LONG WAY HOME (前編)

著者:胡麻


 ざわめきを縫って流れる音の悪いアナウンス、飛び交う様々な国々の言葉……。

 一国の首都にあるとは思えないほど狭くて粗末なその空港の一角で、彼女は途方に暮れていた。
 飛ぶ予定の飛行機が遅れているのか、空港内ははち切れそうなバッグを抱えた大人とそして着膨れした子供を連れた家族づれであふれ、まるで通勤ラッシュさながらに混み合っている。
 そんな中で、何度も行き交う人々に肩を押されながらも、彼女は指定された場所にもう3時間も一人で待たされているのだ。
「……どうしたのかしら?」
 時計を見てつぶやくのももう何度目か。
 ため息をつく。
 こんな目に遭うのは初めてじゃない。
 彼女が呼ばれる土地は、大抵混乱の極みにあって、行く先々でなんらかのトラブルにぶち当たることになる。
 そしてこういう時は待つしかないと、彼女はもう十分学んだ。
 なるべく通行の邪魔にならないように、さりとて探しに来る人が見つけやすいようにと、彼女は柱の一つに寄りかかろうと後ずさった。

 ―――ドンッ!

「あ、す、すいません!」
 そこにも先客がいたらしく、肩の当たった方へ向き、慌てて謝る。
「あ、いえ………って、あれ?」
 聞き覚えのある声が、深々と下げられた頭の上から聞こえた。
「え……?」
 驚いて彼女は顔を上げる。
 そこにはスーツ姿の金髪の青年が立っていた。
「おキヌさん……おキヌさんでしょ?」
「ピ、ピートさん!?」
 驚く彼女の前で、美貌のバンパイアハーフが、最後に会った日のままの笑顔で笑った……。

「どうしてこんなところに……」
 突然の再会に動揺を隠せず、おキヌは茫然とピートを見つめた。
「ええ、実は久しぶりに休暇が取れたんで、実家に帰ろうと思ったんですけど、飛行機のエンジントラブルで急遽この空港に着陸することになっちゃって……おかげで丸1日足止めです」
 ピートはちょっと照れくさそうな笑みを見せて肩をすくめた。
「そうなんですか……。でも本当に久しぶりですね」
「ええ確か……」
「美神さん達の結婚式以来……ですよね」
 屈託なく笑ってそう言ったおキヌに、ピートはかすかに戸惑ったような表情を見せた。
「そうでしたね……。―――ところで、おキヌさんはどうしてこの国に?」
 ピートは改めて、久しぶりに出会ったこの旧友のいでたちを見回した。
 もと幽霊で、人間に戻ってから10年は経ち、公の歳は今年で27、8歳になるはずの彼女は、シックな感じのロングスカートに仕立ての良さそうなコートを羽織り、小ぶりのボストンバッグを手にしていた。
 前に会った時よりもずっと落ち着いた印象があったが、それでも長い黒髪と少女のようなあどけない笑顔は昔のままだ。
「私は……仕事です」
 かすかに小首を傾げて、彼女は答えた。
「ああ……」
 ピートは納得がいった様子で頷いた。
「この国も……やっぱりあなたを必要としているんですね」
 答える代わりに、おキヌは少し悲しそうに微笑んだ。

