『喪失の旅 〜美神編〜』

著者:胡麻


「いやー、すまんのぉ。まるで、こっちから催促したみたいで」
「―――何言ってんのよ」
 カオスのわざとらしい態度に、美神はフンと鼻を鳴らした。

 ―――ここは、美神除霊事務所のダイニングキッチン。
 テーブルを挟んで美神の向かいに座っているのは、ドクター・カオスとその忠実なアンドロイド、マリアだ。
「私には、わざと人の食事時間を見計らって来たとしか思えないわ」
 いまいましげに美神は言い、箸をとった。
 テーブルの上には、おキヌが登校前に美神のために作っておいてくれた料理が、温めなおされて並べられていた。
 おキヌが人間になって学校に通うようになってから、こうしておキヌが作り置きしてくれた料理をブランチとして一人でとるのが、近頃の美神の習慣になりつつあった。
 それをどこで聞きつけてきたのか、今日も美神が朝とも昼ともつかない時間にのっそりと起きだして料理を温めなおしていると、いきなりカオスがマリアを連れて、たいした用もないくせに訪ねてきたのだ。
 そして、「ほう、これはうまそうだ」とかなんとか言って、こっちがすすめてもいないのに上がり込み、料理の前にどっかりと座り込んでしまった。
「ちょ、ちょっと……!」
「いやいや、おかまいなく」
 美神に文句をいうヒマも与えずにカオスは持参した茶碗と箸を取り出しガツガツと食べだした。
 どうやら最近では家賃ばかりか、食費の方にもそうとう困っているらしい。あまりのずうずうしさに美神の方は怒る気力すら失せてしまった。
 さいわいおキヌはいつも食べきれないほどたくさん作っておいてくれるので、美神もすっかりあきらめて、マリアに茶を入れるように命じて自分も料理をつつきだしたという訳だ。
「うん? ちょっと待て」
 焼魚に醤油をかけようとした美神をふいにカオスが止めた。
「何よ?」
「その醤油は減塩か?」
「違うけど……」
「いかん、いかん。わしゃ、最近高血圧ぎみでな、塩分は控えておる」
 それがいったいどうしたのよ、と叫びそうになった美神の前で、カオスはごそごそと懐から醤油差しを取り出した。
「こんなこともあろうかと、減塩醤油を持ってきてやったぞ。人間、健康が一番じゃ」
 それをドバドバと魚にかける。
「…………」
 美神はなんだかどっと疲れてしまって、力なく醤油まみれの魚を口に運んだ。
 が、しかし――――
「な、何よ、これ!?」
 一口食べた途端、美神は叫んでそれを吐き出した。
「ど、どうしたんじゃ?」
 カオスもぎょっとして箸を止めた。
「これ、醤油なんかじゃ―――」
 美神は口を押さえると突然立ち上がり、ダイニングから飛び出していった。
「いったい、どーした? この醤油がどうかしたのか……?」
 カオスは改めて自分の持ってきた醤油差しに目をやった。
「ドクター・カオス」
 今までお茶を入れていたマリアが、振り返って不思議そうに言った。
「……たしか・醤油・先週で切れてたはず・です」
「いっ? するとこれは……」
 カオスは醤油差しを持ち上げて陽にすかすようにして見つめた。
「……先週、ドクター・カオス・空になったその瓶に・実験で作った薬品・入れていた・記憶してます」
 相変わらず淡々とマリアは言った。
「そ、そういえばそうじゃったな。近くに容器がなくて、ちょうどいいと思って。するとこれは……。確かあの時作っていた薬は―――」
 カオスは青ざめて、美神が飛び出していった方を見た。
「―――時空消滅内服液か……!」
 骨と皮ばかりのカオスの喉がゴクリと鳴った。


