GSM MTH8

――2001年 6月28日 15時07分(ブリティッシュ標準時)グレートブリテン王国 北アイルランド地方 アントリム――

 其処には血臭が漂っていた。
 半地下の室内には澱んだ空気が耽溺し、既にかなりの時が経過しているはずであるその瞬間の出来事を生々しく想起させるほどの異臭を、未だにそれそのものと共に縛りつづけていた。それに――腐臭。
 恐らくソレは抵抗する間もなかったのだろう。
 官用品の懐中電灯の強力な光が照らす室内には、明らかに部屋の調度とは異質な黒い紋様がそこかしこに飛び散っていた。触れるとパラパラと粉が落ちる。
 血痕――血痕と呼ぶにはあまりにも大規模なそれは、乾いた血液だった。
 そして――その血痕を抜きにしても、その部屋は一種異様な雰囲気に包まれていた。壁に刻まれた複雑怪奇な紋様。床に倒れた蝋燭の燃えカス。そしてその背後に鎮座する、隻眼の大男の銅像。

「邪教崇拝……ね」

 鼻をつまんでも肌から直接進入してくるような粘性の高い腐臭に辟易しながら、美神美智恵は呟いた。彼女自身が指揮する、オカルトGメンの現場検証班の前で。現地調達部隊の為、その大半は英国人ではあったが、英語が堪能な美智恵にとっては然したる問題もなかった。
 そして、その部隊が今、困惑している。

「隻眼の巨人……この銅像はヴォーダン……か」

 更に彼女は呟いた。北欧バルトの帝王ヴォーダン。英語読みでオーディン。俗に『北欧神話』と呼ばれるバルト地方の神話の主神であり、後にキリスト教が普及した現在、北欧地方では『魔王』とされて恐れられている存在である。
 その銅像も、よくよく光を当ててみると所々に錆が浮いていた。恐らく浴びせかれられた血液中の養分、鉄分が、青錆の培養に一役かったのだろう。
 だが――急造の新米部隊が立ち尽くしているのがその銅像の為ではない事も、彼女には充分に解っていた―― ゆっくり……ゆっくりと、銅像の足元に視線を転じる。
 其処には……躰が在った。
 正確には、躰の一部が……だ。
 腕。半ば白骨化し、腐肉を要所にまとわりつかせているだけの、腐敗した腕。
 隊員の一人が恐る恐る回収しようとしているあれは、下半身だ。――とはいえ、在るべき脚部は両方とも無い。まるで半ズボンのような形に切り取られた人体の一部分が、隊員に触られてボロリとその形を崩す。
 床がフローリングされていた事、そしてここが密封されていた事が、この腐乱死体の保存には一役かったらしい。この死体がいつのモノであるかは未だ解らないが、検死にかければ前後四ヶ月程度のレベルでは割り出せるだろう。
 むしろ問題は……

(この死体を作った……張本人ね)

 室内は荒らされていた。
 爪のようなものの跡もある。ボロボロに荒らされた部屋の中、何故かヴォーダンの銅像だけが無傷でその場に鎮座している。
 このコトには……深い意味があるように思えた。

(『アレ』の破壊を逆に辿って、たどり着いたのがこの町だった。――そして、『ここ』……)

 思考は遥か彼方にまでその翼を伸ばし、やがて美智恵にひとつの結論を与える。状況と、事実。その二つから推測して、ほぼ間違い無いであろう結論を。

「うげ……っ!」

 異音。――と共に、湿ったビチャビチャという音が室内に落ちる。どうやら、耐え切れずに吐いた者がいたらしい。
 ――が、それにも気を回さずに、美智恵は半ば確信していた。

(また……ワルキューレさんに確認を取らないと……)

 今は魔界刑務所に抑留されている彼女の名を思い起こし、陰鬱な溜息をつく。今の彼女と顔を合わせるのは非常に辛い。……とはいえ、必要ならばやらねばならない事もある。今は間違いなく、彼女の力と知識が必要なときだ。
 一度頬を張って気合を入れなおし、彼女は部下に指示を出し始めた。


