時の道化たち

時の道化たち 第一部ゴーストスイーパー武藤玄也
蘇れよ追憶〜色あせぬ母〜


「へえ……」
美神の発言がそこで止まってしまったのは単に昼食のサンドイッチを口に運ぶためであった。口の中のものを数回咀嚼してから改めて言葉をつなぐ。
「あんたも母さんいないんだ」
そして再びサンドイッチにかぶりつく。
「ええ。もう死んでから十年ほど経ちましたかね。僕が小一の頃ですから」
「ふーん」
「美神さんのお母さんはGSだったんですよね?」
「知ってるの?」
「GS美神美智恵といえばちょっとした有名人ですからね。名前くらいは聞いたことがありますよ」
美神は改めて自分の母親のすごさを認識した気がした。
 二人は今、会場の建物の正面にある階段のところに並んで座っている。冥子とエミは飲み物を買いにいくとかでどこかに行ってしまった。
「ひょっとして、私が最初に名乗ったときから気付いてたの?」
「ええ。美神なんてそうある苗字じゃないですからね」
「あんたの名前は……まあ、ありきたりといえばありきたりよね」
「まあ、あなたほど特殊ではないですね」
「……ちょっと待って、でもあんたの苗字、GS関係で聞いたことがある気がするんだけど……」
「はは、六道さんのところほどじゃないにしろそれなりに古い歴史を持ってるとこですからね、うちも。もっともほとんど消滅したも同然ですけど」
「何かあったの?」
「天災ですよ。その時母も死にました。親戚もみんなね。残った一族は僕と父だけなんです」
さすがに武藤は少し神妙な顔つきになった。
「……ねえ、ところでさあんたの母さんてどんな人だったの?」
「どんな……と言われましてもねどこにでもいる普通の母親だったと思いますけど。あんま覚えてないですけど」
「────あたしのママはね……あんたの言ったとおりGSよ。日本最高の、いえ世界最高のね。ママを超えることは私の望みであり彼女の望みでもあったのよ。でも、中学生くらいのときだったかしらね、それに比べて私はあまり出来のいい娘じゃないんだって思ったことがあった。どうしても私はママに勝てなかったのよ」
ふっとそこで言葉をとめると彼女は珍しく悲しそうな顔をして青空を見上げた。
「毎日、毎日バカな連中と遊び歩いたわ、危険なことも随分やった。俗に言う『ぐれた』ってやつかしらね。あたしはママに勝てないどころか戦うことさえ放棄したのよ。そんなさなかでママは死んだの」
「………」
「考えてみれば私はママよりずっと未熟だったんだから当時は勝てないのは当たり前だったのよ。でも私はそのことに気付かずに最悪な形で戦いを終わらせてしまったの。私はもうママには勝てない。死んでしまった以上、比べられないからね。でも、いえだからこそ、せめて記録だけでも私は勝つわ」
そこで彼女は再び言葉を切った。
「長い前置きなんだけどこれが言いたかったのよ。あんたが勝ち進めば準決勝で私と当たるんだけど……その時はあんたを完膚なきまでに叩きのめすわ、そして主席で合格する。そこではじめて私はママと同等になれるのよ」

 美神たちが建物から脱出するのと建物が崩れてしまったのはほぼ同時だった。
「ギリギリセーフ」
最後尾にいた武藤がいう。
「セーフじゃないわよ。砂埃が髪に入っちゃって……サイテー」
「今更同じでしょう」
ぶつくさ文句を言うエミを武藤はたしなめた。
「あ、美神さん!」
少しはなれたところからおキヌの声が聞こえた。彼女はそのままスーッとこちらに向かって移動する。
「横島君は……?」
そのおキヌに対し、美神が尋ねる。一見したところ彼の姿は見当たらない。
「あ、あそこです」
おキヌが指差した先にはいつも横島に持たせているでかいリュックサックがあった。
「横島さーん、美神さん達戻ってきましたよー」
おキヌがそう呼びかけるとリュックがもぞもぞと動いて中から横島が顔だけを出した。
「……何やってんのあんたは」
美神があきれた声で言う。
「いや……怖くって」
中から出てこないまま横島がそう答える。
「でも横島さんがあの中に入ったとたんに周りが落ち着いたんですよ」
おキヌが半分助け舟で、もう半分はおそらく助手としての義務で口を挟む。
「そりゃまあ、あの中には破魔札とかいろいろな攻撃的なものが入っているからね、下手に手を出したら自分達に被害が出るでしょ」
「とりあえず美神さん、何が起こってんのか教えてくださいよ、何がなにやらさっぱりです」
「わかったから、とっととその中から出てきなさいよ」

