『喪失の旅 〜横島編〜〈前編〉』
著者:胡麻
キンコーンカンコーン……
どこかで鐘が鳴っている。
その音さえもまるで天上の調べのように美しく感じさせてしまう極上のまどろみの中に、横島はいた。
「―――横島! おい、起きろよ、横島!」
だれかが彼の背中をぐいぐいと押したが、それでも起きないとわかると、ふいに耳元で叫んだ。
「起きろ、横島ぁ――っっ!!」
「うわっ!」
横島は仰天して、机にうつぶせていた頭をガバッと上げた。
「……やっとお目覚めか」
あきれ声が頭上からふりそそいできた。
ねぼけまなこで見上げると、数人の男子生徒がニヤニヤしながら彼の机を取り囲むようにして立っている。
「なんだよ、人がせっかくいい気分で寝てんのに……」
まだ頭が覚めきらない様子で、横島はぼやいた。
「バーカ、もう放課後だよ。たまに学校に来といて、六限目まで寝っぱなしってのは、いくらなんでも寝すぎだっての」
「い? もうそんな時間か?」
横島はキョロキョロとあたりを見回した。
確かに教室の中はすでに大半の生徒が帰ってしまってガランとしている。
「やーねー」
窓際に残っていた数人の女の子たちが、そんな横島の様子を見てクスクスと笑う。
横島は顔を赤らめながら、言い訳するように言った。
「しょーがないだろ、疲れてたんだから。昨日は走り回るわ、穴から落ちて床に叩きつけられるわ、サンザンだったんだよ。美神さんの人づかいの荒さはハンパじゃねーんだからな」
すると友人の一人が不思議そうな顔をした。
「なに、お前、バイト変えたの?」
「―――へ?」
横島は奇妙なものを見るように相手を見返した。
「何言ってんだよ。んなわけないだろ。今までどんだけ苦労したと思ってんだ。ここまできて、今さらやめれっかよ。―――それより、今何時だ? げっ、もうこんな時間じゃねーか。やばっ!」
黒板の上の時計を見上げて、横島はあせった。
美神から今日は学校が終わったらすぐ出勤しろと言われていたのだ。
あわてて教科書を鞄につっこむと、横島はあわただしく立ち上がった。
「わりぃけど、急いでんだ。じゃあな!」
ア然とする友人たちに手を振って、横島はドアをくぐろうとした。
(あれ……?)
その瞬間、何かすごく変な感じがした。
それが何故なのかわからず、横島はもう一度教室の中を振り返った。
黒板を消している掃除当番、帰り支度をする生徒、窓際でいつまでもおしゃべりしている女子生徒たち、放課後のごく見慣れた風景だったのに、その時はひどく奇妙な印象があった。
(なんだろう? まるで、何かが足りないみたいな……)
横島は少しの間、頭に手をあてて考えていたが、それが何かは少しも思い出せないのだ。
「ま……、いっか」
そんなことより、今は遅刻した場合の美神の怒りの方が怖い。横島は思いなおして、教室を後にした。
「まったく、薄給のくせに人づかい荒いよなー。昨日あんだけ肉体労働したんだから、今日くらい休ましてくれりゃーいいのに……」
事務所に向かう電車の中で、横島はブツブツつぶやいた。
いっそ昨日、穴から落ちた時に骨折でもしてれば休めたかもしれない。なまじか丈夫な自分の体がいまいましい。
「あれ、そーいえば……」
横島はふと自分の体を見回した。
朝起きた時、あれだけひどかった全身の打撲痛が、知らない間におさまっていることに今気がついたのだ。
「なんか、ますます丈夫になってきたのかな。いや、待てよ……」
制服の袖をまくりあげて腕を見てみると、あれだけあった青アザやすり傷が見事に消えている。
「消えてる……。おキヌちゃんが直してくれたのか?」
こりゃ労災の申請はいよいよ無理そうだと、横島はため息をついた。
いったい全体何が起こったんだろう?