GSM MTH8

Discovery――前夜――


――2001年 8月19日 13時28分(アメリカ東海岸標準時)アメリカ合衆国 ペンシルヴェニア州 フィラデルフィア――

 陽光が照りつける。
 緯度が高い為気温はそれ程は上がらないものの、それでも体力を奪う酷夏の日差し。その日差しに灼かれる事を忌んで木陰に避難する事はむしろ当然のことと思えたし、事実、回りの人ごみもこの手段を以って日差しから逃れているようではあった。蝉が鳴く。
 街角。人ごみ。
 永遠に交わる事のない人々。
 この国では、この街では――それらがひどく自然なものに思える。狭隘な僻地に密集した人の群れ……広大な大陸の、小さな一点に。
 猥雑な喧騒には慣れた。諦念と妥協には狎れた。慣れ、狎れる事がこの街で生きてゆく術そのものなのだから。
 矛盾を抱き、それとほぼ同質の大志を抱く。自分には理解の出来ない言語を話すバルバロイ(異民族)達がどす黒い血液となり、この街はその雑物の上に成り立っている。
 凭れている壁に、熱を感じた。
 陽光はアスファルトの壁を苦もなく焦がし、黒衣に包まれた躰に尋常一様ではない熱を伝導する。蒸し暑い黒衣を脱ぐ事もせず、汗まみれの顔を拭う事もせず、ただただ何かを見る。
 彼は――伊達雪之丞は……
 待っていた。

(後、二分か……)

 待つこと、更に五分ほど。漸く、人垣のなかに黒髪が見えてきた。黒髪。長身――事前説明とは合致する。

「おまたせ、ダテユキノジョウ」

「……あんたが明鈴(ミンレイ)女士(ニュイシー)かい?」

 見たところ、その黒髪の女性は二十代半ばに見えた。年齢にしてはやや小ぶりとも思われる身体を活動的なスポーツ・ルックに包み、それ故実年齢よりはかなり若く――というよりもむしろ幼く見える。
 その顔は、恐らく世間一般で言う『美女』の部類には属するものだろう。価値観など個々人で違うとは思うし、それならばそのような基準に意味などはないとも思うのだが、実際に、そういった類の顔というモノは存在するものだ。――ともあれ、待ち人には相違なかった。

「野暮だねダテ。あんたも男なら、もうちょっと可愛らしく小姐(シャオチィエ)とか呼べないのかい?」

「ああ、呼べねぇよ。『お嬢さん』なんてな」

 にべもなく言い切り、雪之丞は壁から背を離した。この類の女性と長時間会話する事は、どうも苦手である。どう好意的に解釈しても、小姐――お嬢さん――とは呼べはしない。

「さっさと報告してくれ、女士」

「ったく。これだからヤクザな男ってぇのは――」

 言いつつも、明鈴は懐からメモ帳を一枚取り出していた。正直、この何処からどう見ても学生か――良くて休日のOLにしか見えない女がマフィアのボスの情婦だという事を信じる者が、この場の何処にいるだろう……などと、愚にもつかない事を考えながら、雪之丞はその薄っぺらい宝玉を受け取った。全く以って、世の中などというものは虚偽で満ち満ちている。

「――あんたはその代表だな……『小姐』?」

 胸中の言葉に答えを返される筈もないが、雪之丞は無意識に言葉を軋り出していた。最近、短慮になっているかも知れない。滑らせた直後に烈しく後悔し、後は口を噤む。

「?――なんだいダテ? 惚れたんなら取り敢えずウチの人とやり合う覚悟はしておくれよ。たまには悲劇の愛憎劇のヒロインを演じて見るのもいいもんだ」

 言う事の一つ一つに、いちいち芝居気がかかって見える。
 風が吹く。
 高きから低きへ。

「……劉大人(ターレン)から聞いたことは?」

 唇から漏れたひび割れた声が紡いだ意味は、その声以上に味気なく、事務的な確認事項。
 少なくとも意味はある。その意味では、先ほどの明鈴の言葉などとは比べるべくもないほど重要な伝意の儀式。
 その儀式に、明鈴は多少硬くなった声音で応じた。こちらをつまらない男であると認識したのか――あるいは、もっと積極的に興味がなくなったのかもしれない。
 構わない。こちらこそ、そんな事に興味はない。