 準決勝第一試合は周りの予想に反し、ごく短時間で終わった。
 開始同時に突っ込んだ小笠原エミの攻撃が冥子を泣かせてしまい式神が暴走したのである。、もちろん試合の勝者は六道冥子だった。
 そして、準決勝第二試合…………
「さあ、決勝戦へ残された切符は後ひとつ! 果たしてこのチケットを手にすることが出来るのはあの緋色の魔女と呼ばれたGS美神美智恵の一粒種、美神令子選手か、それとも今回の試験で男性ではベスト4に唯一残った紅一点ならぬ黒一点、武藤玄也選手なのか!!…………」
単なる記録用ビデオにもかかわらず無意味にテンションの高い実況の声に押されるようにして二人は結界に近づいた。
「気に入らない紹介の仕方ね……」
美神はむすっとした顔で愚痴をこぼす。がそれは一瞬のことで、すぐに彼女は気を取り直して、顔を上げて言った。
「ま、とにかく、手加減無用だからね」
普段なら、手加減しなさいよ、というところであったが美神はあえてそうは言わなかった。理由は二つ。一つは手加減された相手に勝っても母に勝った事にはならないから、もうひとつはこの男にそんな事を言っても無駄だから。
「そんな余裕、僕にはないですよ」
武藤はそういい、二人は軽く笑ってからお互いの手の甲をこつんと軽くぶつけた。
「…………準決勝第二試合いよいよ開始です!」
無責任な実況の声が会場内で反響した。

 『アーカンソー計画第47次中間報告書』
 自動攻撃オカルト兵器試作品K−72・通称『グラント』について
 自動追尾オカルト兵器試作品K−72・通称『グラント』(以下グラントと表記)を1981年6月18日に我々、第7研究班が管理している第45東アジア方面基地内に五階建ての建物を建設し、その効果の程をテストしたことは先の第46次中間報告書にて報告した。
 結果として実験に協力した兵士12名の内7名が死亡、5名が重傷を負い、さらにグラントは自己増殖プログラムによって増加したため同研究班はあらかじめ組み込んでおいた機能停止プログラムを発動させ、グラントを問題の建築物の中に閉じ込めることに成功。さらにその建築物の周りをGSの協力の下に結界を張った。
 この実験の報告を受けた陸軍本部は同年7月1日、グラント及びそれが設置された建物を破棄することを決定。だが、この決定に対し第7研究班に所属する数名の研究者が反対を表明した。本部側は彼等の意思を無視し、同年7月6日グラントの破棄をとり行おうとしたが、彼らはグラントの自己防衛プログラムを作動。これによって兵士3名が死亡、5名が重傷を負った。
 この自己防衛プログラムは建物の五階に設置されたグラントの中枢部分に仮想の自我を与え、生存本能によって自身を守ろうとするものである。ただし、この中枢部分が破壊された場合、自己防衛プログラムは自動的に書き換えられ、増殖プログラムが発動される。被害は上記の結界によって広がりはしなかったが手の打ちようがないため現在もそのまま放置されている。
 問題の研究者については現在裁判中であるが、別の研究者の証言によるとグラントは自己増殖を第一の目的に作られており、自己防衛プログラムを与えられているとはいえ増殖プログラムを優先させることが予測できる。外敵が入ってきた場合にはこれらの行動を変更し、襲い掛かる場合もあるが、ある程度仲間がやられてしまうと増殖プログラムを優先させるために外敵に中枢を意図的に破壊させる場合もありうる。(後略)
「そういうわけなの、わかった」
「ええ……と、わかりません」
美神が渡した資料を眺めてから横島は正直に言った。
「つまりね、あの化け物は自分の仲間を増やしたかったんだけれど、中枢にくっついた自己防衛プログラムがあるとその行動に歯止めがかかっちゃうの。だからあたしたちを利用して中枢を破壊させたの」
「まったく、ものの見事に騙されてしまいましたよ」
おそらくは先程最上階で冥子が見たものは自分達がきちんと中枢組織を破壊するかどうかを確認しに着たグラントの一部だったのだ。玄也は人差し指を額に当ててうなだれた。
「過去を振り返るのは後にしなさい。これから先をどうするのか考えなきゃ」
エミが厳しい顔でその場の人間を叱咤する。その言葉に武藤が反応した。
「ああ、それなら解決法が見つかりましたから心配ないです」
「もう?」
「ええ」
そういって武藤はスッと手をある方向に差し伸べた。
「私〜〜〜〜???」
その方向にいた六道冥子の困惑の声に対し、玄也は少々大げさにうなずいた。

 音もなく武藤の周りに数個の魔法陣がうみだされた。
「魔導術ね……」
見るのはこれで三回目。一回目は昨日エミを殴ろうとしたときに止められた時。二回目はどっかの誰かとのいざこざで。
「へえ、よく知ってますね」
「まぁね」
実際はその術の特徴を唐巣に話すことで彼から教えてもらったのだが美神はあえてそのことは言わなかった。戦闘においてハッタリは意外にに重要である。
「そんなカビの生えかかったような術で私を倒せると思ってるの?」
そういいながら美神は浮いている魔法陣の数を数えた。3つ。
「腐っても鯛、というでしょ」
その言葉が戦闘開始の合図だった。美神が神通棍を構えてつっこむ。それに対し武藤は間を詰めさせないように後ろに後退しながら叫んだ。
「蠢けよ、炎!」
「はっ!!」
美神が神通棍を一薙ぎさせると炎が消える。が、
「蠢けよ、炎!」
武藤は連続で同じ呪文を放っていた。消した炎のすぐ向こうからまた同じものが飛んでくる。
「くっ!」
先程の一撃が大振りだったため美神はすぐに攻撃に転じることが出来なかった。左のほうに転がりながらよける。
「轟けよ、雷鳴!」
転がり終わってから立とうとするその絶妙のタイミングで紫電が走る。後ろのほうで先程よけた炎が結界にぶつかって爆発する音が聞こえた。
「神通棍よ!!」
鋭く叫んで両手に力を込める。紫電の重心を神通棍で受け止める。派手な音がしながらも雷はかき消えた。
「今度はこっちの番よ!」
そういいざまに美神は武藤に向かって走った。
 一振り、二振り、三振り、それらを武藤は紙一重でよける。四振り目は唐竹。斜め右前に一歩踏み込んでよけた後武藤は体を深く沈めた。予想通りその上を五振り目の神通棍がかけていく。髪の毛が何本が切られる感触。すぐさまこぶしを突き出す。人差し指の関節だけを前に突き出したような特殊な、つまりは実戦本位のこぶし。
 狙うは……鳩尾。だが、突如近づいていくはずのこぶしと美神の体の距離が開く。彼女が後ろに飛び退ったのだ。適当にもう一方の腕を適当に振り回す。が、たたくのは虚空のみ。追撃は彼女が神通棍を構えなおしたのでやめた。こちらも一歩後ろへ。
 二人の間に先程と同じ広さの間合いが作られた。

