『喪失の旅 〜横島編〜〈後編〉』

著者:胡麻


 どこをどう歩いたのかもわからず、横島はまた事務所の前にいた。いや、本来なら美神の事務所となるはずだった建物、というべきかもしれない。
 そろそろ暮れつつある陽射しを受けて、古い洋館はいっそう色褪せて古ぼけて見えた。人が住まない家とはそんなものかもしれない。見るからに寂しい、哀れな感じがした。
 横島はまた柵を越え、敷地内に踏み入った。
 屋敷の周りをぐるぐる歩き回り、やがてはずれかけている窓を見つけて中に入りこんだ。
 中は思った以上にひどいありさまだった。
 カビ臭く暗い室内には、あちこちにクモの巣がカーテンのように垂れ下がり、一歩進むごとに埃が巻き上がって床にくっきりと侵入者の足跡を残した。
 どこもかしこも、見る影もないほど荒れ果てていた。
 ひびの入ったガラス窓から夕陽が射し込む階段まで来て、横島はそこに座り込んでしまった。これ以上屋敷の様子を見るのが辛くなってしまったのだ。
「美神さん、おキヌちゃん……」
 彼は力なくつぶやく。
 なぜこんなことになってしまったんだろうかと、また横島は思った。
 昨日まで、いや、今日学校で目覚めるまで、いつもとまるで変わりない一日だったのに。それがこの先ずっと続くと疑ってもいなかったのに。それが突然、なんの予告もなしに途切れてしまった。
(美神さん……)
 美神は消えてしまった。この世から、跡形もなく。今はもう、誰も彼女のことを憶えてもいない。
 なぜなら彼女はこの世に生まれてこなかったから。生まれてこなかった人間と出会うことはできない。
 横島は美神に会って助手になることもなく、もちろんGSの資格をとることもない。彼はもともとごく平凡な一高校生にすぎなかったのだから。
 おキヌは……美神に出会わなかったおキヌは、たぶんまだ幽霊だろう。邪悪な妖怪を封じるべく、未だ地脈を守っているはずだ。彼女がその役目を果して生き返ることが許される日まで。
 ―――そういえば、屋敷に入ってもまったく反応がないが、この屋敷に宿る人工幽霊一号はどうしてしまったのだろう。
 ふと思いついたが、すぐに横島は深いため息をついた。
 人工幽霊一号は消滅してしまったのかもしれない。たしか霊能者の強い波動を受けなければ消えてしまうのだと、前に言っていた。美神という主人を得られず、消滅してしまったのだろう。だから、この屋敷はこうまで荒れ果てているのだ。
 けれど、考えてみると、美神が消えて実際に影響があったのはそれくらいだった。
 人が一人消えたくらいではこの世界はたいして変わらないらしい。
 唐巣やエミや冥子たちはやっぱりGSをしているし、おキヌは今は無理でもいつかは人間に戻れるだろう。
 そして横島は……。
 彼はといえば、美神と出会う前の生活に戻っただけだ。
 学校とアパートを往復するだけの毎日。
 たぶん生活苦からバイトくらいはするだろうが、それはきっとコンビニの店員かなにかの、とにかくごく普通のバイトだ。―――間違っても神だの魔族だのに関わったり、薄給で命を賭けて誰かのために戦ったりすることは決してない。
 平和で平凡で退屈な日々。
 美神と出会う前には、確かにそれこそが彼の日常だったはずなのに、なんだかもう想像もつかないような日々に思えた。
(美神さんもおキヌちゃんもいない世界で、これからたった一人生きてくのか……)
 美神が消えてしまったと知ってからまだそれほど時間もたっていないのに、まるで見知らぬ世界に一人取り残されたみたいに孤独で、たまらなく淋しかった。

 ―――けれど……たぶん、それもわずかな間だろう。君のその記憶は脳に刻まれたものではなく、魂の記憶だ。時がくればやがて薄れていく。なにしろそれは……あるはずのない記憶なのだから―――