「……頑張れ、だそうよ! ったく、東洋人の男ってのはどうしてこう殺伐としているのかしらね! こんなならアメリカ男に抱かれた方が何倍もマシだわ!」

「それだけか?」

「それだけよ! 用件はそれだけ! 一緒にランチにしゃれ込む程度の甲斐性がないんなら、あたしはもうシスコに帰るよ? 帰る前に、男の一人もひっかけてね!」

 そう叫ぶ明鈴の姿は、既にOLには見えなかった。
 役柄そのままの、マフィアの情婦。今の彼女にそれ以上に似合っている役柄があるだろうか。ひっかけられようとしている可哀想な『アメリカ男』には同情するが、かといってどうにかしてやる程の義理もない。
 雪之丞は明鈴に背を向けた。

「ダテ、あんた本当にバカだね。あたしは今日、アンタに抱かれるつもりで来たんだよ? あの人が、あたしにアンタを探る事を命じたからね!」

 吐き棄てるかのような罵声を背中に感じ、踏み出そうとした右足が刹那、引っかかるのを自覚する。
 もう塞がった、左足の古傷が痛んだ。
 ――探る。ヤクザの情婦にとっては、それそのものが『探る』という行為になるのだろうか……

(何を企んでやがるんだ……? 劉大人(ターレン)……)

「……じゃあな。明鈴女士」

 そして、彼は歩き出した。

――8月20日 7時10分(東海岸標準時)ニューヨーク州 ニューヨーク マンハッタン区 バッテリー公園――

 ウォール街の先端に、この公園はあった。
 アメリカ経済――否、既に世界経済の中心地たる、ビッグ・アップル――ニューヨーク。その中枢たる経済の坩堝……それがウォール街だった。この街の盛衰は世界の盛衰となったし、世界の盛衰はこの街の盛衰となった。経済世界における聖域。その先端。
 今は早朝。人通りは少ない。

(それでもなお――いる奴は働く奴か)

 実際、人はいない訳ではない。そしていない訳ではない多数の人は、例外なく携帯端末を手に忙しく時間外労働に励んでいる。
 雪之丞はベンチに身体を投げ出し、そのある種奇妙な風景をぼんやりと眺めていた。
 実は昨日はここで夜を明かしたのだが、その間も少ないとはいえ、人が絶えることはなかった。――これが経済中枢たるウォール街に生きる人の誇りなのか……はたまた処世術なのかは知らないが、とかくこの街は休む事を知らない気がする。
 ベンチの上に座り直す。仕事始めは九時、まだまだ二時間近くの時間を残しているというのに。

(まぁ……ある意味適当と言えるのかも知れないけどな……)

 眠らない街、ウォール街。
 不夜の魔都、ニューヨーク。
 眠る事を拒むというよりは、むしろ積極的にそれを成し得ているという倒錯した誇りが、この街には有る。――ただただ眠る事を拒み、そしてそれを既定のものとしてそのシステムの中に組み込み――廻ってゆく。
 本当に……相応しい街なのかも知れない。
 既に二日間で何度も読み返した、薄っぺらいメモ帳を再び眼で舐める。
 書いてある事は、五ヶ月前にその本拠に乗り込んだ上海系華僑のマフィアグループに頼んだ、その結果。五ヶ月の時を待って解った事と言えば、ただ『巣』の在処――それだけだった。

(……充分だ)

 雪之丞は考える。
 実際、それだけで良い。それ以上をなし得たとしても、自分は固辞したであろう。

(あくまでも……アイツはこの俺が相手しなくちゃならない……)

 相手をする。

(そして――)

 そして。

(……………………)

 …………そして。

(相手をして……………………どうする――?)

 相手をして……その後――
 自分はどうしたいのか?

