過ごす事になるだろう。
手を下ろし、そのまま地面にペタリとつける。――少し湿っていて、冷たいコンクリートの感触。まだこの辺りには朝の湿気が残っているのか――それと同時に、空腹も感じる。
寄りかかっていた壁から背中がずれ、横島はそのままその場に崩れ落ちた。――あお向けに寝転んで再び空を見上げながら、考える事を止めない為に――考える。――日本のこと、雪之丞のこと……そして、自分のこと。
自分は何をしに来たのか……
ただ、雪之丞の後に付いて来た訳ではない――ないはずだ。
(力が……欲しかった……)
自分の居場所を、護れるだけの力が……
自分の大事な人を……護れるだけの力が……
……だが、
それはそれだけのものだった。
自分はここに、結局雪之丞についてきただけだったのかも知れない。……先刻の会話に分かった、空虚で、チンケな自分自身――
それが、ここで地べたに寝ている。
横島は顔の前に右手をかざしてみた。太陽光がその部分だけ遮られ、白光に塗りつぶされていた辺りの様子がおぼろげなりとも見て取れるようになる。見えるのはただ路地、路地、路地。そして時折思い出したようにその辺りから姿を見せるホームレスの老人だけだ。
手を下ろす。真昼の太陽光が再び強烈に網膜を侵し、視界はまたしても白く染め上げられる――眼を開けていられなくなり、横島は眼を閉じた。光が漏れる瞼の中に出来上がるのは、紅い闇――
(ああ……)
むしろその闇に抱かれるように――横島は眠りに落ちた。
――同刻同所 廃アパートの3F――
彼は、ただ黙ってその眠る少年――いや、少年という年齢ではないか――を見下ろしていた。
心当たりはない。バンダナを巻き、汚れたGジャンを着たその少年――男は、明らかに彼の記憶にあるものではない。
ただ……
「アイツ……危ないな」
彼は静かに呟いた。
今は昼…… 眠り込んでいるその男――恐らく日本人であろうその男には、分かるべくもないだろうが――
昼が過ぎれば、夜が来る。
――同刻 リトル・トーキョー ジャパニーズ・ミュージアム――
「――こういう男なんだが……」
「んー? 見ないネェ」
白髪の老婆の頭が、視界の下半を出入りする。
そして、これで十回目となった同じ応え――即ち『知らない』という答えに嘆息し、雪之丞は出した写真を懐にしまい込んだ。
やはり、ここで探すのには無理があったのかも知れない。
日系人であろう老婆に礼を言い、雪之丞は建物――何処か勘違いした日本の文化が展示されている美術館を後にした。空調が効いた室内から外に出る瞬間、微かな気圧の流れに鋭敏な耳が痛むのを感じ、顔をしかめる。
(早いトコ……『裏』に入りこまねぇとな)
やはり、『表』の聞き込みだけでは絶対に尻尾をつかませてはくれないだろう。――少なくとも、『奴』が裏の世界の住人である限り。
アメリカ国内で一人の人を探すのは想像以上に大変ではあるが、その一人の今現在ある境遇がおおまかにでも分かっているのならばそれ程の事はない。特に、裏は――
裏の世界は繋がっている。
表とはまた層の違う連絡ではあるのだが、裏にも裏のルートはあるし、人脈はそれに倍してある。『奴』が裏の世界で『生きている』――ここでは『活動』を指す――のならば、必ず何処かに知る者がいる。
それを……見つけ出せれば――
雪之丞は唇を噛んだ。
(それには……まず英語が出来ねぇとな)
……方法がない訳ではない。
アメリカ国内でもシェアを伸ばしている勢力――チャイニーズ・マフィア。彼らに何とかして連絡を取る事が出来れば、雪之丞自身の語力――広東語で、何とか情報くらいは伝えられるはずだ。
(裏……か――)
過去の自分。
今の自分。
――裏。
影が……落ちる。
「……ちっ」
首を振り、再び迷走しそうになる感情を呼び戻す。ついでに地べたに座り込み、公園の芝生の上に地図を広げて、近くのダウンタウンを探す。