「美神、大丈夫かっ!?」
「ミス・美神!」
 我に返ったカオスとマリアは、美神を追って書斎に飛び込んだ。
 美神はソファの上に倒れこんでいた。
「み、美神……?」
 一瞬気を失っているのかと思ったが、カオスが近づくと、美神は血の気のない顔をあげ、キッと睨みつけてきた。
「カオス〜〜! いったい、何をたくらんでくれたのよ!」
 美神は殺気ばしっている。
「ご、誤解じゃ! 誓って言うが、これは事故で…」
 あわててカオスは弁解しようとしたが、足元に転がっている小瓶にふと目を止めた。
「魔法薬の中和剤か。とっさに飲むとはさすがじゃ。しかし、これもどこまで保つか……」
「いったい、何を飲ませたのよっ!」
 胸を押さえて、美神は怒鳴った。
「すまん。……どうやら時空消滅内服液が入っておったようだ」
「時空消滅……」
 あっさり言われて、美神は言葉をそれきり失ってしまった。
「お前さんにわざわざ説明する必要はないが、飲んだ者とこの世との縁を切り、その存在自体を消滅させてしまう薬じゃ。中和剤を飲んだ以上、これから順に過去を遡っていくことになるじゃろう。しかし、その間に今から24時間以内に起こった印象深い出来事を繰り返せば、おぬしとこの世との縁が再び強まって薬の効力を破ることができるかもしれん。こうなったらそれしかあるまい」
 励ますように力強くカオスは言った。
 しかしあまりのことに美神はまだ呆然としている。
「思い出せ、美神! 24時間以内に何か印象深いことはなかったのか? それなくしてはお前は二度とこの時空に戻ってはこれんぞ!」
「そんな……」
 苦しげに美神はあえいだ。こんなマヌケなことで、命どころか、存在自体が消えてしまうなんて。頭が混乱して思い出すどころではなかった。
「あ……ああっ!」
 その時、体に走った衝撃に美神は叫び声を上げた。
 その体がカオスたちの前で透けだす。薬が効き始めたのだ。
「美神―――!」
 カオスの叫びが遠くに聞こえる。
 美神の意識は深い海の底にひきずりこまれるように、時を越えて旅立っていった……。


(こんな……こんなバカな……!)
 底知れぬ闇の中をまっさかさまに落ちていくような感覚が美神の混乱に拍車をかけた。
 落ちているのがわかっているのに、どうすることもできない。全身に鳥肌がたち、つかむものを求めて手足がむなしく空をきる。
(24時間以内に起こった出来事を繰り返さなければ……消えてしまう……!)
 その思いがどうにか彼女の正気を支え、意識が遠のくのをふせいでくれた。
(何が……いったい何があったっけ? 私と現世の縁を強める強烈な出来事って……)
 しかしこの落下感がおさまらないことには、とても考え事なんてできそうにない。
 そう思ったとたんに、彼女のまわりを包む闇が反転した。
 まるで長いトンネルから抜け出たように、ふいに美神は光の中に放り出された。
 
 
「……――くん! 美神くん、どうしたのかね!?」 
 誰かが彼女の名を呼びながらその肩を揺さぶっている。
「え……?」
 美神はぼんやりと自分の目の前にいるその人物を見つめた。
「どーしたんだね、ぼんやりして……」
 その人はおどろいたように、彼女をまじまじと見返している。
「か……」
 美神は目をしばたかせた。
「唐巣先生?」
 突拍子もない声で彼女は言った。
「何だね、自分の師匠の顔を見忘れたかね?」
 唐巣神父が呆れたように笑う。
「どうして先生が……」
 美神はア然としかけたが、すぐにギクリと身を固くした。
「せ、先生! か、髪が……!」
 ぎょっとして叫んだ。
「髪が増えてる……? そ、それに若い!」
 唐巣神父の襟首をつかんで引き寄せ、その頭と顔を食い入るようにみつめる。
 目の前にいるのは確かに師匠である唐巣神父だったが、顔はもちろん、あれほど後退していた生え際にもふさふさと前髪があって、明らかに彼は若返っていた。
「ちょ、ちょっと、美神くん……」
 そして何がなんだかわからないでいる唐巣神父をふいに突き放すと、自分の体と、そして周囲にあわただしく目を向けた。
 「こ、これ、高校の制服!? それにここは……先生の教会……」
 美神たちがいるのは唐巣神父の教会の礼拝堂だった。それも、置いてある備品の一つ一つが妙になつかしい。
「これは……」
 ここにいたってようやく美神は気が付いた。
「私、GSの研修時代にまで遡っちゃったんだわ……!」
 美神はがっくりとそばの机に手をついた。
 時空消滅内服液は確実に効いているのだ。それも思ったより急激に。彼女は軽く四年も逆行してしまったことになる。
(冗談じゃないわ。……前に横島くんが逆行したペースより早いじゃない! いくら魔法薬の効き目は個人差があるといっても……)
 美神は血の気を失ったが、そうとなるといよいよぐずぐずしてはいられないことに、すぐに思いいたった。
「―――いったいどうしたんだね、美神くん。なにをそんなにびっくりしてるんだい?」
 唐巣神父は彼女の様子にすっかり目を白黒してしまっている。
 しかし、美神には彼に親切に説明してやる気も、この場でぐずぐず相手をしている時間もなかった。
「あの……すみませんけど、ちょっと失礼します!」
「美神くん!」
 唐巣神父が呼び止めるのも無視して、美神は教会にこの当時あった彼女の部屋に飛び込んだ。
(とにかく、落ち着いて。……そして思い出さなくちゃ……!)
 後ろ手にガチャリとドアに鍵をかけると、美神は必死に考え始めた。
(薬を飲む前24時間以内に起こった印象深いことって……)
 強烈に印象に残ることなんて、人生においてだってそうめったに起こるものではない。しかもたった24時間以内となると……。
 美神は全身にじっとりと汗をかくのを感じた。
「いいえ…! あったはずだわ。何か、何かが……」
 自分の悪運の強さを、彼女はこの期に及んでまだ疑ってはいなかった。
(24時間前……そう、昨日も確か昼ぐらいに起きだして……)
 とりあえず気を落ち着けるため、順を追って少しずつ思い出していくことにした。