「先程、例の中枢についての説明を見たんですけどね……」
横島から文書を取り上げると武藤は続ける。
「実はあれ、単に一定のメッセージを定期的に強い力で送り出すものに過ぎないんですよ。つまり……」
「そうか! 冥子ならそういう操作系の霊波の扱いには慣れてるからグラントに命令を与えることができる!!」
「そのとおり」
美神の言葉を玄也は肯定した。
「でもこの子にそんな細かい芸当ができるの?」
そういいながら疑わしげな目を冥子に向けたのはエミだ。
「あうう〜〜〜そんな目で見ないで〜〜〜〜」
「でもここまできちゃったら出来る出来ないの問題じゃなくて、やるやらないの問題でしょ。冥子に任せるしかないわよ」
美神が現実的な意見を説いた。それから彼女は顔を冥子のほうに向けると、
「冥子、やってみる?」
「うん。でも、あんまり期待しないでね〜〜〜〜」
「大丈夫誰も………ふがっ」
期待してないから、と言おうとしたエミの口を武藤がふさいだ。
「どうかしたの〜〜〜〜〜〜??」
「いえいえ、なんでもないですよ。さ、どうぞ」
怪訝な顔をしながらも冥子は両手を胸の前で組むとそっと祈るように目を閉じた。

「緊迫した試合ね〜〜〜〜〜」
まるで緊迫してない声で冥子が言う。口とポテトチップス(のりしお)の間を往復する右手の動きさえ、スローモーションで見ているかのようだ。口の周りに青海苔がふんだんにくっついてしまっているのが彼女らしいといえば彼女らしい。
「エミちゃんもいる〜〜〜?」
ポテトチップス(のりしお)を隣にいるエミに冥子は勧めた。
「いらない」
エミは端的に短く答えた。
「エミちゃんたらさっきからずっと不機嫌にしてるけど、どうしたのよ〜〜〜〜〜」
「おたくに負けたからに決まってんでしょーーーがっ!!!! しかもあんなかたちで!!!」
「えーん、エミちゃんたら怒っちゃいや〜〜〜〜〜」
「『いや〜〜〜〜〜』じゃないっ!」
「えっ、ひっ、ぐすっ……」
「わかった! 私が悪かった! だから泣くのはよして!」
「本当〜〜〜〜」
「本当!」
「だからエミちゃん、好き〜〜〜〜」
(あたし、こいつのこと大っ嫌いだ)
エミは心の中で強烈にそう思った。
「……ところでさ、エミちゃんはどっちが勝つと思う〜〜〜?」
冥子の言葉を無視しなかったのは彼女を泣かせたくないというより自分も興味があったからだ。
「そうね……近距離戦なら令子のほうが得意だし、中距離戦なら玄也のほうが有利よね。多分、あいつら二人ともそのことにはもう気付いたと思うわ、ただ……」
遠距離戦なら私が一番だ。と思いながら解説を続ける。
「ただ……?」
「玄也の使う魔導術ってあれ結構一発一発に使う霊力が大きいのよね。あいつがそんなに何発も使えるかどうか……」
「つまり〜〜〜〜勝つのは令子ちゃん〜〜〜〜〜?」
「さてね、玄也の霊気量しだいよ」
「ふ〜〜〜〜〜ん」
(けど……)
エミは声には出さずに心の中で言葉を続けた。
(何か、引っかかるっていうか……なんか隠してる気がすんのよねあいつ)