 美神除霊事務所のなくてはならない一員として、長い間美神と横島の3人でチームを組んできたおキヌだったが、2年前、その美神と横島がすったもんだの末にどうにか結婚式を挙げたのを機会に、美神の元から巣立つこととなった。
 ニューヨークにその居を移し、国連本部に新設されたばかりの世界超常現象対策局に、世界に数人といない貴重なネクロマンサー(死霊使い)として所属することになったのだ。
 そして、彼女に与えられる任務の多くは、世界中の大規模災害や紛争によって発生する霊を鎮めること―――。
 これら悲劇で生まれる霊たちは一カ所に大量に発生するため、オカルトGメンや民間のGSでも手に負えない。とは言え、ほうっておくと多くは悪霊と化し、その波動の悪影響で同じ土地に何度も紛争が繰り返される原因となってしまうのだ。
 しかしネクロマンサーの笛を持つ彼女にだけは、その笛の音で大霊団となった彼らをコントロールし、癒して鎮めることが可能だ。
「お仕事……ずいぶん忙しいんですか?」
「ええ、まぁ…」
 おキヌはあいまいに笑った。
 ネクロマンサーの数は少なく、そして世界には未だ災害や紛争の種が尽きることはない。
 おかげで彼女はこの2年間を、ほとんど世界中を飛び回る旅の中で過ごしているのだ。
「大変ですね、それは。―――少し痩せたんじゃありませんか?」
 ピートが心配そうに顔をのぞきこんできた。
「そうかしら? でも忙しいのはピートさんも同じでしょ? インターポールのフランス本部に栄転されたんだから」
「いや、多少忙しくても僕の場合、いざとなったら代わりがいてくれますから。でもネクロマンサーであるあなたの代わりはいないわけだし……」
「それは……でも、おかげでやりがいはありますよ。それに忙しい方が……」
 余計な事を考えずにすむから…という言葉を、おキヌは喉元で止めた。
「あ、私そろそろ行かなきゃ」
 ごまかすように慌てて腕時計を見る。
「本当はここにこの国の政府機関の人が迎えに来てくれるはずだったんですけど、もうずいぶん待ってるのに来ないし……、そろそろ現場に向かわないと日が暮れてしまうから……」
 言い訳めいたとことをつぶやきながら、彼女はボストンバッグを持ち直した。
「少し郊外の方なので、バスに乗らなきゃならないんです。それじゃあ、ピートさん、これで……」
「あ、ちょ、ちょっと待って下さい!」
 突然、慌てふためいた様子でピートがおキヌのバッグを奪った。
「ピートさん?」
「僕も一緒に行っていいですか?」
「え、ええ!?」
 おキヌはすっとんきょうな声を上げた。
「どうせ、飛行機は明日まで飛ばないし。せっかくこんな所で会えたんですから、僕にもなにか手伝わせて下さい!」
 せき込むような勢いでピートは言った。
「で、でも、そんな……」
「いーから、いーから。あ、バス乗場こっちですよね?」
 突然のことで目を白黒するおキヌをよそに、二人分の荷物を持ってピートはさっさと歩き出してしまった。

 ガタガタと鳴るローカルなバスから降りて、石ころだらけの細い道を歩いて、ようやく彼らは目的の場所にたどり着くことができた。
「本当にここなんですか……?」
「ええ、そうみたい……」
 地図を何度も確認しながら、おキヌは頷いた。
 しかし地図など無くても間違えようがなかっただろう。
 大岩があっちこちに顔を出すただっ広い荒れ地の真ん中に、その建物はポツリと建っていたからだ。
 バスから降りてから、二人が延々と歩いてきた一本道も最後にはまっすぐその建物につながっている。
 こんな荒野にふさわしくない、かなり大きくて近代的な建物だった。
 けれど、そこに今では人一人いないことはすぐに見てとれた。
 高々とした鉄柵と頑丈そうな鋼鉄の門扉に囲まれたその建物は、その外壁以外はほとんど形を残していなかったからだ。
 屋根にいくつも開いた大穴、ほとんどガラスが残っていない歪んだ窓枠、激しい火災にさらされたと一目でわかるほど真っ黒に煤けた壁……。
 少しずつ近づくにつれ、その建物の全容が彼らの目に入ってきた。
(空爆……か。こんな僻地まで……)
 悲惨さに、思わずピートは建物から目をそらした。
 この国は、ほんの1・2年前まで激しい内戦のさなかにあった。
 同じ国の中に無理にまとめられた、入り組んだ民族同士の長く深い対立が、ある日ついに火を噴いて、またたく間に国中に飛び火し、そこに例によって、人道主義と国際世論を背景に大国が介入して、国中がさらに激しい戦禍にさらされることになったのだ。
 泥沼と化した事態の沈静化を図るため焦った連合国軍による空爆は、首都はもちろん僻地にまで至ったと聞いている。
 なんの建物かわからないが、これもその災いを被り、焼け落ちたものの一つだろう。
 この破壊具合だと、中に人がいたとしたら多大な犠牲は免れなかったに違いない。
 ため息をかみ殺しながら、ピートはさっきから門扉にからみついた有刺鉄線を相手に四苦八苦しているおキヌを脇にどかせて、代わりにそれを外し重々しいその扉を開け放った。
 そして中へ何歩も入らないうちに、門の内側に落ちていた表札を見つけ、足を止めた。
「あれ、もしかしてここは……」
「ええ……」
 その横でおキヌが小さく頷いて、地面にうずくまる。
 そして足下の土に半ば埋もれかけていた小さな人形を拾い上げた。
 その顔にかかった泥を払ってやりながら、彼女は言う。
「ここ……孤児院だったんです―――」
 泥が払われてのぞいた人形の顔は、醜く焼けただれていた……。
「誤爆……ですか?」
 なんとも苦い、いやな気持ちをこらえきれずにピートは尋ねた。
「ええ。当時、ずいぶんあったみたい。ほとんどはニュースにもならなかったけど……。内戦で大量に発生した孤児たちを保護するためにここに集めた途端、ここもまた……」
 人形を優しく撫でながら、おキヌはひどく淡々と語る。
 それがまたやりきれなさを誘って、ピートは言葉を失った。
 やがて、おキヌは人形をそっと地面に戻し立ち上がった。
「さ、行きましょう、ピートさん」
 少し力なくそう言うと、おキヌはすたすたと焼け落ちた孤児院に近づいていった。
「…………」
 あっけにとられたようにその後ろ姿を見送ってから、ピートも慌てて後を追っていった。