 途中までは思い出すのも困難なほど、なんのへんてつもない平凡な一日だった。
 昼すぎに起きだして、おキヌの作りおきしてくれた朝食兼昼食を電子レンジで温めなおして、一人でたっぷり一時間くらいかけて食べて、……腹ごなしにソファの上でごろごろしながらテレビを見て、……そうしているうちに夕方になって、まずおキヌが、そして少し遅れて横島が学校から帰ってきて……。
(それから、おキヌちゃんが作ってくれた早めの夕食を食べて……)
 そして、ようやく三人で仕事に向かったのだ。その日の仕事は廃ビルの除霊だった。
 壊して新しいビルを建てようにも、ビルの前オーナーの悪霊がとりついて工事の邪魔をするというのだ。
 ここまでは、まったくいつものごとくのいつもの仕事だった。
 いつもとちょっと違ったことといえば、廃ビルの中をかけまわり、三人がかりで悪霊をようやく追い詰めたその時に、解体工事の途中でほったらかしにされていた床の一部が突然崩れ出したことと、その上にちょうど美神と横島が立っていたということだった……。
 
 
「美神さ――ん!」
 おキヌの悲鳴を聞きながら、美神と横島はもつれあうように突然できた足元の穴に落下した。
 幸い、穴はさほど深くはなかった。ほんの1、2メートルというところだろう。
とはいっても、まっさかさまに地面に叩きつけられればそれそうとうに痛い。いや、痛いはずだった。
 けれど、落ちながら自分が叩きつけられるはずの地面が見えてとっさに目をつむった美神の体を何かがふわりと包み、そして続いてやってきた衝撃は思ったよりずっとおだやかなものだった。
「――――?」
 美神は目を開き、そっと自分を包んでいるものを見た。
「あいててて……」
 それは一緒に落ちたはずの横島だった。
 横島の腕がすっぽりと彼女を包み、その体が彼女と地面の間に挟まっていた。
 横島が地面に落下する寸前に美神を抱きとめ、自分の体を下敷きにして落下の衝撃から彼女をかばってくれたのだ。
 全身で抱きしめられていることと、自分をかばった横島の腕が思いのほか力強いことに気づいた途端、美神は動揺した。
 心臓がドキンっとびっくりするほど大きな音をたてて飛び上がり、顔がカッとほてった。
「いつまで触ってんのよっ!」
 ことさら大声で怒鳴って、横島からむりやり体を引きはがす。
「大丈夫ですか!? 美神さん、横島さん!」
 おキヌがぽっかり開いた穴から、横島を介抱するために降りてきた。
 おキヌに横島をまかして、美神はそのすきに、もはや封印するばかりになっていた悪霊を破魔札に吸引した。
「―――やりましたね!」
 お札をしまっていると、横島が穴からはい出てきて、さっき思いっきり打ちつけた後頭部をさすりながら笑いかけてきた。
 美神はというと、チラリと彼を見るとすぐにさりげなく目をそらしてしまった。今、横島と目を合わすと、さっきの動揺を知られてしまいそうで……。
「さ、もうここには用はないわ。……帰るわよ」
 無表情に言い放つと、さっさとその場をあとにした……。
 