『君は『殺人者』に戻る事も出来ない……修羅となって、『殺人鬼』になるだけだよ……』

 記憶に残る薄笑い。――そして、血臭。
 口中に、苦味が広がる。――元はと言えば、全ては自分自身の過去の清算に過ぎなかった……
 李白麗を巻き込み、明飛までも失った。
 それは全て――自分自身の過去から来る傷み。――そして、相手自身――鎌田狂四郎自身の過去から来る狂気。そして、鬼気。

(定められた事……か――)

 どちらにしろ、やらねばならない。
 少なくとも、そうしなければ自分は前に進めない……
 雪之丞はベンチから立ち、軽く伸びをして身体を前屈させた。先程よりは大分増えた仕事人がまるで汚物でも見るかのような眼でこちらを睨んでいるが、不思議と全く気にならない。手にしたメモ帳を屑篭に放り込み、多くもない手荷物を纏めて出発する。
 ウォール街の片隅の、巨大で重要なビルの二十四階。
 そこに奴はいる。

――8月24日 12時05分(東海岸標準時)『ビッグ・アップル』――

 狂四郎はそこで眠っていた。
 窓は開け放ってある。高所に相応しく少し冷たく烈しい、変哲もない風が陽光と共に吹き込む。部屋は採光を良く考えて設計されており、家具の配置もそれに倣った。朝は涼しい風が吹き抜け、夜は月明かりが差し込む。
 眠る。
 蒼い光の渦中にありながら、眠りの深遠は狂四郎に闇を思い起こさせる。香港の片隅で感じた深い闇。そして、兄の死を聞かされたときに感じた赤黒い――
 ――闇。
 相反しながら、共に互いを欠いては存在できないもの。
 光と、闇。
 夢と、現。
 虚偽と、真実。
 そして――――

(伊達雪之丞……君は、光じゃない)

 深い眠りに沈む意識の深奥で、彼は唇を開いた。言葉は常になくスラスラと口内から滑り出し、唇を開く必要すら感じない。思いはそのまま言葉となり、夢中の闇の中に広がり消える。

(闇だ。――――だとすると、それに相反する僕は光なのかな? ……いやいや、きっとそんな事はないんだろうね…… ただ、僕とキミが本当は、一緒であっただけ――おんなじ立場にいただけなんだよ……)

 聞かせる相手はいない。
 語るべき相手はいない。
 ただただ語る――その事のみを目的として、夢中の独白は滑らかさを増す。
 彼は語った。笑った。嘲った。怒った。泣いた。殴った。怒鳴った。媚びた。恐怖した。
 感情の、発露。
 夢中の感情――彼自身、それを理解している訳ではない。ただ、自分が常にこのとき一人である事だけが確かだ。その事は、部下にも自らにも厳命してある。

「キミは――――光じゃない…………」

 光が飛び込んできた。瞼に。
 鎌田狂四郎は眼を開いた。
 覚醒直後独特の気だるさと共に、一筋の涙が頬から落ちた。

――19時04分(東海岸標準時)ニューヨーク チャイナストリート 『神龍飯店』――

「劉大人、久しぶりです」

 その店はチャイナストリートの一等地にあると言えた。
 時間も時間である為、酷く混雑している。猥雑な諸事の奥底に秘事を封じ込めるには程好い条件ではあるが、それでも、非常な意味での密談をするにはあまり向かない場所でもある。――わざわざ聞こうとする物好きなどいないだろうが。
 雪之丞は眼前の相手の求めた握手に握り返し、更にその顔貌を睨み据えた。その非常なまでに背が低い東洋人が、ロサンゼルス界隈で勢力を振るう上海系マフィアの大ボスであると言われて即座に信じられる者が、この世に果たして何人いるのだろうか。

「久しぶりだな、伊達君。再開できて何よりだよ」

 薄く皮肉の篭ったその言葉は聞かなかった事とし、彼は黙って席についた。あらかじめ頼んであったのか、既にその回転テーブルには贅美を尽くした最上級の中華が盛られている。
 無言で、箸を取る。この場合、遠慮などする事には意味がない。既に腹を割っている以上、こちらとしては相手を信じる他ないのだ。