やっと着いた事務所の前で、横島は呆然と立ちすくんでいた。
彼と事務所である洋館の間には、幾重にも鉄条網が張りめぐらされ、そしてそこにサビとキズだらけの看板が傾いて下がっていた。
『売家 ○○不動産』。看板にははっきりとそう書かれていた。その下には、赤いペンキで『立入禁止』となぐり書きされている。
「いったい……何の冗談なんだ?」
横島はこの冗談をたくらんだ者の姿を探そうとあたりをキョロキョロした。
しかし、冗談にしてもあんまり手がこんでいる。
錆ついた鉄条網にはツタ草が巻きつき、ここから見る限りでは、敷地内には雑草がペンペンと茂り、屋敷はもう何年も空家であるかのように古びてうらぶれて見えた。
昨日の夜まではなんともなかったのだから、たった半日でここまで細工ができるものだろうか。
もしかしたら、建物を間違えたのかもしれないと、横島は屋敷の周辺をぐるぐると歩き回ってみたりもしたが、近所の様子からして、あきらかにここが通い慣れた美神除霊事務所であることは間違いない。
「と、とにかく入ってみるか……」
わけもわからず、横島は鉄条網のゆるんでいる場所を探して、どうにか敷地内に入り込んだ。
玄関の扉には鍵がかかっていた。ドア自体も薬品でもひっかけたように汚く色あせていて、ノブは完全に錆びついて茶色くなっている。
「美神さーん! おキヌちゃーん! 人工幽霊一号! 誰かいないのかー?」
横島は扉を叩いて叫んだ。インターホンも電源が切れているのか、返答もなければ、鳴っている気配もない。
あきらめて横島は建物の横手に向かった。そして、一番手近な窓から背伸びして屋敷の中をのぞきこむ。
「―――う、うそだろ?」
今度こそ横島は自分の目を疑った。
汚れてるうえヒビだらけで見えにくいガラスの向こうには、昨日まであったリビングがなかった。うす暗く、壊れた家具らしいものが転がってはいるがガランとしていて、それはもう何年も人が住んでいない空き家そのものだった。
『だから、オタク、誰なわけ―――?』
「エ、エミさん、こんな時に冗談はやめてくださいよ! 横島だって言ってるでしょ、さっきから。美神さんとこの助手の横島忠夫っすよ」
横島は苛立って、電話ボックスの壁を足で蹴った。
『だれ? 美神――? いったい、誰なわけ、それ?』
電話の相手、小笠原エミも苛立ったように聞き返してきた。
屋敷の変わりはてた姿と美神たちの不在が、とても単なるイタズラとは思えず、横島はとにかく助けを呼ぼうと、まず小笠原エミに電話したのだ。
しかし、そのエミにさっきから話が全然通じない。
『―――こっちは忙しいのよ! イタズラならいーかげんにしてっ!!』
しまいにはガチャンと乱暴に電話を切られてしまった。
「どーなってんだよ、いったい……」
横島は途方にくれてしまった。
念のため六道冥子の方にも電話してみたが、こっちはいっそう話が通じなかった。
とにかく横島がどれだけ説明しても、彼女たちには彼が誰なのかわからないようなのだ。美神の名前を出してもそれは同じで、まるでそんな人間に会ったこともないような口ぶりだった。
横島はだんだん、自分が異次元に入りこんだような気がしてきた。いや、そうとしか思えなかった。それ以外にこの異常な状況を説明する言葉がなかった。
めまいを感じながら、横島は電話ボックスから出た。
外の世界は何も変わってはいない、事務所が空き家になっていることと、美神たちがいないということ以外は。
(まさか、まだ夢みてるのかな、オレ……)
横島は空を見上げ、それからブルブルと頭を振った。
これは現実だった。まぎれもない現実だ。
きっと彼のいない間に美神たちの身に何かがあったのだ。
それが何かは今はわからないが、とにかくなんとかしなくてはいけない。
こういう時、頼りになる人物を思い出して、横島は駆けだした―――。
「やあ、いらっしゃい」
教会の扉を開けた途端、中にいた唐巣神父にそう笑いかけられ、横島は心底ホッとした。
亀の甲より年の功ではないが、唐巣に相談すればきっとすべてがよくなるはずだ。
彼の慈愛に満ちた微笑みを見た途端、相談する前からすでに肩の荷が降りたような気さえした。
「まあ、かけなさい」
唐巣にすすめられるがままに、横島は礼拝堂の椅子の一つに腰掛けた。
「それで、今日はいったいどんな用件でここに?」
横島の隣に腰掛けて、唐巣神父は愛想よく尋ねてきた。
「ええ、あの、それが……」
「遠慮しなくていいよ。何でも相談してくれたまえ。おっと、いけない。―――その前に君の名前を教えてくれないかい?」
横島は再び絶望の淵にたたき落とされたような気がした……。
「―――なるほど」
横島の長い長い説明の後、唐巣神父は短く頷いた。
横島は疑わしそうに唐巣を見た。
とりあえず、今日彼の身に起こったことを説明し、それから唐巣もやっぱり美神のことを知らないと言うので、自分と美神のこれまでのいきさつとか美神の性格なんかを聞かれるままに話してはみたが、本当に唐巣が納得したかどうかははなはだ疑問だった。
「つまり、その美神令子くんという女性は私の弟子で、金にはあこぎだが一流のGSだった。君はその助手であり、GS見習いとして彼女に師事していたというわけだね。それからその……おキヌちゃんとかいう娘さんは、三百年前の幽霊で、今は生き返って住み込みの助手をしていると……」
唐巣神父は自分の顎に手をやった。
「そして―――今日君がいつものように仕事場に行くと、彼女たちは忽然と消えていて、仕事場自体もまるで何年も使っていないようなありさまになっていたわけだ。おまけに私を含めて、その美神令子くんと交流のあったGSたちは彼女の存在自体を忘れてしまっている、と。ふーん……」
独り言のようにつぶやいて、唐巣は考え込んでしまった。
横島はあきらめたようにため息をついた。
とにかく、唯一はっきりしたことは、自分を除くすべての人が、「美神令子」という人間を忘れてしまったということだ。そして彼女につながる横島やおキヌの存在も。
いったいどうしてこんなことになってしまったんだろう?