(すごい…………)
武藤は心の中で感嘆の声をあげた。提案こそしたものの、武藤は冥子がここまでやってくれるとは思わなかった。今彼等の目の前には直径7、8メートルの紫色の球体が浮かんでいる。冥子が彼女の霊力と引き換えに連れ戻したグラントだ。おそらく全てが戻ったと見て間違いなかった。
 冥子はしばらく一心不乱に集中していたが、ついに彼女はその場にばったりと倒れかけた。その体を令子が支える。同時に冥子のかけた鎖を引きちぎったグラントは増殖媒体を求めて地面へ近づいた。
「いつまでも思い通りになると思ってるんじゃないわよ!!」
エミが叫びながら地面の上を覆うように結界を張る。
「冥子、よくやったわ、後は休んでていいわよ」
美神は肩で息をしている冥子に語りかける。
「うん、そうさせて……もらう〜〜〜〜…………」
すぐに彼女の口から穏やかな寝息が聞こえる。その寝息と同じくらい穏やかな顔をした令子はその寝顔をそっとなでる。それから一瞬後にその顔は厳しいものへと変わった。
「おキヌちゃん、冥子のこと頼んだわ」
「は、はい」
「お任せください、この横島忠夫必ずやご用命を果たしましょう! では早速人工呼吸をーーーー!!!」
おキヌは結局二人分の面倒を見ることになってしまった。

(どうやらすぐに勝負を決めるのは無理のようね)
美神は苦々しくそう思った。長期戦は苦手ではなかったが嫌いだった。
 じりじりと間合いを詰める。予想通り相手もこちらが進んだ分と同じだけ下がる。魔導術は発動させるのに集中力が必要となるので短距離で使うには不向きだからだ。だが、闘技場が結界で覆われている以上、永遠に逃げ続けるのは不可能だ。それが分からぬほど馬鹿でもあるまい。だからといって、逆に近づけば接近戦では自分のほうが有利だ。彼は負ける。
 ついに『鬼ごっこ』にも終わりが来た。武藤の背に結界がぶつかる。更に近づく。横に逃れる。だがそれもつかの間、すぐに玄也は結界の端へと追い詰められた。
「さあ、どうするの?」
少し意地悪く美神は尋ねる。
「どうするもこうするも──やりあうだけですよ。違いますか?」
「違わないわね」
ぐっと前に一歩踏み込む。今度は大振りにはしない。必要最低限の高さまで神通棍を持ち上げ袈裟切りに振り下ろす。武藤に逃げ場はない。

「白よりも白き天の光よ、原初に出でし無限の力よ、其は大意、其は甘美、其は救い、今、汝、我の力を代償にその大いなる力を再びこの世界に現出させ我が眼前の敵を浄化せよ、響けよ福音!!」
複雑な印と共に武藤の術が炸裂する。光が全てを包み浄化されてゆく。が、
「効いてない!?」
そこには先程と変わらぬグラントがあった。
「違う、密度が想像以上に高いのよ!」
動揺しかけた武藤をエミが抑える。続けて彼女は叫んだ。
「令子、とろとろしてないで、速くこっち来て手伝って!!」
彼女の希望はすぐに受け入れられた。美神はエミの背中を無断で踏み台にするとそのまま中空に高く飛ぶ。
「ちょっと何すんのよ!!」
エミは当然抗議するがもちろん無視する。
 美神が上空からグラントに近づくと唐突に球体の体の一部が触手のように伸び、更に刃のように鋭くなった。
「令子!」
(しまった!)
空中では避けようにも避けようがない。刃は美神の四肢を切断すると思われたが、刹那、
「走れよ斬撃!」
武藤の放った真空波が刃を切断した。
「ナイス、玄也くん!」
美神はそういってから神通棍を逆手に構えてグラントに突き刺した。

 彼女の打ち込みは完璧だった。付け入る隙など一切ない。
(天才だ……ね)
こんなことを考えてるのが知れたら彼女は怒るだろうが、やはり血は争えない。明らかに親から継いだ『才能』という奴がなせる業だ。全力を出さなければ、いや、出しても勝てるかどうかは怪しい。
 どんな種類の技能であってもある程度長じれば自然に相対評価というのが欲しくなる。他人より優れているのを証明したくなる。自分が今その欲望に完全にとらわれているのを武藤は自覚した。無意識のうちに自分は自分をこのような全力を出さなければいけない状況に追い込んだのだから。
 自分には彼女ほど勝たなければいけない理由はなかった。しかしそれでも……
(それでも……)
挑むように彼女に接近する。そして左の腕を前に出し、それを盾にするようにして、神通棍を防ぐ。当然激しい激痛が当たった場所から波紋のように広がる。
「つあ……!」
思わず声が口から漏れる。視界の端には笑う美神。それを無視し、右手で神通棍を握る左手の手首を強くつかむ。とたんにはじかれたように彼女はそれを振り払う。抗せず武藤はあっさりと手を離した。
 すぐさまその右手を握りこぶしにし、開いた美神のボディを狙う、ふりをする。どうやら先程実際に狙ったのが良かったらしい。美神がすぐに後ろに飛び退る。こちらの思惑通り。
 いきなり武藤は美神に飛び掛った。彼女はこちらを見ながら後退していたし、依然彼女の体は空中にあった。よって追いつくのはひどく簡単だった。右手を開き、アイアンクローの要領で美神の顔をつかむ。そしてそのまま自分の全体重を乗せる。当然、彼女は後ろに倒れた。落下の途中で武藤は手を離しそれからそのまま床の上を転がるようにして結界の端にまで移動する。
(折れては……いないな)
起き上がってから左手の状態を確認する。大事には至ってはいないが動かすには相当の精神力が必要になりそうだった。
「随分物騒なことやってくれんじゃない。何よ今のは?」
起き上がった美神が神通棍を正眼に構えながら問う。
「六道さん同様、僕にも先祖から受け継いだものがあるんですよ」
武藤はそう答えて疾走した。