 
「まさか……! うそでしょう!?」
 自分が思い出した出来事に一番仰天しているのは美神自身だった。
「この24時間内で一番印象深い出来事が、これだっての!?」
 虚空に向かって美神は怒鳴った。いや怒鳴らずにはいられなかった。
(……よ、横島クンに、だ、だ、抱きしめられて、そ、それだけが、強烈に残った記憶だなんて……!)
 しかしいくら考えてもほかに印象に残るような出来事はなにもない。
(と、ということは……)
 現世との縁を強めるためには、その出来事を再現しなくてはならない。つまり、もう一度横島に抱きしめられなくてはならないということだ。
 美神はくらくらとめまいを感じた。
「うそでしょー! この私が、この美神令子が……そんなバカな――っ!」
 ベッドに倒れこみ、手足をジタバタしてわめいたが、ほかに方法がないことは、彼女自身が一番よくわかっていた。
(――――こーなったら、意地とプライドは捨てよう……)
 げっそりしながらも、どうにか決意すると美神は立ち上がった。
 
 

 決意したのはいいが、美神は肝心なことを忘れていた。それはもちろん、この当時の横島の居場所を自分が知らないことだ。
 いぶかしがる唐巣神父を適当にごまかして教会を飛び出してから、初めてそれに気がついた。
「ど、どうしよう!? 横島クンの実家なんて知らないし、どこで何してるかも……。あ、私が高校生ってことは、あいつ中学生か……」
 たしか中学は教会のそばにあったと聞いたことがある。学校をあたれば、案外すぐに見つかるかもしれない。問題は見つかったあとのことだが……。
「いそがなくちゃ……!」
 とにかくいつまでこの時代にいられるかもわからないのだ。一秒だって無駄にできない。
 しかし、その時―――
「あれは……」
 かけだそうとする美神の前方に中学生らしい集団が現われた。ちょうど下校時刻だったのだ。
 なんたる幸運。美神は祈るような気持ちでその集団の中に横島の姿を探した。
「……あ、いた!」
 まだ運命は彼女を見放してはいなかった。
 まさしく横島はその集団の中にいた。
 学ランを来て、鞄を肩にひっかけ、友達としゃべりながらこちらへ歩いてくる少年は、ぐっと小柄で幼かったが間違いなく横島忠夫だった。
「―――横島クン!」
 美神は中学生の群れに飛び込むと、他を押し退けるようにして横島にかけ寄っていった。
「へ……?」
 横島がポカンとした表情でふいに目の前に現れた美神を見上げる。
「あ、あの……オレっすか?」
 中学生の横島にしてみれば美神は見覚えのない人間だ。それを親しげに寄ってこられておどろいているようだった。
「そうよ。お願い、横島クン。ちょっと来て――」
「ええ? あの、ちょっと……」
「いーから、来るのよっ!」
 横島の反応などこの際知ったことではない。そばにいた横島の友達やそれ以外の中学生たちがア然として二人を見つめたがそれも知ったことではない。
 美神は彼の腕をつかんでずるずると脇道にひっぱりこんだ。
「オ、オレ、金もってないっス!」
 美神に恐い顔で壁際においつめられ、横島は真っ青になって言った。
「誰もカツアゲなんかしてないでしょーが!」
「え、で、でも……」
 横島はオドオドと美神を見上げる。じゃあ、いったい何の用なのかとその目は訊いている。
「だ、だからその……」
 その目を見ているうちに、今度は美神の方が動揺しだした。
 とにかく、この横島にあの廃ビルで穴に落ちた瞬間みたいに抱きしめてもらわないことには、美神は元いた時代に戻れないばかりか、どんどん時間を逆行して最後には存在そのものが消えてしまうのだ。
「あの、だから、あなたにその……た、た、頼みたいことがあって……」
 それをどう伝えたものか、美神は思いあぐね、だらだらと汗をかいた。
「は、はぁ……」
 横島はすっかり身構えてしまっている。
「つまり、その、あなたにその、だ……だ、だ、だ……」
 抱きしめて≠フ一言がどうしても言えない。どう考えても初対面の女が言うセリフではないし、おまけに美神の性格ではそれは不可能に近かった。
 しかも横島は美神のせっぱつまった事情なんて知らない。その上相手は中学生だ。へたをすればこっちが変質者扱いされてしまう。
「だ、だ、だ……あ――、やっぱり言えっこないわ、こんなことっっ!!」
 耳まで真っ赤になって美神は、横島を突き飛ばした。
「うわっ!」
 横島が後にひっくり返る。
 美神は恥ずかしさのあまり逃げだしたい気分だったが、突然ビクッと肩を揺らした。
「―――あぁっ!!」
 またあの衝撃が全身を走るのを感じた。
「ま、まずい、また逆行が始まっちゃう!」
 ガクガクと震える体を抱きしめて、美神は横島を振り返った。
 もうこうなったら恥ずかしいなんて言ってられない。これから何年逆行する
のか見当もつかないし、次も横島に会えるとは限らないのだ。
 今度こそ決意を固めて、地面に座ったままでいる横島に飛びつく。
「横島クン!」
「うわっ、……は、はい!」
「お願い、私を―――」
 けれど美神は最後まで言うことができなかった。その体が横島の前で透けだした。逆行が始まったのだ。
「な!? な、な、な……」
 驚きのあまり言葉をなくした横島の前で、美神は跡形もなく消えた。
「―――えーと……」
 しばらくして我に返った横島は周囲をキョロキョロと見回した。
「あれ? オレ、何してたんだっけ、こんなとこで……?」
 横島には数秒前にいた美神の記憶はもうなかった。 
「ま、いっかぁ……」
 どうでもよくなって、横島は立ち上がり、鞄を拾うと元いた大通りへと戻っていった―――。
 