アクシデントにはなれっこになっているが、肝心の美神がいないし、おまけに今回ばかりは頼りになるGS連中も横島のことを知らないのだから助けにならない。
「なんというか……いや、実際、信じがたい話だ。何しろ私には君やその美神くんとやらの記憶がまったくないからね。しかし……」
唐巣はさっきから困りきった顔をしている。
「ウソじゃないっすよ! ホントにオレや美神さんは―――」
横島は思わず叫んだ。
ここで唐巣に見捨てられたら、彼にはもう頼るアテがないのだ。
「もちろん、信じるとも。作り話にしてはできすぎてるし、なにより君はウソを言ってる様子じゃないしね」
唐巣はあわてて横島をなだめるように言った。
横島はホッとした。そして唐巣神父の元を訪れた自分の選択に間違いはなかったと改めて思った。
なにしろこの神父はもともと人を疑うことを知らないのだ。皆が美神を忘れてしまっている今、こんな一高校生の途方もない話をまともにとりあってくれる人が他にいるはずがない。
「いろいろ考えたんだが……」
ふいに唐巣が立ち上がり、横島の前に立った。
「その美神くんはなんらかの術でこの世界から存在の記憶ごと消されてしまったんじゃないだろうか」
「え……? そ、そんなことできるんすか?」
「大昔にはそういう秘法があったときいている。特定の相手にある魔法薬を飲ませるだけで、殺すのではなく、そもそもその人物がこの世に生まれてきていないことにしてしまうという、恐るべき秘法だ。生まれてこなければ誰もその人物とは出会わないから、誰もがその人に関する記憶を失ってしまう。その人物とこの世の縁そのものを断ち切ってしまうわけだ」
「―――そ、それって『時空消滅内服液』のこと?」
ふと思い出して横島が口をはさんだ。
唐巣は意外そうに、
「そうだよ。よく知っているね」
「知ってるも何も……オレ、それ飲んだことあるし……」
「なんだって?」
唐巣が仰天する。
「いやー、ドクター・カオスって奴に以前飲まされちゃって。そーいや、あん時はひどい目にあったなー、赤ん坊にまで逆行しちゃってさぁ……」
横島はしみじみと言う。
唐巣はそんな横島をしげしげと見つめた。
「信じられん。あれを飲んで生還できた人間がいるとは! いや、しかし、それでわかったよ」
「え……、何が?」
「君だけが、美神くんの記憶をなくしていない理由だよ。おそらく君は……以前『時空消滅内服液』を飲み、しかもそれを克服したために、この薬の作用に対して免疫ができてしまったんじゃないのかね」
「免疫ぃ?」
横島はあんぐりと口をあけ、それから思わず自分の体を見回した。
「たぶん、そんなとこだろう」
ゆっくりと唐巣は頷いた。
「じゃ、美神さんは……」
「そう。美神くんは何者かに『時空消滅内服液』を盛られた。彼女はこの時空から消え去り、彼女に関する記憶も全て失われた。唯一君の中に残る記憶以外は……」
「そんな! じゃ、いったいどうすれば……」
言いかけて、横島は言葉を飲んだ。
唐巣神父が気の毒そうに彼を見つめている。
「残念だが……、私にはどうすることもできない。一度あの薬を飲んだことがあるなら君に説明する必要はないが、薬の効果を破ることができるのは本人だけだ。自ら再びこの世との絆を結び直すしか元に戻る方法はないんだ。美神くんは今、過去へと逆行中か、それともすでに……」
唐巣が口ごもる。
しかし横島にはその次の言葉がはっきりとわかってしまった。
(―――美神さんが…消滅?)
横島はめまいを感じた。
誰もが美神を忘れ、もう彼女のいない世界が始まってしまっているのだ。すでに美神が消えてしまっていると考える方が自然だった。
「そんな……」
ふらりと横島は立ち上がった。
そのままふらふらと出口に向かって歩いていく。
「よ、横島くん―――」
その背中に唐巣が声をかけた。
「気持ちはわかるよ。昨日までいた人が突然いなくなるというのは辛い。大事な人ならなおさらだ。しかも我々と違って君には彼女の記憶がまだ残っているんだし……」
唐巣は次の言葉を言うべきかどうか、わずかに迷ってから続けた。
「けれど……たぶん、それもわずかな間だろう。君のその記憶は脳に刻まれたものではなく、魂の記憶だ。時がくればやがて薄れていく。なにしろそれは……あるはずのない記憶なのだから―――」
「…………」
横島は振り向こうとはしなかった。
「もちろん、こんなこと君には救いにもならないだろうが……」
唐巣神父の前で静かに扉が閉まった―――。
※この作品は、胡麻さんによる C-WWW への投稿作品です。
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