 ――――チリーン……

 小さな金属音がかすかに聞こえた気がした。
「―――そこにいるの?」
 壁の大穴から今にも崩れ落ちそうな建物の中に足を踏み入れた途端、聞こえたその音に、おキヌは薄暗い部屋の隅に目をこらした。
 焼けこげた机やベビーベッドらしきものが積み上げられたその場所からは、確かに霊の気配がする。
「そこにいるんでしょう?」
 優しい声音でそっと呼びかけてみる。
「ねぇ、隠れてないで出てきて……?」
 返事の代わりにチリーン、とまた小さな音がした。
 それがどうやら鈴の音らしいことにおキヌは気づく。
『―――誰なの?』
 不審そうな声が聞こえた。
『誰?』
『誰なの?』
『大人?』
『大人の女の人だよ』
『大人がどうしてここに―――?』
 続いて様々な子供の声があがる。
 どうやらいるのは一人ではないらしい。
 暗がりの中で子供の集団がガヤガヤと一斉にしゃべりだす。
「みんな、そこにいるの? どうして隠れているの? お願いだから、そこから出てきて。みんなの顔が見たいの」
 根気よくおキヌは呼びかけ続けた。
 少し離れた場所では、ピートがそんな彼女をハラハラしながら見守っている。
 いくら相手が子供の霊でも、いくらおキヌが熟練したGSであろうとも、大勢の霊を一度に相手する場合は一瞬だって油断はできない。
『―――お姉ちゃん、誰?』
 ぼんやりと青白い光を放つ、5〜6歳くらいの少年の霊が机の後ろからふいに現れた。
 ようやく姿を現した相手に、おキヌはにっこりと微笑みかけた。
「私はおキヌ。―――遠い国からあなたたちに会いに来たの」
 そうしてじっと少年の姿を霊視する。
「あなたは……ニコライね。そうでしょ?」
『―――どうして僕の名前を知ってるの?』
 少年は露骨に警戒の表情を浮かべた。
「他のみんなの名前だって知ってるわ。マーサにエルザにトーニに、エイレン……みんなそこにいるんでしょう?」
 事前に渡されていたこの孤児院で亡くなった子供たちの写真付きの資料を思い出しながら、彼女は少年の背後に隠れている子供たちにも呼びかけてみた。
 名前を呼ばれて、途端に霊たちがざわめきだした。
『僕らの名前を知ってるよ!』
『私たちの姿が見えるのね?』
『見えるんだよ!』
 そしてまるで堰をきったように、突然物陰から子供たちが飛び出してきた。
 歳の頃は3歳から12、3歳ぐらいまでの、いかにも東欧系らしい顔立ちをした10人以上の少年少女たちの霊が、たちまちおキヌを取り囲んでしまった。
『ねぇねぇ、お姉ちゃん』
『遊ぼうよ』
『遊ぼうよ、お姉ちゃん!』
 四方八方から腕や服を掴まれて、彼女は慌てた。
「ちょ、ちょっと待って!」
 けれど、最期の日のままの幼い姿をした子供たちはその手を離そうとしなかった。
『だめだよー、久しぶりのお客さんなんだから』
『そうだよ、僕らずーっと遊んでくれる人を待ってたんだ』
『もうあたしたちだけで遊ぶのあきちゃった!』
『前に来た兵隊さんたちは、私たちのことが見えなかったのよ』
 子供たちは口々に言い立てる。
「ちょっと待って、ね? ―――ね、ねぇ、みんなどうしていつまでもこんな所に閉じこもってるの? こんなになっちゃったら、もうここには住めないでしょう?」
 子供たちをなだめながら、おキヌは尋ねた。
 そもそも彼女がこの地に派遣されたのは、空爆で焼け落ちた孤児院を整地しようにもそこで亡くなった子供たちの霊が邪魔をするので、彼らを除霊してほしいと、この国の政府から国連に依頼があったからだ。
 ネクロマンサーの笛を使えば霊を操ることは可能だが、罪なく命を落とした霊…それも幼い子供にはできるだけ強引な事はしたくなかった。
 穏便に彼らを成仏に導くには、この地にとどまり続ける理由をまず知らなければならない。
『だって……ねぇ?』
『うん、院長先生が……』
 子供たちが困ったように互いに顔を見合わせ合う。
「院長先生……?」
 たぶんそれはかつてこの孤児院で子供たちを監督していた人物のことなのだろう。
 おキヌは資料で見た、福祉施設の職員というより軍人のイメージに近い強面の老人の姿を思い出した。
「院長先生がどうしたの?」
『院長先生が言ったの!』
 おさげの女の子が訴えるように叫んだ。
『あたしたちに、絶対にお外に出ちゃいけませんて!』
『うん、お外に出ちゃだめなんだ』
 一番小さな男の子が、舌っ足らずに繰り返した。
『門の外は危ないから……!』
『あのね、お外には悪い人と怖い人がいっぱいなの!』
 他の子供たちも興奮して一斉にしゃべりだした。
『パンパンパンって音がして』
『人がいっぱい倒れてね』
『血がたっくさん流れたの』
『お空からもゴーッて音が聞こえて』
『地面が揺れて!』
『お家が燃えたよ』
『パパも、ママもみんな、燃えたんだ!』
 おそらく家や両親を失った時の記憶が蘇ってきたのだろう、子供たちの興奮は次第に高まり、手がつけられなくなっていく。
「―――きゃっ!」
 すぐ側に転がっていた机や家具の残骸が、突然ガタガタと揺れだし、おキヌは悲鳴を上げた。
 パシッパシッと空気が弾けるようなラップ音が、建物全体を揺らすような勢いで高まっていく。
『燃える、燃えるよ!』
『手も、足も―――』
『髪も、目も―――』
『みんな燃える、みんな死ぬんだっ!』
 激しい炎、出口のない場所で逃げまどい、折り重なるように倒れて燃え尽きていく幼い子供たち―――彼らが見たそんな最後の光景がテレパシーとなって、おキヌの脳に流れ込んできた。
「やめてっ、みんな落ち着いて―――!」
 耐えきれずに、彼女は頭を抱えて叫んだ。
 そして背後にいたピートを振り返る。
「ピートさん、バッグの中から私の笛を―――!」
「は、はい!」
 ピートが彼女のバッグからネクロマンサーの笛のケースを引っ張りだし、笛をおキヌに手渡す。
「みんな、お願いだから落ち着いて!」
 おキヌは一息吸って、その唇を笛に乗せた。