「行儀が悪いな……」

 薄く笑い、劉は――ロサンゼルス暗黒界のボス、劉成秀は続けて箸を取った。

「君は相変わらず切羽詰っているね…… 五ヶ月前に私の元に殴りこんできたときから、変わっているようで全く変わっていない。実に不思議だ」

 その男の今日の服装は、まるで雪之丞自身を真似たかのような――いや、賭けてもいいが真似ているのだろう――黒のロングコートであった。地面に擦るギリギリ手前のコートの裾に、海老の殻がポトリと落ちる。

「行儀が悪いな。大人」

 笑いもせずに、雪之丞はそれだけを返した。
 そしてその反応に対してさえ、大人は大いに笑って応えた。何が可笑しいのか、両手で顔すら覆って必死に吹き出す事を堪えているように見える。
 回りはざわめいている。この騒ぎの中では、劉よりはむしろ自分の方が異質な存在であろう――そう思い、それ以上追求することは控えておいた。
 代わりに、質問を返した。

「明鈴女士が、殺されたと言ったな?」

 前後の文脈に対しまるっきり脈絡がないが、それもこの大人には慣れた事であるらしい。茶を啜る手すら止めることなく、軽く頷いた。

「まぁ、多分付けられていたんだろうね。君と会った直後だと思うよ。警察から遺体は引き取ったけど、どちらかといえば、この傷の専門は君なんじゃないかな?」

「霊的外傷という事か?」

 訊くまでもない。一目だった。
 劉の懐から出てきた数枚の写真は、どれも数日前に出会ったばかりの『小姐』を被写体としていた。――ただ一つ、彼女が数日前と違っていたのは、その両腕が綺麗さっぱりなくなってしまっている事だけだった。
 更に遺体は全裸である。その姿からは、数日前、一瞬OLのように見えたあの若々しさは微塵も感じ取れなかった。――ただ、空虚さだけがそこにある。

「多分、口を割らせようとしたんだろうね。遺体にはレイプされた形跡があり、それをはじめとして全身に大小の傷。更には問題の傷口だけど、出血が全くない。焼き切った傷口に近いかな――どう思う? 伊達君」

 見る。
 問題の傷口の拡大写真を見てみるに、確かにそれは心霊要因による外傷に相違なかった。

「霊波刀……だな」

「フム、やはりか」

 霊波刀による刀傷には、概ねこのような傷が残る。更には、その技に精緻があれば霊気によって傷口の細胞を殺し、出血を押さえる事も可能だった。

「腕の一本斬りとって、口を割らせようと思ったんだろうな。出血さえ押さえりゃ死なないとタカくくってもう一本斬ったら、ショック症状で死んじまったってトコか……」

 雪之丞は暗鬱と吐き棄てた。胸がむかついてくる。箸を置いた。
 そのまま、席を立ってトイレへと向かう。小用を足す為ではない。ただ、吐いておきたかったのだ。

(俺は無感動になっている!)

 数日前に会って会話した相手の死因を冷静に分析し、それを以って劉の感嘆を得た。自分に腹が立つ。
 吐くべき物は出なかった。
 雪之丞はそこで初めて泣いた。

――19時30分(東海岸標準時)――

「存外――彼はひ弱なようだな……」

 ワイングラスを傾けながら、劉成秀は独りごちた。
 丸テーブルには無論のこと、彼以外には他の誰も着いてはいない。彼自身、この言葉は誰かに聞かせようと思って放っているのではなかった。独り言とはそういうものではないか?

(聞かれれば、目の前でも言うがな)

 薄い笑いが、口元に張り付く。これは消しておくべきものではあったが、しばらく相手は戻ってこないように思えた。笑みは深まる。
 餃子を一切れ、口に放り込む。それと共に笑みは消えた。

「さて――せめて珍事の邪魔だけはしないようにして貰いたいものだがな――」

 相手が戻ってきた。
 彼は口を結んだ。

――19時34分(東海岸標準時)――

 見えない。
 進むべき道が、見えない。
 席に着いた。薄い視界には、劉大人が無言でワインを飲む姿だけが確認できた。

(殺人鬼……)

 雪之丞はうめいた。――胸中で。
 自分は、何をしにここまで来たのだろうか。
 自分は、何を求めて『奴』を探すのだろうか。
 自分は――
 コロスノカ?

