夜の学校は、気味が悪く、どこか恐怖を感じさせる。
ゆえに、肝試しとかホラー映画とか怪談の舞台となるのだが、学校を根城とする妖怪・愛子にとっては、だからどうしたである。
彼女にとって、夜の学校はなんら怖くはない。ただ、少し寂しいだけだ。昼と違い、そこには人がいないから。
いつもならば、宿直の先生のところへお茶を飲みに行ったり、同じ学校妖怪と遊んだりする。
しかし、今宵はそんな気にはなれず、彼女はただ、上空に佇む月を眺めていた。
無人の教室で月を眺める、月光に薄く照らされた少女。
とても絵になる光景ではあるが、当の愛子の心中はといえば、穏やかなものではなかった。
「――――はぁ」
何度目かの溜息をつく。
月を眺め、愛子は憂える。
憂いの相手は、横島忠夫。
去年のクラスメイトで、愛子が想いを寄せる人物である。
本来ならば自分と同じ3年のはずだが、彼は現在身体を壊して病院生活を送っており、休学中だった。
「横島クン……」
呟きは、夜の風に巻き上げられる。
二週間前に久しぶりにあった横島は、一年前とあまり変わってはいなかった。
あまりということは、つまりは変わっていたということ。
雰囲気が違った。以前と変わらぬ振る舞いだったが、どこか危うさを感じた。
左手に、包帯を巻いていた。除霊に失敗したと、彼は言っていた。だが、それがウソであると愛子はわかった。左手に巻かれた包帯は呪式包帯で、そこから漏れ出る波動は、あまりにも異常だった。
頭髪が白かった。見事なまでに真っ白だった。まるで、生気を吸い取られたかのように。
彼の姿と雰囲気は、愛子をとても不安にさせた。ピートたちに尋ねても、はぐらかされるばかりだった。
彼女は、一年前を思い出していた。一年前、横島が倒れたときのことを。
突然だった。久しぶりの登校で、自分やピートたちと談笑していた横島が、いきなり彼女を押し倒したのだった。
もちろん、その意外な出来事に、教室内は静まり返った。白昼堂々とやることでは、無論ない。夜でも堂々とやられては困るが。
『だ、ダメよ、横島クン。私たちは、まだ、高校生――――』
いきなりのアプローチに心臓が破裂しそうだったことを、愛子はよく覚えている。危うく別世界にトリップしかけたほどだ。
しかし、そんな甘美な驚きもつかの間だった。
自分を押し倒したきり動かない横島を、愛子は不審に思った。
『横島クン?』
顔を覗き見た瞬間、血の気が引く音を、確かに聞いた。
横島は、顔面蒼白で白目を剥き、口から泡を吐いていた。
教室が騒然となった。愛子は横島の名を叫び、体を揺すった。救急車という単語が聞こえた。誰かが先生と叫ぶ声が聞こえた。
そして、横島の叫び声が聞こえた。
恐ろしい叫びだった。奇怪で、奇妙で、奇異な叫び声。人間の声帯で出せるはずがない、異状で異常な叫び声。
思い出すだけで、身も凍る。
教室の時間すらも凍ったように思えるほどに、その叫びは恐ろしかった。
そして、横島は吐血した。
あの叫び声を聞いたのだ。まともに動けたのは、人ならざるもの――――自分、ピート、そしてGS見習いのタイガーだけだった。
その後のことを思い出し、愛子は自分の唇に指先を触れた。
横島は、ぴくぴくと小刻みに痙攣した。
吐き出した血が喉につまり、ごぼごぼとイヤな音を立てていた。
愛子に、躊躇はなかった。
横島に口付けし、喉に溜まる血を吸い出したのだ。
一度では無理だったから、その行為を何度も行なった。口付けし、血を吸い出し、外に吐く。何度も、繰り返した。
ファーストキスだとか、青春だとか、そんなことは関係なかった。ただ、横島に助かって欲しかった。
横島はなんとか一命を取りとめたが、入院を余儀なくされ、学校は休学となった。原因は不明。聞いても答えてはくれなかった。
それでも、見舞いに行けていたときはよかった。まだ、横島の顔を見ることができたから。
月日がたつと、それすらも不可能になった。許可証の提示を求められ、持っていないと言ったらお引取りをと言われた。
横島の状態が悪化したのだと、愛子は悟った。面会を求めても聞き入れられることはなく、一度も会えぬままに時間が過ぎた。
だから、2週間前に会ったときは、とてつもなく嬉しかった。危うく涙がこぼれてしまいそうだった。
しかし、それも今では憂いに変わっている。彼の左手のために。
そして、数日前に起こった事件。街中の妖怪をその霊気だけで震えあがらせた、あの夜。
詳しいことはわからない。妖怪仲間に尋ねてもはっきりしなかった。
だが、あの夜に感じた波動は、横島の左手から感じた波動に酷似していた。
それがまた、彼女を不安に掻き立てる。なまじ、一年前の横島を見ている分、その不安は大きい。
夜の学校で、彼女は不安に押しつぶされそうだった。
彼女のできることといえば、ただ一つ。
「………………戻ってきてよ、横島クン」
想い人の無事を、祈ることだけだった。