おおまかに区別されているわけではないが、やはり、何処の街にも陰部は存在する。清涼なオフィス街が光だとすれば、夜ともなればドラッグと暴力が跋扈するストリートは、やはり陰となるのだろう。以前いた香港でも、少し町の中央部に入れば似たような事になっていた。
そこに……果たして目的の人物がいるかどうか。
LAのダウンタウンには、比較的そういった職業の者が多いという事は聞いたことがある。有名なロス市警と熾烈なバトルを日夜繰り広げているような奴ら――近隣の同業者と不毛な諍いを積み重ねる事で富を得る、馬鹿げた殺し屋どもが。
(殺し屋……か――)
そこで思考は閉じた。これ以上考えてはいけない。
地図の上では指が赤い線を引いていた。先ほど噛み破った唇から流れる血液を拭った際に、思ったより多くの血液が付着していたらしい。その線は、自分でも驚くほど濃かった。
赤黒い、闇。
死んだ、生命の液体。
そして、それは乾いてゆく。乾いて、どす黒い一筋の道がロサンゼルスの街中を走る。――その線はちょうど、雪之丞が今いる場所……リトル・トーキョーの辺りまでのびていた。
……無言で、再び唇を拭う。擦った事で生乾きのカサブタが剥がれ、唇から下顎にかけて冷たい感触――血の筋が流れた。黒いコートに落ち、染み込み、その一部となる。既に何度も血液を染み込ませたそのコートは、その赤黒い液体に色むらを生じさせる事もない。
左足の疼きが増していた……斬られた傷は縫合したが、それとて未だ塞がってはいない。抜糸すらしていない傷口は、痒みのような疼きを雪之丞に与えていた。――それが、ますます神経を逆なでする。
(『ここ』にでも、行ってみる――か)
赤黒い道の出発点。
ロサンゼルス市街地図の一点。
赤黒い道は、ちょうどダウンタウンの一角で止まっていた。
――19時48分(西海岸標準時)ダウンタウン――
「ヘイ、ユー!」
いきなりの声に目が醒めると同時に、下腹部に重たい衝撃。
突然の刺激に、感覚が状況を拾いきれない――何だ? 俺は何をしているんだ? ここは何処だ? 何で俺は寝ているんだ?
――コイツらは……誰だ?
横島忠夫は呼吸困難に涙目になりながらも、辛うじて周りを見渡すコトに成功した。辺りは暗く、一番近い街灯からすら遠く離れているここは、ほぼ視界全てが闇に覆われている。そして、周りに何人かの蠢く気配――
そこで、自分が裏路地で寝入ってしまっていた事を思い出した。同時に、酷い寒気を覚えるが、今はそれよりも下腹部の鈍痛と呼吸困難が深刻だった。
「……ゴホ……お前ら、何だ……?」
問うが、周りにいるのであろう襲撃者達は全く反応する様子もない。そこで思い出す。ここは、日本じゃない。
「……チャイニーズ?」
確認であろう。闇の中の一方向からの、問いかけ。横島は反射的に応えていた。
「ジャパ……ニーズ」
「ハ!」
それが、最後だった。雪之丞が昨夜言っていたことを思い出す。日本人っつーのはナメられやすいから、そーゆーのと係わり合いになりたくなきゃ中国人っつっとけ――
顔面に、誰かの靴のつま先が叩きつけられる――暗闇の中に、吹き出た横島の鼻血が飛び散った……
更に背中への刺突――木刀か……もしくは鉄パイプか何かだろうか? 固い感触に、背骨が悲鳴をあげたのがはっきりと感じられる。
横島は意識を繋ぎ止める為に必死に頭部を庇いながら、なすすべもなく破壊されてゆく自分の身体を、人事のように傍観していた。――ただ、痛みだけは庇っている脳に届く。脇腹に突き込まれる安全靴や金属バットの衝撃。容赦なく腹にめり込むライダーブーツのつま先――
ただ、鼻腔が詰まるのが気に掛かる。腹を蹴られた所為か、酷く息苦しい。血の混じった涎を路面に垂れ流し、横島は呼吸困難にうめいた。