 
 今度はいったい何年遡るんだろう?
 再びあの落下感を味わいながら美神は考えた。
 気のせいかさっきよりもずっと長く落ちているような気がする。あるいはこのまま消えてしまうのかもしれない。
(―――冗談じゃないわ、そんなこと!)
 無駄とは知りながら美神はじたばたとあがいた。
 ただ死ぬのとはわけが違う。存在そのものが、美神がこれまでたどってきた人生の記憶そのものが消滅してしまうのだ。今まで出会った人々のすべてから美神の記憶が失われ、思い出すら残らない。
(そんなの絶対イヤ――ッ! 私は美神令子よ! 死ぬんなら国葬クラスの葬式して、記念碑の一つも建てて百年や二百年は誰からも忘れられたくないっ! 人知れず消えてくなんて、そんなのイヤったらイヤ――ッ!)
 ひとしきりわめきちらすと、美神は自分の背後の、今まさに彼女が落ちて行こうとしている闇の底をチラリと見た。
 ゾクッと寒気が走る。
 それはぽっかりと無表情に彼女を待ち受けていた。
 何の感情も慈悲も感じさせない宇宙の深遠、生命のむこう……。それはまさに無≠サのものだったのかもしれない。
 そこに吸い込まれてしまえば、喜びも悲しみも、生にまつわるあらゆる記憶が失われ、ただ風のない海のように静まりかえるだろう。あるいは、それはそ れで幸せなのかもしれないが……。
 美神はブルっと再び身震いした。
 無≠フあまりの静けさに、一瞬魅せられてしまったのだ。
 そうじゃない、今はそんな静けさなんて必要としていない。彼女は気を持ちなおそうとあわてた。
(今はまだ……)
 美神は闇に目をこらした。闇はいま、再び光に変わろうとしていた。
 
 