 唐巣神父の声がふいに胸によみがえる。
(あるはずのない記憶……)
 横島はなんとなくギクリとした。
 彼の中に残った美神の記憶もやがては薄れていくと、唐巣神父は言った。
 それはいつだろう? そういえば、さっきから美神の顔を思い浮かべようにも、輪郭がぼやけてはっきり思い出せなくなってきたような気がする……。
 もう記憶が薄れ始めているんだと感じて、横島はショックを受けた。
「まさか……このまま、忘れちまうのか?」
 声に出してつぶやいてから、あらためて横島はうろたえた。
 このままでは思い出も残らない。美神といた日々を永遠に失ってしまう。
「……そうだ、忘れないうちに紙に書いておこう!」
 あわてて鞄の中からノートを取り出すと、彼はそこに思いつくことを書き連ねだした。
「えーと、美神さんに、おキヌちゃんに……エミさんに、冥子ちゃん……それに唐巣神父、ピートにタイガー……」
 はたとペンが止まる。
 せめて美神にまつわる人の名を書き出そうとしているのに、もうそれ以上名前が出てこなくなった。
 思い出そうとするほど、記憶の先が薄れて曖昧になっていく。そのうち何を思い出そうとしているのかもわからなくなって、思考がぐるぐると同じ所を旋回しだした。
「…………」
 力の抜けた指の間からペンが滑り落ちる。
 西日が鋭く差し込む窓を横島は見上げた。
 美神にまつわる記憶という記憶が急激に、指から砂がこぼれ落ちていくように消え失せていく。まるであの沈みゆく太陽のように、誰にも止められない確かさで……。
「なんだよ……」
 うつむいて、横島は小さくぼやいた。
「なんでこんな簡単に消えちまうんだよ……。人類が絶滅しても一人だけ生き残ってやるなんて、豪語してたくせに。どうしてこんな……」
 ノートの上にぽたりと小さな雫が落ちて、そこに書かれた文字を汚していく。
 美神がいた場所、美神がいた時間、それに連なるたくさんの記憶……。
 なにもかもが、彼の中から失われていく。
 そして、やがて自分が何を失ったのかさえも、忘れてしまうのだ。
 けれど……この胸にぽっかり穴があいたような喪失感だけはいつまでも残るような気がした。
 たとえどんなに時がたってしまっても、こんな夕日を見るたびに、沈みゆく太陽を止めようともがく自分の姿が横島には見えるようだった……。
 
 

 ふと、横島は顔を上げた。
 その横顔にそろそろ勢いが弱まりつつある西日があたっている。
「あれ……ここは?」
 陽を避けるために手をかざしながら、キョロキョロと辺りを見回す。
 まるで見覚えのない、古びた空家らしい洋館の階段の途中に自分が腰掛けていることに気づいて、横島は少なからずぎょっとした。
「なんだよ、ここ? オレ、なんでこんなとこにいるんだ?」
 立ち上がった彼の膝からノートがばさりと落ちる。
 そのノートの開いたページになぐり書きしてある名前らしいものが見えて、横島は首をひねった。
「ん?……美神令…子? おキヌちゃん……? なんだこりゃ」
 なんで自分のノートにこんな落書きがしてあるのかわからず、彼はそのページを破ると、丸めてその場に投げ捨てた。
 そしてあらためてあたりを見回す。
「おっかしーなー、オレ、こんなとこで何してたんだっけ? 確か、授業が終わって、バイトに行こうとして―――あ、そーだ、早くバイト行かねーと……!」
 鞄をつかむと、横島はあわてて階段を駆け降りだした。
 その瞬間―――

〈――――横島クンっ!〉

 誰かが、彼の名を呼んだ。
「え……?」
 横島は足を止め、階段を振り返る。
 階段には誰もいない。
 ただ明かりとりの窓から、弱々しい夕暮れの陽射しが射し込んでいるだけだ。
 気のせいかと向きなおろうとすると、

〈――――横島クン! 横島クン! こら―――っ!! 横島ぁー!〉

 せっぱつまった感じの叫びが再び聞こえてきた。
 聞き覚えのない、けれどどこか懐かしい響き。

〈……早くしないと、あたし消えちゃう! あたし達、もう会えなくなっちゃうのよ! あたしのこと全部忘れちゃうのよ! あんた、それでもいいの? 本当にそれでいいの――?〉

 誰かが叫んでいる。泣きながら、力の限りに。
 それは外からというより、むしろ彼の内側から、記憶すらさだかでない遠い過去から渡ってくる声のようでもあった。
 胸ぐらをつかまれて問い詰められているみたいに、横島はあせりを覚えた。
(―――早く…、早く思い出さないと、あの人が消えてしまう……)
 胸がどきどきして、額にじっとりと汗をかきながら、彼はうろたえた。
(あの人?……あの人って誰だっけ?)
 けれど、肝心なところで思考が空回りして進まない。
 夕日がゆっくり沈んでいく。
 どんどん狭まっていく赤い陽射しの角度に、何か忘れてはいけないことを忘れてしまったようないらだちに似たあせりと、胸にぽっかりと大きな穴が空いてしまったみたいな淋しさが彼の中で渦巻いた。