「――違うっ!!」

 テーブルを叩く。北京ダックが刹那宙を舞い、対席に座った劉は驚いた様子もなく涼しげな顔をしている。その劉の表情にすら、今は底知れない怒りを感じる。

「劉大人!」

「……なんだい?」

 予想通りの涼しげな声。多少ワインが回っているのか、顔が赤い。――意識がはっきりしている事は確信できた。その涼しげな声音は、紛れもなく素面のものである。
 酔っている。

(――俺が?)

 視界が定まらなかった。これは断じて先ほどの狂涙の所為ではない。如何に狂気じみた行動を取ろうと、自分はこれまでこれ以上酔った事がなかった。――たかがワインで?
 思い当たり、劉を睨む。

「アンタ……薬、を……?」

「そんなモノは使っていないよ。やはり君は相当酔っているように思える」

 そう言い、劉はワインボトルを裏返した。そこに書いてある酒名は『ウォッカ』。ワインの非ではないアルコール度数を持っていた。

「これをワインと思って飲むくらいでは……君は相当に参っている。考えを止め給え。何をするにしても、今の君に一番必要なことは『休息』――それ以外にはない」

 涼しげに種あかしをする劉を殴ろうと拳を挙げ、しかし殴りそこない、雪之丞は床に突っ伏した。頭の中に靄がかかり、先ほどどれだけ努力しても出なかった胃液が放出する感覚にさいなまれる。さらに腹が震え、唾液が床にこぼれてゆく。多少の眠気に抗い、抗いきれずに瞼を閉じる――
 眠ろう――そう思った。

「……チク……ショウ……」

 怨嗟の呟きは我ながら堂に入っていたと思われた。――と、呟きながら、気付いた。声を出していれば、その瞬間瞬間は眠気が遠ざかる――

「劉大人……何をしようと――してるんだ……?」

「アンタは……なんで俺を助けた……?」

「俺は何で……アンタに助けられた……?」

「アンタは――」

「俺は――」

 途切れ途切れに続く、言葉の断片。その殆どは既に意味さえ成してはいなかったが、眠りに落ちるほんの数瞬前、耳朶に言葉のみが滑り込んできた。

「全ては――からくりの中なんだよ……」

――19時58分(東海岸標準時)――

 からくり。
 ――からくり……
 その一つの単語は、昏倒した雪之丞の暗い脳裏に長く残った。
 カラカラ。カラカラ……
 永遠に止まる事のない回し車の中を、必死に駆け続ける一匹のネズミ。――決して前へは進めないと分かってはいても――分かっているからこそ、必死にそこから逃れ出ようともがく……
 ――そして、自らは動かせない。これもまた、からくり。からくりの内部に在る歯車の一つとして、からくりを動かす1材料として――使われつづける……
 ……夢ではない。――断じて夢を見ているわけではないと断言できた。
 自ら暗き淵に心を溶かしながら、雪之丞は夢ではない――しかし、夢によく似たものを、ただ眺めていた。
 夢。――夢ではない、夢。
 黄昏の夢。赫い空。日暮れ。
 カラカラ。カラカラ……
 回し車は廻る。雪之丞自身の必死の努力を糧として。――その車を……もがき続ける自分を脇から眺めている、楽しそうな顔をした多くの観衆――
 顔のない観衆。顔がある観衆。
 その顔は、ときに鎌田狂四郎のものとなり、ときには劉成秀のものとなった。――タキシードを着た、彼ら。無数の悪夢の権化たち。
 足掻く、自分。
 ――俺は、何を求めているんだ……
 考えが其処に至った。
 雪之丞は考える事を止めた。
 後に残るのは、夢でない悪夢。――回し車。ネズミ。観衆。鎌田狂四郎。劉成秀…………
 ふと、上を見上げる。走りつづける回し車の上。――そこに、ひとつのモノが見えた。
 白と黒。能面。角。剣。

『――――だから言ったでしょう……? アンタは結局、何処に