(え!!?)
突き刺したはずだった。そうすれば敵にダメージが与えられ、仕事は終わりのはずだった。だが現実は違った。
美神が突き刺した神通棍はまるで突き刺した相手が何か別のもの、例えば豆腐だとかそういった柔らかいものであるかのように全く抵抗なく透過した。美神の肉体がたどった運命も同じだった。視界が紫色一色になりまた一瞬後に地面が眼前に迫る。
「くっ!!」
慌てて受身を取り、ダメージを最小限に抑える。すぐさま眼前に変形したグラントの槍が真上から伸びてきた。
(避けられない!!)
伸びてくる槍の中心を見切り神通棍で止める。ほっとしたのもつかの間、すぐに新たな二本の槍が左右から伸び、カーブを描きながらこちらに突き刺さろうとする。
「ちょっ……!」
「霊体貫通波!!」
エミの必殺技が三本とも焼き払う。美神はその期を逃さず、すぐに横に転がった。
「ど、どういうことなのよ」
「多分……あいつってミリ単位の細かな粒子から出来てますから、神通棍とか、霊体ボウガンとかそういうのは通じないんじゃないですかね……?」
玄也が冷静に分析した。
「ふん、それならそれで打つ手はあるわよ。精霊石をくらえっ!!」
美神は右耳のイヤリングにある精霊石を手に取ると思いっきりグラントに向かって投げつけた。途端にグラントから触手のような槍が一本伸び、精霊石は美神とグラント本体との中心で爆発した。爆発は同心円状に広がるため、そのエネルギーの大半が無駄になる。
「あじなまねを! ……横島君、破魔札あるだけちょうだい!! それからおキヌちゃん、冥子のこと急いでたたき起こして!」
「わかりました!」
「は、はい」
美神の言葉に呼応しておキヌは冥子のところに飛んでいった。いつのまにか復活していた横島もリュックをごそごそやり始め、しばらくして破魔札のかたまりを取り出す。その間に美神は後退して横島からそれを受け取ると、なにやら選別を始めた。
「令子、そんなこと悠長にやってないでよ!!」
「文句言わずに自分の仕事しろ、陰険オンナ!!」
「う〜ん。……冥子ちゃんは〜〜〜もうおなかがいっぱいなの〜〜〜」
「お願いですから、冥子さん、起きてくださいーー!」
一方冥子は覚醒する兆候をちらりとも見せなかった。

 左腕の痛みにもかかわらず間髪いれずにこちらから戦いを仕掛けたのは美神の構えがかすかにふらついていたからだ。
 脳震盪。
 頭を床にぶつけたときの結果だ。自分の状態に気付いてはいるのだろう。彼女は後退しようとしていた。
(させない!)
スピードを更に上げる。美神が逃げずに構え直す。左から空を薙ぎながら来る神通棍。しゃがんで避ける。あご先に突き出された相手のつま先。右頬を切り裂かれながら、これも避ける。
 武藤はお返しとばかりに右手一本で自分の体を支えながら右足で彼女の足元を薙いだ。飛び上がる美神。そのまま後方に着地する。
「蠢けよ、炎!」
小規模の魔導術で追撃。神通棍の一振りでそれはかき消されるが、もともと休ませないことが目的だから失意はない。
「穿てよ、魔弾!」
細かな殺意の粒子が美神に向かって空間をすべる。
 美神は左に逃れるが一部が彼女に当たったらしい、一瞬顔がゆがむ。次いで首筋から出血。その間に武藤は自分が有利な間合いを作り上げた。普通の霊弾を一発撃つ。彼女はそれを避けながらこちらに接近する。今度はこちらが逃げる番だった。が、彼女の加速があまりにも速かったので武藤はそれすらも出来なかった。下から切り上げるように一閃。避けきれずに右の上腕部に当たる。ついで、突き出された一撃。後方に飛んでそれを避けながら武藤は神通棍の切っ先を握った。
 これにはさすがの美神もしばし驚愕する。手のひらから血がにじむが武藤はそれを無視しこちらに向かって彼女の攻撃の勢いを利用して神通棍を引っ張った。そのまま彼女がおまけのようにこちらに引き寄せられる。そして、武藤は美神の腹に全体重を乗せたパンチをめり込ませた。
 硬い反響。
 どうやらとっさに霊気で体をガードしたらしい。だがそれでもパワーはこちらが勝った。彼のこぶしは美神に確実にダメージを与え、更に3メートルほど吹っ飛ばして倒す。
 武藤は追撃を怠らなかった。美神の肢体が一旦床からはねたところで自分のつま先を彼女のわき腹に突き刺す。単純で粗野な方法だが、意外と効果はあった。美神の顔が苦痛にゆがみながら再び無重力状態となる。その間に印を結びながら呪文を唱える。
「其は王、其は時空、其は標、踊れよ太陽!!」
魔法陣から五つのエネルギー球が放たれ不規則な軌道をえがきながら美神へと迫った。
 その頃には美神も体勢を立て直している。彼女は神通棍を盾のようにして構えていた。
(甘い!)
突然武藤の腕が不可思議に動き、エネルギー球はその動きに呼応するように動いて……美神の眼前で互いに接触し大爆発を起こした。