頭部を庇う右腕に違和感――どうやら、折られたらしい。既に腕の感触はなく、ただただ腕越しに伝わる頭部への衝撃で、未だ腕がその役割を何とか果たしている事だけが理解できる。
(……死ぬ、な)
無意識の――認識。
こんな異国の路地裏で、何も出来ない自分が、何も出来ないまま全てを終わらせる――それもまたひとつの在り方かも知れない。意識は明瞭だった。脳裏に涼やかな風が吹く――
訳も分からないまま全てが終わる――それもまた――
「駄目だよ……こんなトコロで死んじゃあ」
涼風。
そして、暗がりが光に満たされる。血と涙にぼやけた視界を真っ白に染め抜き、闇を一瞬にして取り払う白。気づいてみれば、何の事はない。それは自動車のヘッドライトだった。
光にさらされ、横島は襲撃者の顔を脳裏に焼き付けて置く事に苦心していた。外国人というものにあまり馴染みがない所為かも知れないが、どれも同じような格好をして、同じような顔をしている若者たち。眼を凶暴にギラつかせ、今は白光の持ち主である闖入者を睨みつけている。
そこで初めて、横島も『それ』を見た。
まだ若い――思い切り上に見ても、せいぜい自分と同い年か、一、二歳上といったところだろう。身長はそれ程高くなく、こざっぱりとしたスーツに身を包んでいる。短髪を弄び、指を絡めては引き抜く。その動作を繰り返すその青年の左腕には、一本の棒があった。地面に立てかけてあり、ちょうど、青年の腹くらいまでの長さだった――
そして――その青年を認識した――と思われる――瞬間、明らかに横島を蹂躙していた若者たちの雰囲気が変った。
――恐れ。それとも、畏れ。
後は無言で去ってゆく。横島に、棄て台詞の代わりか――唾を吐き棄て、名も知らぬ彼らは、再び自分とは関係のない他人に戻ってゆく――
「大丈夫かい?」
青年が話し掛けてくる。――日本語――だった。
横島は応えようとした――が、意思に反して、声がでない。代わりに大量に口腔からあふれ出てくる血液を感じ、横島はそのまま再び気を失った。
――20時08分(西海岸標準時)――
「全く、こんな所で呑気に昼寝なんて無茶をするよ……」
意識を失いぐったりとした男を抱え、彼は軋り出した。慣れているとはいえ、力が抜けた人間の身体というモノは物凄く重く感じるものである。六十キロはあろうかというものなのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが。
ざっと見たところ、男の身体中の傷には致命傷となる傷はないようだった。一番重い外傷は右上腕部の骨折か――これも恐らく単純骨折であろう。二ヶ月もすれば後も残さずに完治する。
――とはいえ、このまま放置していて良い怪我でないことも確かだ。
……袖擦り合うも他生の縁、同じ日本人どうしでもある事ではあるし、このまま放っておいて死なれでもしたら目覚めは悪い。近くの病院に運べば良いだろう。
「王(ウォン)さん、手伝ってくれ」
愛車――黒のベンツの運転席に座る腹心に呼びかける。
「……ボス、まずいです」
静かな、警告。分かっている、分かってはいるのだ。
運転席から降りてきた大柄なダークスーツの男――王はこちらを見据え、静かな眼差しを自分に――いや、自分が抱えている男に注いでいる。静かで、無機質な眼差しを……
「別に彼が何を出来るという訳でもないだろう?」
「顔を見られれば、それを元にFBIが嗅ぎ付けてくる可能性もあります」
そう言い、王が懐から取り出したのは拳銃だった。シンプルな、単発式のリボルヴァ。撃鉄をあげる音が光溢れる闇夜にガチリと響く。そしてそのままそれを男に――
「そこまでだよ、王さん」
彼が掌で制すと、王はピタリと動きを止めた。
こちらまで聞こえるほど大きな嘆息を漏らし、王は拳銃を懐にしまう。
