主のいない病室――というにはあまりにも豪華だが――の机に向かい、姫坂千春はペンを走らせていた。
いや。この表現はいささか正しくない。彼女は書いては消し、辞書をとり、といった動作を繰り返しているのだから。
唯一の担当患者がいないとはいえ、彼女の仕事がなくなったわけではない。
まず、この一ヶ月の報告書を仕上げねばならない。毎日の簡易報告と違い、これは正式なものだ。学生時代、国語の成績が最悪だった彼女には、鬼門とも言える作業だった。
彼女が担当する患者――横島忠夫――の一月の間における体温、脈拍、脳波、霊波長。それらをまとめ、グラフにする。
思うに、パソコンとは便利なものだ。数値さえ入れれば、勝手にグラフが出来あがる。
彼の生活上の変化についても記さねばならない。睡眠時間、食事、排泄行為の間隔。どんな小さなことも記していく。それこそ、こんなことまでというものも。情報の取捨選択は、上司の仕事だ。彼女の領分ではない。
そういった作業を、遅いペースながらも、彼女は確実にこなしていった。
報告書が完成する頃には昼を回っているのが常だ。今日も、例外ではなかった。
買って来たパンをかじって昼食とし、彼女は部屋の掃除を始めた。
彼女の患者は、ろくに部屋の掃除をしようとせず、散らかすに任せている。彼に言わせれば、「合理的においている」のだそうだが。
腕まくりをし、彼女は気合いをいれる。
どう見てもゴミにしか見えないものをゴミ袋へぶち込む。その中に大事なものがあるかもしれないが、彼は意外とそういうものはきちんと片付けておく性格なので、床に散らばっているものはほぼ確実にゴミなのだ。
あらかた片付けると、掃除機をかける。シーツとマクラカバーを洗い、布団は日干しする。
さすがに風呂とトイレは彼が掃除するのだが、男という生き物はなぜかこう言う事には無頓着で、彼女からしてみればとても洗ったようには思えない。よって、風呂もトイレも彼女が洗うこととなる。
掃除があらかた済んだのは、すでに日も暮れようとしている頃だった。
備え付けの椅子に座り、彼女は大きく伸びをした。
その目に、本棚が目に入る。無造作に様々な本が詰め込まれた本棚を。
整理するのを忘れていた。
舌打ちし、彼女は本の整理にとりかかる。
『異邦人』、『純粋理性批判』、『哲学の貧困』、『ソフィーの世界』『八百万(やおろず)の神』、『魂と魄』、などなど。
著者などに統制は見られないが、分野としては二つに大別できる。神話か、哲学かだ。
彼が言っていたことを思い出す。
『理解するつもりなんてないさ。難しいからいいんだ。読みにくいから、いい。時間が潰せるなら、それでいいんだ』
悲しい事だ。整理するを手を止めないで、彼女は思う。
よどみなく動きつづけていた手が、ある場所で止まる。一冊の本の前で。
その本は、他の本が無造作に置かれているのに対し、透明なカバーがかけられ、しおりまで挟まれていた。
なんだろう?
ちょっとした興味を覚え、彼女はその本を手に取り、開いた。
本の中には、彼がいた。希望も、終わりも、目的もない労苦を強いられる、彼の姿が。
本の題名は、『シーシュポスの神話』といった。
すべてのやるべき事を終え、彼女は彼の帰りを待つ。
彼が帰ってきた、その時は。
迎えてあげよう。暖かく。
聞いてあげよう。今日あった事を。
そして、知らせてあげよう。ここは神話とは違うことを。変化があることを。私がいることを。暖かさがあることを。
教えてあげよう。君はシーシュポスではないことを。