 ピュルルルルゥ―――……

 澄んだ音色が、暗い室内のよどんだ空気を切り裂いた。
『―――!?』
 その音とともに、あんなに興奮していた霊たちが一瞬あっけにとられ、そして潮が引くように静まっていく。
「ねぇ、みんな……聞いてちょうだい」
 子供たちが笛の音に聞き惚れたように大人しくなるのを見はからって、おキヌはゆっくりと笛から唇を離す。
「……戦争はもう、終わったの」
 ささやくように、やさしく彼女は語りかけた。
「怖いことは、もうすべて終わったのよ」
 子供たちはまだ意味が飲み込めない様子で、ぽかんと彼女を見上げている。
「怖いことも、辛いことも、悲しいことも……みんな終わってしまったの」
 そう、少なくとも彼らにとっては。
 この子たちはもう、一生分の恐怖も悲しみも味わい尽くしてしまったのだ。
 これ以上彼らを、過去の幻影の中に囚われたままにしておくことはできない。
「だからもう、怖がらなくていいの。悲しまなくていいのよ。……みんな、ここから出よう? ―――そしたら変わる。すべてが変わるから……」
 たとえそこに待っているのが、一つの「終焉」だとしても。
 彼女に唯一できることは、短く無惨だったこの子供たちの人生にもう一度幕を下ろすこと、それだけだった。
『―――もう怖くないの…?』
 おずおずと少女の一人がおキヌのスカートを引っ張った。
「そうよ」
 おキヌは笑って頷く。
『悪い人も……いない?』
「ええ、もちろん」
 横に来た少年にも安心させるように頷いて見せる。
『じゃあ―――本当にお外に出てもいいの?』
 期待の入り交じった動揺が、子供たちの間にさざ波のように広がる。
 本当に、本当に、と子供たちは執拗なほど何度もおキヌに念を押した。
 ここは決して居心地のいい場所とは言えないが、それでも先の見えない未来に踏み出す時、誰でも一度は足がすくむのだ。
「外はとても明るくて、暖かいのよ……。みんなで一緒に行こう? そうすれば、きっとあなたたちにもそれがわかるはずよ―――」
 そして彼女の笑顔は、子供たちの最後のとまどいを消し去った…。

 子供たちはおキヌにつかまりながら、彼女の歩みに合わせておずおずと歩き出した。
 入ってきた壁の穴から建物の外に出て、そしてまだ残る午後の明るい陽光を浴びながら、ゆっくりと門へと近づいていく。
『あ、門が―――』
『門が、開いてる!?』
 彼らは信じられないものを見たように、口々に叫んだ。
『お外だ。本当にお外に出てもいいんだ!』
 誰かの叫びが合図だったように、子供たちはふいにおキヌの手を振りきって走り出した。
 男の子も女の子も、小さな子も大きな子も、待ち望んでいたものを目前にして堪えきれなくなったように、開け放たれた門扉を目指して駆け出していく。
「あ、みんな―――!」
 思わず伸ばしたおキヌの腕をすり抜けて、子供たちはようやく与えられた「自由」の中に迷いもせず飛び込んでいった。
 門という境界線を越えたその瞬間、小さな霊たちの姿はまるで日射しに溶けるように次々と消え始めた。
 最後に穏やかで満足そうな笑みだけを残し、後に残された者を決して振り返ることなく―――。
「みんな……」
 最後の一人が天に還っていくのを見送った後、彼女はまるで自分だけが取り残されたかのように淋しげな吐息をもらした。
「やりましたね、おキヌさん!」
 その肩を、ピートが明るくたたく。
「ピートさん……」
「見事でしたよ。ほとんど笛の力を使わずに、こんな短時間で霊たちを成仏させられるなんて」
「そんな……たまたまですよ。今回はたまたま相手が、まだ純粋な子供たちだったから。もっと強い念に縛られた霊だったらこうはいかないし……」
 ピートの手放しの誉め言葉に、おキヌは照れたようにかぶりを振った。
「それにしたって―――」