彼は、無言で抱えた男を王に手渡した。王は受け取り、その男をベンツの後部座席に放り込む。せめてもの意思表示ということか、それはかなり乱暴な扱いだった。
「それでいいよ……僕らもそろそろ立ち去ろう」
苦笑を隠しながら、助手席に滑り込む。
「俺は、時々あなたが分からなくなる」
同じく運転席に戻った王が、バックミラー越しにしきりに後部座席の男を気遣いながら――無論、目覚めていはしないか、という事だろう――言う。
彼はキョトンとした。
「何がだい? 王さん」
舌で唇を湿しながら、王は続ける。
「悪魔にもなれば――天使にもなる。そういった男が、この仕事では一番危険です……」
彼は苦笑した。今度は隠す事もせずに。
「少なくとも、『彼』に関する限りは僕は『悪魔』だよ――あなたは安心していていいよ。王さん」
「……あなたに対して心配する必要が何処にある?」
車内に王の苦笑が響く。これは珍しい事ではあった。
「ボス……例の男、やはりこの街に来ている事は間違いがないそうです。正午頃に、網を張っていた部下が目撃しました」
苦笑を消して、今度は事務的な報告に移る王。フロントガラスに映る無機質な瞳は、ガラス球の透明度と、琥珀の不透明さを併せ持っていた。
「……そうか」
彼は口元を手で押さえた。……知らず知らずのうちに、口元が歪むのが感じられる……
エンジン音が裏路地に響く。独特の重低音が静寂をぶち壊し、ついでにそこに流れていた会話をもぶち壊した。運転席の王は再び無言に戻り、彼は背後の少年を振り返った。――少なくとも死んではいないようだ。
一番近くの病院は何処だったか…… 彼は思索を開始した。
――3月29日 0時33分(西海岸標準時)ダウンタウン――
「な……何モンだ!? アンタ!!」
ドサ。
闇の中に重いものが落ちる音が響き、音と共に地面に叩きつけられた男――顔中にピアスをごてごてと着けている東洋人――は、その音を聞くことなく路面に突っ伏する。
その音を放った、即ち男に見事な背負い投げをかました主――伊達雪之丞は、その声……上海方言の中国語で話し掛けてきたもう一人の男に振り向いた。
「死んじゃあいねぇよ。運が悪けりゃ別だけど、そこまで俺が気にする義理はねぇしな」
「テメェ……『スカル』の鉄砲玉か!?」
目をむいて後じさる男。懐に手を突っ込んでいるのは、そこに武器が隠されているからであろう。恐らくは、ナイフか拳銃か。
よほど、その『スカル』とやらに対して後ろ暗い事があるらしい。
まぁ、地元の暴力団レベルの抗争ならばこんなモノか。嘆息する。――ひたすらに裏路地を歩き回り、苦労して中国人系マフィアの末端と思しき連中を見つけ出したは良いが、どうやらこの連中は本当に末端の末端であったらしい。
「それとは別口だ。あんたらのボスに会わせてくれ」
「ンだと!?」
懐に突っ込んだ手が出る。予想通りといおうか――そこに握られていたのはナイフだった。懐にも隠せるほど小ぶりな、バタフライナイフ――
雪之丞は眼を伏せた。黙って拳を握る。
無言で、男が斬りかかって来る。――右手で。来るのが分かっていれば避けるのは簡単だった。斬りかかる場合の右手の死角――身体の右側に回りこみ、息を吸って、相手の右の上腕部に手刀を叩き込む。
「ガッ!?」
うめき、ナイフを取り落とす男。
相手が武器を持っている場合、その攻撃は極めて限定される。
即ち、武器による攻撃。
相手が右手に武器を持っているのならば、右手からの攻撃にだけ注意していればそれで済む。――武器に対する恐怖感にさえ馴れてしまえば、考え様によっては素手の相手を捌くよりも簡単である。
――そして、武器を失えば相手は怯む。
「――フッ!」
勢いで攻めれば、そのまま勝利を手に入れることが出来る。
手刀から間髪をいれず顔面への掌底へと繋げ、相手が仰け反ったところを鳩尾を叩いて動きを止める。後は首筋に踵でも落としてやれば簡単に意識を奪う事は出来る。