「踊れよ、太陽!」
地面の上にエミが張った結界の上をなめるようにして、五つのエネルギー球が直進する。それらは同じく球形をしたグラントの結界と接触している部分を吹き飛ばそうとする。が、グラントがまたも変形し五つのボールはグラントが変形したやりに突き刺され、たいした効果をもたらさずに爆発した。
(遊ばれてる……いや、違うな。眼中にないのか)
自分達と相手の力関係を武藤は理解した。グラントにとっては自分達は倒すべき相手でもなく、また自分を倒すほど力を持った相手でもないのだ。
 今、エミが全神経を結界に集中させ、結界の維持に全力を傾けているが、すでに霊体撃滅波を二回も使っているのだ。そう長くは持たない。そして、結界が破れたらその時点でゲームオーバーだ。グラントが地球全体に広がってしまう。
「おキヌちゃん、冥子は起きた!?」
「まだです!」
「……しょうがないわね。横島君これとりあえず持っといて!」
「は、はい」
「冥子、早く起きないとお菓子がなくなっちゃうわよ!」
「ふぁ、れ、令子ちゃん、何」
「すごい……一発で起きた……」
後ろのほうでそんなやり取りが聞こえる。
「汚れを拒め、我が結界よ!」
唐突に美神が参戦した。エミの張った結界の上にまた結界を張りなおす。
「冥子はここを動かないで、横島君は大体あのあたりに移動して」
「あのあたりって……結構化け物に近いところじゃないですか!」
「つべこべ文句を言うな! 玄也くんはもう少し右に動いて」
「このあたりですか」
「違う! 行き過ぎよもうちょっと左、そう、そこらへん」
「……ということは私はこのあたりね」
そういったやり取りを見てエミは少し左に移動した。これでちょうど、美神、横島、冥子、エミ、玄也の五人が円形になって等間隔にグラントを囲んだ状態になる。
「そうよ」
いいながら美神は玄也とエミに破魔札を投げてよこした。
「横島に『一端』が務まるの?」
エミが聞く。
「一応破魔札で調整はしたから……」
美神はそちらを見ずに答える。
(なるほど……)
玄也にもようやく美神の意図が読めてきた。
「な、何をするんですか」
完全にびびっている横島が震えた声で言う。……無理もないが。
「いい! わかってると思うけど、全員同時には魔札を投げつけて! 1、2の、3!!」
美神の指示通りに五人が動く。横島は多少戸惑っていたが、
 グラントも球体の体から槍を飛び出させ、破魔札を可能な限り無効化させようとしたその時、
「念!!」
美神が鋭く叫んだ。途端に五つの破魔札から霊気の光が互いをつなぐように飛び出し、ある形を描く。
「五芒星……」
憑かれたように横島が言葉を吐き出す。
「我が名は美神令子、力を求めるものなり、力の代償として汝に破壊を捧げん!」
 空間が吠えた。
 グラントの体はその力の大半を失った挙句二つに切り裂かれ、片方が上空高く舞い上がる。そして片方は地面に激突した。グラントはこれを逆に好機と捕らえ、その身を大地と融合し始めた。が、
「混沌より生まれし楽園よ、全ての創造の内包者よ、其は至高、其は福音、其は久遠、今、汝、我の力を代償にその大いなる力を再びこの世界に現出させ我が眼前の敵を再び混沌へ追放せよ、砕けよ世界!!!」
武藤の魔導術が炸裂した。地面ごとグラントの片割れは跡形もなく消え去る。それを確認してから、武藤は地面に腰を下ろした。気絶しそうなほど全身が辛い。
 一方、美神はあせっていた。同等の力を持たせた五つの破魔札を使い、五芒星によってそれを増幅させる。正直、これで決着がつくと思っていた。
 霊力のない横島に値段の高い札を使わせて、五人の力の均衡を図ろうとしたが、どうやら横島に使わせた札が強力すぎたらしい。横島は霊力のコントロールが出来ないから、残りの四人が彼の力に合わせるしかなかった。結果として、エミと冥子はそれでかすかに残っていた霊力を使い切ってしまったようだ。玄也も片割れを始末して、やはり力を使い切ってしまったようだ。
 問題はそれでもグラントが生きているということだった。
(空中にいる間に決着をつけるしかない……!!)
「玄也くん……!!」
「わかってます……よ」
玄也は腕輪からクサナギを呼び出した。それはすぐに美神の足にタイツのように変形しながらまとわりつく、そして美神は宙に浮いた。
「冥子、エミ精霊石ちょうだい!!」
返事はない。どうやら、完全に気絶してしまったようだ。代わりにおキヌちゃんが二人に近づき、ネックレスとイヤリングについている精霊石をはぎとると美神に投げ渡した。
 自分にも霊力はあまり残されてはいない。かくなる上は最低限の霊力で最大限の攻撃が出来る精霊石に賭けるしかなかった。
「いきますよ、美神様」
「いつでもいいわ」
クサナギにそう答えた瞬間美神はグラントに接近し始めた。