「―――令子……、令子ったら……」
 誰かが彼女を呼んでいる。やさしくて、ひどく懐かしい声……。
 美神はハッと我に返った。
 最初に気がついたことは、自分の視線がひどく低くなっているということだった。
 まわりにある物がすべておおいかぶさってくるように高々として、何もかもが大きい。テーブルも椅子も、それに今、少しかがんで彼女を見下ろしている人も……。
(ああ……)
 美神はめまいを感じて、思わず目を閉じた。
 そして再びゆっくりとまぶたを押し開ける。
「どうしたの、令子?」
 その人は微笑んで、不思議そうに首をかしげる。
 けぶるような神秘的なまなざしと、やわらかい笑顔、真っ白なエプロンから漂う懐かしい匂い……。
(ママ……!)
 熱いものが胸にこみあげてきて、油断するとたちまち視界がにじんで歪んでしまうのを、美神は必死でこらえなければならなかった。
「どうしたの? 変な子ね」
 唇を引き結んで一言も発しない美神を見て、母が小さく笑う。
 昔は母のこの笑顔を見るだけで、幸福で胸がいっぱいになったのに……。
 美神はゆっくりとあたりを見回した。
 彼女がいるのはヨーロッパ製のキッチンテーブルと食器棚が置かれた、天井の高い、花柄の白い壁紙に囲まれたキッチンだった。
 確かめるまでもない、ここは美神の生まれ育った家だ。
(私……今度は幼児にまで戻っちゃったみたい……)
 エプロン付きの青いワンピースに包まれた自分の小さな手足を美神は人ごとのように見つめた。たぶん、2・3歳というところだろう。
「令子ったら。あ、ほら、もうすぐクッキーが焼けるわよ」
 歌うように言って、母はあわててオーブンの前にとんでいった。
 そういえば、おいしそうな匂いがキッチンいっぱいに広がっている。
 母は一流のGSだったが、仕事があくと、よくこんなふうに美神のためにクッキーやケーキを焼いてくれた。
(ママ……)
 もうこらえきれなくて、涙が美神の頬を流れた。
 何もかも、あの日のままだった。
 陽射しあふれるキッチンルーム、白いレースのカーテンを揺らして、庭から流れこんでくるバラの香り、そしてまだ若くて健康で、幸福そうな母の微笑み……。
 まるで奇跡を見るように、美神は声もなく、その幸せな光景を見つめ続けた。
 いったいどれだけ長い間、この瞬間に戻りたいと願い続けただろう。最愛の母を亡くしてからの長い年月の中、何度祈りながら眠りについただろう。
 なんだか今この瞬間だけが本当で、この後起こったことこそが夢の中の出来事のように思えてきた。
 こんな幸福な思いに包まれていられるなら、このまま消えてもいいかもしれない。そんな思いがふわりと胸をよぎったが……。
「さあ、焼けたわよ。お茶にしましょう。……令子?」
 クッキー皿を手に振り返った母が、驚いて立ちすくむ。
「ママ……」
 両目を涙でいっぱいにして、美神は言った。
「令子、いったい……」
「ママ……。あたち、帰らなきゃ……」
 突然泣きだした娘の姿にとまどう母に向かって、しゃくりあげながら美神は言い続けた。体が幼児に戻ったせいで言葉まで舌たらずになって、もどかしい思いをしながら。
「帰らなきゃならないの、もとの場所に。待っててくれてる人たちがいるの……。―――このままじゃ、あたし消えちゃう……。誰にも出会えずに消えてしまう……!」
 涙があとからあとからあふれて、言葉を飲みこんでしまった。
「令子……」
 そんな幼い美神を、母は途方にくれたように、静かなまなざしで見つめ続けた―――。
 
 

「―――じゃあ、その横島クンて子に会わなくてはいけないのね?」
 時空消滅内服液を誤って飲んでしまって、横島に会って現世とのつながりを強めなくてはならないという途方もない話を、さすがGSなだけあって母はあっさりと信じてくれた。
「う、うん。……でも、あたしが2歳ってことは、横島クンは今、赤ちゃんか、もしかしたらまだ生まれてないかもしれない……」
 母が理解してくれたので安心したものの、すぐに美神は絶望的な気分になった。
 母はしばらく考えていたが、やがてすくっと立ち上がった。
「とにかくその子の居場所を占ってみましょう。生まれていれば必ず答が出るはずだわ」
 そう言って、愛用の占い道具を持ってくると、キッチンテーブルの上で占い始めた。
「―――反応が、あったわ。横島クンはもうこの世に生まれているのよ。場所は……思ったより近い。ここから北北東、半径五q以内……緑の多い場所、池があって、人もいる……。―――公園だわ。行きましょう、令子!」
「うん!」
 美神は勢いよく椅子から飛びおりた。
 
 