――が、それをしては意味がない。
激しく咳き込みながら悶絶する相手を無理矢理に立たせ、雪之丞は詰問した。広東語で、先程よりもほんの少し、強く。
「アンタの親玉は何処にいるんだ?」
既に、結果は見えていたが。
従順に頷く相手に満足し、雪之丞は彼の襟首から手を離した。
――1時13分(西海岸標準時)雑居ビルの一室 『グレイト・ウォール』事務所――
「キミかね? 私の可愛い部下を苛めてくれたのは」
連れて行かれた部屋には、背の低い男がいた。
自分も決して背の高い方ではない――それは認める。……だが、その男は明らかにこちらよりも十センチ以上背が低い。恐らく五十代の半ばくらいであろうが、着流しているバスローブが床に擦れているのもはっきりと分かる。
とあれ、雪之丞はその男――ダウンタウンの一角で掴まった連中の上司を見下ろし、広東語で――向こうは上海方言の北京語を話していたが、頑張れば通じない事はない――言葉を紡いだ。
「俺は、伊達雪之丞。ワケあってあんたらに接触したかった。――頼みたい事がある」
「ふむ――聞こう」
観察してみると、このボスは就寝中であったらしい。頭髪はまるで一方向に押し付けられていたかのように乱れているし、着ているのもバスローブのままである。指を鳴らし――部下であろう黒服達が持ってくるワインを、近くのテーブルの上に置く。
「掛けたまえ。――ああ、ワインは飲むかね? シャントネの十四年物だ――なかなかの味であることは保証するよ」
「いらん。先に用件を聞いてくれ」
勧められた椅子に座る事もなく、雪之丞はその男がワインを自らグラスに注ぎ、グラスの中で揺らすのを見つめた。唇を――噛み跡が至る所に残る唇を、開く。
「ある……男を捜している」
男がワイングラスを傾ける。赤黒色の液体が、男の唇の奥へと吸い込まれる……
握り締めた手を開く――
男が言葉を発する。
「人探しなら警察の仕事ではないかな? まぁ、ここの警察も年がら年中悪党どもとカーチェイスをするよりは、こういう慈善的な活動もすべきだろうね……」
「警察に頼める仕事ならば、何で俺が夜の裏路地を歩き回る必要がある?」
「ふむ。確かに」
眼前の男は、あくまでも落ち着いた――余裕のある態度を崩さない。こちらを焦らしているのは明白だった。……が、ここでこの男に手を出せば、明らかに次の瞬間こちらの命が尽きる事となる。
ここは、堪えるしかない……
「――で、その男とは?」
男はいきなり確信をついてきた。――訊いた、雪之丞の反応が遅れるほどに。心臓が鳴るのがはっきりと感じられる。左足の疼きが、痛みすら伴って襲ってくる――
唇を舌で湿し、声を発する……
「多分、マフィアの親玉だ……名前は、鎌田狂四郎……」
――8時21分(西海岸標準時)ロサンゼルス中央病院 505号室――
咽喉が――痛い。
いや……咽喉が――渇いた……
「う……」
混濁した意識の中に、ただその渇きだけが存在する。
横島はその純粋な苦しみの中、声をたてられずうめいた。――口内が完全に乾燥していて、声が出ない。声を発するべき声帯に痛みすら感じる。
何も……考えられない。
ただただ、渇いた――
(ん……?)
混濁の中に、一点の清涼。唇に、柔かい感触が――
そして……咽喉の奥に流し込まれる液体――その感触が、横島の意識を混迷の淵から辛うじて舞い戻らせた…… 温かい――感触――
何処か懐かしい……感触――
(……また、逢えたんだな――なぁ………………)
暗闇に、朱く染まるシルエットが見えた気がする……
眼を開ける。
目の前――というよりは下には、横たわる自分に覆い被さる黒髪の頭があった。ちょうど、自分の顔の辺りから頭を持ち上げたような体勢の――
短髪の、頭が。
(――え?)