「痛っ……」
結界に背中をたたきつけられて美神はうめいた。煙がもうもうと舞い上がり、視界は埋め尽くされていた。だが美神は玄也はこの状況では攻撃してこないという確信に近い推測が立てられた。静かに息を整え、煙が晴れるのを待つ。
 予想通り玄也は自分よりはなれたところで肩で息をしていた。ぴくりと眉が跳ね上がり、驚愕の色をそこだけで表す。
「随分とやってくれるじゃない、百倍に返してあげるわよ」
「その元気があれば、の話ですけどね」
(ちぇっ……)
見抜かれている。それでもとりあえず美神は体を持ち上げた。不覚にも足が震える。そのまましばらく二人とも動かない。
「どうしたの、来たらどう?」
「あなたはひどく体力を消耗している、立っているのも辛いほどにね……だから、こうしているだけで、あなたの体力はどんどん失われていく」
「さて、それは……」
「動かないのがいい証拠です」
「……あんた、結構ヤな奴ね……」
「……美神さんには言われたくないですね」
彼は笑いながら言った。
(お願い、動いて……!)
美神は必死に自分の神経に呼びかけた。応答はあったがそれは藁より頼りないものだった。
 一歩踏み出す。以外にも最初の壁を越えるとあとは楽なものだった。
「はああああああっっっっ!!!」
突き出すように神通棍を武藤に向ける。彼は自ら仰向けに倒れることでそれを避けた。次いで腹筋を使い、むなしく虚空を突き進む美神の神通棍を握る手首を両足で挟み、そのまま自分の頭の方向に向かって投げ飛ばした。
「くっ!」
美神はこれに対し自らとんだ。下手に抵抗をすると肩の関節がいかれる。そんな危惧があった。転がるように受身を取りダメージを最小限なくす。遠くのほうで神通棍が転がる音がした。どうやら知らぬ間に落としてしまったらしい。
 美神とほぼ同時に武藤も立ち上がる。その顔は少し疲弊していた。

 グラントの大きさはどう大きく見積もっても先程の4分の1ほどだった。だからと言って手ごわくないわけではないのが頭の痛いところであった。
(来るっ!!)
鞭と刃の中間のような形状をしたグラントが襲い掛かってきた。指示せずともクサナギはある程度勝手に避けてくれるので楽だった。神通棍で刃のひとつを切り払うそれが大地に落ちていくのを確認して美神は更にグラントに接近した。
「美神さん、後ろ!!」
下から聞こえたのはおキヌの声だった。美神が振り向くとそこには先程切り払ったとグラントの一部とでも言うべきものがあった。
「わっ!!」
それが弾丸のようにこちらに突っ込んでくるのを慌てて避ける。それはそのまま本体と融合した。
 美神がひるんだそのスキにグラントは地表に向かって急速に接近した。
「このーーーーー!!」
急いでそれを追いかけ、精霊石を投げつけながら、下に回りこんだ。力を失った影響だろうか先程のように敏速な対応をしてこない。残った精霊石はあと五つ。再び敵は先程と同じように攻撃を繰り出そうとする。
「させない!」
美神は精霊石を更にもう一個投げつけ敵の動きを一時的に停止させた。
「これでっ!」
最後に残った精霊石を気前よく投げる。それはこんどはグラントを捕らえるように正四面体を作り上げた。同時に美神は右手の手のひらを最大限開く。
 それから美神はその右手の手のひらを少しずつ閉じ始めた。それに呼応するように次第に作られた正四面体が小さくなりグラントがその面に接するたびに端からグラントが少しずつ削り取られていく。
(イヤだ……!!)
幻聴だったかもしれない。だがどちらにせよ美神がグラントの意思を感じたのは事実だった。
(いやだ! 消えたくない! 消えてしまったら……消えてしまったら、何のために俺は生まれてきたんだ!!)
(あたしにはその問いに答えるすべはないわ)
そして権利もない。
(だから……)
だから……せめて……
「極楽に、行かせてあげる!!」
美神の右手が閉じられた。パアアアアアン、と音がする。
「やれやれようやく、終わりましたね」
玄也が上空を見て呟いた。