 チリ―――ン……

 そのとき、またあの鈴の音がした。
「い、今のは……」
「まさか……?」
 二人は顔を見合わせると、慌てて再び孤児院の建物の中に駆け戻った。
 チリ――ン、というか細いが決して聞き漏らすことのできない音は、たしかに中から聞こえてくる。
「君は……」
「あなたは……ニコライ君!?」
 音をたどって顔を向けた部屋の片隅に、さっき最初におキヌに姿を見せた巻き毛の少年の霊が立っているのに気づいて、彼らは愕然とした。
「―――ニコライ君、どうしてみんなと一緒に行かなかったの?」
 おキヌが少年に近づきながら尋ねる。
「…………」
 少年はひどくふてくされた表情でそっぽを向いた。
「ニコライ君……?」
 ひざまづいて、その顔をのぞき込むと、
『―――僕はまだここに居る』
 挑むような眼差しを向けて、ニコライはぼそりと答えた。
「どうして? どうして、そうまでしてここに居たいの?」
『だって……』
 少年はかすかにうつむく。
 すると、またチリーンという鈴音がした。
 それが少年のピアスが奏でる音だということに、おキヌとピートはようやく気がついた。
 ニコライの右耳のピアスの先には小さな鈴がついていて、それがさっきから彼が身動きするたびに小さく鳴るのだ。
『だって、約束したんだ。ママが……ママが迎えに来るまでここで待ってるって……っ!』
「―――え?」
 少年の叫びに、おキヌは目をしばたかせた。
 少年は怒ったように言葉を吐き出す。
『このピアス……ママがつけてくれたんだ。空爆から逃げる時、人ごみにまぎれて離れ離れになっても、必ずまた見つけられますようにって。ママも同じのをつけてるんだ。―――そして、それでもはぐれてしまったら、そこでじっと待ってなさいって。ママが必ず見つけ出して迎えに行くからって……』
「…………」
 ニコライの告白に、おキヌもピートも言葉がなかった。
 幽体の一部としてすでに実体がないはずなのに、片割れを呼ぶように音を奏でる小さな鈴。
 それは肉体が滅んでも消えなかった、この少年の思いそのものだった。
 おそらく、混乱を極めた戦局の中で、はぐれても必ずもう一度出会えるようにという母親の強い思いも虚しく、母子は引き離され二度と生きて巡り会うことはなかったのだ。
 ニコライ少年は孤児としてここに収容され、そこで死んだ。そして母親は……。
(たぶん、この子のお母さんはもう……)
 戦争が終わってもうかなりの時間が過ぎている。生きているなら子供の消息を訪ねて一度くらいこの場所にやって来ているはずだ。
 けれど少年はここで母親を待ち続けている。答えはもう明らかだった。
(でも、それをこの子にどう説明すればいいのか……)
 深い懊悩に囚われて、おキヌはうつむいた。
「―――でも、いつまでも君だけここにいるわけにはいかないだろう? お友達だってみんな旅立っていったんだよ」
 代わりにピートが、少年に歩み寄った。
『―――それでも。僕は……行かない!』
 意固地になったようにそう叫ぶと、ニコライの姿がふっとその場からかき消えてしまった。
「ま、まいったな……」
 ピートは頭をかきながら、おキヌを振り返った。
「すいません、僕余計なことしちゃったみたいで……」
「いいえ、そんなこと。……今のは仕方がないですよ。私もこんな時、どうしたらいいのか……」
 途方に暮れたように、二人は同時にため息をついた。