「――え?」
疑問符。
その声に気づいたのだろう。その短髪の持ち主がこちらを向く。
「あ、気づいたのか。良かった良かった――」
反射的に、聴覚器官がその昨日を凍結しようとしているのを激しく自覚する。――身体的な機器に直面した場合、人間は一部の器官の機能を停止させる事ができるらしい。
……ともあれそれは、
男の、声だった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああああ……?」
「いやぁ、一時はホント目が醒めないかと思ったよ。しかし、あんな時間にあんなところを一人で歩くのはいただけないよ? 地元の連中は、余所者は基本的に認めな――」
打ち込まれた拳と共に、顎をそらして男はベッドから吹き飛んだ。
渾身の力を込めたアッパーを放った左拳をそのまま握り締め、横島は叫んだ。吼えた。慟哭した。――というか、絶叫した。
「何しやがるんだテメェッ!? お、おお俺のファ……じゃなかった、とにかく俺のく、唇を無断で、無断で奪いやがってえっ!! こちとらまだ経験浅いんだぞコラ!? オイ、聞いてんのかワレェっ!? 何とか言えっ!?」
男は床に突っ伏したまま動かない。
「しかもまだ俺は一人にしか唇を許した事はねぇんだぞ!? それを、それを男になんてお前…………とにかくどーしてくれんだよオイッ!? あ、コラ何気持ちよさそうに寝てんだよ!! 起きやがれええええッ!!」
何故か自分がベッドから起き上がれないので、男に向かって渾身の力で叫びつづける。ふと見てみると、横島の両足はベッドの上から吊るされた布に掛かっていた。以前脚を折ったときにも利用したことがある、脚を折った患者に使うアレだ。
床の男は、ようやく頭を振りながら起き上がったようだった。
「……まぁ、いきなりはすまなかった。水を飲ませようと思っただけなんだけどね……」
「だからそれが何で口移しなんだ!?」
「いやだって、意識を失っていたから口移しじゃないと水を飲ませられないじゃあないか…… 必要に迫られての行動だった訳なんだから、出来れば許して欲しいんだけど……」
殴られた――というより殴った――顎をさすりながら男。必要に迫られての行動――そういえば、そもそも何で自分はこんな所にいるのだ?
――そう思うと同時に、だんだんと意識が明瞭になってゆくのが感じられる。
「あ、ええと……すまなかった。ちょっと動転しちまって……」
「……まぁ、無理もないけどね」
両者同時に嘆息する。
「――んで、何で俺はこんな所にいるんだ?――あ、いや、いるんですか? あなたが、ここに俺を連れてきてくれたんですか?」
「そうだね。ああ、さっき言いそびれたことなんだけど、こういう街の裏路地で寝込んだりしないほうがいいよ? 街のアウトロー達は、基本的に余所者――特に外国人に対しては不寛容だからね」
「ハァ……そうですか……ありがとうございます……」
そこで、自分が路地裏で何物かに袋叩きにされた事を思い出した。――と同時に、全身に負った打撲や切り傷――重いところでは骨折などもしているかも知れない――の痛みも甦る。その傷みに、横島は顔をしかめた。
殴られた事はさほど気にしていないのか――それとも、気にしているのだがそれを表に出していないのだかは分からないが、眼前の男は横島に対してそれ程悪意を抱いていないように思えた。流暢な日本語を操るところから見ると、日本人であるようだが……
「あの……失礼ですが、あなたは――?」
傷みに顔をしかめつつ、訊ねる。観光客か――? いや、観光客ならば、あそこまで分け入って自分をこんな所に運び込んでくれる理由がない。
「ん? ああ、そうだね。――あ、敬語なんて使わなくていいよ」
極めて明るく。
「僕はキョウシロウ。ここで実業家をやってるんだ――」
――同刻(ブリティッシュ標準時 3月29日 16時24分)グレートブリテン王国 廃墟(旧キャンベルタウン)――
そこからは、アイルランド島が一望できた。
この町はさして大きな町であったという訳でもない。――ただ、町は町としてそれなりに人も住んでいたし、規模こそ小さいものの、かつてはアイルランド島との交易所として重宝された町でもあった。
彼は霊体探知機――『ヨハネくん』を起動させた。聖衣を着た僧侶の姿をした人形の、手に持つ十字架が紅金色に光る――
「……いないな」