 美神がこぶしを振り上げた。それは当然ながらこちらに接近してくる。意外にもその攻撃はあっさりと見切ることができ、避ける。こちらを追いかけてくるように手刀。胸をかする。それだけで十分に痛かった。再びこぶし、先程とは別の手。外から回り込むようにこちらを破壊しようとしてくる。
(やりやすい……)
疲労とダメージのせいか頭に浮かんだ思考はそれだけだった。右手を上から振り下ろすようにして美神の手首をつかむ。左手は反対に下から美神のひじを。そのまま右手は下に左手は上にそれぞれベクトルをかける。
 美神の体は面白いほど見事にくるんとまわった。驚愕した顔のまま自分の体を飛び越えるようにして武藤の後方へ回転しながら飛んでいく。一瞬後、美神は無様に床にたたきつけられた。
 武藤は追撃をしなかった。疲労が先立って体を動かすのがひどく億劫だった。
「そういえば先程、技のことを聞きたがってましたね」
「………」
美神は答えなかった。いや、答えられなかった。
「破術。武藤家に代々伝わる除霊術、というよりは格闘術に近いものがありますがね」
おしゃべりに飽きたのか武藤はかかとを振り上げるとそのまま美神の顔面に打ち下ろした。美神はそれを両手の手のひらでとめる。しばらくそのままで力の押し合いが続いた。
「調子に……乗るなーーー!!!」
ありったけの力を振り絞り、美神は武藤の足を押しのけた。武藤がたたらを踏む。美神はその間に距離をとりながら起き上がった
「だっ!」
自分の精神的な勢いが死んでしまう前に美神は仕掛けた。武藤に向かってこぶしを突き出す。武藤は当然避けようとするが、
(速い……!!)
それに加えて魔導術による疲労も激しかった。避けられない。そして、それは面白いほど的確に武藤の肉体を破壊した。
「がっ……!」
(チャンス!!)
もう片方のこぶしで美神は武藤のあごを狙った。今度は武藤の体が後退し、、不完全にしか捉えられない。
 だがそれで十分だった。武藤が後退しながらふらつく。今度はキック。敵の体はいまだ射程圏内にあった。ガッと鈍い音がする。
(防いだ!?)
武藤の霊気の膜が二人の体の間に壁を作っていた。武藤が左手を振り上げる。こぶしが次第に近づく。左手で受け止める。今度はこちらから、蛇のように腕をくねらせ、相手のわき腹の辺りを狙う。当たる。
 腕は武藤のほうがやや長かったため、あまりダメージは伝わらないが。武藤は今度はその腕をつかんだ。そして叫ぶ。
「轟けよ、雷鳴!」
不意に美神の眼前に魔法陣が出来上がる。
(しまった!)
魔導術に使う魔法陣は霊力を使って書き上げる。つまり、両手を動かさなくてもいつでも発動はできるのだ。美神は足を振り上げて術の発動を阻止しようとしたが間に合わない。
 一瞬にして彼と自分の距離が広がった。倒れろ、倒れてしまえ。不意に自分の体のどこかからそんな声がした。美神はそれに必死で抗った。抗う。抗う。抗い……きった。
 目を開けるとそこにはぐったりと倒れた武藤がいた。

 武藤の手のひらが美神の頬にできた傷跡に近づく。そして、不意に彼の手がやさしく光ったかと思うと一瞬にして傷跡はかききえた。
「──相変わらず見事なもんね」
傷跡があった場所をそっとなぞりながら美神が言う。普通のヒーリングや、まして、冥子のショウトラでさえ、こうはいかない。
「数少ないとりえですからね」
武藤はそう言って笑った。
「じゃあ、今度はこっちのほうお願い」
そういいながら美神は右の二の腕にできた傷を差し出した。とたんに武藤の顔が不機嫌になる。
「そんなとこ顔と違って目立たないから別にいいじゃないですか」
「目立とうが目立つまいが傷跡があるのはいやなの」
「結構霊力が限界なんですけど……小笠原さんと六道さんにもやってあげなきゃいけないですし」
「ショウトラにやらせりゃいいじゃない」
途端にぴたりと武藤が動きが止まった。どうやら後半部分は単なる言い訳であったらしい。
「ほら、観念してとっととやる!」
「いや、でも霊力が尽きてここに野ざらしにされて、風邪なんかひいたらやですし……」
「あんたってすぐに霊力尽きるわよね、GS試験のときもそれであたしに負けたし」
「魔導術は一発一発に霊力がすごく必要みなるんですよぅ」
「言い訳は聞かないわ」
「……はあ……」
ため息をつきながらしぶしぶ武藤は美神の腕にヒーリングを行った。美神はそれから、後どこかに目立った傷跡がないかどうか探して──なかったので立ち上がった。
「満足ですか……」
憔悴しきった顔で武藤が言う。
「まあね、ところでさ、あんた、前から思ってたんだけど『辛いんだけど、可愛い女の子のために何とかしてあげよー』とかそういう思考はないの?」
「場合によっては出てくるかもしれませんが、とりあえず今はないです」
「……少しは横島くんを見習いなさい」
美神は重い荷物を何とか持ち上げようとしているバンダナの少年のほうを指差しながらいった。
「はいはい」
ズボンのしりについた土を払いながら武藤は立ち上がる。
「エミと冥子はしばらく起きないでしょうけど、ヒーリングで直しておいて上げてね」
玄也の背中に向かって美神が呼びかけると、
「わかりました」
返事はすぐに帰ってきた。が、
「ああ、つらいなぁ。うん、ものすごくつらい。美神さんのわがままですごくつらいや」
わざと聞こえるように続けてそう言う。
「あっそう。じゃあ、せめて移動するのを手伝ってあげるわ」
言うが速いか美神は残った力を使って玄也を蹴り飛ばした。

 いつ、と尋ねられれば、あるとき、としか答えようがない。

 どこで、と尋ねられれば、ある場所で、としか答えられない。

 理由はなかった。意図もなかった。

 とにかく、あるとき、ある場所でとつぜん、無が有になった。

 理由はわからない。意図もわからない。

 無が有になった。その厳然たる事実のみしかわからなかった。

 いや、

 もうひとつだけわかっていることがあった。

 それは全てであった。

 それは混沌であり、

 それは創造であり、

 それは破滅であり、

 それは虚無であり、

 そして何より、

 それは……であった。


※この作品は、ジャン・バルジャンさんによる C-WWW への投稿作品です。
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