 おそらくこれが最後のチャンスだろう。
 占いで指定された公園に着いた時、美神は思った。
 これ以上逆行しても、肝心の横島が生まれてなければどうしようもない。
 第一、美神にだって次があるとは限らない。このまま完全に消滅してしまう確率の方が高い。
 美神は公園内を母とともに見回した。
 ここのどこかに赤ん坊の横島がいるはずなのだ。
「令子、あそこ――!」
 母の指さした場所に目をやると、そこにはベンチに腰掛けた若い女性がいて、その隣にはベビーカーがあった。
(あれが、横島クン……?)
 美神はかけだした。その後を母もついてくる。
「―――あら、お嬢ちゃん。どうしたの、そんなに走って……」
 ひなたぼっこしているらしいその若い母親は、ものすごい勢いで走ってきた美神を見て面食らった。
「おばちゃん! その赤ちゃん、横島……いえ、忠夫クンなのね?」
 叫ぶように美神は尋ねた。
「え……? ええ、そうよ。どうしてそれを?」
 不思議そうな母親を無視して、美神はベビーカーをよじのぼるようにして中をのぞきこんだ。
 そこに横島がいた。白い産着に包まれた、まだ生後まもなそうな赤ん坊が、太陽の光を浴びながら幸せそうに眠っている。
「横島クン!」
 赤ん坊を起こそうと、美神はベビーカーを揺すった。
「あらあらだめよ、せっかく眠ってるのに。それにその子は一度眠ると、ベビーベットから落ちたって起きないんだから」
「あ、あの、奥さん、ちょっと……」
 あわててとめにかかった母親を、美神の母が少し離れた位置から用のある様子で手招いた。
「え……? 何か?」
 母が彼女の注意を引きつけていてくれる間に、美神は赤ん坊をぐいぐいと揺すった。
「起きて、横島クン! 起きてー!」
 耳元で叫んでも、横島はピクリともしない。ただ平和そうに惰眠をむさぼっている。
「こら―――っっ!! 起きろー、横島ぁ!」
 しびれを切らして美神は怒鳴った。
「早くしないと、あたし消えちゃう! あたし達、もう会えなくなっちゃうのよ! あたしのこと全部忘れちゃうのよ! あんた、それでもいいの? 本当にそれでいいの――?」
 必死で美神は叫び続けた。
 けれど横島は一向に目を覚まそうとはしない。
「あたしとあんたが出会わないと、何も始まらないのよ……」
 叫び疲れて、美神は大きなため息をついた。
 考えてみれば、たとえ横島が目覚めたとしても、赤ん坊の彼に何ができるだろう。横島が抱きしめてくれなければ、美神の旅は終わらないのだ。
 もう駄目だ、と美神は悟った。
 じきに最後の逆行が始まるだろう。これまで歩んできた時間と記憶を失い、この世から「美神令子」という存在だけが剥落する希望のない旅。
 誰もが彼女を忘れ、宇宙のどこにも痕跡すら残さず、最後にはあの漆黒の闇に飲まれて自分が自分であったことさえ忘れてしまうのだ。
(あんたと会うのも、これが最後なのね……)
 横島の寝顔を指でさわってみる。
 生まれたばかりの新しい生命の器が、今の彼女にはひどくまぶしく見えた。
「……さようなら、横島クン」
 その小さな、柔らかな頬にそっと唇で触れる。
 顔を離した瞬間、美神の涙がひとしずく、ポタリと横島の頬の上に落ちた。
 すると―――まるでそれに驚いたかのように、あんなに揺すっても叫んでも起きなかった赤ん坊が、ふいに目を開けた。
「よ……」
 美神は息を飲んだ。
 横島が見えてるのか見えてないのかわからないようなぼんやりとしたまなざしで、じっと美神を見ている。―――やがて、その横島の小さな小さな本当にもみじのような手が、そばにあった美神の手の親指をギュッと握りしめた。
(あ………)
 思いもよらない仕種、思いのほか力強くしっかりとした横島の指の力、そこから流れこむ温かい生命の気配。
 美神は心臓がドキンと跳ね上がるのを感じた。あの時、横島に抱きしめられた時に感じたあのときめき……。
 ふいに――――
 美神のまわりの世界が歪みだした。
 何かものすごい力が自分に向かって流れ込んでくるのを彼女は感じた。
(また逆行? 違う、これは……!)
 戻れるんだ、と直感的に思った。
 どういう仕組みになっているのかはわからないが、あの時と同じときめきを美神が再現したから、彼女と現世の絆が見事復活したのだ。
 それと同時に過去の世界がしだいに薄れていく。
 赤ん坊の横島も、公園も、……母だけが消えていく世界の中から美神に向かって手を振ってくれたような気がしたが、それもまたたくほどの間だった。
 彼女の記憶と存在がめまぐるしい速さで回復しだし、もとの時空へと戻る道が開かれたことを美神は知った。
 美神は一度来た道を、時空の風に押されながら、迷うことなくかけ戻っていった―――。


※この作品は、胡麻さんによる C-WWW への投稿作品です。
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