のどかな――のどかだった田舎町は壊滅していた。瓦礫――否、既に粉塵のレベルまで粉砕された建築物がそこかしこに転がり、風に運ばれて空気を埃で満たす。――その感触に、彼は軽く咳き込んだ。
「やはり――現地雇いのGS程度では……『アレ』を倒す事は出来んか……」
ハンカチを口に当て、彼は呟いた。手にした『ヨハネくん』の反応は薄い……この近くに、既に霊的存在は皆無に等しかった。
――それは即ち、雇われたGSもがまた、そこに存在しないという事を指していた……
歯噛みして携帯電話を取り出し、登録されている番号を呼び出す。数回のコール音の後、目的の相手が電話に出た。
『アロー……首尾は』
挨拶抜きで切り出す相手。それに対し彼もまた、挨拶抜きで手短に応えた。
「……全滅だ」
『GSどもが? それとも町の方か』
予想はしていたのだろう。それ程驚いた様子も見せずに、相手は冷静に訊いて来る。――そして、それをまた彼も予想はしていた。コイツは、こんな程度の事を意に介すような〈うぶ〉ではない。
「両方だ」
『やはりか……』
電話の向こうから、短い嘆息。粉塵の舞う廃墟の中にいて、それは予想以上に彼の精神に突き刺さる楔となった。分かってはいた。分かってはいたのだ……
彼は口を開いた。
「遺族への連絡はどうする」
それに対する相手の応えもまた、予想できた事ではあった。
『……いや、まずは女王陛下へこの事をお伝えせねばならん。遺族への連絡は後に手配する……――『アレ』は、何処へ向かった?』
それは周囲を案じての言葉ではない。
「少なくとも、ロンドンへ向かう事はないだろう……奴はキンタイア半島を北上していった。直進するとすれば、再び海に出る事になる――」
その途上には、それなりに大きな町であるオーバン。それに大小いくつもの村があるはずではあった。スコットランド地方の住民には既に避難勧告が出ている――恐らく、南部イングランドには相当数の人々が疎開してきているはずだ……
『それならばいい。女王陛下が怪物に脅えてロンドンを離れるわけにはいかん』
「…………ああ」
『君は……捜索隊の到着後、『アレ』の足取りを追ってくれ。私は女王陛下の指示を仰ぐ』
「分かった。……切るぞ」
返事を待たずに電話は切れていた。――今ごろは、バッキンガム宮殿の廊下を早足で女王の執務室に向け歩いている頃だろうか…… 少なくとも彼には、電話の相手がそれ以外の行動を今現在取っているとは予想できなかった。
嘆息し、たった一晩で廃墟と化した町の中を歩く。捜索隊が――ヤードの阿呆どもが派遣されるまでは、少なくとも数時間……自分はこの白い砂漠に止まらねばならない。気が滅入るが……これも自分が選んだ役割ではあった。仕方がないといえば仕方がない。
足元に何かが当たる。――拾ってみると、それは輝いていた。ガラスか――恐らく、高熱で融けて結晶化した、コンクリートか何かかも知れない。
「ん?」
結晶を拾った際、何かが見えた気がした。――近くの融け崩れたビルの狭間に……何かが。
歩く。そこに向かって。
それは……見間違いかも知れないがそれは――太った人間であるように見えた。
――いや、あれは――
「……鎧……か?」
胸の真中に光る十字架……ほぼ、真球に近い独特のデザイン。明らかに頭部と思われるところにも、ドーム状のフェイスガードが下りており、少なくとも機能的なデザインには見えない……人間では、ない……
半分融けかけた鎧――
「――! まさか!」
拳銃を取り出し、フェイスガードに二・三発の弾丸をぶち込む。融けかけたガード機構はそれでも弾丸を防いだが、三発目で漸く一部が崩れた。
はみ出す、金髪。
駆け寄る。
「生存者か!!」
脆くなったフェイスガードを腕力で無理矢理引っぺがし、生存者――恐らく、重症を負った際にシェルターの役割を果たしたのであろう、異形の鎧に包まれた『少女』を引っ張り出す。
既に、その顔は青ざめていた……が、命はある!
その少女は鎧の中で猶、また違う鎧を着用していた。――が、その鎧は殆どの部分が大破し、更に下腹部からはおびただしい量の血液が未だ流れつづけている。少なくとも、あまり猶予がある状態とはいえそうもなかった。
「チ……!!」
彼は少女を――彼の娘とちょうど同じ年頃の少女を抱き締め、うめいた。この娘を死なせてはいけない……その義務感に、身体中が打ち震えるのがはっきりと感じられる。
「化け物め……!!」
埃の混じった風に乗った言葉は、遥か東方へと流れていった……