「これは長期戦になりそうですね」
「ごめんなさい、こんなことになってしまって……」
 日が暮れ、あっという間に夜が更けて冷えてきたので、ピートがその辺の燃え残りの廃材で作ってくれた焚き火を挟んで、おキヌは彼に深々と頭を下げた。
「いいんですよ、そんなことは。もともと急ぐ旅でもなかったんですから」
 ピートが慌てたように言う。
「はぁ……」
 おキヌは気が晴れない様子で、深くため息をついた。
 結局あれっきりどんなに呼びかけても、ニコライは姿を隠したまま出て来てはくれなかった。
「―――もうあれですっかり片づいたと思ってました……。でも子供だからといって思いの強さに違いなんてないんですよね。……まだまだ未熟者です、私って」
「そんな……。おキヌさんはよくやってますよ」
 さっき自分の荷物の中から取り出したノートパソコンを膝の上で開きながら、ピートはしょげかえるおキヌを慰めた。
「一生懸命やるぐらいしか、とりえがないから……私」
 そう言って肩をすくめながらも、おキヌはだんだん体ばかりでなく心まで温まってくるのを感じる。
(今日、ピートさんに会えてよかった。もし一人だったら、今度こそ途中で逃げ出してたかもしれない……)
 たった一人で戦ってきたこの2年間の心細さを思い出し、彼女はかすかに体を震わせた。
 何度仕事を放り出して日本に帰りたいと思ったかわからない。
 日本というより、あの場所――美神と横島がいる、彼女にとってたった一つの故郷に……。
 けれど、踏みとどまった。帰ればいつでも二人が暖かく迎えてくれることはわかっていたが、そこはもう本当の意味で自分の居場所ではないのだと知っているから。
 いつかは巣立たなければならない場所だとわかっていたから、日本を離れたのだ。
 いつまでもあの二人に頼っていてはいけない。自分の足でしっかりと立てるようにならなければと……。
 けれど新しい世界でがむしゃらに働いても、いつも心に穴が開いてるような虚しさがつきまとうのも隠しようのない事実だった。
 どんなに世界中を巡り歩いても、未だあの場所に代わる「居場所」を見つけることができないのだ。
 パチッと炎がはぜる音に、ふいに美神の事務所の暖炉の火を思い出した。
「…………」
 舞い踊る炎に目を据えたまま、おキヌはかすかに笑った。
 その暖かい火の前で、新しい世紀を祝って三人でシャンパンのグラスを鳴らしたあの日。
 これまでと変わることなく輝かしい未来がそこに待っていると、信じて疑わなかった自分の姿がそこにあって―――。
(もしかしたら、このまま一生さまよい続けるのかしら……)
 暗い想いに囚われそうになって、おキヌはあわてて頭を振ってそれを追い払う。
「―――さっきから、何を見てるんです?」
 ピートに近づくと、彼が食い入るように見つめているパソコン画面を彼女ものぞき込んだ。
「―――この孤児院について何か情報がないかと思って探してみていたんですが……」
 ピートはなぜかうかない顔をしている。
「何か参考になることでも載ってたんですか?」
 藁をもすがる思いで、おキヌは目を輝かせた。
「参考というか……。それより、今日、除霊を依頼しておきながら、この国の人間があなたを迎えにこなかった理由がわかりました」
「え……?」
「今日のタイムズにこの孤児院のことがスクープされたらしいです」
「え、スクープ?」