〈―――あたしとあんたが出会わないと、何も始まらないのよ……〉
 
 また彼の奥から声が伝わってくる。
 その声が、やがてあきらめたように切ないため息に変わった。

〈さようなら、横島クン……〉

 そして、永遠の別れを告げるつぶやきが聞こえた時、
「―――い、いやだ!」
 思わず、横島は叫んでいた。
 何かを取り戻そうとするように、虚空に向かって夢中で手を伸ばす。
 そしてその指先が、あるはずのないものを握りしめた瞬間―――
「…………!」
 弱々しくなっていた陽射しがふいに勢いを増し、横島の目を射ぬいた。
 まぶしさに両目を覆い、やがてゆっくり手をはずすと―――
 階段の踊り場の、窓の下に誰かが立っていた。
 ガラスごしに、ややおとなしくはなったものの、まるで金色のカーテンみたいに降りそそぐ陽射しを全身に受けて、………奇跡のように『彼女』はそこに立っていた。
「美………」
 横島は言葉をなくした。
 それが誰なのか、自分が何を言いかけたのかもわからず、ただその光景を見つめ続ける。
 再び失うことを恐れるように、いつまでも……。
 
 


 キンコーンカンコーン……

 どこかで鐘が鳴っている。その音さえもまるで天上の調べのように美しく感じさせてしまう極上のまどろみの中に、横島はいた。
「―――横島! おい、起きろよ、横島!」
 だれかが彼の背中をぐいぐいと押したが、それでも起きないとわかると、ふいに耳元で叫んだ。
「起きろ、横島ぁ――っっ!!」
「うわっ!」
 横島は仰天して、机にうつぶせていた頭をガバッと上げた。
「やっとお目覚めか」
 あきれ声が頭上からふりそそいできた。
 ねぼけまなこで見上げると、数人の男子生徒がニヤニヤしながら彼の机を取り囲むようにして立っている。
 いったいなにがどうしてしまったのだろう。
 自分が今どこにいるのかもわからず、彼はキョロキョロとあたりを見回した。
「へ? ここ、学校?」
 自分が学校の、教室にいることに気づいて横島は仰天した。
「バーカ、何寝ぼけてんだよ。もう放課後だぞ。たまに学校に来といて、六限目まで寝っぱなしってのは、いくらなんでも寝すぎだっての」
 あきれたように友人たちが笑う。
「やーだ」
「もろ、青春て感じ〜」
 窓際に残っていた数人の女の子たちが、そんな横島の様子を見てクスクスと笑った。
「―――え?」
 横島はハッとして、声のした方に顔を向けた。
 女の子たちと一緒にそこにいたのは机妖怪の愛子だった。
「な、なによ……」
 急に真顔で振り返られて、愛子はびっくりしたように横島を見返した。
「あ、愛子! おまえ、机妖怪の愛子だろ?」
 立ち上がって近づくと、横島は愛子の肩をつかんでゆさぶった。
「そ、それがどうしたのよ? なんか文句でもあるの!?」
 いきなりの行動に愛子は横島を突き飛ばすと、眉をしかめた。
 教室がざわめきだし、床に倒れたまま横島が呆然としていると、
「あれ? どうしたんです、横島さん。そんなとこに転がって……」
 のんびりした声が背後からかかった。
「お、お前は―――」
 振り返った横島の目に映ったのは、ちょうど廊下から教室に入ってきたピートだった。その背後にタイガーもきょとんとした顔で立っている。
「ピ…ピート! それにタイガーも。お前ら、もうオレのこと忘れたんじゃ―――」
「やだなぁ。どうしちゃったんです、横島さん?」
 ピートが笑いながらかがんで、熱でもあるのかと横島の額に手を当てた。
 その瞬間、やっとこれが現実だということが横島にも飲み込めた。
(て、ことは……今までのは全部、夢? 美神さんが消えて、みんながオレのことを忘れてしまうっていう……)
 混乱して、頭がぐらぐらする。
「そ、そうだ! 美神さんは!?」
 突然がばっと起き上がると、驚くクラスメートやピート達をおいて、横島は鞄をつかんで目にも止まらぬスピードで教室を飛び出していった。
 