 おキヌはきょとんとする。
 ピートがひどく言いにくそうに続けた。
「つまりその……。この孤児院、戦争中に連合国軍によって誤爆されたって言ってましたよね。連合国側も当時それを認めて謝罪している。軍事施設の一つだと思って攻撃してしまったと……」
「そんな何年も前のことがどうして、今話題になるんです?」
 今更の話におキヌはますます首を傾げる。
「記事によると―――実はこの連合国側の誤認識は、そもそもこの国の政府による情報操作が原因で起こったことだと判明した、とあります」
「…………」
 意味がつかめず、彼女はピートの気まずそうな横顔をじっと見つめた。
「つまり、この国の政府が故意に連合国側に誤った情報を伝え、ただの孤児院を軍事施設と誤認させたわけです。そして結果として、孤児院は空爆を受け、全壊し―――」
「それって……でも何のために……」
「おそらく、国際世論を味方につけるため、でしょうね。正義と人道主義を掲げて介入した連合国軍が、身よりのない子供たちの集まる孤児院を誤爆して犠牲を出したとなれば、世論は当然反戦ムードに向かわざるをえないし、連合国内の足並みを乱すことができる」
 ピートは苦々しそうに、目の前にそびえる廃墟を見やった。
「どうりで不自然な場所に、不自然な建物だと思った。たぶんこの孤児院は初めから、そのつもりで建てられたんじゃないでしょうか。まぁ、実際は……連合国による誤爆が多すぎてほとんど話題にもならなかったみたいですけど……」
「そ、そんな……。それじゃ、あの子たちは……?」
 おキヌが震えていることに気づいて、ピートははっと息を飲んだ。
 しかし、もうそれは遅かった。
「あの子たちは……最初っから殺されるために……戦争を少しでも有利にするために……そんなことのために、ここに集められてたっていうんですか!?」
「あ、いや、でも、まだそれが事実と確認されたわけじゃ……」
 ピートはうろたえ、あわてて自分の言葉を取り消しだした。
 けれど、ショックを受けたおキヌにはもうどんな慰めも通じなかった。
 現に、空港に彼女を迎えにくるはずだった政府関係者は来なかったのだ。暴かれた事柄にあわてて蓋をするように。
 それが、たった一つの事実だった。

 ―――院長先生が絶対外に出ちゃだめだって……

 子供たちが口々に言い立てた言葉が蘇ってくる。
 霊になってもまだその場に居続けるほどの強い暗示が子供たちにほどこされていたのはなぜなのか、本当はもっと早くに気づくべきだったのだ。
(あの子たちは、ここに監禁されてたんだわ、来たる日のために―――)

『僕はここに居る。―――だって約束したんだ、ママが迎えにくるまでここで待ってるって!』

 ニコライはそう言った。
 たった一つの希望にすがる瞳で。
「―――ひどい!」
 悲鳴のように彼女は叫んだ。
「ひどすぎますっ! そんなの……そんなのって……!」
 もっと叫びたいのに、わめきたいのにそれ以上言葉が出てこない。
「お、落ち着いてください、おキヌさん!」
 彼女をなだめようと立ち上がったピートの腕を振りきって、おキヌはその場から駆け出していった―――。


※この作品は、胡麻さんによる C-WWW への投稿作品です。


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