 

(……あれは夢なんかじゃない)
 電車を駆け降り、事務所へと向かう足をますます早めながら、横島は思った。
 理由なんてない。ただそう確信していた。
 そうなると考えられることは、ただ一つ。美神は確かに時空消滅内服液を飲んで、この世から記憶ごと消滅しかけたが、例の筋金入りの悪運の強さで見事この世の縁を取り戻し復活したのだ。
 だから美神に出会わなければ本来会うはずのない、愛子やピート達がいつも通りに教室にいたのだ。
 やがて事務所の建物が見えてきた。空家の看板も鉄条網もなければ、古ぼけてうらぶれた感じもない。ただ昨日退社した時のままの姿で屋敷はそこにあった。
 当り前のはずの光景なのに、ほっとして胸がじーんとするのを感じた。
 そして飛ぶような足取りで、門を抜け、扉を開ける。
「美神さーん! おキヌちゃーん!」
 玄関に足を踏み入れた瞬間に、横島はもう叫んでいた。
『―――おかえりなさい、横島さん』
 さっそく人工幽霊一号が、声で彼を出迎えてくれた。
 屋敷の中はもちろん、荒れ果てたり、埃がつもったりすることもなく、いつも通り掃除がいきとどいていて人の住んでる気配がする。
 廊下に並んだドアの一つが開いて、制服姿のおキヌがちょこんと顔を出した。
「あ、横島さん、おかえりなさい。どうしたんです? そんなにあわてて……」
「お、おキヌちゃんっっ!」
「きゃ―――っ!」
 いきなり横島に抱きつかれて、おキヌは悲鳴を上げた。
「な、なにするんですか、横島さん!?」
「おキヌちゃんだ! ホンモンのおキヌちゃんだー!」
 かまわず横島は、おキヌの胸に顔をすりつけた。
「いーかげんにしてくださいっ!!」
 おキヌが真っ赤になって、横島を床に叩きつける。
「いってぇー……。でも、やっぱ夢じゃないんだ」
 それでもニヤニヤ笑っている横島をおキヌは薄気味悪そうに見つめた。
「なんか変ですよ、横島さん……。それに美神さんも……」
「美神さん!? 美神さんがいるんだ?」
 飛び起きて、横島はおキヌに詰めよった。
「え? そりゃいますよ。でもすっごく不機嫌なんです。私が帰ってきた時、玄関前にドクター・カオスとマリアがボコボコになって放り出されてて、美神さん自身は書斎に閉じこもったきり……あ、横島さん!?」
 おキヌが言い終わる前に、横島は書斎に向かって駆け出していた。
 
 

 書斎のドアを開けた途端、
「あ、おキヌちゃん? カオスの奴、当分出入り禁止にしたから―――」
 部屋の真ん中で腕を組んで立っていた美神がくるりと振り返った。
「あ……」
 入ってきたのがおキヌではなく横島だと気づいて、美神は息を飲んだ。
 勢いよく飛び込んだものの、横島も思わずドキリとして立ち止まる。
 たった半日ほど会わなかっただけなのに、ずいぶん久しぶりに美神の顔を見たような気がして、一瞬どんな顔をすればいいのかわからなかった。
 それは美神の方も同じなようで、彼女は横島を見てみじろぎ、わずかに赤くなった。
 なんか調子狂うな、などと思いつつ横島は次に言うべき言葉を思いあぐね、そしてぽろりと言った。
「―――お、おかえりなさい、美神さん」
「え……?」
 美神はびっくりしたように、横島を見返した。
 自分が過去に逆行してどうにか戻ってきたことを、まさか横島が知っているとは思わないので、横島がなぜそんなふうに言ったのか腑に落ちなかったのだ。
「変なの。帰ってきたのは横島さんの方でしょ?」
 そこへおキヌがやってきて、美神と横島を不思議そうに見比べた。
 横島はどう説明したものか困って、再び美神を仰ぎ見た。
 美神はというと……何がどうなってるのかわからず、ぼんやりと二人の視線を受け止めていたが、そのうちやがて、まぁいいやというように肩をすくめた。
「―――ただいま、横島クン」
 笑顔を浮かべ、美神は言った。
 長い長い旅の果てにようやくめぐり会えたように、限りないなつかしさをこめて―――。

※この作品は、胡麻さんによる C-WWW への投稿作品です。
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